« ヌサンタラ交響楽団-アジア・オーケストラ・ウィーク(2) | トップページ | 「宝塚アカデミア」次号掲載予定 »

2005年10月 7日 (金)

広州交響楽団-アジア・オーケストラ・ウィーク(3)

指揮/余 隆(ロン・ユイ)  広州交響楽団
ヴァイオリン/オーギュスタン・デュメイ 
ソプラノ/マ・シュワイ(京劇風),イン・ファン,ツィー・ズェンロン 
二胡/ワン・ナン 琵琶/ゲェ・ユン 古箏/スン・シン 
曲目:華 彦均(ファ・エンジュン)/二泉映月,
何 占豪(ザンフォ)・陳 鋼(チェン・ガン)/ヴァイオリン協奏曲「梁山伯と祝英台」(1959),
陳 其鋼(チェン・キガン)/組曲「蝶恋花」(ヴェールを取られたイリス) ~女声3声, 3つの中国古典楽器とオーケストラのための~ (日本初演)

 仕事の都合で、2曲目「ヴァイオリン協奏曲 梁山伯と祝英台」の途中でホールに着き、2曲目の後半はモニターで見ることになってしまった。いかにも中国らしい旋律や奏法が印象的な上に、中国版ロミオとジュリエットとまでいわれる悲恋物語をテーマにしているだけに、ずいぶん感傷的なメロディであるようだった。
 以前、神戸学院大学の公開講座で、同題の越劇をダイジェスト版で観たが、いくぶん倒錯的な部分もありながら、シンプルに突き進んでいく物語で、特に悲哀の表現が越劇固有の様式をふまえながらもひじょうに深みを感じさせるもので、深く感動したのを記憶している。それだけに、途中からのモニター鑑賞となってしまってひじょうに残念ではあったが、第一部のアンコール曲として演奏されたラヴェルの「ツィガーヌ」を聴くことができたのは、望外の喜びだった。前日のピアノ協奏曲に続いてこのウィークに(これは正式プログラムではないとはいえ)2曲のラヴェルが入ったのは面白い。ラヴェルの野性味があってリズミカルな現代性と叙情性が、現代のアジアの(だけではないだろうが)オーケストラに好まれているということなのだろうか。ヴァイオリンのオーギュスタン・デュメイの演奏については、何の注文をつける余地もない。激しくまた繊細に、歌うべきところは歌い、刻みつけるところは深く刻み込み、大きな体をダイナミックに動かしながらスケールの大きな演奏を聞かせてくれた。
 休憩を挟んで、組曲「蝶恋花(ヴェールを取られたイリス)」という、2001年の作品。まず美しい和音を連ねていくような作り方で、これだけ中国の楽器を使っているのに、いわゆるコンテンポラリーな印象を与えられたことに驚く。あえて比較すれば、武満徹の曲のような美しさ。
 二胡のそそけだつようなさざめきは人の声のようだったり風の音のようだったりする。琵琶の音色は、硬質な樹木をころがすようだったりにわか雨の始まりのようだったりして何度も耳を驚かせた。高音は軽やかで低音は重厚な古箏の響きは、小やみなく降り続く雨だれのようだったり、小動物の足音のようだったり、耳をつけてじかに聞こえてくる鼓動のようであったりもした。
 「京劇風ソプラノ」の歌声は、まるでクジラの歌声のように聞こえた。率直に言って、最後まである種の違和感のような驚き(聞こえてくる度に「なんだこれは!」というような思い)があった。京劇の中で聞こえればそれほどでもなかっただろうが、オーケストラ、また普通のソプラノ歌手との対比において聞こえてくると、それほどまでに強烈な「異文化」である。その違和感の向こう側に、嫋々とした感情表現や、最終的な芯の強さがうかがわれるように感じ取れた。
 そしてヴァイオリンをはじめとする弦楽器は、ほとんど一貫して弱音器をつけていた。そのかそけき響きの美しさ! 松岡正剛の言う「フラジャイル」のいとおしさが、ここに凝縮されているようだった。
 曲は9つの断章から成り、「無垢な」に始まり、「優しく」「嫉妬深く」を経て「淫蕩に」で終わる。指揮者の周りを固めた6人の女性アーティストの美貌に(本当に、女子十二楽坊どころではない美形ぞろいだったのだ、特にチャイナドレスに身を包んだ伝統楽器の三人はそれぞれに美しく、京劇歌手の伝統衣裳は目映ゆかった)まず視覚的に圧倒されていたぼくは、既に述べたような音そのものの美しさに圧倒される。正直に言って、ぼくはこの曲を自分のものとして解釈して書き記すことができない。わからないことが多すぎる。たとえば、京劇やソプラノの歌手は、曲によるが多くはわざわざ後方に移動して、管楽器の前あたりで歌う。これは、弦楽器の音より声が前に出ることを避けたのではあろうが、どういうことなのだろうとか。ただ、そういう解釈による意味づけや価値づけをはるかに超えて、美しさと、とにかくこれはレベルの高いものだと思わせられる感触に陶酔していた。
