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2006年12月29日 (金)

大阪府高等学校演劇研究大会/所感

 去る11月18,19日に千里中央のよみうり文化ホールで行なわれた「大阪府高等学校演劇研究大会」に出席させていただいての所感を、12月18日の「合評会」資料として書いたもの。
 近畿大会への予選もかねていて、近畿大会へ進んだのは、(2)あげとーふ、(6)お気に召すまま、(12)とんとんとん拍子、の3作品。なお、全国大会に進んだのは「あげとーふ」でした。おめでとう!

 2日間で13本もの熱演を拝見し、そのレベルの高さと懸命さに圧倒されると共に、いくつかの共通する課題も発見したように思いますので、まずその辺りからお話ししていきましょう。
 まずは、姿、特に上半身の動かし方の問題です。普段、私たちはあまり身ぶり手ぶりを交えて会話をしません。どんな時に手や首を動かしたり腰を曲げたりするのか、動かしていない時、手はどうしているのか、そんなことを教室や駅、コンビニやマクドで「観察」してみてはどうでしょう。案外身ぶりが少ないことに気づくはずです。
 無理に動かない、動かさないということも大事でしょう。場合にもよりますが携帯電話やタバコなど何か手に持っていると、ちょっと安心できるのではないかと思います。そして本当には、特に振付をしなくても、何も持たなくても、その役らしい自然な動きや姿勢ができるように、役になりきることが重要なのでしょう。
 歩き方についても同様です。そんなふうにいろいろなことをよく見てみたら、世の中、意外にステレオタイプって少ないということがわかってくるのではないかと思います。そのようにして、日常的な人間の動きがどのようなものかを把握した上で、それを大げさにしたり、変な具合にずらしたりすることで、新たな世界を創ることができるのではないでしょうか。
 歩き方のいくぶんかは履き物の問題です。校内の日常の場面を描いた作品が多かったせいか、校内履き(上靴)で演技していた人が多かったのですが、あれはあまりかっこよくないと言うか、いい歩き方になりにくいようですね。ちょっとかかとのある革靴や、普段はいているスニーカーの方が、きっちり地に足を着けて歩いているように見えると思います。演劇で観客に見せるための日常とは、何らかの形では作り物ですし、作り物でなければいけないのです。日常的なものに見せるために、ものすごく造り込まなければいけないことって、よくあるのではないでしょうか。
 また、日常性を離れて大きな演技をするためには、その根拠が必要でしょう。なぜ大声で泣くのか、なぜ力一杯こぶしで机を叩いたり、相手を突き飛ばしたりするのか、もしそうするなら、説明できる根拠が必要です。自分たちが汗かいて気持ちいいからとか、大きな演技でないとやった気がしない、というのでは、絶対にダメです。この大会の結果発表の時のことを思い出してみてください。特に選に洩れた人たちは、それがわかった時、自分がどんな反応をしたか、友だちがどうだったか。数秒後、数分後にはどうだったか、思い返してみてください。
 もちろん、他人に見せない部分では号泣や咆吼もあるかもしれませんが、そこでの号泣、というところまでをきちんと想像しての大きな演技であるかどうか、そこが問われるところだと思うのです。
 なんだか「リアル」ということについて考えてみることになりました。もちろん現実というものも一面的ではなく、見ようによっていろいろなリアルがあるかもしれませんが、現実をどのように切り取るかということが、作品を創るということです。皆さんにとってのリアルとは、まず日々の高校での生活や家族とのかかわりでしょう。拝見した作品の多くがそれらを題材にしていたことは、等身大の自分たちの日常から描き創っていくという趣旨から言えば、順当なところだったといえるでしょう。
 一方で、せっかく舞台の上では何にでもなれるのに、もったいないなと思ったのも確かです。でもまた、皆さんにとってこの学校や家庭という身近な現実が、あまりに異常なほどに大きく重くなってしまっているのかなとも思いました。現実を劇にするということは、深く考え、客体視し、世界を再構築し、さらにここが演劇の肝心なところですが、さらに再度身体化するという意味を持っています。この重く大きな日常に対して、そのような作業を行なった皆さんの労の大きさにも、改めてエールを送りたいと思います。

