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2005年9月

2005年9月23日 (金)

House of Shiseido「セルジュ・ルタンス~夢幻の旅の記録」

 House of Shiseidoのほうでは、「セルジュ・ルタンス~夢幻の旅の記録」(2005年7月26日~9月18日)。ルタンスと資生堂の広告表現との幸福なマリアージュの、いわば回顧展である。ルタンスは、ヴォーグやクリスチャン・ディオールで活躍した後、'80から20年間同社のイメージクリエーターとして、資生堂の世界に向けたイメージ形成を担ったアーティスト。山口小夜子の耽美的なイメージなど、ちょうどぼくたちの世代にとっては、懐しい映像やオブジェが集められていた。
 このような形で改めて多くの「作品」を見てみると、未来派、ピカビア、ドローネー、ピカソやフォーヴを通じたアフリカン・アート、部分的にはキュビスムといったスタイルに酷似していることがわかる。このことについて、ある種の前衛表現的な要素が広告表現として受容されるまでに、どれほどの歳月や思潮の盛衰が必要とされるのかということも考えさせられる。もちろん、時間が経ったからといって、すべての前衛が広告表現になりうるのかというと、そうではあるまい。
 ただ、ルタンスの「作品」が、美術作品としても価値が高かったとしても、広告表現として成立するための表面性や装飾性や大衆性も持ち合わせていたということもまた確かなことだろう。会場で上映されていたショートフィルム「Suaire:聖骸布」を観ても、聖像などを舐めるように撮しながら、宗教性はおろか美そのものにも移入することなく、情緒的な昂揚のために、音楽も光も奉仕させられていたように思う。それはどのような美的なものであれ、宗教的法悦であれ、それを情緒や鋭敏な感覚として受容するということであるように思われた。
 すると、未来派の中にも物事の表層を滑走しながら生理的快感に還元していくような性格があったのだということが再確認できたりする。なるほど、速度や新しさ、都市のエネルギーを讃美した未来派には、どうしたって表面性、ファッション性と隣接して快楽を追求していく気味があっただろう。おそらくそれが、その主唱者マリネッティが容易にファシズムに迎合してしまった一因であっただろう。
 ルタンスの作品の中に、ナチズムの意匠を思い出させるようなものがあることについても、それがただ美意識や全体性の快感において肯定されるべきものであったというナイーフさの表われとして、まずはむしろなぜぼくたちが(?)軍服だとか兵器だとかにデザインや質感のレベルで魅力を感じるのかを考える糸口だと考えた方がいいのだろうか。先日もあるデザイナーが警備保障会社の制服をデザインしたという記事を新聞で見たが、制服、特に権力を行使するための制服とファッションデザインの間に、魅力という点においてどのような通路があるのだろうか。
 「流行通信」1989年1月号特集「Art Style」は、バブル末期という時代を反映して、ファッションとアートの関わりについての、美しくもゴージャスな一冊であるが、現代美術を中心とした評論家の東野芳明と、佐賀町エギジビットスペースの小池一子との対談が面白い。ここで小池は、1920年代のファッションの大胆さについてふれ、ピカソなどのアフリカ彫刻からのインスピレーションがあると指摘している。それについての東野の「一種の植民地主義とも関わりがある」という発言をふまえ、小池は以下のように述べていく。

  1920年代にシャネルが地下鉄に乗って勤めに行く人のために私は服を作る、という
 こと を言ってますね。'30年代っていうのは割合ドレスっぽいドレスというのかしら、街
 の中で着る服としては綺麗な服が多かったけれど、活動的な服の原点というのはや
 はり'20年代のインベンションにあると思いますね。ところが機能性という部分に観点
 を移すと、ある意味で機能的な服というのはやはり戦争の時に極まるんだと思うんで
 す。制服の世界が意味するものは好きではないけれど、極まった美しさみたいなも
 のはありますよね。

