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2005年10月

2005年10月30日 (日)

住吉川

 昨日ダンスの時間が終わって、本当に疲れてしまったようで、今日は10時になっても目が覚めず、コーヒー(バザーで買った、東ティモールのコーヒーね)入れてもらって、やっと起きた。
 別に何をやってるわけでもないんだけど、人前でしゃべるのは、ぼくにとってはものすごく大きなストレスです。
 気づかない人もいるようで、そのことにぼくはびっくりするんだけど、ずーっと吃音で苦労してきて、今でも人前でしゃべるときは、かなり高いハードルが見えます。

 で、昼に出て、JR住吉まで、住吉川の川原を歩きました。魚がたくさんいてね、驚きました。小さなメダカみたいな魚とか、ちょっと大きな、まさか鮎じゃないよね、みたいなのとか。釣竿たらしてた人がいたから、もしかして、ホントに鮎?
 あ、一応注釈しておくと、住吉川って、川底の下をJRが通っているという典型的な天井川です。

 で、JR伊丹のアイホールへ。j.a.m.ダンスシアターの「ダミー・ピープル」を観に。ちょっと遅刻しちゃった。
 カントールの「死の教室」とかから想を得たらしいけど、ちょっと物足りなかったです。深津さんのお芝居もそうだったなと思い出したりしたけど、ちょっと。
 動きを繰り返すうちに何かが生まれてくるというのはとってもよく実感できるし、それは実現できていると思うんだけど、1時間の統一感ある作品にするのは、難しいのかなぁ。

 またゆっくり考えてみます。

 「ダンスの時間」については、ナカタアカネさんが<Mixi>ですごくいいレビューを書いてくれているので、なんかそれ以上書く気がしないんだけど、近いうちに必ず書きます。

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2005年10月29日 (土)

「ダンスの時間」出演順

明日(もう今日か)の「ダンスの時間10」の出演順が、今日のリハでやっと決まった。全部で2時間の長丁場だが、作品のレベルが相当高いので、かなり満足してもらえると思う。

改めて、出演順に。

Monochrome Circus「水の家」 前回「ダンスの時間」で「ダンスでこんな濃密な男女関係を描かれたら、演劇の立場がない」といわれた名作の再演。

布谷佐和子「G-spot~under your skin~」 ダンスボックスで初演時に、完成度の高さで布谷の新しい境地を開いたといわれた作品の再演。

森美香代「lullaby」新作

マコちゃんズ(椙本雅子(CRUSTACEA)+サイトウマコト) 「鞄女」 他の公演でバレエダンサーに振付けたものと同じ曲、同じコンセプトを使いながら、まったく別の作品になってしまったとのこと。サイトウ・ワールドに椙本がどう立ち向かうか注目されていたところ、彼女の身体が神々しいまでに輝いている。

児玉千春「Wohin? Wie geht's weiter?~どこに向かって、私は進んでいるのだろう?」 ベルリン国立バレエ団で学んだ児玉の新作。小品だがシャープな方向性が痛いほど。

由良部正美「白い顔」新作

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2005年10月14日 (金)

「宝塚アカデミア」次号掲載予定

 宣伝です。

 次の『宝塚アカデミア』(青弓社)に掲載予定の原稿は、以下の通りです。

・劇評『炎にくちづけを』『龍星』『霧のミラノ』『ベルサイユのばら(全国ツアー大阪公演)』
・さよなら初風 緑
・連載「スポットが消えたあとで23」 ちょっと不器用なフェアリー~『Bourbon Street Blues』の月船さららを惜しむ

 今回は新人公演を全然見れなかったのが残念でした。ホントは『Ernest in Love』を書きたかったんだけど、時間切れ。先月末〆切のところ、今日が本当に最終ですよって言われて、今日、連載の「スポット・・・」を放り込んだというていたらくです。

 『龍星』は絶賛といっていいかな。主役の安蘭けいを中心に、すごくよかった。

 よろしければ、本屋さんで手にとってごらんください。

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2005年10月 7日 (金)

広州交響楽団-アジア・オーケストラ・ウィーク(3)

