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2006年7月

2006年7月31日 (月)

オリゴ党「新・ユウサクセブン」

オリゴ党「新・ユウサクセブン~ボクのポケットはいつもゴミ箱」7月29日 TORII HALL

 オリゴ党の舞台を観るのは、本当に久しぶり。15周年を迎えるそうだが、10年ぶりぐらいに観たのではないかというぐらいだが、作品の構築力も、役者のレベルも相当なものだと改めて確認できた。Mixiで絶賛していたナカタアカネに感謝。
 10年ほど前に初演、5年前にも再演した作品というから、作・演出で劇団主宰の岩橋貞典自身、相当の思い入れと愛着と自信のある作品なのだろう。実際、非常に見応えのあるきっちりした作品で、ずっしりした重みといい作品を観たというさわやかさが残った。
 なかなか複雑な設定と展開なのだが、理解できる範囲でまとめるとこういうことになる。なぜか北朝鮮が韓国をも併合・支配するようになって約20年、辺境の鉱山と思しき収容所が舞台。完全なセキュリティと監視システムが布かれ、外部からの侵入もメンバーの逃亡もありえない。そこに働く者は皆番号で呼ばれ、No.2、3、5、7、8、9の6人が登場する。この収容所の定員は7人とされている。No.1と6は欠番である。この者たちの身分証明は、小さなメモリーチップで行われている。No.4のメモリーチップは前日から所在不明であるばかりか、記憶内容も消去または解読不能になっている。メンバーの上下関係は厳格に番号順で、絶対服従ということになっているが、内輪もめや内訌は絶えることがない。そこへある日、一人の男が侵入してくる。見るからに怪しく、スパイではないかと疑われもするが、彼はNo.6であることが判明する。行方不明だったNo.4が現われ、No.8とコンタクトするが突然倒れ、息絶える。監視カメラに残っていた映像によって、それは背広ネクタイ姿の謎の男(ちょっとペ・ヨンジュンを意識したような外見)の犯行であると知れるが、実はCG加工によって元の画像が隠蔽されていることもわかる。メンバーの中でこの殺人の真犯人探しをめぐって、普段からの対立や本音が表面化し、内ゲバの様相をも呈しながら関係は険悪化する。一方、娯楽のために創られたヴァーチャル・アイドルのデータ量が異様に増殖した結果、そのアイドルは独立した人格を持ってしまっていると同時に、この収容所のような組織の基幹システムを圧迫し、そのせいでか本部との通信も途切れがちになっている。そういう情報クライシスの中で、最近加入したNo.6が現体制国家の滅亡を予告し、突然居丈高になったと思うと、実はNo.1の指令を受けて動いているのだ、と告白する。ずっと不在であったNo.1の登場によって一種のパニックとなったところで、ラストはNo.2の過去や思念の告白。冴えない営業マンだった彼が自分のデータや思考のすべてをチップに記憶させようとしたことを綿々と喋り続け、他の者がそれを部分的に繰り返して一種のコーラスのようになったところで、上から大量のチップが落下して、幕。
 普段はあまりあらすじを書くことを好みはしないのだが、この芝居は、このように筋をなぞることそのものがスリリングで一種の快感につながる。それは、この芝居の時間を思い出すことが、とても楽しいことだからだ。破綻も無理もなく、一歩ずつ物語を築き上げていく的確なセリフ、それを現実化する魅力的な男優たちの存在感。
