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2005年11月29日 (火)

そのダンスを観たことを「誇り」に思えること

 サイトウマコトがCRUSTACEAの椙本雅子を振り付けた「鞄女」で、椙本は神々しいまでの魅力を見せた(10月29日、「ダンスの時間」10、於・ロクソドンタブラック)。椙本がよかったのは、サイトウとの激しい接触即興で感情を顔にも身体にもストレートに出せていたこと、それらのやや被虐的な場面から、四つん這いになったサイトウの背に乗って屹立したときに、まさに神のような輝きが見えたこと、全編を通じて一色ではない多様で複雑な方向性を示せていたことだ。もちろんサイトウの作品らしい濃密で嗜虐的な遊戯性が、前提として作品の中を流れる時間に明確で堅固なテーマとして与えられたことで、観る者が無用な揺らぎを感じることなく作品の世界に入っていけたことは、作品の提示と享受の関係からも誠に望ましいことと言ってよい。
 同じ公演で森美香代は「lullaby」。二部構成で、まず明示的な動きを最小限に抑えた前半では、森の身体と動きの特性、つまり魅力を存分に提示した。森の美しさは観る者をどこへ導いてくれるか、その方向性は実にはっきりとしている。一つには、時間の流れに惑い溺れさせてしまうこと。彼女の一つひとつの瞬間の動きに見入っていると、次第に時間の感覚が失われていく。動きが網膜上で微分されて一枚一枚のタブローとなり、それが流れていくのを惜しむように凝視めているうちに一つのシークエンスは終わってしまっている。もう一つは、「動くこと」がどのような事実性をこの世界に与えるのかということを、はっきりと自身も理解しており、観る者にも納得させることができることだ(それを「意味」と言ってもいいのだが、それではある種の価値を帯びてしまうようで、避けたい)。その結果、森の動きには余計な揺れや戸惑いがなく鋭い。動きとなって外に現れるまでに、すべてのことは何らかの形で決着をつけられているような潔さがある。
 そのような動きの魅力を前半で見せた後、後半では小さな赤い長靴を使って、子どもの歩みとそれを見守り寄り添う眼ざしや姿を思い出させるような動きを見せた。そこで森からあふれ出し、観客にあふれ出させる情感は圧倒的なものだった。前半に展開して観る者の中に留まった時間のおかげで、ここでの眼ざしや姿から誘発される感情は、とどめるもののない奔流のようだった。一つの世界の提出のしかたとしても周到であり、強い説得力をもちえていた。
 Monochrome Circusは、前回の「ダンスの時間」で初演した「水の家」を4ヶ月ぶりに再演した(演出・振付=坂本公成)。照明も音も動きもほとんど同じであるのに、霧が濃さを増したようでもあり、固形の内部の密度が増したようでもあった。つまり、ダンサー2人(森裕子、森川弘和)のコンタクトの呼吸がずいぶん緊密になっているだけでなく、そこからアウラのようなものが醸し出される作品に成長したということではないか。ここでは、ぼくたち観客が再び観るという経験によって、作品の世界を読み解く力が深まっているだろうことも忘れてはならない。そのようにして、表現者と享受者が高めあう関係ができるとすれば、こんな幸福なことはない。来年この作品は香港でも上演されるそうだが、「ダンスの時間」で「世界初演」がなされたことを、実に喜ばしく誇りに思うのだ。
 兵庫県は震災を経てようやく10年、県立の芸術文化センターをつくりあげた。11月12日に「オープニング・バレエ・ガラ」を観た。中でも「春の祭典」はニジンスキーの原振付をホドソンが復元したもので、ひたすらな上下運動の反復が大地を鎮めるようで、この地のこの劇場の舞踊のお披露目として、誠に相応しかった。アイヌ民族を思わせるような衣裳の美しさ、輪になって踊るという基本的な昂揚が、観る者の血を沸かせたのは間違いない。「ラ・ジョコンダ」の「時の踊り」の貞松正一郎、上村未香など、県内のダンサーが素晴らしかったこともうれしかった。こういう言い方は好みではないが、兵庫県人であることを、ちょっと誇らしく思った。

(PAN Press12月原稿)

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