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2005年9月 7日 (水)

現代美術の美についてのメモ~館勝生展

現代美術の美についてのメモ~館勝生展(大阪・西天満 ギャラリー白 2005年8月22日~9月3日)
 大きな画面の一隅に黒や緑や白の絵具の塊が饅頭のように盛り上がっている。キャンバス目がけて投げつけられたのかもしれないし、落下させられたのかもしれない。絵具の断片や油分がキャンバスに飛び散っている。ある行為の痕跡としての、その飛散した線が美しい。なぜその線を美しく思うのか。またこの線は美しい軌跡を描くことをめざして行為されたものなのか。
 さらにこの絵具の塊には、ナイフで抉られたような鋭くカットされたエッジが立っている。ここにも行為を痕跡として見ることができる。仔細に見れば、絵具の塊をキャンバスの上でいったん激しく混ぜて、その後ナイフが入ったようだ。混沌のような塊と、そこに加えられた明確で鋭い意思のような行為の痕跡に、感動を覚える。
 行為が、正確にはその痕跡として定着されている線や面が美しいものとして認識できることについて不思議に思ったのは、ジャクソン・ポロックの「Lavender Mist」が初めてだった。オールオーヴァーな画面にドリッピングされた絵具の線、あるいはその物質そのもの、それが美しいと感じられるのは、フラ・アンジェリコやルノアールを美しいと感じるのとはわけが違うのではないか。
 現代絵画を美しいと思うことについては、いつもためらいがある。それが美しさを目的としているかどうか、保留せざるを得ないからだ。
 館のキャンバスの飛散した線が美しいのは、それが大きな白いキャンバスの上で大きな余白を作って絶妙なバランスを取っているからだと思う。それは日本画の、特に水墨画の美しさに似ていると思えるが、そのように美を成立させているといってよいのだろうか。
 ずいぶん遠回りをしながら考えているのだが、館の今回の作品を見ていると、現代美術で「美」というものがいかにして成立するのか、という身の丈知らずな大命題にたどり着かざるを得ないような気がするのだ。
 再びぼくの現代美術体験の中を遡れば、それは「具体」の成果に対しても同じように考えることができたことではないか。吉原治良の円形が、そのほぼ完璧とも思えるフォルムによって一個の完成かつ完結した美としか思えなかったり、村上三郎の「投球絵画」が、奇妙なことに(ぼくだけにかもしれないが)頼りなげなさびしさを湛えているように見えてしまうのは、なぜだろう、というところに戻っていくのだ。
  ポロックのオールオーバーであれば、観る者はそこに中心というものがなく、広い平面に包み込まれるような感覚的な快感を味わうことができるのだろう。吉原治良の「具体」メンバーの作品への判断基準が面白いかどうかだったことはよく知られているが、それが芭蕉などの伝統的な価値基準に直結して、境地の美学と通底していたのかどうか。
 館の作品から受ける感動、絵具の塊の配置のややバランスを崩しながらの絶妙、その結果生じる余白の美しさ、飛沫の放物線の美しさ(それはもちろん偶然の線でありながら、その唯一絶対の偶然を創り出した行為者の境地や精神性の高さとして評価されがちであろう)、絵具の塊に入れられたナイフの痕跡の潔さ、……そういったもろもろの境地や精神性からの揚言を、ぼくはなるべくしたくないのだ。
  すべての現代美術がアヴァンギャルドである必要はなく、伝統から切れている必要もないだろうが、せめて批評は新しい言葉を持ちたい。新しい見方で同時代の営みを評価したいのだが、いつも言葉は手垢にまみれてしまっている。

館 勝生 http://www.threeweb.ad.jp/~tachi/
村上三郎 http://www.art-yuran.jp/2003/03/post_44.html
ジャクソン・ポロックのポスター http://artofposter.com/myweb1_007.htm
吉原治良「白い円」 http://www.fukuoka-art-museum.jp/jc/html/jc04/02/yoshihara.htm

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