« 2006年10月30日の西天満の画廊 | トップページ | オルセー美術館展 »

2006年11月 9日 (木)

11月6日の西天満界隈の画廊

 まずは北浜のサイギャラリー鈴江栄治展(~11/25)。白いキャンバスがいくつか並んでいる。左手にはDMの写真としても使われている透明の樹脂が生蛸のようにぶら下がっていて、床にはその樹脂が五角形や棒状になったものが置かれている。背面には、詩のような言葉が掲げられている。
 白いキャンバスを見ると、ところどころ汚れのようにオレンジ色がためらいがちに跡を残している。うっかり筆かナイフが触れてしまったようでもあるが、どの画面も同じようにランダムにそうであるところから、周到に計算された痕跡であろうことがわかる。このタブローが引っかかってくるのは、そのオレンジ色だけかと思う。あとはただの白であると。
 白であること。無色であること。透明であること。光そのもの。
 左側の形のよくわからない透明なオブジェは、透明であるのに、それが裁断されることでエッジ、輪郭を持ち、透明であるのに見えるものになっている。厳密には無色透明、ゼロではないにしても、このように提示されると、無色透明であるものが見えるということの矛盾が面白い。
 そして、詩のような言葉。厚手のグラシンにタイプされていて、下の台紙にどうもドローイングがあるらしいがよく見えない。「皮下の明かり」と題されたそれは、「朝、小鳥の/陽の舌」と始まる、西脇順三郎や吉岡実を思わせるような硬質な言葉の連なりだ。文字がタイプされているところと、その文字によって結晶するイメージの場所は、どれほど離れているのだろう。また、ドローイングと文字の重なりや乖離はどれほどのものなのだろう。
 そのようなことを考えながら、再び白いキャンバスの前に立つ。これは一体下塗りのままなのだろうか、画面を均一に塗ろうとしてもそれは可能なのだろうか、白であるということは無であると思わされているが果たしてそうなのだろうか、照明との関係性はどうなのだろうか……などと、まさに見ることは考えること、という状態である。まずは、このように画廊に展示されている以上、何もないわけがないし、何もないとしてもそれは何ものかであるわけだし。
 やがて、何だか見えてくる。いや、禅の公案のような意味ではなくて、急に画面が凹凸のあるもののように、立体的に。蛍光灯と電球の照明の下で白いものを見続けて、目がハレーションを起こしたのだろうか。
 さて、紹介されて鈴江氏にお話を伺っていると、やはり下塗りの上に何層もの描画があって、その上を覆うように白である、ということだそうだ。その詳細については謎解きのようになるといやなので伺わなかったが、彼の造型の基本となるのは、何ものでもあろうとしないことのようだった。ドローイングの結果として、何かを形象してしまうようなものになることを絶対的に避けること。何ものか以前であり続けること。
 詩とは(いろいろあるが)、なにがしかのイメージを提示することによって、何ものでもない状態、言葉未生の状態であることを創り出すことを目的としているのではなかったか。言葉を言葉そのものとして(意味に移ることなく)受容すること、それは実際にはほとんど不可能なことなのだが、もし絵画で、そこに描かれているのが山であるということを認識する寸前に、その画面から何かしら凄まじいまでのエネルギーを感じ取るという体験が現実となったならば、その「寸前」そのものを定着することはできないだろうか。
 鈴江の作品は、そういう瞬間的な体験ではないが、というのもよく見ないと体験できないからであるが、見ることそのものを問い、絵画が表現であるかどうかということそのものを問い、ものが記されるものであり続けることの困難を問うことに挑み、相当高度なレベルに於いて成功していると言えよう。ただし、ゆっくりと見なければいけないし、ゆっくりと考えなければいけない。それがぼくたちには難しいことになってしまっている。
  サイギャラリー http://www.workroom.co.jp/workroom/sai.html
 鈴江栄治 www.k3.dion.ne.jp/~suzueiji/

  乙画廊で、水野真理のガラス絵展(~11/11)。深い青と緑のガラス面を滑るように描く線や面が美しい。ガラスという支持体の特質は、一つにはその上を滑るように伸びる絵具の平滑なスピード感、そして背面からも光が回ってくる、独特の神秘的な光の深さにあるだろう。抽象的な作品から、風景、人物など様々な題材の作品があったが、やはりその光の特質を生かす意味で、森や湖といった風景の静謐さを感じさせる作品が最もなじんでいるように思われた。
 乙画廊 www.oct.zaq.ne.jp/oto-gallery/

