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2005年8月

2005年8月26日 (金)

大槻和浩展「May be tomorrow」

 ギャラリー島田(神戸、北野)の大槻和浩展「May be tomorrow」へ。
 絵を見るときに、空気の存在ということを思うことがある。ここでもそれを思った。対象と「私」の間には、空気がある。距離と言っていいが、ものとしては空気であって、時々絵画を見て、その空気に粒子というものが存在すること、つまり距離そのものが物質感として直接的に感じられるようなことがある。
 大槻のほとんどの作品は、大きくないキャンバスに人の顔をゴロンとばかりに描いたもので、たまたま手や足が付いていても、その顔の存在の大きさにはるか後景に引いてしまうような、そんな顔ばかり描いている。全体は靄か霧に覆われているようなというか、錆か水で腐蝕してしまったようなぼやけた感じがする。歳月を経た古い絵画であるようにも見える。
 「女」という大きな作品はこちら側を直視しているようだが、「Hopes」など多くの作品は、どこを見ているのか、何かを見ているのかどうかさえわからないように見える。複数形の希望というタイトルを持つにも関わらず、この作品の顔にはいわゆる「希望に満ち満ちた表情」は見られない。しかし、じっと見ていると徐々にこのつかみ所のない顔が愛らしいものに見えてきて、最初は目に入らなかった服の襟が案外可愛らしい丸いものだったことに気づいたりすると、これは実は少年の顔なのだろうかと思い直したりする。
 その表情、と言うより目そのものと言った方が的が絞れていい、目は、かすかに霧のようなものでぼやけているようだったり、ちょっと手が届きにくいような困難さがこちらからはあるように見えるのだが、よく見るととてもしっかりした視線を投げかけているのに驚く。写真では全くわからないが、まぶたには細くホワイトが入れられていて、顔全体がぼやけているわけではないことに改めて気づく。すると、ああ希望というのは、本当はこのような表情の中にこそ潜んでいるものなのだろうか、とさえ思わされる。
 「夜を見つめて」というのは、やはり小さな作品だが、右上のほうを見上げた人物の全身像を描いている。その眼ざしが全身の方向性となってあらわれているようで、ほしくなった。他にも青い花を描いた魅惑的な小品、家を描いた愛らしい作品などあって、どれもたいへん魅力的なのだが、個展として考えたときには、人物だけに絞った方がよかったかな、と思わないでもない。

 ギャラリーを出て、北野を西へ歩き、トアロードを越えてフーケ庵も越え、のじぎく会館の坂を下って、本のある喫茶店CORENOZへ。
 「写場写場」という雑誌は、以前ここで初めて見た。第1号のナカノカオリの「家」シリーズや第2号の藤本久美子の「赤頭巾の森」シリーズの衝撃的なヌードに驚き、同じく第2号の垣本泰美の「Little World」の柔らかさを喜んだ。第3号で終刊となることは、栄町のvivo, va book storeで手にとって知った。終刊号の門川裕子の「眠るひなた」シリーズも、大きなページに白場を大きくとって小さく写真を配していて、「あえかな」という言葉がふさわしく思えるような美しい世界だ。加賀谷千佳子の「a form of image」は血液や生命や、人間というものは液体でできていることなどを思い出させる強さがある。終刊を惜しむより、このような力のある美しいものが、たとえ3号でも世に出たことを喜びたい。

ギャラリー島田 http://www.gallery-shimada.com/
 大槻和浩展 http://www.gallery-shimada.com/otsuki_0507_exhibi.html

CORENOZ http://corenoz.client.jp/
写場写場 http://www1.odn.ne.jp/shabashaba/ 
vivo,va book store[書店]http://www.v2k.jp/special/05bookshop/003.html

垣本泰美 http://www.recruit.co.jp/GG/af/kakimoto_hiromi/main.html
加賀谷千佳子 http://kavc.or.jp/annual/98/kagaya.html

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2005年8月16日 (火)

