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2006年8月

2006年8月27日 (日)

「ダンスの時間」13の詳細

ダンスの時間13の詳細が決まっていますので、遅くなりましたが。

 主催=ダンスの時間実行委員会 共催=京都の暑い夏事務局

A公演
9月3日13:00,18:30

¥2500(当日¥3000)

出演=吾妻琳、片上守、サイトウマコト、ダンスカンパニー・ディニオス、Monochrome Circus、森美香代

「ダンスの時間」のいわば常連メンバーによる公演です。久しぶりの吾妻さんは、今年dB公演も経て、ノリノリ。片上さんも濃密で色濃い世界を創ってくれると楽しみです。ディニオスは、いつもすばらしいテクニックと美しさ、そして明確な世界観を提示してくれて、ダンスというものの表現可能な世界の深さを認識させてくれます(写真は9回公演から)。Monochrome Circusは、先日京都芸術センターで発表した新作「きざはし」を再演の予定。サイトウさんも前回の作品を再演の予定です。森さんは昨年の作品を改訂してさらに濃密に仕上げ、美しくもたおやかな表現を楽しませてくれることでしょう。

Dsc06603

B公演
9月2日19:00、3日16:00

¥1500

出演=市川まや、今村達紀、近藤和光、竹原信也、森岡恵子

6月に京都芸術センターで行われたサンチャゴ・センペレ氏のワークショップに参加したメンバーによる公演です。WSのショーイングを経て、7月末にはロクソドンタでワークインプログレスを実施。メンバーの相互批評、Monochrome Circusの坂本・森やサイトウ、上念のコメントを受け、さらに時間の経過をへて、どんな表現にブラッシュアップしているかが楽しみです。

チケットのネット予約は、http://www.thekio.co.jp/danceticket.htm

会場=ロクソドンタブラック JR天王寺駅南へ徒歩5分。地下鉄阿倍野1番出口から南へ徒歩1分。

Loxomap
くわしいアクセスは、http://www.thekio.co.jp/loxodonta/acces.htm

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2006年8月21日 (月)