 この芝居の成功の理由はいくつもあるだろうが、一つは欠番という不在を軸にしていることだといえるだろう。最後までNo.1は不明のままであり、ラストのNo.2をめぐるコーラスではNo.2という存在が最終的には責任を回避し、トップには立たず、狡猾で無責任な存在であることが強調され難詰される。No.1が不在であることがこの組織の特性を決定していることが、よくわかる構造になっている。
 またこの不在性は、これらの人物の存在が本当に実在しているのかヴァーチャルな存在なのかという問いかけにも直結する。No.4が行方不明となったときに言われていたのは、メモリチップが解読不能となってしまった以上、No.4らしき者が現れてもそれが本当にNo.4であるかどうか判断することはできないということだった。ペ・ヨンジュンのような謎の男にしても、そもそも合成されたデータとしての存在でしかなかったのが、どうも現実に現れて次々とメンバーを殺していっているようである。それが本当の実在なのか、データをヴァーチャルにモデレートしていった結果として現実に関与できるようになったのか、あるいは殺されていった者たちも実はヴァーチャルな存在だったのか。
 このペ・ヨンジュンのような男も、アイドルと同様に肥大化したデータ上の存在であるかも知れないし、メンバーの何人か(またはすべて)も、メモリチップの中に存在しているだけなのかもしれない。そんな中で、時折噴出するメンバーたちの記憶や来歴が、湿り気のあるリアリティとして、現実という意匠をまとってはいる。しかしこれまたNo.2の述懐の通り、記憶も操作されているかも知れない。だから、この芝居の中で、「本当の」というものは、非常に曖昧である。
 このように見ていると、この芝居がストーリーや構成上の謎に満ちていて、それを解くことが重要なように誤解されるかも知れないが、実はこのようにリアルとヴァーチャルが混淆してしまうのも、役者たちの強い個性と身体性の産物であり、地に足の着いた演技ができていたからこそ、見終わって芝居の設定の中を自由奔放に浮遊することができている。一人ひとりを見ていくと、同じ閉鎖空間に閉じこめられた者たちの性格づくりということで、やや似通ってしまったようなところがないでもなかった。しかし、野心の塊のようなNo.5(金哲義。May)の、相手を執拗に粘膜で舐めるように追い詰めていく視線と口調が嫌らしいほど印象に残っている。飛び跳ねるようなフットワークで軽々と身を処そうとしながら、錐で揉み込むような鋭さをもつNo.9(横尾学。いるかHotel)。No.8(有馬ハル)は視覚障害や病弱や不適切な研究内容やと様々なマイナス要因を持ち、No3.(恒川良太郎)への同性愛的な感情も持っているということだが、わりと普通っぽい外見からは少々唐突。その唐突さを大胆に見せてほしかった。No.7(今中黎明)は最も労働者で俗物っぽい外見を持ちながら、時折不気味な鋭さを見せるのが最後まで気になった。No.4(柴崎辰治。May)の異常性は、No.2(宇野伸茂。I/X)と反転的に共通するものがあるような気もする。No.2の宇野は、ここではトップでありながら、自分自身でもそれを暫定的なものと見なして回避的な態度をとっていることも含め、どこかクールで現実に対するに一枚隔てを置いているような姿勢がよく表わされていて、魅力的だった。久しぶりに見た渡辺大介(No.6)は、卑屈さや明晰さや横柄さなど多様な属性を好演。No.3の恒川は「ころがる石」以来久しぶりに見たが、やや抑えた演技の中から、ここではタブーとされている個人の感情(母への思い)がにじみでてくるあたり、実に微妙に紙一重とはいえ、もう少し強く感情を出してもよかったような気もする。ペ・ヨンジュンのような謎の男(倉橋里実)はセリフがなく、ただアルカイック・スマイルでメンバーを次々に襲うだけの存在だが、不気味さの表現と動きの鋭さが際だっていた。

