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2006年11月

2006年11月30日 (木)

ダンスの時間special 【earthen bodies 陶製の身体】

1月公演(1)の概要です。今年5月に同じメンバーで行なったインプロが好評だったので、場所を変えての再演です。素晴らしいホールです。ぜひお越し下さい。

ダンスの時間special
陶芸をめぐる音と映像のインプロヴィゼーション

earthen bodies 陶製の身体

構成・ダンス=森美香代 ヤザキタケシ 安川晶子 サイトウマコト
映像 ・ 音楽=赤松正行+IAMAS-DSP / MIRAGEチーム
オブジェ = 大西文博(丹文窯)

会  場 = 兵庫県立芸術文化センター小ホール(阪急西宮北口 南改札口直結)
日  時 = 1月18日(木)19:30開演(19:00開場)

料  金 = 前売/2800円 当日/3000円
チケット = ダンスの時間実行委員会(ロクソドンタ ブラック内)
          TEL=06-6629-1118
          e-mail=tapiro@kobej.zzn.com
          芸術文化センターチケットオフィス 
          TEL=0798-68-0255
          URL=http://www.gcenter-hyogo.jp/

Image002

4人の気心の知れたダンサーとメディアアーティストの即興公演です。
ダンサーの動きをカメラがとらえ、様々に加工してプロジェクタからスクリーンに
出力されます。それは私たちの中で起きている想起や反芻、
予測や期待といった作業にとてもよく似ています。
そこにおきるズレやブレや荒れや遅れといった間隙そのものを、
楽しんでいただけるのではないかと思っています。また、
目の前に存在している身体と、映像に提示される身体と、
一方がリアルであり一方がバーチャルであるということはわかっているはずなのですが、それはまるでドッペルゲンゲルのようにほぼ等価なものとして
立ちのぼってくるのではないでしょうか。
一つの触媒となるモチーフとして、丹波焼(立杭焼)の陶器を使います。
日本の六古窯の一つである丹波焼は、黒っぽい赤膚が特徴で、
釉薬(うわぐすり)をかけずに焼いた土のざらっとした膚の触感が魅力的です。
今回は、その色や質感、形状の魅力はもちろんですが、音の魅力に着目しています。
水琴窟の不思議な音、ざらついた表面の擦れる音、割れる音…。
即興のダンスというと、ダンサーは自由気ままに好きなように身体を動かしていると
思われるかもしれませんが、第一に、よく鍛錬されたダンサーといえども、
思い通りに動くということは難しい、ほとんど不可能だといっていいでしょう。
また、相互の動きや音や光、空間、観客の反応、など様々なものに影響され、
規定され、身動き取れなくなることもあるかもしれません。
一方で、映像や音楽は、用意された装置を前提に、それを駆使することで
空間を視覚・聴覚、場合によっては振動などによって支配しようとします。
ここでもまた、ダンサーとの相互性によって様々に軋轢のようなものが生じるはずです。
人は、何かが起きる、ことを期待して、即興の場に身を置くのです。
「あなた」の存在が、またひとつの影響の源であることも、言うまでもありません。
(ダンスの時間実行委員会・上念省三)

舞台監督=中立公平(THE KIO COMPANY芸術監督)
照 明=伏屋知加(THE KIO COMPANY)
制 作=ダンスの時間実行委員会
兵庫のまつり(ふれあいの祭典)県民提案事業
      ※ お車での来場は、ご遠慮ください

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2006年11月22日 (水)