7月のdBセレクション13

 7月に行われたダンスボックス・セレクション13のルポを、求められてまとめたもの。重複掲載になると思いますが、ご容赦ください。

(1) Asha and dd.punch 「G-spot ~under your skin~」
 布谷佐和子のソロ。即興性を最小限に絞り、作品としての完成度を高めることを目標にしたと、本人の談。実際、これまで「ダンスの時間」などで観た即興性の強いパフォーマティブなスリルより、今回のステージで印象に残ったのは、動きのよどみ・ためらいのなさと、作品としてのまとまりのよさ。動きによどみやためらいがないなということは、たとえば作品が始まってすぐ、ゴーゴーダンスのような、でももっとキックがあって全身がバラバラと、つまり関節を弛めてリリースの勢いを重視した、四肢がどっかに行ってしまいそうな動きをけっこう長く続けた時に、既に感じていた。
 そのように動くことで、この作品がどのような、さぁ、なんと言えばいいのか、空気、雰囲気、気配、色調、諧調、いや、方向性、速度、勢い、大きさ…をもとうとしているのか、つまりはどんな世界を創ろうとしているのか、ということをはっきりと感じ取ることができるような気がする。一つの部分の時間と空間が、作品全体の中で「こうである」ということがきっちりと見えている、と言ってもよいのかもしれない。そしてこの作品でそれは決して言葉にしやすいものではないのだけれど、とにかく大変に硬質で密度の高いものをこれから見せられるんだな、と身構えるような態度でいなければいけないような。
 煽情的で攻撃的なタイトルにも関わらず、作品は内向的で完成度をめざしたものだったように思えた。佶屈した姿勢、壁伝いに落ちてゆく身体、爪先立ちで大きくしかしバランスは失わず円を描くこと…そういう動きや状態を見せられ続けることによって、次々とわきあがってくる感情が堆積していく。それは観ているぼくたちの中にも、そしてもちろん舞台の上で孤独な布谷佐和子の中にも。それによって、観るという行為はそのように一人称が向き合うものだということを、実感できる。
 けっしてセンチメンタルな作品ではないし、そのように動く布谷ではない。むしろ瞬間瞬間を切っていくように潔い動きが連続していくのだが、一つひとつ切られていく動きに残されてしまう思いの切れ端が澱のように積もっていき、なんだか深い思いに包み込まれてしまう。ダンス作品からもたらされる感動というのは、そのようなものではないか。不揃いなバネが激しく動いているようにも見えるカオティックな時間から、言葉では説明しにくい感情が醸成されるのは、当然のことだったのかもしれない。

(2) 夏目美和子・森靖弘「ゴンドラー」
 スナフキンにギターを持たせたような雰囲気の森は、決してギターがうまいとは見えないのだが、徐々にかなりの弾き手であることがわかってくるのだから、難しい。つまりテクニシャンであることを見せようというそぶりを全く見せず、飾りでギターを持っているような風体で現れるのだ。
 夏目だって、含み笑いのような微妙な表情で、無防備な感じでスッと立っているから、森の印象の影響もあって、踊れる人なのかどうかわからない出で立ちである。チラシ等に載せた文章も「いんちきトマトと畑ディスコがキラキラヶ岳に初登山」といった調子だから、本格的にダンスを見せようとするのかどうかわからない、というのが正直なところ。それが少しずつ見ていくと、随所によく伸びたきれいな動きに気づかせられたりする。ああ、バレエをやっていたんだなと思わせる、なめらかで見ていて気持ちのいい動きである。
 鼻歌みたいに、またさりげない日常的な動きのように見せられるものだから、ゆるくぬるい空気が支配し、観客のほうが無防備になる。それが一つのねらいであるとして、そのことによってぼくたちは同じようにぬるくゆるくリラックスしていればいいのか、宙ぶらりんな中途半端さに堪えることを強いられる苦行にあうのか。…そういうふうに考えてしまうこと自体、現代の表現というものの呪縛にあっているのかもしれないが、その上でこの2人がおそらくは戦略的に提示してきたのであろう2つのテーマが気になっている。1つは、2人の表情のアルカイックな曖昧さであり、もう1つはそれを含むものだが、2人が作品の中で多用する様々なコミュニケーションの方法である。
 夏目は、その愛らしい容姿に相乗させる形で、アルカイックな微笑をたたえている。森もそのいかにも人の良さそうな微笑のおかげで、とてもいい人に見える。しかしその微笑は何に向けられているのか、はじめの方ではわからない。曖昧な微笑。それがやがて二人の間で交わされる微笑となる。この推移(にみえる流れ)が意識的なものであるかどうかは、あまりよくわからない。
 しかし、それとほぼ同時に、二人はギターの板を叩いたり、男が女にギターを持たせたり、押しつけ合ったり、信号のような身振りを送ったり、と様々な手段を使ってコンタクト、コミュニケーションを始める。二人の出会いの物語としては大変微笑ましい流れの作品のように思えるのだが、表現するための手段がずいぶん多いな、という印象が残っている。見た目にはとてもシンプルな作品だけに、二人が送り合っているメッセージが、量的にも種類的にもずいぶんと多くて、やや過剰ではないかと気になった。

