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2006年1月14日 (土)

痛恨!写真の神本昌幸が

 舞台写真を、いつも劇場の後ろのほうで控えめな表情で取り続けてくれていた神本君が、亡くなったらしい。

 昔、神本君のダンスの写真について書いた文章。

たとえば、六〇分の一秒

ダンスを観るということは、自分の中に何を残そうとする行為なのだろうか。または、何が残ってしまうのだろうか。

ぼくはダンスを観てそれについて何か文章を書くということを何年か続けているが、本当のことを言うと、文章なんて信じちゃいない。ぼくの文章がダンスそのものを伝えることは、絶対にない。むしろ、伝わらないことを悔しがり、歯噛みすることで、ダンスの素晴らしさを逆に伝えようとする、そのような爪痕がぼくの文章だと思ってくれていい。読んでも何も伝わってこない悔しさによって、読者がホールに足を運んでくれればいいと、そう思っている。言葉は常に身体に隣接しているかもしれないが、そのものに重なることはない。

ぼくが嫉妬と羨望をもって凝視めているダンスの記録者がいる。写真家・神本昌幸が最も得意とするのは、ダンスの光と時間をとどめることだ。たとえば、昨年6月のDANCE BOXのリーフレット(vol.7)の表紙に掲げられた写真は、凄まじい。ダンサーの激しい動きに写真は輪郭を失い、ダンサーも写真も溶けてしまったように見える。光の軌跡で、どうやらダンサーは上半身を、とくに頭を大きく動かしたらしいことがわかるが、腕や脚がなぜこのようにたわんでしまっているのか、理屈ではよく追いかけられない。とにかく、すごかったんだろうな、観たかったなあと、思いを憧れとして舞台に向かわせる写真である。

円いスポットライトの中で激しく上下に動く人物。ここで光を浴びている身体は、そして光をはね返す鏡のような存在である。写真にとって身体は月のような光源であり、その光を得て像をなす。光が当たっている量にもよるが、静止している部分は明るく、移動している部分は暗く(しかし広く)、しかも面白いことに移動によって重なりが生じ、頭が胸に食い込んでいたりする。舞台の上で、写真にとっては<存在は光である>という、まるでキリスト教の図像学のようなテーゼが成立する。

写真は何分の一秒かの光を静止した画像に定着する。目瞬きするほどの時間の中で、世界がどのように動いたか。普通、何分の一秒かの間に世界がそう大きく動くわけはない。六〇分の一秒の間に山が動いて、風景写真がブレたなんてことは聞いたことがない。もしそんなこと言う奴がいたら、それは、手ブレの言い訳だ。

神本はどのぐらいのシャッタースピードで撮っているのだろうか。会場で時折ひそやかに耳にするところからは、極端に長い露光時間をとっているようには思えない。当たり前のことだが、概ね暗い照明の舞台上では、露光時間が長ければ激しい動きを追うことができないし、短ければ光量が少なく、細部を再現できず、写真としてのクォリティも低くなる。そのぎりぎりの接点を選んだ上での設定に基づき、彼のレンズは身体を追っている。彼の写真の中には、たとえば六〇分の一秒の身体の動きが記録されているが、それはあくまで微分された結果であって、つまりは動きのすべてが集約されている。

そう、すぐれた写真とは、微分なのだ。瞬間のような時間の中に定着された一つの像が、その作品の、ダンサーのすべてをあらわすことができるのは、そういうことだ。

身体は光を反射して、印画紙に火傷のように像を残す。そして身体は、ぼくの心にも火の傷を残す、というわけだ。その傷は再び生々しく痛みを感じてみたいと思う種類の傷で、そのために、神本の写真をまとめて見る機会はないだろうかと、実に心待ちにしているのだが。

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