DANCE CIRCUS 11月15・16日

DANCE CIRCUS 11月15・16日 Art Theater dB

 1日目は行けなかったが、2日間で10のダンスを観たことになる。
 まず圧倒的だったのは、森田海瑞瑤(もりた・かずよhttp://www.convey-art.com/)の「灯-トモシビ-」だ。
 森田は、右脚の膝から下が義足で、上体も湾曲しているようで、いわゆる障害者であるが(二分脊椎症・側湾症とのこと)、腕を中心とした状態の動きが非常に美しく、豊かである。ステップも軽快で、義足の右脚の上げも滑らかで、身体にハンディを持っていることが魅力となっている。パーカッションと横笛のリズムが身体の中に入っているようで、そのクレッシェンドの力強さ、タメのタイミング、盛り上げ方も非常にうまい。様々な表情を見せはするが、奉納の感謝の舞のようにも思える。
 赤い布を肩にし、人差し指を一本立てたりするが、金満里の名言「指一本動けば自らと宇宙を表現できる…」を思い出す。存在していることそのものを強く美しく表現する力が強烈に印象に残った。
 意外なことに(?)女性のソロは少なく、もう一つは木原アルミの「影とカゲ」で、足先にピンクの影をつけたマイム。単純なコンセプトで影と実体の相補性や可換性の手前まで表現しようとした。衣裳も影もピンクや赤だったことは、おそらく木原自身が想定する以上に作品を甘くさせたように思う。音楽が平凡だったのも、つらかった。
 女性はデュエットが4組。まず、動き自体がレベルを行っていたのが、昇花ロケット足立七瀬、山上恵理の二人だけだったのが、残念だった。昇花ロケットの「Are you…?」は、まず二人がシモ手奥でくっつきそうなぐらい近づいて対面、肩や髪や腰をクンクン嗅ぐところから始まる。動物の出会いのような始まり、なるほど「Are you…?」である。そのままの体勢でウゴウゴと動いてやや時間を経て、音楽が入ると足立がグッと大きく手前に出てくる。この時の予期せぬ、しかし必然的であると思わせる滑らかさが、作品の新しい時間・世界を開くようでいい。山上がなんだかがむしゃらなジャンプを繰り返すが、どこか不器用そうで理由もなく共感を誘う。硬直させた掌の震え、表情の強ばりと、何か強いものを出そうとしているようだ。全体に抽象的で個別的でありながら、核に当たるものは同じトーンで揃えられているようで、作品としての統一感は保たれている。やや控えめに言うが、きっちりと過不足なく動くことのできる身体によって成立するダンス作品は、やっぱり観ていて気持ちいい。嗅ぎ合うという単純な動きをきっかけに、Are You…?そしてI am…というダイアローグを作品の中に成立させる手腕は、なかなかのものである。
 おたまじゃく'Sというユニット(森田紗希×中山藍)の「ima aoi」は、今年5月に笠井叡舞踏学校に入学した二人の初作品だそうだ。動きも表情も少し素人っぽいところを残しており、今ならばそれを魅力にも転じることができただろうが、そこまでの自覚は難しかったようだ。黒い小箱の扱い、化粧、衣裳の裾から紐を抜くところ、口紅を塗ってゴシゴシと汚してしまうところ、息を乱して泣くように走るエンディング、など印象的なシーンも短い時間の間に数多く取り入れていた。もう少し練習を重ねて覚悟を決めて、動きに迷いがなくなれば、面白くなるかもしれない。
 塩崎有妃子植村洋朱によるユニットspinoの「window」は、日常的な動きや表情を組み合わせて重ね合わせることによって、ある種の雰囲気を作ろうとしている作品であると思えた。動きがもっとシャープになって躊躇いがなくなれば、作品の中に流れが生まれて、確かな日常や世界を切り取ることができるのではないか。
 flaneurs高橋温子、関原綾乃)「カンカ」は、きれいでなめらかな動きを見せ、日常的なしぐさからちょっとした逸脱を見せるような作品。意識的に無表情に踊っているようだが、もっとクールでスタイリッシュな見せ方をするとか、逸脱を大きくして乱れを見せるとか、何らかの極端さも見たい。そのためには、もっと動きを鍛える必要はあるだろう。
 アンサンブル・ゾネの「Fragment」は、2007年2月に予定されている公演の部分上演。四肢の出し入れ、動きはさすがに滑らかでストレスなく見ていられる。稲田誠のベースの生演奏と共にスプーンを持った女性ダンサーが、仕舞のような熱のある腰の定まった動きをとったり、言葉に還元することの難しい動きなので、部分上演ということもあり一つの世界としては受け取りにくかったが、この断片からもその向こうには大きな世界が広がっていることを予感させる。その向こうにある世界の像が、個々のダンサーにはっきりと見えているからだと思われた。
 内山大の「椅子、男」は、ブリーフ姿で出てきたり、思い切り振った缶ビールを開けて泡を吹かせて飲み干した後、通路の階段を駆け上がり這い回り、といった騒々しい作品。その騒々しさややんちゃの中からどれだけ裸の自我をさらけ出すことができたか、というところがポイントとなる作品だったと思われる。ビールの後のシーンは、暴れ方といい、拳を突き上げる姿といい、なかなかいい弾け方をしていたと思うが(脱いだワイシャツで床の掃除をするのは、面白いがちょっと弱いか)、前半で弾ける前の自分の見せ方、つまり捉え方が難しい。なぜ無茶な弾け方をしなければいけないのか、そこまでに至る自己像を観客に共有させるためには、一人称だから自分ではわかっている(かもしれない)自分自身の姿を観客に提示するために、いったん外化して確立しなければならないはずだ。内山はちょっと小柄で、優しい顔つきをしているが、その外見に対して自己像はどうであるかとか、そんな見せ方に工夫をするためのさらに深い彫り込みが必要かと思われた。意義深い課題を持った、いい小品だった。
 同じく男性ソロの齋藤亮「mercurochrome」も、自己への固着が感じられるという点では、共通した点があったといえるかも知れない。タイトルは、いわゆる赤チン。全身至る所にバンドエイドを貼った男が、それを剥がして壁に貼り付けようとしたり、体をかきむしったりしている。傷ついた身体という提示であり、それがあまりストレートではない形で外界への攻撃ともいえないような働きかけを行っていることを見せている。バンドエイドがメタファとしてどれだけの説得力を持っていたかが一つの大きな課題。何の前提もなくいきなり現れたバンドエイド男に、ぼくはあまり共感を持つことができなかった。バンドエイドにしても、マーキュロ液にしても、擦り傷程度の軽傷にしか使わないと思うが、それが全身に貼られているのは、滑稽ではあっても、シリアスではなかったし、動きには滑稽さは見られなかった。包帯ではなくバンドエイドだということについて、もっと説得力を持たせてほしかった。音楽が凡庸だったのも惜しかった。部分的に鋭いキレのある動きが見られたのはよかった。
 升田学「イリノコトワリ」は、田中慎也とのデュオ。維新派のメンバーらしい化粧や衣裳で、ロボットのような動きのユニゾンやミラーリングを舞台全面に展開した。構成や展開はよく計算され練られていて、意外に日常的な動きが変形されていたりするのも面白いが、どうしても動きを記号に収斂したことで満足しているような物足りなさが残る。制御された動きを見せることで面白さが成立したのは、人間が様々に制御されているということが発見であった時代のことで、今やそれが日常となっているのだから、それだけでは人を納得させにくい。この作品の中でその綻びやずれが予感されたのは、二人がミラーになって動いていて、中央で出会い入れ替わるときにしばらく見つめ合ったシーンである。機械が他者を発見するという、非常に興味深い瞬間だっただけに、これを何とか増幅することができなかったか、残念だ。