(3) 高瀬譜希子「consent」
 やや年輩の日本人の女性と外国人の男性、そして配付資料によると「明らかにガイジンの容姿」をもっている若い高瀬譜希子(01年埼玉全国舞踊コンクールジュニア部第1位。02年文化庁新進芸術家海外研修など)本人が、パイプ椅子を持って出てくる。同じく資料に「ヒスパニックの父と日本人の母を持ち」とあるから、ああこれは親子3人で登場したのだ、と驚く。
 母(高瀬多佳子。78年東京新聞杯全国舞踊コンクール洋舞第一部第1位など受賞歴多数)と父(ロバート・キャラバロ)が順にそれなりの時間を費やした後、父と娘がなかなか乱暴なコンタクトを見せる。これは実に父娘でなければできない、そして普通の父娘では決してできないと思われる大胆かつ無遠慮で、幸福な信頼関係がなければとても飛び込めそうにないように見えるなもので、乳幼児の頃に子どもをあやしたりするのと同じようなニュアンスではなかったか。
 1984年生まれの高瀬にとっては、作品づくりそのものが自己確認の作業であるという面もあると思われる。この作品のタイトル「consent」は、あまりなじみのない言葉だが、「同意」という意味。たとえばage of consentは法律用語で「承諾年齢〈結婚などに対する本人の賛同意志が法的に有効となる年齢〉」という意味だそうだ。昨年20歳を迎えたことが、このタイトルに大きく関わっていることだろう。その「承諾年齢」に達するということは、法的には両親からの独立、離脱ということをも意味するわけだ。
 また彼女には、両親との関わりを考えることが、民族や国家について考えることに直結するということも容易に想像できる。作品の前半が母と父を「見る」という行為、続いて父とのコンタクトであったのは、家族の関係性の微妙さをうまくあらわしていた。
 さて、彼女の動きについては、まず迷うことのないダイナミックさを高く評価したい。スライディング、回転、そして泣く、歌うといった一つ一つの動きがきっぱりと鮮やか。また天井からマイクが下がってきて、英語で酔っぱらいみたいにMICKY MOUSEの歌をうたうシーンでも、ためらいや照れがなく、観る者としてもその世界を迷いなく受け入れられる。少女時代へのノスタルジーと退行とをあらわしたかと見えるこのシーンでは、視線の揺れも、人生や家族をはじめとした関係性における不安定な立ち位置を象徴しているようで、なかなか適切だったように見えた。
  彼女がこの家族という関係性の中にもう少しひたっていたいのか、タイトルにあらわれていたようにそこからの離脱を求めているのかというようなテーマを性急に求めることよりも、他の様々な外的要因をも含めた不安定さそのものが描かれていた、と見たい。