指揮/余 隆(ロン・ユイ)  広州交響楽団
ヴァイオリン/オーギュスタン・デュメイ 
ソプラノ/マ・シュワイ(京劇風),イン・ファン,ツィー・ズェンロン 
二胡/ワン・ナン 琵琶/ゲェ・ユン 古箏/スン・シン 
曲目:華 彦均(ファ・エンジュン)/二泉映月,
何 占豪(ザンフォ)・陳 鋼(チェン・ガン)/ヴァイオリン協奏曲「梁山伯と祝英台」(1959),
陳 其鋼(チェン・キガン)/組曲「蝶恋花」(ヴェールを取られたイリス) ~女声3声, 3つの中国古典楽器とオーケストラのための~ (日本初演)

 仕事の都合で、2曲目「ヴァイオリン協奏曲 梁山伯と祝英台」の途中でホールに着き、2曲目の後半はモニターで見ることになってしまった。いかにも中国らしい旋律や奏法が印象的な上に、中国版ロミオとジュリエットとまでいわれる悲恋物語をテーマにしているだけに、ずいぶん感傷的なメロディであるようだった。
 以前、神戸学院大学の公開講座で、同題の越劇をダイジェスト版で観たが、いくぶん倒錯的な部分もありながら、シンプルに突き進んでいく物語で、特に悲哀の表現が越劇固有の様式をふまえながらもひじょうに深みを感じさせるもので、深く感動したのを記憶している。それだけに、途中からのモニター鑑賞となってしまってひじょうに残念ではあったが、第一部のアンコール曲として演奏されたラヴェルの「ツィガーヌ」を聴くことができたのは、望外の喜びだった。前日のピアノ協奏曲に続いてこのウィークに(これは正式プログラムではないとはいえ)2曲のラヴェルが入ったのは面白い。ラヴェルの野性味があってリズミカルな現代性と叙情性が、現代のアジアの(だけではないだろうが)オーケストラに好まれているということなのだろうか。ヴァイオリンのオーギュスタン・デュメイの演奏については、何の注文をつける余地もない。激しくまた繊細に、歌うべきところは歌い、刻みつけるところは深く刻み込み、大きな体をダイナミックに動かしながらスケールの大きな演奏を聞かせてくれた。
 休憩を挟んで、組曲「蝶恋花(ヴェールを取られたイリス)」という、2001年の作品。まず美しい和音を連ねていくような作り方で、これだけ中国の楽器を使っているのに、いわゆるコンテンポラリーな印象を与えられたことに驚く。あえて比較すれば、武満徹の曲のような美しさ。
 二胡のそそけだつようなさざめきは人の声のようだったり風の音のようだったりする。琵琶の音色は、硬質な樹木をころがすようだったりにわか雨の始まりのようだったりして何度も耳を驚かせた。高音は軽やかで低音は重厚な古箏の響きは、小やみなく降り続く雨だれのようだったり、小動物の足音のようだったり、耳をつけてじかに聞こえてくる鼓動のようであったりもした。
 「京劇風ソプラノ」の歌声は、まるでクジラの歌声のように聞こえた。率直に言って、最後まである種の違和感のような驚き(聞こえてくる度に「なんだこれは!」というような思い)があった。京劇の中で聞こえればそれほどでもなかっただろうが、オーケストラ、また普通のソプラノ歌手との対比において聞こえてくると、それほどまでに強烈な「異文化」である。その違和感の向こう側に、嫋々とした感情表現や、最終的な芯の強さがうかがわれるように感じ取れた。
 そしてヴァイオリンをはじめとする弦楽器は、ほとんど一貫して弱音器をつけていた。そのかそけき響きの美しさ! 松岡正剛の言う「フラジャイル」のいとおしさが、ここに凝縮されているようだった。