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2006年11月18日 (土)

デス電所「夕景殺伐メロウ」

デス電所「夕景殺伐メロウ」 11月16日精華小劇場(~19日)

 実は初めて観た。だから、断定的にこういう劇団だとかいうようなことは言えないし、けっこう客演も多かったので、これだけ観てどうこうというのは適当ではないかも知れないけど、2時間15分(長っ!)にわたって退屈するシーンはなく、演劇的に楽しめた。
 終盤までほとんどわからなかったが、犯罪被害者の集まりが「粒子」という狂信的な集団と化して、「先生」と呼ばれる存在からのお告げをミッションとして遂行している。絵画の中の女カナ(奥田ワレタ。クロムモリブデンから客演)の持っているラジカセからその言葉は発せられ、その姉ハナ(山村涼子)を通じて「先生」とのコミュニケーションはなされているようだ。集団の神秘化のために(おそらくはハナを通じた「お告げ」によって)、1年前にメンバーはカナを殺害して裏の焼却炉で燃やしたようだが、実は過去にハナ(とカナ)は自宅に放火し、両親を死なせているらしいことも終盤に明らかにされる。ハナが集団の中で疎外されているらしいこともわかってくる。
 その集団へ本部から送り込まれたと見え見えのごまかしで進入してくる謎の女がナガサワ(羽鳥名美子。毛皮族から客演)。彼らが新たにミッションでとして与えられた「演劇」に乗じて、自分のシナリオをあてがい、1年前の殺人事件の真犯人を明らかにしようとする。
 というふうに、この劇の筋というか骨格だけを取り出して振り返ると、全体の矛盾点や物足りない点はいくつでも挙げられるだろう。犯罪被害者の集団だというのに登場人物の屈託ない脳天気さはなんだとか、ハナとカナの複雑な関係性はもっと描き込むべきだとか、最後に死にかけてクバ(福田靖久)がハナに告白するのがあまりに唐突とか。
 しかし、この劇の主眼は、そして観る者が観るべきは、きっとそういうところではないのだと思う。筋とか骨格とぼくが呼んでいるものは、実はこの劇にとっては暫定的な枠組みであって、それがいじめ自殺であろうが、大学教授の痴漢であろうが、とりあえずは何でもよかったのではないだろうか。とりあえず何かしらそれらしい枠組みを作っておけば、その中で何でもできる。そういう型枠としての筋や骨格だと捉えた方が、妥当なのではないか。
 その型枠の中で、本当に何でもやる。今振り返っても、どうしてそういう展開になったのかたどりにくいような、強引な形で劇中劇(スカトロ・ミュージカル)が進行したり、何度も素敵なダンスシーンが見せられたりする。それらのエンターテインメントとしての強いシーンは、本当に役者たちも楽しそうに全力を出しきっていて、決して色物的な扱いではなさそうだ。そういう意味では、一時期第三舞台などではやったダンスシーンの多用ともまた違ったニュアンスであるらしいことが見えてくる。
 第三舞台らがダンスシーンのダンスを軽んじていたとは言わないが、劇の本筋からいえば付属物のようで、ダンスシーンがなくても劇は成立するものだったと思うが、この劇からダンスシーンがなかったら、見せるものとしての彼らが望む世界とは、著しく異なるものとなってしまうだろう。
  はからずも、見せるものという言葉を使ったが、おそらく彼らは見せるもの、観て楽しいものとしての演劇ということを強く意識しているのだろう。それは、歌舞伎やバレエに似ている。筋書き自体は、一応仇討ちとか悲恋といった大枠はあっても、本当に見せたいのは舞踊であったり大立ち回りであったりするわけで、それによって観る者の体温が急上昇し、とってつけたような筋書きにも、ついでに感動するといった仕掛けのものもある。それで特に不満は持たれない。
 この劇も、別にそういうストーリーである必要は全くない劇中劇や、携帯電話の電源は切りましょうという歌とダンスや、けっこうスリリングな戦闘シーンなどで体温を上げ、ちょっと歪んだ人間関係や姉妹の複雑な関係の設定などで考えさせるという構図によって、歌舞伎的な成功を収めていると言っていいだろう。多少注文をつけるとしたら、筋の部分をもっと太く明快に(単純にでもいいが)してくれたら、もっと無邪気に興奮することができたのではないか。一度観ただけでは、謎として残ってしまっている部分も多いのだ。そういう意味でも、歌舞伎のように何度も観れる芝居を目指しているのかもしれないが。