 以前から何度も見ている増田妃早子展を久しぶりに、Oギャラリーeyesで(~11/11)。何だかものすごいところに来ているな、それにしてもこの心を揺さぶるような寂寥感、美しさ、凛々しさ、孤高、静けさ…はどうしたものか。
 「 /風景# 」と題された作品(/の前はスペース、#の後は番号)は、芒などが繁茂する沼地を描いただけのように見える。黄色、紫、灰色、使われている色はいずれも曖昧で、もちろん現実の色のようではないように見える。草と言えば緑であるとぼくたちは思っているが、どの場所のどの時間のどんな天気の光の中でどのような色に見えるか、本当にはぼくは見たことがないのかも知れない。
 増田が描く植物そのものは、第一印象より遥かに現実的で写実的であるようだ。葉の付き方や小さな花萼の様は、実際に写生されたものだと思われる。それが、灰白色であったり、銀灰色であったりすることも、増田の画面が写実的でないように思える一因であるが、それらが繁茂する沼地のような場所が、キャンバスの中央に、宙に浮くように描かれていることも、現実離れしたものに見える大きな原因である。
 特に焦点となるような何ものかがあるわけでもない風景が、周囲から切り離されてあるということは、どういうことだろうか。針穴から覗いたような見え方。何か他の者にはわからないが、とても大切な風景であるのだろうか。おそらく同じ場所であると思われるその風景が何枚も描かれているわけだから、四季や天候の移ろいで風景は様々に変化しているはずだ。そのような重層の中から抽象され固定された一つの風景。
 非常に美しいが曖昧な色彩もまた、その移ろいを示しているのではないだろうか。この場所が廃墟ではないことはもちろん見ればわかるし、理屈としてならばむしろ豊饒な生命が感じられる場所であってもよいはずなのだ。植物も、枯れているようには見えない。
 もしかしたら、これは、夢の中の風景のようなあらわれをもっているのではないか? 増田は「目の前のあらわれをその都度繰り返し描き留めるという作業は、知覚の限界を知ることでもあるし、記憶の限界や恣意性を感じることでもある」と記しているが、夢の風景を、危うい記憶をたどりながら再現すれば、このようなリアリティがあるのではないか。それがこの、心を揺さぶるような孤独で美しい寂寥感となっているのではないか。
 Oギャラリーeyes http://www2.osk.3web.ne.jp/~oeyes/

 番画廊に入った途端、芳香に襲われる。向山潔展(~11/11)、木の造型である。
 聞けば、芳香の源は、中央にそびえ立つクス。いわゆる樟脳の強烈な芳香である。そう広くはない画廊の空間の中で、そのスケールの大きさは圧倒的なのだが、内部を大きくくりぬかれて細かくチェーンソーでか印を付けられている姿は、少し愛らしくもある。樹皮の方には赤い染みが人体のような形に浮き出ていて、樹木の持つ不思議さに打たれもする。
 他の作品は、ナラをくりぬいた形。たいそう硬い木だそうで、わからないだろうがと言いつつも、チェーンソーを逆に回すようにしないと刃が立たない云々と言っておられた。わからないが、その大変さはわかるような気がする。何より面白いのは、そのような工程を経てくりぬかれたものであるのに、くりぬかれた面はとてもツルツルとしていて、まるでポコッと部品を外したような、つまり傍らにくりぬかれたものがそのまま置かれていても不思議ではないような相貌を示していることだ。実際は相当な体力仕事だそうだが、木と格闘したように見えない静かでユーモラスと呼びたくなるような曲線・曲面の自在さである。漱石ではないが、そのようにくりぬかれることが、木の内部から求められた形であるような、そんな造型であった。
 番画廊 http://homepage2.nifty.com/bangarow/

|

« 2006年10月30日の西天満の画廊 | トップページ | オルセー美術館展 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 11月6日の西天満界隈の画廊:

« 2006年10月30日の西天満の画廊 | トップページ | オルセー美術館展 »