 曲は9つの断章から成り、「無垢な」に始まり、「優しく」「嫉妬深く」を経て「淫蕩に」で終わる。指揮者の周りを固めた6人の女性アーティストの美貌に(本当に、女子十二楽坊どころではない美形ぞろいだったのだ、特にチャイナドレスに身を包んだ伝統楽器の三人はそれぞれに美しく、京劇歌手の伝統衣裳は目映ゆかった)まず視覚的に圧倒されていたぼくは、既に述べたような音そのものの美しさに圧倒される。正直に言って、ぼくはこの曲を自分のものとして解釈して書き記すことができない。わからないことが多すぎる。たとえば、京劇やソプラノの歌手は、曲によるが多くはわざわざ後方に移動して、管楽器の前あたりで歌う。これは、弦楽器の音より声が前に出ることを避けたのではあろうが、どういうことなのだろうとか。ただ、そういう解釈による意味づけや価値づけをはるかに超えて、美しさと、とにかくこれはレベルの高いものだと思わせられる感触に陶酔していた。
 1曲目が聞けなかったのが残念だったが、2曲目は1959年の作品でもあり、越劇という民謡や伝承から発展した近代民衆芸能を題材にした作品だから、当然大衆性であるとか、革命継続というテーゼが、悲恋物語の中にも込められていたように思う。しかし、この2002年フランス初演の作品は、作曲者の陳其鋼自身、'84年からフランスに住み、メシアンに師事、後にフランスに帰化したというから、その音楽的基盤はほとんど中国にないと言ってもいいぐらいなのかもしれない。要するに「現代」の作品であり、世代的にも石井眞木らよりずっと新しく、近藤譲前後ということになる。
 「歴史的様式や装飾の美を過去のものとして切り捨て、幾何学に基づく構成の美を打ち出す。各国各地の歴史と文化につながる歴史主義に代り、世界のどこでも共通の、無国籍にしてインターナショナル(国際的)な建築。それこそが、無国籍にしてインターナショナルな科学技術にふさわしい」という藤森照信の『人類と建築の歴史』(筑摩書房)を引くまでもなく、コンテンポラリーということは、無国籍的である。20年以上前に、美術家の故ジョセフ・ラヴと話していたときに、たとえばニューヨークも東京も都心部の街並みはほとんど似通っているというような話から、それは東京が日本の伝統的な文化や美的感覚を放棄して欧米化したということなのだろうと言ったら、彼は、ニューヨークみたいな街は欧米のどこにもない、これはヨーロッパ化やアメリカナイズではなく、現代化、コンテンポラリーということなんだ、と教えてくれたことも思い出す。「アジア・オーケストラ・ウィーク」と名を冠されたコンサートを聴きに来る以上、多くの観客はアジアの各文化の固有性を期待しているはずだが、ある種の現代音楽においては、その固有性は打ち消される方向にあるわけだ。
 日本人作曲家が、日本の伝統楽器や唱法として笙や尺八や声明を使うのと同じように、中国人作曲家が二胡や古箏や京劇ソプラノをつかう。インドネシアの作曲家がガムランを使う。それは自然なことだと思う。民族や伝統の旋律を最もよく伝えることができるのは、その民族が最も長い時間つきあってきた楽器であって、不思議はない。しかしおそらく「現代」は、それだけではなく、民族や伝統固有の道具や技術を使いながら、ユニバーサルなものを生み出すことを求めている。その意味で、現代音楽がどれほど「現代的である」かということを直線的な尺度として考えれば、メシアンに学んだ陳其鋼はずいぶん進んでいて、ほぼ同年代の作曲家によるインドネシアの「ニ・ロンゲン」などは民族主義的なところに「留まっている」と言えるのかもしれない。ただもちろん、現代の多様性は、あらゆるジャンルで一つの思潮に収斂していくという様相を呈するのではなく、様々な考え方や美的感覚を共存させる。平板な意味での相対主義の陥穽…「よろしいんじゃないですか?」みたいな思考放棄的な態度があらわれる。
 問題はますます手に負えなくなってくるのだが、ユニバーサル化は、いっさいを透明化するに過ぎないのではないか。ユニバーサル化を超え、しかも自己満足的な民族主義をも超え、そしてなお上質であること。ぼくはこのアジア・オーケストラ・ウィークで、そのことのヒントを得つつあるような気がしている。

