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2006年9月19日 (火)

「陶芸の現在、そして未来へ」兵庫陶芸美術館 8月22日

「陶芸の現在、そして未来へ」兵庫陶芸美術館 8月22日

 3フロアに分かれた会場の大きな展示室を、5人の国内の現代作家それぞれに一つずつ与えて、通観すると様々な素材、スケール、世界観、マチエールにふれることができ、現代日本陶芸の多様性を実感できるようにした展覧会。同館の開館記念特別展 と位置づけられていることからも、この人選には周到な準備がなされてきたであろうことが想像される。
 現代美術の中で、陶芸はどのような位置にあるのだろうか。たとえば西天満のいくつかの画廊を歩いていて、陶芸の個展に出会うことは少なくない。小品もあれば、画廊の空間全体を埋め尽くすような大作もあり、時には数千円で購入できるような日用の陶器を陳列していることもある。陶板画のような一部のジャンルを除き、平面か立体かと言えば立体、その意味では彫刻に通底する。絵画が幅と高さで作品の大きさを計られるのに加えて、奥行き、depthをもつ。美術館などでは難しいが、本当は触感、材質感など、手で触れて伝わるものが重視されるべき作品が多いと思う。
 そして彫刻と最も違う点は、一定の手作業を終えた作品が、火と時間に委ねられるというところにある。もちろん周到な計算と技術によって大概は想定されていたようなものが出来上がるのだろうが、巷間陶芸家のイメージと言うと、窯から出してきた作品のほとんどを「これもだめだ、これもだめだ…」と打ち壊していく完璧主義というものがあるだろうように、必ずしもすべてが納得できる出来上がりにはならないということでもあるのだろう。偶然に左右される神話的なエピソードが多いことから、芸術としては一段低く見られてきたということも考えられる。それだけに、神秘性をも帯びているといえる。
 さて、一般論はこれぐらいにして、個々の展示室を見ていこう。
 最初の部屋は、内田剛一の錆びた鉄柱、鉄板のような作品。大きさといいその材質感といい、圧倒的な迫力のある大作である。鉄による作品であると言われても、ほとんど違和感はなかっただろう。確かに図録の解説「いま、生まれゆく陶芸のかたち」(坂本牧子)によると、「表面を荒らして土の質感を強調し、銅の釉薬をかけて焼成後、鉄粉を付着して錆びさせるという技法」を用いているそうだ。長方形の陶板、直方体を積み重ねて床から天井まで届かせた柱など、その作品のエッジにはほとんど揺れやゆがみがなく、直線に見えるので、全く鉄板や鉄柱のようだ。ただ、解説で指摘されているような「古びた風合いを出すため」ということが目的であるなら、これはそうではなくて、陶ではなく鉄であると見せるためであるように思える。だいたい、陶が古びるとは、どのような状態になっていくことなのか。たとえば「土に返る」と言うが、陶が土に返るというのは、トートロジーのようでもあり、矛盾のようでもある。陶芸作品が完成後に経年の変化を見せるとはどのようなことかがわからない。それを視覚化するために錆という金属特有の変化を纏おうとしたのだったら、それは陶芸にとって、どうなのだろう。
 第2室は小松純の、インスタレーションと言っていいだろう。天井まで届こうという大きさの植物のような作品をはじめとする生物か建造物のような大きな作品、襖を屏風か衝立のように並べた作品、壁面一杯の黒い画面にびっしりと人の手形が捺された作品。
 入り口近くに門のように立つ「NONF.C.,2006モン」や「NONF.C.,2006三又足根」「NONF.C.,2006三対足根」は、ハウルに出てくるような中古代の遺跡か砦のような相貌をもっているが、広い空間を二つに隔てる穴のあいた衝立のような「Untitled 2006十二扇一双開穴泥描屏障」は桃山時代の墨絵を泥で描いたような趣と緩やかな曲線と直線によるモダンな造型を表裏に併せ持っている。人の手形の「NONF.C.,2006泥手印跡集散云様壁」は、アクションペインティングである。
 そういうバラバラさを統一感あるインスタレーションとして成立させているのは、まずは泥の質感、陶の触感であるといっていいだろう。しかしそれだけではなく、いくつもの掌を捺したアクションペインティングが、その掌の小ささから予想された通り、地元の小学生との共同制作であるということからもわかるように、彼は作品の間に(あるいは中に)他者を入れる回路というものを持とうとしていて、それが一つの統一感を生じさせているのではないだろうか。