「竹のガムラン<ジェゴグ>スアール・アグン」8月9日

「竹のガムラン<ジェゴグ>スアール・アグン」8月9日
 兵庫県立芸術文化センター大ホールの舞台には華やかな色彩の楽器が据えられ、神様の依り代となるのだろうか、縄を張って御幣のようなものを垂らしている。神々の島・バリ島からの竹製打楽器アンサンブルというふれ込みだが、全く予備知識なしに聞きに来てしまった。さて、何が始まるのか…。
 「竹のガムラン」と言われていることからもわかるように、普通バリのガムランやケチャといえば、金属製の打楽器の甲高い音が特徴的だといえるだろう。なんとなくそんな高音を予想していたら、客席後方と思しき入り口から二人の女性舞踏手と入ってきたのは、低い木琴のような鈍い音だったから驚いた。
 さて、こういう公演を振り返ろうとすると、まずこの音楽自体を詳しく説明したくなる。楽器の種類や特徴、音階(7thと思われる4つしかない!)のもつ意味(個々の音が方角と色と神を表わす)、歴史(1970年に復活)、……。しかしそれを始めてしまうとキリがないので、このサイトを見ていただくことにしよう。
http://www.asahi-mullion.com/column/w-music/040729index.html
 まず、ささやかな不満として、もう少し小さなホール(または近い席。ぼくは2階2列目センター付近)でこの演奏にふれられたら、全身から内臓に木々の震えがビンビンと響いて、凄まじい音体験になっただろうということ。竹製の木琴ジェゴグは高音部から最低音部まで数種類のパートに分かれているが、最低音部のものは3mにもなり、立っては演奏できないので、楽器の上に登って叩くというのだから、そのスケールの大きさ、激しさは想像いただけるだろうか。実際、その奏者は、まるでモグラ叩きでもやっているかのようで、叩くとか打つとかいう生やさしいものではなく、しばき倒すような形相で格闘していた。
 戸惑いもあった。いくらスアール・アグンという奏者と舞踊家のグループによって紹介される民族音楽という枠組みの中にあったと言っても、これはまさに神を呼ぶための、あるいは神と合一するための儀式に他ならない。それをぼくのような宗教的同一地平を持たない日本人が、たかだか数千円で立ち会っていいのだろうか、という戸惑いであった。
 その思いが最も強まったのが「ムバルンMebarung競演奏」。プログラムの解説をそのまま引くと「ジェゴグ演奏のメイン。竹音の競演です。1チーム・9人にて構成されています。2チームの激しい演奏が競い合い、リズムの強弱、叩き生まれる音の格闘技です。ジェゴグ音階は4方位神(東西南北)のパワーが生まれ、演奏者の身体に宿り、激しく叩く音は炸裂して次第に混じり合い、音の戦いは集結します」「本日の演目に165409082006 もある「ムバルン」という対抗演奏の演目では、微妙に調律をずらした同種の2台あるいは3台の楽器のユニゾンによる相互作用から独特の音のうねりを生じさせ、その響きは3km先まで轟くといわれています」ということだそうだ。
 ぼくたちが普段コンサートホールやスピーカーを通じて耳にしている近代西洋の音楽は、Aの音を中心に完璧に音高をそろえることで成立しているが、そろえないこと、あるいは故意にずらすことで不協という響きが生まれ、それが五感に激しく響くことをぼくたちは忘れ、あるいは排除してきた。まずそういうことを思い知らされた。
 そして特筆したいのだが、この日、この演奏で、2人の退場者が出た。1人目はあまりに突然のことだったので始まりはよく見ていなかったのだが、1人の奏者が客席の方に向かって転がるように走り出し、あっという間に数名のスタッフに抱えられて引っ込められた。もう1人は失神したかのように楽器の下に潜り込んだかと思うと、やはりスタッフに抱えられて去っていった。その手際のよさから、このようなことが起きることは予想されており、そのためのスタッフが待機していたようだった。トランス、憑依、降神ということについてはよくわからないし、安易にコメントもできない。このムバルンというものが、神と神との戦いであるのか、人間同士の戦いを神が祝福する種類のものなのかもわからない。何にせよ、この2人は、演奏を続けられる状態でなくなった上に、観客の前にいられるような状態でもなくなっていたのだろう。とにかく、ぼくたちの目の前で楽器を演奏している奏者が忘我のトランス状態になるということを初めて経験したので、それは大変な驚きであったのだ。
 つまり、これはコンサートホールで鑑賞されるような類のものであるのかどうかということについて、はなはだ不安になったということだ。馴化されていないとでもいえばよいのだろうか。人々の芸能は何らかの意味で神(神々)との交流であるのだが、それが芸能として提示されるにあたっては、神事や儀式というナマな交流のプロセスのままではなく、なにがしか去勢といっては悪いかもしれないが、一つプラグを抜いておくようなことをしているのではないか。それを、このスアール・アゴンはあまりにナマのまま、ステージに結界まで張って、持ち込もうとしたということだ。
 ミサ曲でも、本当にミサの儀式を伴って鑑賞されることはないし、たとえ実際にミサを行ったとしても、聖変化の瞬間に雷鳴が轟くわけでもない。しかしスアール・アゴンの、あるいはバリのと言えばいいのかもしれないが、奏者たちにとっては、演奏のさなかにまさに神が降ってきたわけだ。それをもちろん稀有な有り難いことだと思いはしたが、まっすぐに受け止めることのできる「私」というものではなかったことを大変惜しく思う。

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2006年8月15日 (火)

「彷書月刊」8月号 バレエ・リュス特集

 古本屋さんの雑誌としか思われてないかもしれないけど、時々すごくシャープな特集をする「彷書月刊」。8月号は「バレエ・リュスのイマジュリィ」という特集。

 薄井憲二さんへのインタビューは放談めいてもいるけれど、随所に非常に興味深いエピソードや見解があって、いい。聞き手は芳賀直子さんで、さすが。ただ、編集のせいか、ベジャールがベシャールになってたりして。。。