広州交響楽団 http://www.gso.org.cn/english.htm

組曲「蝶恋花」CD(試聴可能) http://www.amazon.com/exec/obidos/ASIN/B00007KI20/

余 隆 http://www.aspen.jp/artist/foreign/2006/Long_Yu.html

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2005年10月 5日 (水)

ヌサンタラ交響楽団-アジア・オーケストラ・ウィーク(2)

 大阪・福島のシンフォニーホールで開かれている「アジア・オーケストラ・ウィーク」、火曜日はインドネシアのヌサンタラ交響楽団
指揮/エドワード・ファン・ネス,矢崎彦太郎 
ピアノ/アナンダ・スカルラン 
曲目:
ヤズィード・ジャミン/「ニ・ロンゲン」~スンダの太鼓とオーケストラのための~ (日本初演),
オット・シダルタ(クリス・ワトソン 編)/「ジャンゲラン」~バリの伝統楽器とオーケストラのための~ (日本初演),
ラヴェル/ピアノ協奏曲 ト長調,
ベートーヴェン/交響曲 第7番。

 ヌサンタラとは、島々という意味、つまりインドネシアを表わしているとのこと。海外公演は今回が初めてということで、相当な意気込みでの来日だったと思われる。1988年に室内オーケストラとして設立され、'98年に交響楽団と改称したらしい。

 「ニ・ロンゲン」は、民族衣装の男性が指揮者の傍らに座って、数種類の大小の太鼓を演奏。太鼓の音色も印象深かったが、メロディが流麗、優雅で、ちょっと映画音楽を思わせるような印象。おそらくは海や島々の自然の美しさ、夕日、その中での人間の営みとして太鼓が貫入する、そういったイメージで聴いていた。いい意味での大衆性のある曲であり、これを聴いたインドネシアの人たちは、自分たちの曲であるとアイデンティファイできるのではないかと思われた。日本の現代音楽では、そのようなことはなかなかないのではないか。叙情的な旋律を奏でる弦楽器が特に美しく、相当な実力のあるオーケストラであると思われた。

 「ジャンゲラン」は、ガムラン、バリ舞踊とオーケストラによる作品。ガムランの鋭い音が始まった途端、舞踊手ラクシュミ・インダー・スカティがシモ手からササーッと走り込んで来て、いわゆる伝統的バリ音楽・舞踊が始まる。続くパートでは、その旋律をなぞるようにトランペットをメインとしたオーケストラが、まずは単純な旋律を奏でていく。それが徐々に複雑に、いわゆる現代的になっていき、そこにガムランが加わり、というふうに、複雑化と融合のプロセスをたどっていく。それがこの作品の眼目であると思われた。
 伝統そのものであるガムランやバリ舞踊と、欧米=近代そのものであるオーケストラが、幸福に融合し、高度化、複雑化していくことは、これまでのインドネシアの発展してきたプロセスでもあり、今後の道標でもあるのだろう。そういう意味でのわかりやすいコンセプトが見て取りやすかった。
 特に後半の、オーケストラ+ガムラン+舞踊のコラボレーションは、民族的な高揚とオーケストレーションの面白さの両者が満足された、高質な作品になっていたと思う。アンコールでサイド演奏されたことからも、自信のほどが伺われる。
 舞踊手のスカティは、ずいぶん若い女性ダンサーで、バリ舞踊としての力量についてぼくにはなんとも判断できないが、クルクルよく動く眼球、指使いの美しさ、猫のように「すばしっこい」という印象のあるほどのすばやい動きなど、魅力的だった。

 このあと休憩なしでラヴェルのピアノ協奏曲。民族的な音楽の後で、ラヴェルがずいぶん混沌的に聞こえたのが面白かった。ただ、ピアノも管楽器も、もっとおおらかに歌えたのではないかと思う。ジャズを思わせるようなリズムのある部分でも、もっと乗れたのではないかと思う。

 ということで心配されたベートーヴェン交響曲第7番は、20分の休憩の後の演奏。先にも述べたように、弦楽器はふくらみがあり、音色も豊か。木管もなかなかのものだった。率直に言って、金管の、特にホルンにややミスが目立ったのは残念。もう少し量感がほしいと思ったり、少しばらつくような感じに聞こえた部分があったが、大きな欠点ではないように思われた。
 しかしながら、特に第2楽章(葬送行進曲とも言われる名曲)で、一種のドライブ感が感じられたことには驚いた。その勢いを受け、アップテンポの第3楽章以後、「やっぱりこれは名曲だなぁ」としみじみ思わせるような集中力が感じられた。その勢いのまま最後まで突っ切れた様子で、すばらしかった。
 初の海外公演で、おそらくは1~3曲目で熱い拍手を得たことが、一つの高揚の原因になったのではないか。ベートーヴェンの大曲に挑戦する意気込みもあってだろうが、ひじょうに生き生きとした演奏だった。

 アンコールは先述のように「ジャンゲラン」のクライマックス。何回ものカーテンコールの後、ガムランの響きと共にファン・ネス、矢崎の2人の指揮者が踊りながら引っ込んだのを見て、会場も団員も大笑い。団員たちも多くは踊りながら退場。レベルの高さももちろん想像以上だったが、何かひじょうに暖かいものを残してくれたコンサートだった。もっと観客が多くて、満員のホールになってたらよかったのに、とも思った。

