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2005年5月 1日 (日)

抽象と具象のあわいから~笹田敬子展

笹田敬子 個展 Memoraphilia -記憶の温もり
 4月30日、神戸・北野のギャラリー島田。上野の森美術館大賞など受賞歴も華やかな作家、初見。
 諧調を落としたブルーやピンクを中心とした落ち着いた色調の抽象で、色面とドローイング(スクラッチも)のバランスが絶妙、などと思ってみていると、奥のほうの作品から、その抽象の線の中から震えるように人の横顔、手のひら、いす、といった形が現れてきた。
 具象から始まり、抽象、そして今回のような抽象の中から具象が顔を出す、というようにいくつかの振幅を経てきているらしい。これまでは、音楽を聴きながらそのイメージを基にした創作もあったそうだが、今回はたとえば植物園に行って、植物や、そこに置いてあったいすを取り込んで、と言っておられたように、植物が繁茂しているような形が、勢いがあってしかも繊細なドローイングからうかがわれた。
 抽象と具象の間に、高い壁を作る必要もないとは思うが、やはり作者の意識のありようとしては、ある種の心がまえ、ないし覚悟というようなものがあるのではないか。具象といっても、見たものを見たままに描くのだとしても、そこにはそれなりのフィルタリングの作業が伴っているはず。筆が動くまでの間には、自動書記でない限り(それでも自動的に描くという方法の選択は行われているわけだが)さまざまな作業が過程として隠されている。笹田という作家には、以前それが音楽であったりしたようだし、今回は目にした風景の、やや乱暴に言ってしまうと、「抽象化」だったようだ。
 そこでぼくが感動したのは、「にもかかわらず現れてくる形」だった。現れた横顔や手のひらは、何か超越的なもの、宗教的な荘厳ささえ感じさせるようなものだった。顕現とか、そういう言葉を思い起こさせる。本来目に見えないものが、ふと現れてしまったような。本来描くはずでなかったものが、ふと現れ出てしまったような。
 ぼくはそういう、抽象と具象のあわいにあるようなもの、何かと何かの間で震えているようなものが好きだ。そうとは言えないもの、確とは名づけられないもの、そういうものを掘り当ててしまったような作品だった。
 一番奥の大作は、具体的なものの形が現れているわけではない。それでも、小さな点で描かれた3/4ぐらいの円が、人が輪になって踊っているようにも見えた。山口薫にもそのような名作があったなと思い出しながら、ただの点がそのようなぬくもりのあるものに見えるのは、笹田の作品のベースに、大変説明しにくいが、何かそのようなものを思わせるような生命性があるのではないか、と思った。

【今回の個展】
http://www.gallery-shimada.com/sasada_0504_exhibi.html
【過去の個展・画像あり】
http://www.gallery-shimada.com/sasada_exhibi.html
http://www2.big.or.jp/~miyuki/ex/exhtml/sasada.html

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