 ほかに、芳賀さんの「バレエ・リュス、そして日本」、佐野勝也「藤田嗣治のバレエ美術」、石塚公昭「「薔薇の精」のニジンスキー」、猿渡紀代子「長谷川潔とバレエ、そしてリズム」、平山素子へのインタビュー、谷口朋子「竹久夢二のバレエ・リュス」、ほか。

 ¥600+税。近くのかなり大きな本屋さんで。ぼくは天王寺のユーゴ書店で買いました。

http://www3.tky.3web.ne.jp/~honnoumi/

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2006年8月12日 (土)

ロクソドンタ・フェスティバル2006

 今日はロクソドンタ・ブラックの演劇フェスティバルで、なんというか、コメンテーター。言い切れなかったことも含めて心覚えのために。
 まず審査員の皆さんに、審査を始める前のベースとなるような話をと言われたので、

・演劇批評は戯曲批評ではないこと
・好き嫌いだけではだめだが、好き嫌いに始まり好き嫌いに終わるとも。その好き嫌いを抱いている自分を分析することが必要
・演劇は音楽、照明、言葉、身体などの総合芸術である。演劇を批評することで、演劇というジャンル自体を広げていくことができるのはもちろん、文化全体に対する見方を持つことができる。文化の「蛸壺化」に対抗できるのではないか
・批評には長さも必要。寸評では印象で終わってしまう。まず作品の大枠をつかみ、好悪を分析・説明し、役者や裏方の位置づけを行い、総合的な判断をしようとすると、経験的に2000字は必要
・自分の中に一定の基準を持って、それに合致しているかどうかで批評するのではなく、その作品自体が何を目指し求めているかを探り、そこから批評・判断していくことが必要ではないか。そのために、柔軟な価値観と想像力が必要

  といったようなことを話した。
 続いて、エントリーした劇団の人たちとかを前に、以下のようなことを話そうと思っていたが、時間の都合もありかなり端折った。

・批評というものが存在することの重要性
・ぼく自身のスタンスとして、上から裁断するのではなく、同伴者であることを任じている
・そして、「愛ある辛口」を目指してもいる
・理解魔という言葉がある。大岡信がやや揶揄を込めて言われた言葉のようだが、ぼくはこうありたいと思っている。
・作品には完成度も重要だが、破綻も大切。臆病な完成度よりは蛮勇の破綻を
・破綻や失敗があったとして、それを理解、解釈できるようになりたい。何をしようとして破綻したのか、を理解したい

 審査は、1位がミジンコターボ「ダメダメサーカス」、2位が猴(ましら)の「FINAL ANSWER?」、3位がPASSIONEの「飛び魚の箱」、スタッフ賞が劇団暇だけどステキの「昭和100年」。
 全員素人だという審査員の的確なコメント、熱心な議論が素晴らしかった。

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2006年8月11日 (金)

TAKE IT EASY!「葬儀屋オペラ」 8月5日

TAKE IT EASY!「葬儀屋オペラ」 8月5日 神戸アートビレッジセンター
 全員神戸生まれ神戸育ちのチャーミングな女性が歌やダンスを含めた総合的な表現を展開し、座付き作者の中井由梨子のスケールの大きなファンタジスタとしての構築力と思想的にも大きなテーマに立ち向かう蛮勇のようなものが奇妙に共存した、「立体少女マンガ」とも称される微妙なユーモアセンスとちょっとした非現実感が魅力。……TAKE IT EASY!(テクイジ)を見続けている理由を200字程度で説明すると、こういうことになるだろうか。

 今回の「葬儀屋オペラ」は、人生の最後をどのように迎え、送るかが最も重要、終わりよければすべてよし、とばかりに5人の葬儀屋が立ち向かう難問の数々、といった全5話のオムニバスタイプの音楽劇。登場する役者が子役も含めて21人+バンド、という大規模であることもテクイジにとっては初めてとか。