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2006年7月29日 (土)

ジョン・クランコ バレエ・スクール

ジョン・クランコ バレエ・スクール(7月25日 兵庫県立芸術文化センター)
 '60年代にシュトゥットガルト・バレエ団を育てたジョン・クランコ(John Cranko)の理念のもと、'71年に創設されたスクールのメンバーを「ひょうごインビテーショナル」で13年ぶりに招聘。共演メンバーも公募して県内3ヶ所と大阪2ヶ所での公演となった。
 プログラムは前半に「パキータ」「白鳥の湖」(いずれも凡庸)に続いて、モダンの作品を2つ。
 まずロランド・ダレシオ振付の「陽に映える雪の如く」は、公演チラシにも写真が使われていたようだが、男女のペアがアンニュイなタンゴ調の曲(音楽=ペーター・シンドラー)をバックにコンタクトのヴァリエーションを豊かに展開する。面白いのは、二人のオレンジ色のシャツが、特に伸びる素材でできているのか、ビヨーンと足首まで伸ばしたり、相手を包み込むようにしたりといったことを見せること。支配・被支配の関係というより、包含する欲求を表わしているようで、ユーモラスな色合いもあった。特に明確にストーリーや設定を提示しているわけではなかったが、男女間の争いのような動きも、男が自分のシャツの中に女を入れてしまったりすることで、事なきを得たのだなと安心できたり、音楽の特性でやや緊迫した雰囲気を醸し出しながらも、ちょっと抜けた感じが流れていたのも不思議だった。
 二人の動きの中で目についたのは、リリース(弛緩)の流れが美しくタイミングも的確だったこと、スライディングが流れを切ることなくいい余韻を湛えていたこと、リフトのタイミングがひじょうに柔らかで美しいこと……要するに穏やかさと洗練された鋭利さが両立した時間の流れが実現していたのがよかった。
 続く「人形」(振付=アルベルト・メンデス)は、男女の人形のすれ違いをユーモラスに描いた悲しい物語。人形ぶり、豊かなリフトのヴァリエーション、男の大きなジャンプ、など高度なテクニックに乗せるには、軽いショートショートのような内容で、好適だったといえるだろう。
 休憩を挟んで女性ダンサー15人による「グラズノーフ組曲」(振付=深川秀夫)。完全なシンメトリーによる美しい群舞、そこそこ魅力的な数名のソロ(日本人らしいメンバーもかなりレベルが高いと思われた)が順序よく配置されたもので、女性ダンサーたちのレベルを理解させるにはちょうどよい作品だったといえるだろう。
 続いて男性ダンサー8人による「トロイ・ゲーム」(振付=ロバート・ノース)。演舞か琉球の組踊りのように感じられたのは、二人一組の男性ダンサーが、声をかけ合ったりしながら腰を落として次々と型を見せるような動きを続けたからか。実際、尺八を使った音楽が流れたりもしたから、東洋的ということをかなり強く意識した動きであったのだろう。残念ながら、これ自体は、さして瞠目するほどの動きや身体ではなかった。
 バレエ界で男性ダンサーが存分に踊るということ自体、かなり珍しいことなのだ。チラシのこのスクールの解説に「特に男性ダンサーの充実がめざましい」と書かれているだけのことはあって、このような作品をトリに持ってきたのだろう。ユーモラスな動きやコミカルな構成、すさまじいばかりの運動量と強烈なアピール力によって、見て楽しい作品となった。ただ、コンタクトや動きのヴァリエーション自体はそれほど豊かでなく、コミカルな面とマッチョな面だけで終始したので、もっと違う面も見たかったと思ってしまった。カーテンコールで特に彼らの表現力が発揮され、最終的な後味はよかった。

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2006年7月25日 (火)