 さて、おそらくこの一連のウィークを聴いて改めて考えることになるのだろうが、いったい日本を、インドネシアを、つまり祖国というか、自国を(国は関係ないかもしれないが)表現するというのは、どのようなことなのだろうか。
 古来の楽器を使い、古来の旋律やリズムを使うことや、それとオーケストラの融合を図ること、これが多くの非欧米圏での現代音楽のあり方となっているようだ。それは、ヨーロッパで発展してきたオーケストラというものの中に、民族や文化固有の文化をあてはめるということなのだろうか。
 先月東京の国立近代美術館で見た
「アジアのキュビスム」展でも、おそらくは同様の構図があったと思われる。アジアの美術家たちが、ヨーロッパに留学したり、ヨーロッパの画集などを見て、ヨーロッパ美術の前衛(この場合はキュビスム)にふれる。それを自らの文化圏に持ち帰り、創作活動を始めようとする時、ヨーロッパではオレンジやりんごだった静物が、ドリアンやマンゴーになったりする。
 また、多くの東南アジアの国々がそうであるように、ヨーロッパとは比べ物にならないほどの湿気がある。それを空気感にどう反映させるか。
 そうするうちに、ある者は新しい世界に踏み込み、ある者は筆を折る。
 また、ヨーロッパではそもそもの思想が緩み、「サロン・キュビスム」となっていくのに対し、「後進国」ではその思想そのものが反体制的な思想となって尖鋭化したりする。キュビスムであれば、視点の複数化そのものが革命的な思想となったわけだろう。
 同展を見て、いわゆる文化後進国が先進国の尖端を移入し、模倣することについて、これまではあまり意味があることと思っていなかったのだが、実は移入し、成熟させるという重要な機能を果たす場合があるのではないかと、大変興味深く思った。
 音楽にも、そのようなことが感じ取れるだろうか。

  

ヌサンタラ交響楽団 http://dev.nusantaraorchestra.com/home.htm (重いです)

アジアのキュビスム展 http://www.momat.go.jp/Honkan/Cubism/

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2005年10月 4日 (火)

大阪センチュリー交響楽団~アジア・オーケストラ・ウィーク(1)

 大阪・福島のシンフォニーホールで開かれている「アジア・オーケストラ・ウィーク」、まずは日曜日に大阪センチュリー交響楽団。小泉和裕指揮、横笛/赤尾三千子 曲目:團 伊玖磨/管弦楽幻想曲「飛天繚乱」(1991),石井眞木/横笛独奏とオーケストラのための交響詩「祇王」(1984),チャイコフスキー/交響曲 第4番。

 團伊玖磨作品は、祭囃子やうねるような(おそらくは)自然描写など、いわば日本の現代音楽らしい作品。

 石井眞木作品は、3種類の横笛それぞれの特性に基づいて、平家物語の祇王の感情等を表現したもの、といえるだろう。はじめに横笛の特性を把握、解釈する所から曲作りが始まっているようで、大変興味深かった。
 もちろん、龍笛、能管、篠笛という、横笛自体のもつ魅力は大きい。鋭い音、尺八のようなこもった音、またブレスと共に下がって消えていくような音や、空間を鋭く切り裂く音、そういった豊かな色彩を満喫することができた。
 赤尾のヴォイスもまた、最初は驚きをもって聴いたが、その柔らかく穏やかな声が、祇王の霊をなだめるものなのか、なだめられた霊であるのか、そういうもののように聞こえてきた。

 チャイコフスキーの4番は、2曲の現代曲に比べると退屈だった。このことを自分の中でどう解釈したらよいのか、なかなか難しいのだが、オーケストラの技量の問題か、作品に対する(オケの、またはぼくの)緊張感の問題か、作品自体の魅力の問題か。
 このシリーズの他のオーケストラも、マーラーなどをやるようだから、現代曲といわゆるクラシックで、同じようなギャップが生じるのかどうか、ちょっと楽しみではある。

 明日のタスマニアはお休みして、インドネシア、中国、韓国は行く予定。職場には迷惑をかけるが、ごめんなさい。

アジア・オーケストラ・ウィーク http://www001.upp.so-net.ne.jp/aow_osaka/

大阪センチュリー交響楽団 http://mic.e-osaka.ne.jp/century/

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