 5話とはいいながら、すべてが独立・完結した形で提示されるのではなく、入れ子になったり引きずったり続きがあったりと、リゾーム的な構成をとろうとしている。実際に死んでしまった人間はといえば、ドラッグストアチェーンの社長、かくれんぼの最中に過って死んでしまった男の子の二人だけで、あとは死にきれない自称芸術家、ペットのチワワ、物。このように様々な工夫を凝らしてヴァリエーションを豊かにしようとしたのだろうが、それが趣向にとどまりドタバタしてしまって、この劇が臨終の場面や死というものをどのように捉えようとしているのかという基本的なスタンスが見えにくくなったのではないかと思われる。

 また、タイトルに「オペラ」と付したように、音楽やダンスを多用した作品であったが、それをもっと効果的にするためにも、全体の単純化や簡素化が必要だったように思う。シリアスで重要な役を客演に振り、テクイジの面々は外枠の狂言回し的な立場に終始したのも、もったいない。この劇の構成上、葬儀屋たち自身にはドラマが乏しく、スタイリッシュにかつユーモラスに立ち振る舞いはするものの、ドラマを盛り上げる役どころでなかったことは、残念だった。

 通底する大きなテーマのようなものを探れば、きっちりした終わりを迎えさせてほしいと望む者の声、ということにでもなるだろうか。第2話「犬のお葬式」の主人公は、チワワに人間のような名前を付け人間の恋人のように愛してきた無邪気な女(田所草子。フリー)。彼女はその死体を抱いたまま、アイスクリームを買いに来ている。この設定も田所の演技も素晴らしかったのだが、女がチワワの死を受け容れるに至るプロセスがわかりにくく、ついていきにくい。テクイジの葬儀屋たちが、手を変え品を変えて、過去を呼び起こさせたり現実に向き合わせようとするが、女は頑迷である。それが「星になりたいから」ということで説得できるという結末だから、やや肩透かし。最後まで夢見る元少女、現実を見れない女であったわけだが、もう一ひねりするか、ひねらずストンと落とすかしたほうがよかったのではないか。

 もちろん、そんな簡単にドラマチックに人間を変えられるわけがないと言われれば、その通り。理詰めで他人が変えられるほど人間は単純でも計算通り動くわけでもない。「いたずらっ子のいたずらな死」と題された第5話は、かくれんぼが大好きな男の子(楠陽介。子役、小学校2年生)がその最中にマンホールに隠れてしまい、母親(石井テル子。劇団アクスピ)が見つけたときには既に息絶えていたという悲劇。母親は息子の死を受け容れることができず、錯乱している。現実を受け容れられなくなっている母親が、ようやく息子の死を受け容れ、穏やかに息子を送ることになったところでの「もういいかい」「まあだだよ」…「もういいかい」「もういいよ」で息子が客席へ消えて行くところは、この劇のクライマックス。しかしここに至る道のりにも、第一話「金持ちの爺さん」の遺産相続でドタバタしている兄弟の物語が貫入してきたのは、感動を削ぐだけに終わってしまったように思う。

 おそらくここでは、複数の物語を重層化させることで、螺旋のような時間や平面のうねりが生じることを期待したのではなかったか。しかし、うねらせるには、いたずらっ子の死というドラマはあまりにしっかりとした悲劇でありすぎたし、遺産相続の諍いを他愛ないゲームで解決しようとしたり、奇妙に昂揚した葬儀屋たちの姿は此岸的でありすぎた。

 葬儀屋たちについては、衣裳といい命名といい、現実離れした妖精のような存在であろうとしたのではないかと思われるが、5人のキャラクターに明確な描き分けがなく、これまでのテクイジの活動を見続けてきたファンが持っているイメージに頼れる範囲内の個性であったのも残念。

 ライトコメディとしては随所に光るものがあったし、他者の死を受け容れるというテーマはそれだけで重く大きく、改めて一つの作品にまとめ上げることもできると思う。今回は、やりたいことをいろいろとマルチにやってみたということだろう、次の展開に期待したい。