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2006年11月10日 (金)

オルセー美術館展

オルセー美術館展(神戸市立博物館、~1/8。東京都美術館へ巡回)part1・2

 平日の10時に入ったのに、最早ものすごい人。修学旅行生、おばさん団体など、すごいパワーだ。その人気を裏切らない、すばらしいラインアップだったといってよいだろう。
 トップを飾るのは、ベルト・モリゾの「ゆりかご」(1872年)。赤ちゃんの愛らしい表情と共に、柔らかく光をさえぎる布(モスリンだそうだが)の質感を如何に描くかが眼目となる作品である。
 そのモスリンは、光を減じながら透過しているはずなのに、まるで自ら光を放つような輝きをもっている。その光が、画面全体を柔らかく明るく支配することになっているのだから、印象派というのは、実はそういう光を求めていたのではないかと思う。そういう意味で、この作品が「印象主義のイコン」とも呼ばれているのではないか。
 それは、光というものが、太陽から発するものでもなければ、神や聖人から出てくるものでもないということを、この作品がはっきりと端的に示しているからだ。赤ちゃんの世界はあくまで白く、母の服装も髪も黒っぽいが、それらすべてが人間の生命であるというその一点において、光り輝くものである。
 それが印象派の本当の意味での光の発見ではなかったか、と思わせるだけの力を持っている作品だ。
 ここに描かれているのは、ベルト・モリゾの姉のエドマ・ポンティヨン。ベルトは、この展覧会のポスターにもなっている、マネ描くところの「すみれのブーケをつけたベルト・モリゾ」に描かれている。そこでベルトは、美しさの中にはっきりした鼻梁や視線で、強い個性をあらわしているが、この作品の中でエドマは、赤ちゃんと共に午後の眠りにおちいりそうな安らかな表情をしている。そういう光に満ちている作品だ。
 モネの「アパルトマンの一隅」(1875年)に描かれている少年ジャンは、この暗さの中で、何を見つめているのだろうか。
 時々目にする、ルノワールの奇妙に輪郭のはっきりした作品、いわゆる印象派の巨匠としてのルノワールに輪郭は似合わないものと思っていたのだが、この「ジュリー・マネ(あるいは猫を抱く子供)」(1887年)もそういう作品である。ジュリーは、モネの弟とベルト・モリゾの間に生まれた娘。なんだか少し東洋の少女のような雰囲気がある。輪郭線をはっきりさせると、そういう空気を帯びるのだろうか。
 ルノワールというと、なんだか天性だけで魅力的な作品を次々と世に送り続けていたように思ってしまうが、この「アングル風の時代」と呼ばれている次期の彼の試行錯誤を見ていると、彼が実は印象派であることに疑問を抱いていたらしいことに気づき、創作者というものの厳しさを思う。
 さて、ホイッスラーの「灰色と黒のアレンジメント第1番、画家の母の肖像」(1871年)、これまた美しい作品である。黒や灰色を基調にしていながら、真横を向いている老婆といってもいい母の黒い服の曲線の美しさ、左のカーテンや額縁の直線とその曲線との対比が画面の中に絶妙なリズムを作り、それ以上にこの母の表情の凛々しい厳しさが神々しいほどの光を放っているように見える。このように、尊厳と高貴な美しさによって自分の母を描くことができる画家を、非常にうらやましく思う。
 オディロン・ルドンの「セーラー襟のアリ・ルドン」(1897年頃)は小品だが、強く不思議な光を放っている。これがルドンの魅力なのか。
 マネの「ブーローニュ港の月光」(1868年)からも光が放たれている。夜の月光の冷たい光である。マネは必ずしも印象派の流れに交わらなかったようだが、19世紀後半という時代には、既に光というものがどこから発せられているのかということについて、歴史的な大変動があったということなのだろう。マネが写実的な表面を持っていて、筆致に激しさや逸脱がないことから、どこか保守的な画家であるように見られたり、あるいはスキャンダラスに有名な「草上の昼食」のヌードの扱いによってのみ革新的・破壊的であるように見られたりすることについて、このような作品を目の当たりにすると、はっきりと、そうではなくて、いかにモネという画家が光の出どころに関して革命的で自覚的であったかということがよくわかる。