 この後、軍服の話になり、東野が「安部公房さんだったかな、ナチスの軍服とアメリカのGI服を比べて、ナチスの軍服はある制度の極限であるとおっしゃってた」と披露したりしている。
 ぼくたち(?)が美的であると感じるものの一つには確実に、統一感とか一体感といった要素が含まれている。同じ格好をした多くの人間が同じ動作を一糸乱れず行うことを、美しいと思うような感覚のことだ。そのような感覚については、あるいは美術史に例を求めるよりも、建築やファッションの歴史を当たった方がよいのかもしれないが、デザインというものは本来的に、最終的には唯一性を志向する美というものと、大量生産を志向する効率性という二律背反を持っている。ルタンスの芸術行為が、資生堂の宣伝美術やパッケージデザインやパフュームのボトルデザインに結実するだけでなく、その製品コンセプト自体に深く関わっていくのは、現代の分業制に抵抗した美術作品としてのアプローチの産物だといえるだろう。
 また、シルク・ド・ソレイユなどのフランスの現代サーカスの視覚表現にも通底しているし、実際に舞台美術としてそのまま生かすことができるようにも思える。それは、彼が最終的に表現として定着させる一枚の写真に、物語や時間がこめられているように見えるからだろう。彼にとって、最終的に一枚の写真となった作品は、彼のすべての活動や現実や思想の微分されたベクトルのようなものであったように思う。それでは彼にとってこの現実はどのようなものだったのか。彼自身という存在は美に向かって奉仕し透過する媒介体のようなものであって、その実体は決して明らかにされない謎そのものなのだろう。

セルジュ・ルタンス http://www.shiseido.co.jp/sprs/htmlversion/lutens.htm

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2005年9月21日 (水)

大巻伸嗣展ECHOES INFINITY

 東京に行くと、必ず資生堂ギャラリーとHouse of Shiseidoに行く。ギャラリーではたいてい相当レベルの高いコンテンポラリーを観ることができるし、Houseは資生堂の宣伝美術の粋を総覧できたりするのが、多少のノスタルジーの満足もあって気持ちいい。何よりも、その空間の居心地のよさ、なんとはなしの高級感に身を包まれるのが心地よい。
 ギャラリーの大巻伸嗣展「ECHOES INFINITY」(2005年8月23日~9月25日)は、まず降り口の階段の途中から、吹き抜けの会場に天井を作るような格好で薄く白い布が張りめぐらされているのに驚き、その向こう側に鮮やかな色が透けているのが見えて、ずいぶん強い世界を創る人だなと感心。降りると、床に貼られたフェルトのような柔らかい布の上に顔料(岩絵具)で描かれた鮮やかな花々が、踏みしだかれて(という言葉、ぼくが思いついたと思っていたら、ちゃんと資生堂のPRペーパー「万物資生」12号の紹介文に使われていた。釈迢空の短歌「葛の花 踏みしだかれて 色あたらし この山道を行きし人あり」からですね)かなり曖昧になったような情景を見ることになる。
 結果的には踏みしだかれた花々は色あたらしくなるのではなく、どんどん曖昧になり、ぼけていき、果ては何がなんだかわからないものになるだろう。会場の一角は、そのフェルトの上を透明のアクリルで覆っていて、元の姿が見られるようになっている。元の姿と今の姿が対照的に提示されることで、変化(もちろんそれは意図されたものだが)が明確化、明示される。
 このインスタレーションが、作品として完成するのはいつなのかということを考えると、会期の終わりに、それこそ踏みしだかれた床面を写真に撮してよしとするのではあるまい。インスタレーションとして空間を構成し、観る者がその上を歩くという行為を強いる以上、その行為の一回ごとに作品が成立していると見た方がよいだろう。
 それは大きく、作品を「踏む」ことの抵抗や面白さにあるはずだ。新雪を踏むような最初の鑑賞者は、ずいぶんと大きな抵抗や躊躇があったことだろう。その感情、感覚を含んだ上で成立する作品。踏まれる前と踏まれた後の対照が一望できる、時間の経過と行為の結果の視覚化ということも含めて、ひじょうにわかりやすい形でインスタレーションというものの魅力を表わしたものといえるだろう。