(4) 福岡まな実「ゴォドン 空へ!すべてで!」
 これまでシンプルな動きから存在や時間をキリキリと掘り進んで、なかなか迫力ある作品を送り出し続けてきた福岡、今回もただ体当たりなだけではない、濃密で強烈な世界を展開させた。
 走る、当たる、倒れる、滑る、行く、戻る、ためらう、崩れる、折れる……そういうシンプルな動詞をひたすらに展開する冒頭、しかしそれらは淡々と流れていくのではなく、強くエキセントリックでドラマティックなように思えるのは、なぜだったんだろうか。駅員のもののような帽子のひさしで顔の表情は見えていないので、ただ動きと身体の表情で空気にあるはっきりした色が着けられていたというわけだ。
 その秘密は、一つにはその後のシーンでの異様なまでに力のこもった立ち方から少し明らかになったようにも思われた。まるで妊婦がいきんでいるように力を込めて立ち、あっと思うと下ばきのもんぺのようなものをザッと下ろし、スカートの下から真っ赤な羽根がドッと、そしてはらはらと落ちてきたのだ。
 それはつげ義春の「赤い花」や鈴木清順の「ツィゴイネルワイゼン」を思い出させるような、鮮やかで強烈な提示だった。
 その後、帽子を脱いで髪を振り乱して激しく踊り、暴れ、虚空を強く睨み、また暴れる。続いて客席を強く攻撃的に睨みつけるのが、かえって怯えや不安にも見えるところが彼女の両面的な魅力であると思わせられた。両手で鳩の形を作って飛ばせてみせたり、それを追うような形で走り、ジャンプしたりすることに、あえて言葉で意味を追い求めようとは思わないが、そのジャンプの虚空の中での形が、ひじょうに美しいものに思えたことは銘記しておきたい。
 惜しむらくは(後日びわ湖ホールの「ダンス・ピクニック」で観たときの印象も合わせていうのだが)、激しい動きで暴れる時の動きの語彙がいま少し足りないような気がする。身体の内面を抉り込んでいくような動きが、たとえばひじを内側に入れながら鋭く伸ばしていく形とか、何かいっそうの求心性を感じさせるような動きがあるといい。無手勝流に見えるがむしゃらさも魅力だが、そこで動きの切片の個々がもっときらきらと鋭い輝きを見せたら、赤い羽根の鮮烈がいっそう強く生々しく残ったのではないか。
 最後のカーテンコールで、ホッと素に戻った表情を見せず、作品の中のままの姿で引っ込む姿がまた、鮮烈だった。

Asha and dd.punch http://www16.ocn.ne.jp/~ddpunch/
Dance Box http://www.db-dancebox.org/

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2005年8月14日 (日)

踊ることがもっている力

 「ダンサー+舞台俳優+マルチアーチスト」というふれこみで黒子さなえ、内田淳子、飯田茂実の同年齢の3人、そして若手ダンサーの野田まどかが加わった「で・ら・シ・ネ」(7月14~18日、精華小劇場)は、まず内田の声の変幻自在の強さに圧倒された。松田正隆率いる「時空劇場」の後半から、内田の役者としての魅力にはずいぶんノックアウトされてきたのだが、ここで内田が舞台の上でどこまでも役者であり続け、自分が定めた、あるいは定められた何者かであり続ける者であることを、改めて認識させられた。役者になるための、舞台に立つための存在なのだ。それは錯乱した者であったり嗜虐的な者であったりして、キリキリと客席までも苛み苦しめる。過剰や逸脱がそこにはあるが、それがいい意味で作品を破壊しないのは、役者の力量であるといえよう。それを引き出したのは飯田のテキストである、ということはできるが、何者かを演じるという点において、演劇というのはそのようなものだということもできるのではないか。
 というのも、それに対する黒子は、踊っている限りその身体はどうしても黒子の身体であるとしか感じられず、また考えられないからだ。もちろん黒子が黒子でなくなるための仕掛けはいくつか用意されていたのかもしれない。しかし、ダンスする身体の人称を変えるのは、やはり容易なことではない。その意味から、黒子は少し損な立場を与えられてしまったかもしれないが、その身体の人称の揺るぎなさが、内田や、何よりも野田のフィールドを広く広く用意することになったのではなかったか。
 後日、黒子に会ったときに、彼女自身いくぶんやりきることができなかったようなフラストレーションに近いものを感じているような様子が言葉の端々から感じられ、それに対して上述のようなことを言ったら、我が意を得たりとばかりに「そうなんですよ」と答えてくれた。黒子がこのような形で自身のダンサーとしての身体の重さに直面できたのだとしたら、それは今後に向けての非常に大きな契機となるのではないか。
 一方、野田には、ダンサーというよりもパフォーマーとして自由なフィールドを与えられたようだった。彼女がこんなにも自由に動き、声をあげ、存在感を膨らますことができたのは、やはり飯田の仕掛けによるもので、完全に狂気に憑依したようであったり、完全に「野田まどか」その人であるような素の言葉の語り手であったりと大きな振幅を与えられていた。野田には、衣裳に仕掛けたティッシュを撒き散らしたり、奇声をあげたり、吹き流しのようなものを抱えていざったり、様々な動作によって、自身を振れば振るほど続々といろいろなものが出てくるようなところがあるに違いない。以前dBで彼女自身の作品「涙ふく木綿のハンカチーフください」を観た時にも魅了されたが、これからどんどん多様な魅力が開花してくるに違いない。
 全体を概観して統一した完成度を云々するのではなく、個々の才能のスパークが攻撃的で、舞台芸術というものにはどうしてなかなか破壊力があるのだな、と思わせられた公演だった。

