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2006年7月25日 (火)

シベリア少女鉄道「残酷な神が支配する」

シベリア少女鉄道「残酷な神が支配する」2006/7/23 精華小劇場

 ほとんど何の予備知識もなしに観に行った。以前dm氏のサイトで「recommended」マークが付いていたので記憶に残っていて、dm氏が推薦するのだから、ダンスか、多少なりともダンスらしい要素を組み込んだユニットなのかと思っていたし、その名前から、何だかとてもいい情緒のようなものを感じていた。チラシもろくに読まずに行くから、こういうことになる。
 まぁ、普通のお芝居だったと言っていいだろう。山内祥子(出来恵美)という女性のの誘拐事件が発端である。実はその兄の知り合い・江藤祐次(加藤雅人)が兄・山内達郎(藤原幹雄)を巻き込んで仕組んだものだということは早々に提示されるが、刑事たちは祥子の狂言ではないかと疑う。芝居の大筋は、この事件を解明しようとする、刑事たちと一人の女性・瀬名美帆(篠塚茜)の謎解きとして進行していく。
 誘拐の目的は、犯人の目星をつけるために警察にログインしたシステムを使っている間に、わずかな隙に乗じて山内兄がウィルスを侵入させ、データのバックアップを物理的に避難させるところを襲うかどうかしてデータを入手すること。いくつもの希望的仮定の前提を入り組ませて網の目を作っているので、犯行計画としては非常に危うく脆い。それが犯人への批判にとどまらず、芝居の基盤の脆さへの不安となるのは、犯人(=神=江藤)が自信満々であることを芝居が許しているから。
 この芝居の主筋となる推理劇は、現実的に見た場合、あまりに貧弱である。刑事がこれほどまでに単独行動をとることはまずないだろうとか、警察のバックアップデータがCD-R1枚に収まるのかとか、ウィルスについての認識がかなり危ういんじゃないかとか。
 しかし、そういう一連の馬鹿馬鹿しさに溜息ついている間に、だんだんと、これは作者(土屋亮一。演出も)はもしかしたら、わざとスカスカの推理劇を創ろうとしていたのではないかと思えてしまう。これもあまりの深読みなのかもしれないし、わざわざ東京から「精華演劇祭」に呼んできた劇団だという先入観からかもしれない。
 舞台は大学のキャンパス。乱雑な部室、その大学の職員、瀬名のオフィスであるセキュリティルームと思われる部屋、カフェテリアの一画、という3つの場所が、回り舞台で提示されるのが大きなポイント。3つに分割された、つまり120°に区切られた舞台空間であるから、中央部分が遠く引っ込む形になるのが奇妙な遠近法を形づくるのが視覚的に面白い。
 人物は、一人大阪弁で大声で落ち着きのない刑事の桜井哲也(前畑陽平)が、やや耳障りだが、関東の人にとって大阪人はこういう存在なのかも知れないと思って、それが嫌悪感に拍車をかけたところもあるので、やや割り引いて見なければならないだろう。
 その早口で「いらち」な桜井と対照を際立たせるのが、瀬名のおっとりした思慮深そうな話し方。瀬名の父がキャンパスの中である事件によって殺害され、犯人は絶対に学内の人間であると思われるのに迷宮入りしているらしいことが随所でふれられるが、それが大きく取り上げられないのは、この芝居が連続物か何かで、ここではとりあえず多くは語られないということでもあるのだろうかと不審に思われた。瀬名のやや思いこみが激しいところ(と桜井は詰るのだ)も含め、瀬名の洞察が事件解明の中心軸となっていく。ゆっくり過ぎるほどのためらいがちな語り口、黒縁眼鏡の無表情は、役作りのありようとして納得できないわけではないが、テンポが悪く思えるほどのところがあり、やや抑えすぎのようにも思われた。
 さて、この芝居のピークというか、ほとんど唯一の見せ場は、ラストに置かれていた。回り舞台で展開する3つの空間が、実は現実でも隣接していて、この扉はカフェテリアのトイレにつながってるんだとか何とか一応の説明はあったように記憶しているが、とにかく回り舞台がすごい速度でぐるぐる回り、役者たちが3つの舞台にしつらえられた扉(トイレだったり、大きなロッカーの扉だったり)を開き、突っ切る形で疾走する(ように見える)。
 もちろんこういう形で、せっかく創った舞台空間という世界の境界を「なし」にするのは、反則、ルール違反、禁じ手である。しかしもちろん、これがこの芝居の目的であったことは間違いない。あっという間にあっと思わせるような世界の崩し方を見せられるのだから、その驚きといったらなかったし、場内は「それはないやろ」といった爆笑に包まれた。
 こんな場面に遭遇したら、江藤が神のようにすべての者を意のままに動かそうとする残酷な存在であったということを示し、世界は実は個々の人間の意思の集積ではなく、残酷な神が支配しているのではないか、というテーマも、一応とってつけたような表面的なものに過ぎないように思える。事件の謎解きという推理劇も、残酷な神という一見重厚なテーマも、すべてはラストの回転する舞台と疾走する役者という舞台空間の破天荒のために存在したとすれば、それはそれで演劇でしか成立できない魅力的でとんでもない時空間であったということが言えるだろう。

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