資生堂ギャラリー http://www.shiseido.co.jp/gallery/html/

大巻伸嗣個展 http://www.gaden.jp/info/2005/050822/0822.htm

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2005年9月 7日 (水)

現代美術の美についてのメモ~館勝生展

現代美術の美についてのメモ~館勝生展(大阪・西天満 ギャラリー白 2005年8月22日~9月3日)
 大きな画面の一隅に黒や緑や白の絵具の塊が饅頭のように盛り上がっている。キャンバス目がけて投げつけられたのかもしれないし、落下させられたのかもしれない。絵具の断片や油分がキャンバスに飛び散っている。ある行為の痕跡としての、その飛散した線が美しい。なぜその線を美しく思うのか。またこの線は美しい軌跡を描くことをめざして行為されたものなのか。
 さらにこの絵具の塊には、ナイフで抉られたような鋭くカットされたエッジが立っている。ここにも行為を痕跡として見ることができる。仔細に見れば、絵具の塊をキャンバスの上でいったん激しく混ぜて、その後ナイフが入ったようだ。混沌のような塊と、そこに加えられた明確で鋭い意思のような行為の痕跡に、感動を覚える。
 行為が、正確にはその痕跡として定着されている線や面が美しいものとして認識できることについて不思議に思ったのは、ジャクソン・ポロックの「Lavender Mist」が初めてだった。オールオーヴァーな画面にドリッピングされた絵具の線、あるいはその物質そのもの、それが美しいと感じられるのは、フラ・アンジェリコやルノアールを美しいと感じるのとはわけが違うのではないか。
 現代絵画を美しいと思うことについては、いつもためらいがある。それが美しさを目的としているかどうか、保留せざるを得ないからだ。
 館のキャンバスの飛散した線が美しいのは、それが大きな白いキャンバスの上で大きな余白を作って絶妙なバランスを取っているからだと思う。それは日本画の、特に水墨画の美しさに似ていると思えるが、そのように美を成立させているといってよいのだろうか。
 ずいぶん遠回りをしながら考えているのだが、館の今回の作品を見ていると、現代美術で「美」というものがいかにして成立するのか、という身の丈知らずな大命題にたどり着かざるを得ないような気がするのだ。
 再びぼくの現代美術体験の中を遡れば、それは「具体」の成果に対しても同じように考えることができたことではないか。吉原治良の円形が、そのほぼ完璧とも思えるフォルムによって一個の完成かつ完結した美としか思えなかったり、村上三郎の「投球絵画」が、奇妙なことに(ぼくだけにかもしれないが)頼りなげなさびしさを湛えているように見えてしまうのは、なぜだろう、というところに戻っていくのだ。
  ポロックのオールオーバーであれば、観る者はそこに中心というものがなく、広い平面に包み込まれるような感覚的な快感を味わうことができるのだろう。吉原治良の「具体」メンバーの作品への判断基準が面白いかどうかだったことはよく知られているが、それが芭蕉などの伝統的な価値基準に直結して、境地の美学と通底していたのかどうか。
 館の作品から受ける感動、絵具の塊の配置のややバランスを崩しながらの絶妙、その結果生じる余白の美しさ、飛沫の放物線の美しさ(それはもちろん偶然の線でありながら、その唯一絶対の偶然を創り出した行為者の境地や精神性の高さとして評価されがちであろう)、絵具の塊に入れられたナイフの痕跡の潔さ、……そういったもろもろの境地や精神性からの揚言を、ぼくはなるべくしたくないのだ。
  すべての現代美術がアヴァンギャルドである必要はなく、伝統から切れている必要もないだろうが、せめて批評は新しい言葉を持ちたい。新しい見方で同時代の営みを評価したいのだが、いつも言葉は手垢にまみれてしまっている。

館 勝生 http://www.threeweb.ad.jp/~tachi/
村上三郎 http://www.art-yuran.jp/2003/03/post_44.html
ジャクソン・ポロックのポスター http://artofposter.com/myweb1_007.htm
吉原治良「白い円」 http://www.fukuoka-art-museum.jp/jc/html/jc04/02/yoshihara.htm

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