 ヤザキタケシは、松本芽紅見「ONE WAY」。フランスや高松では上演していた作品だというが、関西ではお披露目(7月9~10日、Art Theater dB)。カミ手の2人がシモ手の壁に向かって行く過程で、様々な脇道に逸れるという、シンプルな構成。随所にちりばめられたヤザキと松本の駆け引き、掛け合いがひじょうに愉快で洗練されている上に、炭坑でも掘り進むようにただ何ものかに向かって行く、という動きの直線性が、昨今のダンスには珍しい強さとなっていた。
 「space 4.5」といい、今回の作品といい、有り余るほどのアイデアや動きのボキャブラリーを持っている中で、設定を極力シンプルにすることで、コンセプトを明瞭化し、動きの細部をクリアに見せる作品を立て続けに送り出している。一つに、数多くの海外公演での経験から、コンセプトの明瞭化が厳しく求められるということもあるだろう。一方で、自分自身(のカンパニー)のアピール・ポイントが彼自身の中で明瞭化されているわけで、今後もこのような作品をマチュアにすることで次の世界が開けてくるのだと思う。

 dots「KZ」がよかったのは、強制収容所という強いテーマを置き、創作の過程でメンバーの協調度が相当高かったようで、個々のダンサーの方向性、動きの先に見据えているもの、動きの温度や湿度とでもいうようなもの…大変言葉を定めにくいのだが、そうとでもいうようなものが在り難いと思えるほどにかっちりとしていたことだ(構想・演出=桑折現。7月8~10日、AI・HALL)。屍体のようになった者らを引きずるという動きや、目隠しされた女が長年封印していた踊りを音楽によって呼び起こされておずおずと、自分の身体が自分のものであることを確かめるかのように動かし始める(ように見える)シーンなど、深く静かに感動をかみしめることができた。

 金森穣率いるNoism05が3人のコレオグラファーに作品を委嘱した「Triple Bill」で圧倒的だったのが黒田育世の「Last Pie」(7月23日、シアターBRAVA!)。シモ手前で30分余、鳥のように羽ばたいたり、あらゆる民族というものが根源に持つトラディションの元型を持っているという意味で、この世に現れた「初めての人」という姿で踊り続けた金森には、「神々しい」としか言いようがない。このように、極限かと思えるまで踊り続ける姿を見せられると、もう泣きたくなってしまう。技術面で何の不安もないことは当然だが、シンプルに、ただ踊るだけということの凄まじさに打たれた。

(PAN Press掲載分に加筆修正)

精華演劇祭「で・ら・シ・ネ」 http://www.seikatheatre.net/play.html
黒子さなえ(JCDNダンスファイル) http://www.jcdn.org/f-activ-a/kuroko.htm
ヤザキタケシ(アロー・ダンス・コミュニケーション) http://arrow_dance.at.infoseek.co.jp/
dots http://www.dots.tv/
Noism05 http://www.ryutopia.or.jp/noism/about.html

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