 手前の方でうずくまっている女性たちは、漁に出ている夫の帰りを待っていると解説されており、そうなのだろうが、彼女たちの白いスカーフからは本当に光が発していて、物語的に解せば、彼女たちの生活力や生命の強さというものを現しているようだし、そのすぐ上の水面の光り具合は、ただ月光を反射しているというだけに留まらず、海そのものが持つ生命力を現しているように見える。
 ブーダンの「トルーヴィルの海岸」(1865年)の原色の絵具の置き方が新鮮だ。部分を拡大して見ると、現代の抽象絵画のようだ。やや曇った空の雲の流れのスピードを現わすような左右への筆の速さ、特に画面右半分の人々の傾ぎ方が風の強さを表しているようで、面白い。帽子やショールが飛びそうだ。
 モネ「アルジャントゥイユの船着場」(1872年頃)の雲の力感。
 さて、マネ「アンリ・ロシュフォールの逃亡」(1880-81年)は、すばらしい。マネ?と思うような激しく荒い筆致が印象に残る。ナポレオン3世の体制に反旗を翻したロシュフォールの奇想天外な脱出劇を描いたこの作品は、水平線を極端に上げ、画面のほとんどが水面である。それでも水平線を描いたことによって、この厳しい状況が永遠に続くのではないことが暗示されているようである(実際、そこには救出のためらしい大きな船が待っているのが小さく描かれている)。夜の海はあくまで美しく、月光に照り輝いてさえいるが、波やうねりの大きさに比べて、ロシュフォールらを乗せた小船はあまりにも小さい。画面の中で小船は不安定に上部1/3ぐらいのところに、しかも左右中央からやや左に外れて置かれ、どちらへ向かおうとしているのか、定めがたい。
 しかし、この世界を救うのは、海面の青の美しさ、白く輝く波頭のきらめきである。反体制へのシンパシーを生前のマネは決して露わにせず、これらの作品も発表しなかったそうだが、それだけに切実で本質的な思想が現れているといえるのだろう。
 モネルーアン大聖堂」(1893年)の圧倒的な光は、いったいどこから来ているのだろうか。様々な時間や天候によって色や光を変えながらも、絶対的であるかのように屹立する建築。あるいは、絶対的に屹立しているようでありながら、時間や天候によって極端に色や光を変える建築。
 こういう作品を見ていると、見えるということがいったいどういうことなのか、と考えなければいけなくなる。そもそも、どのような光の中でも同一である絶対的な対象というものは、自立的に存在しているのだろうか、という問いかけ。彼らが変化するものと変化しないもの、そのどちらに力点を置いていたのか、わからなくなる。絶対不変な内発的な光などというものは存在しない。それが宗教のあった時代の絵画とは決定的に違うところだ。それなら、この世界の光というものは、どのようなものでありうるのか。この大聖堂の前の家を借りて、長時間対象と向き合った末に描き上げた連作である。光や色の移ろいと本質の不変性について考察し尽くしたからこそ、これらを連作として発表したのではなかっただろうか。
 スーラの点描というと、どこか平和的で温和的な印象を与えているように思われているが、どうもそうではないらしい、ということが、スーラ「ポール=タン=ベッサンの外港、満潮」(1888年)と、同じような点描の相貌を持つシニャック「レ・ザンドリー、河堤」(1886年)、レイセルベルヘ「舵を取る男」(1892年)を続けて見ると、何となくみえてくる。彼らの先達であるいわゆる印象派の画家たちの色彩の処理が、その名のとおり主観的な印象によってなされていると思われるのに対して、点描という方法は色彩を理論から構築しているようだ。光はどこからくるのかという問いかけは、既にここにはなく、おそらくは光の存在すら顧慮されておらず、色の分析と再構築が主要な課題となっていたと思われる。
 再びルドン。「ペイルルバードの道」(不詳)。この空の青さは、深すぎる。明るくはない。光はどこからも差していないようにさえ思える。過去の回想が脳や心の中で展開しているときの明るさというのは、このようなものではないかと思えるような画面である。さて、脳や心の中で、光はどこから来るのか。夢の映像の光源はどこにあるのか。こういうことを考えていると、神秘という言葉に容易にたどり着くことができそうだ。この意味で、印象派には交わらなかったルドンが、しかしこの時代の本流を生きていた芸術家であったことが、このパートに続く作品群を見ていく中で、より深く強く理解できてくる。

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2006年11月 9日 (木)