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2006年8月 2日 (水)

服部有吉+首藤康之「HS06」 7月30日

服部有吉+首藤康之「HS06」 7月30日シアター・ドラマシティ

 服部有吉がソリストを務めてきたハンブルク・バレエ団のメンバーと首藤康之(「HOMO SCIENCE」のみの出演)とで振り付けた2つの作品。
 1つ目の「HOMO SCIENCE」は、プログラムによるとロボット生産工場の実験室で、ロボットが次々と検査を受けているという設定だったそうだ。幕が開くと、一人が前屈の姿勢で佇み、そこに天井から一人、また一人と下ろされてくる。いわゆる人形振りであることからロボットたちであることがわかるが、なかなか言葉で追いにくい作品だった。ロボットであるのに、徐々に柔らかく滑らかな「人間的」な動きに逸脱して行くところが、作品のテーマでもあり、ダンサーの見せ場でもあるという、シンプルながら力強い構成。首藤をはじめ、ダンサーの技量には何の心配もないだけに、迫力のある作品に仕上がった。特に首藤は、荒々しい大きさが前面に出ていたのが大きな魅力だった。

 休憩を挟んで2つ目の「ゴーシュ」は、宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」をダンサーの世界に置き換え、鈍くさくて目立ちたがりで仲間から嫌われているダンサー(ゴーシュ=服部)が、動物たちとの出会いから多くを学び、立派なダンサーへと成長するというお話。
 ゴーシュは、指示通りの動きができないダンサー。自分でよけいな動きを入れてしまったり、揃えようと思うと隣のダンサーにぶつかったり。あげくの果てには、男性ダンサー(ヨハン・ステグリ)にぶつかって、彼の膝を痛めてしまう。謝ってももう目も合わせてくれない。
 その夜、一人でおさらいをするゴーシュ。このシーンの服部の動きが素晴らしい。服部の動きは、いい意味でケレン味や色気があるというか、一つ一つの動きに独自の味わいを加えているようなところがある。ジャンプ一つとっても、空中の姿勢のヴァリエーションが豊かで、見ていて油断ならない。個々のヴァリエーションによって、観る者のは「ワッ」「ワッ」とばかりに感情が堆積し、やがて臨海点に達すると大きな感動のうねりとなる。そういう種類のダンサーである。
 猫役のエレン・ブシェーは、昨年ハンブルク・バレエ団のプリンシパルに昇格。優雅で目を見張るようなたおやかな動きと豊かな表情。猫と踊ることで、ゴーシュはペアとしての身の処し方のようなものを覚えていくようである。鳥役はヨハン・ステグリ。大胆なテクニックと強気な押しでも覚えただろうか。タヌキはゲイレン・ジョンストン(女性。'00ハンブルク・バレエ団入団)。ぼってりしたお腹のかぶり物をつけて、フォッシーを彷彿とさせるジャズやチャールストン。ここでは当然楽しいダンス、エンターテインメントとしての動きを覚えたことだろう。面白いのが最後のネズミ(大石裕香。'02ハンブルク・バレエ団入団)。弱気で遠慮がちでおどおどしていて、遠慮がちにしかし客席から登場するのだが、動きは非常にシャープ。小柄な日本人ダンサーが海外で勝負するには、こういう速度を身につけておく必要があるのだろうと思われる動きである。弱気なネズミと踊るゴーシュが、最後はネズミを励まし勇気づける。そういう心を身につけたということだろう。
 そしてゴーシュはバレエ団に戻って、素晴らしいダンスが展開されるわけだが、欲を言えばここで前半とのコントラストがもう少し明確になっていればよかったのではないか。前半が既に魅力的すぎたと言うべきか。
 服部はハンブルク・バレエ団を今シーズンで退団し、カナダのアルバータに移るらしい。作品づくり(振付)にも積極的で、受賞やオファーもあるようだ。これから広いフィールドでの活躍が期待できると思うが、彼自身が踊ることの魅力を観客に味あわせることを、いつまでも大切にしてほしい。
 

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