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2006年11月 1日 (水)

2006年10月30日の西天満の画廊

 番画廊砂押かほる展(~11/4)は、綿キャンバスにアクリルの淡い色彩を広く薄く流したり滲ませたりした、イメージの喚起力の強い抽象。1m角前後の大きなキャンバスに広がったアクリル特有の伸びのある色彩平面が、様々なものに見える。抽象作品を、○○のようだと見るのは、あまり相応しくないのかもしれないが、奇妙なことに、たとえばグランドキャニオンの俯瞰のような非常に大きなものに見えたり、細胞を顕微鏡で見ているような極端に微細なものに思えたりする。それは、ある意味では抽象という作業が日常の視覚という感覚を混乱させるからであり、そのことに砂押の色面が成功しているということだ。なお、「mirror of water」などといったタイトルは、作品完成後につけられたものだそうだ。
 砂押の絵画は、それによって見る者を作品の平面の中に引き込んでしまう魅力を持っている。薄く広がる色面は、キャンバスを越えてどこまでも広がっていきそうだし、色が塗られていない部分は、遥か遠くまでの奥行きのように思える。
 つまり、一見平面的である作品だが、色面の平面的な広がりの大きさゆえに、逆に色の不在ということが垂直的に強調されて、鋭い三次元性を持っているということだ。何よりも、色面を作る絵具の動きが、滲みや垂れやぼかしを生じて(というと日本画のようだが)非常にリズミカルに躍動しているように見えるところが、絵画を見ることの喜びを誘発させる。

 同じ抽象でも、ギャラリー白善住芳枝(~11/4。CASOで11/14~11/26)は、激しく情熱的な筆致が特徴的だ。砂押がアクリルであったのに対し、善住は油彩。油彩ならではの重みと色調の深みを最大限に生かしている。今回は色彩にもいっそうの多様性が出て、言い方が適当かどうかはわからないが、ある種のまがまがしさのようなものさえ感じられた。特にDMはがきにも印刷されていた「Maemi Ⅲ」は、不気味に赤く光る空、不吉な黒い鳥、炸裂する地上のものども…というふうに惨劇を描いたものと見えなくもない。タイトルのMaemiは、ご本人確認したわけではないが、東アジアに大きな被害をもたらした台風の名前のようだし、何か激しく劇的な状況を描いていることには違いないようだ。
 悲劇と限る必要はあるまい。キャンバスと格闘し生命のエネルギーを生でぶつけるような画面からは、どのようなものか定かではないにしろ強く激しいエネルギーが伝わってくる。ただ善住の激しい抽象の魅力は、その激しさとは裏腹に、透明感や静謐感があるところにあると思う。こういことを説明するのは大変難しいが、自己を含めた生命や存在への向き合い方の純粋さによるのではないかと思う。

 ギャラリー白3渡辺晶子展(~11/4)、これまで彼女の作品というと色を重ねたり削ったりした織物のようなミニマルな抽象作品が印象に残っているが、しばらく前から徐々に傾向が変わってきていたようで、今回は大まかに言って自画像の要素の濃い作品。口紅を塗って強調された顔の下半分とボリュームのある衣裳をつけた上半身が、激しく速いタッチで半透明のような形で描かれている。背景は青灰色だが、よく見るとオレンジ色かピンク色に淡くなっている部分があったりする。
 顔の上半分がないことや、上半身の輪郭が曖昧なことに着目すれば、自我の境界が不明確であるように思えるかもしれないが、自我というものが世界に融解していることが、悲劇的なのか幸福なことなのか、改めて考えてみると、どうだろう、ぼくは案外それは幸福なことなのではないかと思う。曖昧な輪郭に、色はきっちりと対応しているわけではなく、背景の色の変化も非常になだらかで曖昧だが、そこにほのかに見えるある明るさについて、一種の平和というか救済のようなものが見えるというと、深読みに過ぎるだろうか。
  ギャラリー白 http://www.ne.jp/asahi/gallery/haku/

 Oギャラリーeyes小寺絵里展は、中央に火山の火口湖の周囲に動物たちがのんびりと群れている光景のオブジェ、周囲に山並みを描いたドローイング。このドローイングが、どうも実際の山の風景ではなくシーツなど布をくしゃくしゃとさせたものを描いているらしく、考えようによってはちょっとユーモラス。ドローイングは綿布にリキッドファンデーション(化粧品?)で描かれており、その半透明で特徴的な肌色が、不思議な感じを出している。
 前の週だったかにサイギャラリーで見た林延子が、薄い紙(?)で山の稜線のようなものを造り、それを繊細に震えるように鉛筆でスケッチしたドローイングを出していたのとは、同じように見えるのに、成り立ちも方向性もまったく違っているようで、面白い。
 ドローイングからオブジェの物語性は喚起されたものと思われるが、石膏で作った大きな貝殻のような器(?)に砂を山のように盛り、その頂点を稜線に、火口湖に向かう線を作る砂、そこに足跡をつけて歩いている牛や馬の小さな人形たち。布の皺からここまでの距離、一種のユーモアのある飛躍ぶりが楽しい。
 Oギャラリーeyes http://www2.osk.3web.ne.jp/~oeyes/

 天野画廊では瀬戸理恵子の「Cardboard Spine Ball」(段ボールボール)と題した立体(~11/11)。ダンボール箱を細く断裁してテープのようにし、それを重ね合わせて木の薄い断面の年輪のようにしたものを天井から吊り下げた作品。そして今回のタイトルになっている、段ボール箱の角の部分を使ってやや幅の広いテープを作り、くるくるとボール状にしたもの。段ボールの角を使っているのでテープ上の真ん中にその折れ目が入り、面白い味を出している。
 置いてあった資料で過去の作品を見ると、瀬戸は同様に段ボールで自身の姿の人型を抜いてすっぽりと自分が入れるように等身大に重ね合わせて作ったオブジェを作り、そこに入って見せるというパフォーマンスもやっていたようだ。段ボールという素材を使ったアーティストは決して珍しくはないと思うが、このようなインティメートな向き合い方は稀なのではないか。段ボールというと、その粗い感触から、乱暴な扱いをされることが(美術でも)多いように思うが、瀬戸は逆にその粗さをざっくりした温かみと解しているようで、包み、包まれるものとしての段ボールのありように、親しみを感じさせてくれた。
 天野画廊 http://www.eonet.ne.jp/~amanogallery/

 写真のEarly Gallery(~11/4)では、大地景子の「1AU-シズカナヒカリ」と題した写真展。1AUとは、天文単位で、太陽から地球までの平均距離をいい、約1億5000万kmとのこと。このことからもわかるように、大地は太陽光の存在を最大限に見せることを意識して対象を選ぶ。しかもそれはシーツ、パンケーキ、タオル、カフェオレ、カーテン、壁といった、日常ありきたりの、どこにでもあるものだ。それら生活の身近なものに1億5000万kmの彼方から降り注ぐ太陽の光を、柔らかくいとおしいものとして見せることに成功している。接写を使っているものも多いと思われるが、画面が歪みなくフラットで自然であることも、そのことに大きく与っていると思われる。世界をいとおしんでいる手つきが、いとおしい形で現れる個展となっている。
 Early Gallery  http://www15.ocn.ne.jp/~earlyee/

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