11月6日の西天満界隈の画廊

 まずは北浜のサイギャラリー鈴江栄治展(~11/25)。白いキャンバスがいくつか並んでいる。左手にはDMの写真としても使われている透明の樹脂が生蛸のようにぶら下がっていて、床にはその樹脂が五角形や棒状になったものが置かれている。背面には、詩のような言葉が掲げられている。
 白いキャンバスを見ると、ところどころ汚れのようにオレンジ色がためらいがちに跡を残している。うっかり筆かナイフが触れてしまったようでもあるが、どの画面も同じようにランダムにそうであるところから、周到に計算された痕跡であろうことがわかる。このタブローが引っかかってくるのは、そのオレンジ色だけかと思う。あとはただの白であると。
 白であること。無色であること。透明であること。光そのもの。
 左側の形のよくわからない透明なオブジェは、透明であるのに、それが裁断されることでエッジ、輪郭を持ち、透明であるのに見えるものになっている。厳密には無色透明、ゼロではないにしても、このように提示されると、無色透明であるものが見えるということの矛盾が面白い。
 そして、詩のような言葉。厚手のグラシンにタイプされていて、下の台紙にどうもドローイングがあるらしいがよく見えない。「皮下の明かり」と題されたそれは、「朝、小鳥の/陽の舌」と始まる、西脇順三郎や吉岡実を思わせるような硬質な言葉の連なりだ。文字がタイプされているところと、その文字によって結晶するイメージの場所は、どれほど離れているのだろう。また、ドローイングと文字の重なりや乖離はどれほどのものなのだろう。
 そのようなことを考えながら、再び白いキャンバスの前に立つ。これは一体下塗りのままなのだろうか、画面を均一に塗ろうとしてもそれは可能なのだろうか、白であるということは無であると思わされているが果たしてそうなのだろうか、照明との関係性はどうなのだろうか……などと、まさに見ることは考えること、という状態である。まずは、このように画廊に展示されている以上、何もないわけがないし、何もないとしてもそれは何ものかであるわけだし。
 やがて、何だか見えてくる。いや、禅の公案のような意味ではなくて、急に画面が凹凸のあるもののように、立体的に。蛍光灯と電球の照明の下で白いものを見続けて、目がハレーションを起こしたのだろうか。
 さて、紹介されて鈴江氏にお話を伺っていると、やはり下塗りの上に何層もの描画があって、その上を覆うように白である、ということだそうだ。その詳細については謎解きのようになるといやなので伺わなかったが、彼の造型の基本となるのは、何ものでもあろうとしないことのようだった。ドローイングの結果として、何かを形象してしまうようなものになることを絶対的に避けること。何ものか以前であり続けること。
 詩とは(いろいろあるが)、なにがしかのイメージを提示することによって、何ものでもない状態、言葉未生の状態であることを創り出すことを目的としているのではなかったか。言葉を言葉そのものとして(意味に移ることなく)受容すること、それは実際にはほとんど不可能なことなのだが、もし絵画で、そこに描かれているのが山であるということを認識する寸前に、その画面から何かしら凄まじいまでのエネルギーを感じ取るという体験が現実となったならば、その「寸前」そのものを定着することはできないだろうか。
 鈴江の作品は、そういう瞬間的な体験ではないが、というのもよく見ないと体験できないからであるが、見ることそのものを問い、絵画が表現であるかどうかということそのものを問い、ものが記されるものであり続けることの困難を問うことに挑み、相当高度なレベルに於いて成功していると言えよう。ただし、ゆっくりと見なければいけないし、ゆっくりと考えなければいけない。それがぼくたちには難しいことになってしまっている。
  サイギャラリー http://www.workroom.co.jp/workroom/sai.html
 鈴江栄治 www.k3.dion.ne.jp/~suzueiji/

  乙画廊で、水野真理のガラス絵展(~11/11)。深い青と緑のガラス面を滑るように描く線や面が美しい。ガラスという支持体の特質は、一つにはその上を滑るように伸びる絵具の平滑なスピード感、そして背面からも光が回ってくる、独特の神秘的な光の深さにあるだろう。抽象的な作品から、風景、人物など様々な題材の作品があったが、やはりその光の特質を生かす意味で、森や湖といった風景の静謐さを感じさせる作品が最もなじんでいるように思われた。
 乙画廊 www.oct.zaq.ne.jp/oto-gallery/