 1曲目が聞けなかったのが残念だったが、2曲目は1959年の作品でもあり、越劇という民謡や伝承から発展した近代民衆芸能を題材にした作品だから、当然大衆性であるとか、革命継続というテーゼが、悲恋物語の中にも込められていたように思う。しかし、この2002年フランス初演の作品は、作曲者の陳其鋼自身、'84年からフランスに住み、メシアンに師事、後にフランスに帰化したというから、その音楽的基盤はほとんど中国にないと言ってもいいぐらいなのかもしれない。要するに「現代」の作品であり、世代的にも石井眞木らよりずっと新しく、近藤譲前後ということになる。
 「歴史的様式や装飾の美を過去のものとして切り捨て、幾何学に基づく構成の美を打ち出す。各国各地の歴史と文化につながる歴史主義に代り、世界のどこでも共通の、無国籍にしてインターナショナル(国際的)な建築。それこそが、無国籍にしてインターナショナルな科学技術にふさわしい」という藤森照信の『人類と建築の歴史』(筑摩書房)を引くまでもなく、コンテンポラリーということは、無国籍的である。20年以上前に、美術家の故ジョセフ・ラヴと話していたときに、たとえばニューヨークも東京も都心部の街並みはほとんど似通っているというような話から、それは東京が日本の伝統的な文化や美的感覚を放棄して欧米化したということなのだろうと言ったら、彼は、ニューヨークみたいな街は欧米のどこにもない、これはヨーロッパ化やアメリカナイズではなく、現代化、コンテンポラリーということなんだ、と教えてくれたことも思い出す。「アジア・オーケストラ・ウィーク」と名を冠されたコンサートを聴きに来る以上、多くの観客はアジアの各文化の固有性を期待しているはずだが、ある種の現代音楽においては、その固有性は打ち消される方向にあるわけだ。
 日本人作曲家が、日本の伝統楽器や唱法として笙や尺八や声明を使うのと同じように、中国人作曲家が二胡や古箏や京劇ソプラノをつかう。インドネシアの作曲家がガムランを使う。それは自然なことだと思う。民族や伝統の旋律を最もよく伝えることができるのは、その民族が最も長い時間つきあってきた楽器であって、不思議はない。しかしおそらく「現代」は、それだけではなく、民族や伝統固有の道具や技術を使いながら、ユニバーサルなものを生み出すことを求めている。その意味で、現代音楽がどれほど「現代的である」かということを直線的な尺度として考えれば、メシアンに学んだ陳其鋼はずいぶん進んでいて、ほぼ同年代の作曲家によるインドネシアの「ニ・ロンゲン」などは民族主義的なところに「留まっている」と言えるのかもしれない。ただもちろん、現代の多様性は、あらゆるジャンルで一つの思潮に収斂していくという様相を呈するのではなく、様々な考え方や美的感覚を共存させる。平板な意味での相対主義の陥穽…「よろしいんじゃないですか?」みたいな思考放棄的な態度があらわれる。
 問題はますます手に負えなくなってくるのだが、ユニバーサル化は、いっさいを透明化するに過ぎないのではないか。ユニバーサル化を超え、しかも自己満足的な民族主義をも超え、そしてなお上質であること。ぼくはこのアジア・オーケストラ・ウィークで、そのことのヒントを得つつあるような気がしている。

広州交響楽団 http://www.gso.org.cn/english.htm

組曲「蝶恋花」CD(試聴可能) http://www.amazon.com/exec/obidos/ASIN/B00007KI20/

余 隆 http://www.aspen.jp/artist/foreign/2006/Long_Yu.html

|

« ヌサンタラ交響楽団-アジア・オーケストラ・ウィーク(2) | トップページ | 「宝塚アカデミア」次号掲載予定 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 広州交響楽団-アジア・オーケストラ・ウィーク(3):

« ヌサンタラ交響楽団-アジア・オーケストラ・ウィーク(2) | トップページ | 「宝塚アカデミア」次号掲載予定 »