シベリア少女鉄道「残酷な神が支配する」

シベリア少女鉄道「残酷な神が支配する」2006/7/23 精華小劇場

 ほとんど何の予備知識もなしに観に行った。以前dm氏のサイトで「recommended」マークが付いていたので記憶に残っていて、dm氏が推薦するのだから、ダンスか、多少なりともダンスらしい要素を組み込んだユニットなのかと思っていたし、その名前から、何だかとてもいい情緒のようなものを感じていた。チラシもろくに読まずに行くから、こういうことになる。
 まぁ、普通のお芝居だったと言っていいだろう。山内祥子(出来恵美)という女性のの誘拐事件が発端である。実はその兄の知り合い・江藤祐次(加藤雅人)が兄・山内達郎(藤原幹雄)を巻き込んで仕組んだものだということは早々に提示されるが、刑事たちは祥子の狂言ではないかと疑う。芝居の大筋は、この事件を解明しようとする、刑事たちと一人の女性・瀬名美帆(篠塚茜)の謎解きとして進行していく。
 誘拐の目的は、犯人の目星をつけるために警察にログインしたシステムを使っている間に、わずかな隙に乗じて山内兄がウィルスを侵入させ、データのバックアップを物理的に避難させるところを襲うかどうかしてデータを入手すること。いくつもの希望的仮定の前提を入り組ませて網の目を作っているので、犯行計画としては非常に危うく脆い。それが犯人への批判にとどまらず、芝居の基盤の脆さへの不安となるのは、犯人(=神=江藤)が自信満々であることを芝居が許しているから。
 この芝居の主筋となる推理劇は、現実的に見た場合、あまりに貧弱である。刑事がこれほどまでに単独行動をとることはまずないだろうとか、警察のバックアップデータがCD-R1枚に収まるのかとか、ウィルスについての認識がかなり危ういんじゃないかとか。
 しかし、そういう一連の馬鹿馬鹿しさに溜息ついている間に、だんだんと、これは作者(土屋亮一。演出も)はもしかしたら、わざとスカスカの推理劇を創ろうとしていたのではないかと思えてしまう。これもあまりの深読みなのかもしれないし、わざわざ東京から「精華演劇祭」に呼んできた劇団だという先入観からかもしれない。
 舞台は大学のキャンパス。乱雑な部室、その大学の職員、瀬名のオフィスであるセキュリティルームと思われる部屋、カフェテリアの一画、という3つの場所が、回り舞台で提示されるのが大きなポイント。3つに分割された、つまり120°に区切られた舞台空間であるから、中央部分が遠く引っ込む形になるのが奇妙な遠近法を形づくるのが視覚的に面白い。
 人物は、一人大阪弁で大声で落ち着きのない刑事の桜井哲也(前畑陽平)が、やや耳障りだが、関東の人にとって大阪人はこういう存在なのかも知れないと思って、それが嫌悪感に拍車をかけたところもあるので、やや割り引いて見なければならないだろう。
 その早口で「いらち」な桜井と対照を際立たせるのが、瀬名のおっとりした思慮深そうな話し方。瀬名の父がキャンパスの中である事件によって殺害され、犯人は絶対に学内の人間であると思われるのに迷宮入りしているらしいことが随所でふれられるが、それが大きく取り上げられないのは、この芝居が連続物か何かで、ここではとりあえず多くは語られないということでもあるのだろうかと不審に思われた。瀬名のやや思いこみが激しいところ(と桜井は詰るのだ)も含め、瀬名の洞察が事件解明の中心軸となっていく。ゆっくり過ぎるほどのためらいがちな語り口、黒縁眼鏡の無表情は、役作りのありようとして納得できないわけではないが、テンポが悪く思えるほどのところがあり、やや抑えすぎのようにも思われた。
 さて、この芝居のピークというか、ほとんど唯一の見せ場は、ラストに置かれていた。回り舞台で展開する3つの空間が、実は現実でも隣接していて、この扉はカフェテリアのトイレにつながってるんだとか何とか一応の説明はあったように記憶しているが、とにかく回り舞台がすごい速度でぐるぐる回り、役者たちが3つの舞台にしつらえられた扉(トイレだったり、大きなロッカーの扉だったり)を開き、突っ切る形で疾走する(ように見える)。
 もちろんこういう形で、せっかく創った舞台空間という世界の境界を「なし」にするのは、反則、ルール違反、禁じ手である。しかしもちろん、これがこの芝居の目的であったことは間違いない。あっという間にあっと思わせるような世界の崩し方を見せられるのだから、その驚きといったらなかったし、場内は「それはないやろ」といった爆笑に包まれた。
 こんな場面に遭遇したら、江藤が神のようにすべての者を意のままに動かそうとする残酷な存在であったということを示し、世界は実は個々の人間の意思の集積ではなく、残酷な神が支配しているのではないか、というテーマも、一応とってつけたような表面的なものに過ぎないように思える。事件の謎解きという推理劇も、残酷な神という一見重厚なテーマも、すべてはラストの回転する舞台と疾走する役者という舞台空間の破天荒のために存在したとすれば、それはそれで演劇でしか成立できない魅力的でとんでもない時空間であったということが言えるだろう。

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2006年7月20日 (木)

「10年後の既視感」、とりあえず完結

 「マチともの語り」に細々と連載を続けてきた「10年後の既視感」、とりあえず完結しました。

 http://monokatari.jp/machi/author/jounen.php?blogid=99

「阪神大震災の記憶のために Ⅱ(17 ゆるやかな忘却)」というタイトルです。

神戸の人間にとっては、17という数字は、ちょっと意味の深い数字なのですが、この連載が17回で終わったこと、今日はじめて気づきました。暗合というのでしょうか。

書ききったというわけではないのですが、「10年目」ということを一つの軸として書き始めたわけですから、そろそろ「キリ」ということだったと思います。

書きながら、いくつものことに気づかされましたし、いろいろなことを考えました。それはどれも痛切に貴重なことだったと思っています。

8月末には、現在の職場を退職し、フリーになります。その意味でも、いい区切りになるかもしれません。そうしなければなりませんね。

「ゆるやかに」というのには、そういう思いも込めています。

どうぞ、お読み下さい。読み続けてくれた方、本当にありがとうございます。

これからも、何らかの形で続けていきます。

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