 以前から何度も見ている増田妃早子展を久しぶりに、Oギャラリーeyesで(~11/11)。何だかものすごいところに来ているな、それにしてもこの心を揺さぶるような寂寥感、美しさ、凛々しさ、孤高、静けさ…はどうしたものか。
 「 /風景# 」と題された作品(/の前はスペース、#の後は番号)は、芒などが繁茂する沼地を描いただけのように見える。黄色、紫、灰色、使われている色はいずれも曖昧で、もちろん現実の色のようではないように見える。草と言えば緑であるとぼくたちは思っているが、どの場所のどの時間のどんな天気の光の中でどのような色に見えるか、本当にはぼくは見たことがないのかも知れない。
 増田が描く植物そのものは、第一印象より遥かに現実的で写実的であるようだ。葉の付き方や小さな花萼の様は、実際に写生されたものだと思われる。それが、灰白色であったり、銀灰色であったりすることも、増田の画面が写実的でないように思える一因であるが、それらが繁茂する沼地のような場所が、キャンバスの中央に、宙に浮くように描かれていることも、現実離れしたものに見える大きな原因である。
 特に焦点となるような何ものかがあるわけでもない風景が、周囲から切り離されてあるということは、どういうことだろうか。針穴から覗いたような見え方。何か他の者にはわからないが、とても大切な風景であるのだろうか。おそらく同じ場所であると思われるその風景が何枚も描かれているわけだから、四季や天候の移ろいで風景は様々に変化しているはずだ。そのような重層の中から抽象され固定された一つの風景。
 非常に美しいが曖昧な色彩もまた、その移ろいを示しているのではないだろうか。この場所が廃墟ではないことはもちろん見ればわかるし、理屈としてならばむしろ豊饒な生命が感じられる場所であってもよいはずなのだ。植物も、枯れているようには見えない。
 もしかしたら、これは、夢の中の風景のようなあらわれをもっているのではないか? 増田は「目の前のあらわれをその都度繰り返し描き留めるという作業は、知覚の限界を知ることでもあるし、記憶の限界や恣意性を感じることでもある」と記しているが、夢の風景を、危うい記憶をたどりながら再現すれば、このようなリアリティがあるのではないか。それがこの、心を揺さぶるような孤独で美しい寂寥感となっているのではないか。
 Oギャラリーeyes http://www2.osk.3web.ne.jp/~oeyes/

 番画廊に入った途端、芳香に襲われる。向山潔展(~11/11)、木の造型である。
 聞けば、芳香の源は、中央にそびえ立つクス。いわゆる樟脳の強烈な芳香である。そう広くはない画廊の空間の中で、そのスケールの大きさは圧倒的なのだが、内部を大きくくりぬかれて細かくチェーンソーでか印を付けられている姿は、少し愛らしくもある。樹皮の方には赤い染みが人体のような形に浮き出ていて、樹木の持つ不思議さに打たれもする。
 他の作品は、ナラをくりぬいた形。たいそう硬い木だそうで、わからないだろうがと言いつつも、チェーンソーを逆に回すようにしないと刃が立たない云々と言っておられた。わからないが、その大変さはわかるような気がする。何より面白いのは、そのような工程を経てくりぬかれたものであるのに、くりぬかれた面はとてもツルツルとしていて、まるでポコッと部品を外したような、つまり傍らにくりぬかれたものがそのまま置かれていても不思議ではないような相貌を示していることだ。実際は相当な体力仕事だそうだが、木と格闘したように見えない静かでユーモラスと呼びたくなるような曲線・曲面の自在さである。漱石ではないが、そのようにくりぬかれることが、木の内部から求められた形であるような、そんな造型であった。
 番画廊 http://homepage2.nifty.com/bangarow/

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2006年11月 1日 (水)

2006年10月30日の西天満の画廊

 番画廊砂押かほる展(~11/4)は、綿キャンバスにアクリルの淡い色彩を広く薄く流したり滲ませたりした、イメージの喚起力の強い抽象。1m角前後の大きなキャンバスに広がったアクリル特有の伸びのある色彩平面が、様々なものに見える。抽象作品を、○○のようだと見るのは、あまり相応しくないのかもしれないが、奇妙なことに、たとえばグランドキャニオンの俯瞰のような非常に大きなものに見えたり、細胞を顕微鏡で見ているような極端に微細なものに思えたりする。それは、ある意味では抽象という作業が日常の視覚という感覚を混乱させるからであり、そのことに砂押の色面が成功しているということだ。なお、「mirror of water」などといったタイトルは、作品完成後につけられたものだそうだ。
 砂押の絵画は、それによって見る者を作品の平面の中に引き込んでしまう魅力を持っている。薄く広がる色面は、キャンバスを越えてどこまでも広がっていきそうだし、色が塗られていない部分は、遥か遠くまでの奥行きのように思える。
 つまり、一見平面的である作品だが、色面の平面的な広がりの大きさゆえに、逆に色の不在ということが垂直的に強調されて、鋭い三次元性を持っているということだ。何よりも、色面を作る絵具の動きが、滲みや垂れやぼかしを生じて(というと日本画のようだが)非常にリズミカルに躍動しているように見えるところが、絵画を見ることの喜びを誘発させる。

 同じ抽象でも、ギャラリー白善住芳枝(~11/4。CASOで11/14~11/26)は、激しく情熱的な筆致が特徴的だ。砂押がアクリルであったのに対し、善住は油彩。油彩ならではの重みと色調の深みを最大限に生かしている。今回は色彩にもいっそうの多様性が出て、言い方が適当かどうかはわからないが、ある種のまがまがしさのようなものさえ感じられた。特にDMはがきにも印刷されていた「Maemi Ⅲ」は、不気味に赤く光る空、不吉な黒い鳥、炸裂する地上のものども…というふうに惨劇を描いたものと見えなくもない。タイトルのMaemiは、ご本人確認したわけではないが、東アジアに大きな被害をもたらした台風の名前のようだし、何か激しく劇的な状況を描いていることには違いないようだ。
 悲劇と限る必要はあるまい。キャンバスと格闘し生命のエネルギーを生でぶつけるような画面からは、どのようなものか定かではないにしろ強く激しいエネルギーが伝わってくる。ただ善住の激しい抽象の魅力は、その激しさとは裏腹に、透明感や静謐感があるところにあると思う。こういことを説明するのは大変難しいが、自己を含めた生命や存在への向き合い方の純粋さによるのではないかと思う。

