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2006年8月21日 (月)

「竹のガムラン<ジェゴグ>スアール・アグン」8月9日

「竹のガムラン<ジェゴグ>スアール・アグン」8月9日
 兵庫県立芸術文化センター大ホールの舞台には華やかな色彩の楽器が据えられ、神様の依り代となるのだろうか、縄を張って御幣のようなものを垂らしている。神々の島・バリ島からの竹製打楽器アンサンブルというふれ込みだが、全く予備知識なしに聞きに来てしまった。さて、何が始まるのか…。
 「竹のガムラン」と言われていることからもわかるように、普通バリのガムランやケチャといえば、金属製の打楽器の甲高い音が特徴的だといえるだろう。なんとなくそんな高音を予想していたら、客席後方と思しき入り口から二人の女性舞踏手と入ってきたのは、低い木琴のような鈍い音だったから驚いた。
 さて、こういう公演を振り返ろうとすると、まずこの音楽自体を詳しく説明したくなる。楽器の種類や特徴、音階(7thと思われる4つしかない!)のもつ意味(個々の音が方角と色と神を表わす)、歴史(1970年に復活)、……。しかしそれを始めてしまうとキリがないので、このサイトを見ていただくことにしよう。
http://www.asahi-mullion.com/column/w-music/040729index.html
 まず、ささやかな不満として、もう少し小さなホール(または近い席。ぼくは2階2列目センター付近)でこの演奏にふれられたら、全身から内臓に木々の震えがビンビンと響いて、凄まじい音体験になっただろうということ。竹製の木琴ジェゴグは高音部から最低音部まで数種類のパートに分かれているが、最低音部のものは3mにもなり、立っては演奏できないので、楽器の上に登って叩くというのだから、そのスケールの大きさ、激しさは想像いただけるだろうか。実際、その奏者は、まるでモグラ叩きでもやっているかのようで、叩くとか打つとかいう生やさしいものではなく、しばき倒すような形相で格闘していた。
 戸惑いもあった。いくらスアール・アグンという奏者と舞踊家のグループによって紹介される民族音楽という枠組みの中にあったと言っても、これはまさに神を呼ぶための、あるいは神と合一するための儀式に他ならない。それをぼくのような宗教的同一地平を持たない日本人が、たかだか数千円で立ち会っていいのだろうか、という戸惑いであった。
 その思いが最も強まったのが「ムバルンMebarung競演奏」。プログラムの解説をそのまま引くと「ジェゴグ演奏のメイン。竹音の競演です。1チーム・9人にて構成されています。2チームの激しい演奏が競い合い、リズムの強弱、叩き生まれる音の格闘技です。ジェゴグ音階は4方位神(東西南北)のパワーが生まれ、演奏者の身体に宿り、激しく叩く音は炸裂して次第に混じり合い、音の戦いは集結します」「本日の演目に165409082006 もある「ムバルン」という対抗演奏の演目では、微妙に調律をずらした同種の2台あるいは3台の楽器のユニゾンによる相互作用から独特の音のうねりを生じさせ、その響きは3km先まで轟くといわれています」ということだそうだ。
 ぼくたちが普段コンサートホールやスピーカーを通じて耳にしている近代西洋の音楽は、Aの音を中心に完璧に音高をそろえることで成立しているが、そろえないこと、あるいは故意にずらすことで不協という響きが生まれ、それが五感に激しく響くことをぼくたちは忘れ、あるいは排除してきた。まずそういうことを思い知らされた。
 そして特筆したいのだが、この日、この演奏で、2人の退場者が出た。1人目はあまりに突然のことだったので始まりはよく見ていなかったのだが、1人の奏者が客席の方に向かって転がるように走り出し、あっという間に数名のスタッフに抱えられて引っ込められた。もう1人は失神したかのように楽器の下に潜り込んだかと思うと、やはりスタッフに抱えられて去っていった。その手際のよさから、このようなことが起きることは予想されており、そのためのスタッフが待機していたようだった。トランス、憑依、降神ということについてはよくわからないし、安易にコメントもできない。このムバルンというものが、神と神との戦いであるのか、人間同士の戦いを神が祝福する種類のものなのかもわからない。何にせよ、この2人は、演奏を続けられる状態でなくなった上に、観客の前にいられるような状態でもなくなっていたのだろう。とにかく、ぼくたちの目の前で楽器を演奏している奏者が忘我のトランス状態になるということを初めて経験したので、それは大変な驚きであったのだ。
 つまり、これはコンサートホールで鑑賞されるような類のものであるのかどうかということについて、はなはだ不安になったということだ。馴化されていないとでもいえばよいのだろうか。人々の芸能は何らかの意味で神(神々)との交流であるのだが、それが芸能として提示されるにあたっては、神事や儀式というナマな交流のプロセスのままではなく、なにがしか去勢といっては悪いかもしれないが、一つプラグを抜いておくようなことをしているのではないか。それを、このスアール・アゴンはあまりにナマのまま、ステージに結界まで張って、持ち込もうとしたということだ。
 ミサ曲でも、本当にミサの儀式を伴って鑑賞されることはないし、たとえ実際にミサを行ったとしても、聖変化の瞬間に雷鳴が轟くわけでもない。しかしスアール・アゴンの、あるいはバリのと言えばいいのかもしれないが、奏者たちにとっては、演奏のさなかにまさに神が降ってきたわけだ。それをもちろん稀有な有り難いことだと思いはしたが、まっすぐに受け止めることのできる「私」というものではなかったことを大変惜しく思う。

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