 実際、この展示室では、作品の間を歩くことの楽しさが強く印象に残った。視界を遮る衝立には、しかしポコポコと穴が開いており、覗けば向こう側が小さく部分的に見える。覗き穴から見る向こう側というのは、現実世界ではないように魅力的に見える。そのような楽しみが、空間の可塑性として立ち現われ、そしてそれはまるで陶そのものの特性の一つとしても見えてくる。
 第3室にはいる前に、館内の木の階段を上ると、驟雨である。雷まで。
 部屋の外のロビーのようなところに板橋廣美の「重力内無重力」「Association with white」。同じ作家の作品とは思えないほど質感が違う。前者はザラザラで後者はツルツル。前者は崩れそうな砂をようやっと固めたような材質感で、触ると崩れそうで、何らかの支持体にそれをまぶしているのかどうだか、いずれにせよ辛うじて箱状になっていて中は空洞になっている。その危なっかしい材質感から、重力-無重力というタイトルが導き出されているのだろう。後者は磁器のような表面で、細いキリタンポまたはブランクーシの鳥を思わせるようなシャープで乳白色の紡錘形が9×9、81本びっしりと並んでいる。
 前者は耐火粘土を焼いて粉末にした、シャモットという素材を用いているらしい。展示室内の「空いの間」(うつろいのあいだ、と読むのだろうか)という作品は、シャモットで小さな棺桶か長持ちのような直方体を床に直にいくつも並べたもの。
 後者は磁土を使ったもので、展示室内には風船で原型を取った鋳込みによるものという、確かに丸い風船を組み合わせたような造型がごろごろと転がっている(「Association with White」と同題である)。しかし、ただ風船のように丸く滑らかなだけではなく、その両端は強引に引きちぎられたように荒い断面を見せている。
 ポイントは、この展示室で「空いの間」と風船状の「Association with White」が並置されていたことだ。特にこの展示室を一つのインスタレーション空間としてタイトルを付けたりはしていなかったようだが、ぼくはこの空間には、ただ大作を二つ並置しただけではない、強いテーマ性を見ることができたように思う。
 「空いの間」をぼくは棺桶のように見たが、それは室外の「重力内無重力」というタイトルとも共通していて、そのタイトルがオブジェそのものを名指ししているのか、オブジェの中の空間であるのか、オブジェの外側にある他のオブジェとの間隔となっている部分を指しているのか、どのようにも読める多様性を持っている。つまり、独立した作品としても、インスタレーションとしても解読可能である。どのように読むとしても、ここでタイトルに指示されているのは、造型された物質そのものではなく、それによって内包されることになった空間であったり、外延されている空間である。そのこととシャモットという材質が持つ視覚的な可塑性や崩落感から来る危うさとが、絶妙な同調を見せている。
 同様に「Association with White」というタイトルを考えると、何が「白」と連合ないし結合するのか。そこには明示されていないだけに確乎とした主体があり、行為者が存在することが明らかである。それは、滑らかな風船状の形態を組み合わせ、引きちぎった行為者である。
 謎解きめいたこじつけをしようというのではないが、この展示室のオブジェから受け取ったものは、「これではない何か」という圧倒的な希求の意思であり、造型したものではないものを表現しようという強い意思を感じることができた。
 あとの二人の作品は、全く異なる方法によってだが、確かに圧倒的な作品であった。小品の夥しい集積によるメモランダムをDNAのように網羅した展開図のような世界(戸田守宣)、何百kgという無垢の土の塊を焼成した直方体を何本も並べた重量そのもの(三輪和彦)の無垢の直方体は、焼成の結果自然に表面も内部も激しく罅割れ、展示ではその大きな罅に照明を当ててダイナミックに見せていた。ただ、表面に金や白の釉薬が塗られていたのは、陶芸作品であれば当然のことともいえるが、何も塗られていない生地の状態で見せた方が、土の持つ原初的なエネルギーを強く打ち出せたのではなかったか。

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