 ギャラリー白3渡辺晶子展(~11/4)、これまで彼女の作品というと色を重ねたり削ったりした織物のようなミニマルな抽象作品が印象に残っているが、しばらく前から徐々に傾向が変わってきていたようで、今回は大まかに言って自画像の要素の濃い作品。口紅を塗って強調された顔の下半分とボリュームのある衣裳をつけた上半身が、激しく速いタッチで半透明のような形で描かれている。背景は青灰色だが、よく見るとオレンジ色かピンク色に淡くなっている部分があったりする。
 顔の上半分がないことや、上半身の輪郭が曖昧なことに着目すれば、自我の境界が不明確であるように思えるかもしれないが、自我というものが世界に融解していることが、悲劇的なのか幸福なことなのか、改めて考えてみると、どうだろう、ぼくは案外それは幸福なことなのではないかと思う。曖昧な輪郭に、色はきっちりと対応しているわけではなく、背景の色の変化も非常になだらかで曖昧だが、そこにほのかに見えるある明るさについて、一種の平和というか救済のようなものが見えるというと、深読みに過ぎるだろうか。
  ギャラリー白 http://www.ne.jp/asahi/gallery/haku/

 Oギャラリーeyes小寺絵里展は、中央に火山の火口湖の周囲に動物たちがのんびりと群れている光景のオブジェ、周囲に山並みを描いたドローイング。このドローイングが、どうも実際の山の風景ではなくシーツなど布をくしゃくしゃとさせたものを描いているらしく、考えようによってはちょっとユーモラス。ドローイングは綿布にリキッドファンデーション(化粧品?)で描かれており、その半透明で特徴的な肌色が、不思議な感じを出している。
 前の週だったかにサイギャラリーで見た林延子が、薄い紙(?)で山の稜線のようなものを造り、それを繊細に震えるように鉛筆でスケッチしたドローイングを出していたのとは、同じように見えるのに、成り立ちも方向性もまったく違っているようで、面白い。
 ドローイングからオブジェの物語性は喚起されたものと思われるが、石膏で作った大きな貝殻のような器(?)に砂を山のように盛り、その頂点を稜線に、火口湖に向かう線を作る砂、そこに足跡をつけて歩いている牛や馬の小さな人形たち。布の皺からここまでの距離、一種のユーモアのある飛躍ぶりが楽しい。
 Oギャラリーeyes http://www2.osk.3web.ne.jp/~oeyes/

 天野画廊では瀬戸理恵子の「Cardboard Spine Ball」(段ボールボール)と題した立体(~11/11)。ダンボール箱を細く断裁してテープのようにし、それを重ね合わせて木の薄い断面の年輪のようにしたものを天井から吊り下げた作品。そして今回のタイトルになっている、段ボール箱の角の部分を使ってやや幅の広いテープを作り、くるくるとボール状にしたもの。段ボールの角を使っているのでテープ上の真ん中にその折れ目が入り、面白い味を出している。
 置いてあった資料で過去の作品を見ると、瀬戸は同様に段ボールで自身の姿の人型を抜いてすっぽりと自分が入れるように等身大に重ね合わせて作ったオブジェを作り、そこに入って見せるというパフォーマンスもやっていたようだ。段ボールという素材を使ったアーティストは決して珍しくはないと思うが、このようなインティメートな向き合い方は稀なのではないか。段ボールというと、その粗い感触から、乱暴な扱いをされることが(美術でも)多いように思うが、瀬戸は逆にその粗さをざっくりした温かみと解しているようで、包み、包まれるものとしての段ボールのありように、親しみを感じさせてくれた。
 天野画廊 http://www.eonet.ne.jp/~amanogallery/

 写真のEarly Gallery(~11/4)では、大地景子の「1AU-シズカナヒカリ」と題した写真展。1AUとは、天文単位で、太陽から地球までの平均距離をいい、約1億5000万kmとのこと。このことからもわかるように、大地は太陽光の存在を最大限に見せることを意識して対象を選ぶ。しかもそれはシーツ、パンケーキ、タオル、カフェオレ、カーテン、壁といった、日常ありきたりの、どこにでもあるものだ。それら生活の身近なものに1億5000万kmの彼方から降り注ぐ太陽の光を、柔らかくいとおしいものとして見せることに成功している。接写を使っているものも多いと思われるが、画面が歪みなくフラットで自然であることも、そのことに大きく与っていると思われる。世界をいとおしんでいる手つきが、いとおしい形で現れる個展となっている。
 Early Gallery  http://www15.ocn.ne.jp/~earlyee/

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