 すっかり長くなってしまいました。個々の作品について、気づいたこと、思い出すことを少しずつ。
(1)大阪成蹊女子高等学校『あしたへの道』
 常人にはうかがい知れない女子高らしいテンポ、騒々しさ、空気みたいなものがよく出ている、楽しいお芝居でした。
 「まい」の長い独白は大変だったと思いますが、よくテンションを維持できたと思います。できれば、最初と最後で成長の跡がうかがわれるようであれば、完璧だったかなと。演劇は、たった1時間の中でも、生老病死すべての時間を経験しうるのですから。「なつみ」が実はそういうことを考えていたんだ、っていうところも、何か伏線か予感みたいなものがほしかったですね。それこそ短い独白でもよかったかもしれない。そうすれば、もっと彼女がチャーミングになったと思います。
 また、せっかく演劇なのですから、独白の比重を小さくして、ダイアローグを増やしていった方が、カンパニーとしての力も発揮できたと思います。

(2) 追手門学院大手前高等学校『あげとーふ』
 これは逆に男子校みたいな雰囲気(共学だそうだけど)が懐しくて、かなり感情移入して観てしまいました(ぼくは中高と男子校だったんです)。男子同士の遠慮のないやりとりの中に、薄膜で覆われた不可触なものがあるような感じっていうか…。そこに触れるか触れないか、触れるならどのようにかが、微妙で難しいところなのだと思いました。楽しく笑える部分とシリアスな時間との対照が鮮やかで、シリアスな部分でもテンポを失わなかったのがよかったですね。
 また、「バイソン」と「ナタリー」という、男子たちの輪の外側の登場人物が、どれだけ収まりよく存在感を出せるかもポイントだったと思います。男子たちはもっと「ナタリー」の出現にはしゃいでもよかったし、「ナタリー」も普段はもっとにぎやかなお姉さんにしてしみじみしたところでのコントラストを際立たせてもよかったように思いました。
 その流れでいくと、「ヒメ」の情けなさをもっとコミカルに突っ込んでもよかったような。「アゲトーフ」という発言に至る過程をもっと面白く再現してもらって、その時の「ヒメ」自身やみんなの狼狽ぶりなんかを一緒に楽しみたかったです。

(3) 金光藤蔭高等学校『ハト』
 冒頭の「水谷」の一人のシーンは正直言ってハラハラしましたが、エチュード以後のスパイラル感、すさまじかったですね。最終的に劇の破綻としてマイナスと評価せざるを得なかったのが、ラストの<たまご>のくだりなのですが、いかなる無理をしても世界に救済を与えたいという切なる望みがあるということも痛いほどわかりました。
 ただぼくは、君たちはもうこの劇を舞台に上げたということ自体で、大きな救済を手に入れたんだと思うよ、と心から伝えたいのですが、それでは足りないと思ってしまうのが、皆さんの抱える現実というものの重さなのでしょうか。
  大きな話をしてしまえば、ギリシャ以来、悲劇であることそのものがカタルシスでありうるのですから、あえて救済を設けずとも(ギリシャ悲劇にはとんでもない強引な救済が用意されていることもありますが…)その営みそのものが一つの救済であるという答えがあることも、頭に置いてもらっていいのではないでしょうか。

(4) 港南造形高等学校『革命のリンゴ』
 戦中と現在という時間の広がり、絵画にかける青春、戦争の悲劇…と大きなテーマを扱って、しかも淡々とした演技に終始させるという、挑戦的な作品でした。感情が激する場面に、あえて無言の時空を与えることで、表出の外側にある非言語による余韻をねらうのは、先に述べたような意味で実にリアリズムなのですが、作品の中でそれが一つの手法として透けて見えるようなことになると興が醒めてしまうという危険も持っています。「あっ、黙ってるわ」みたいに、劇ではなく演技が見られてしまう恐れです。「背を丸めて拳を握っている」という姿勢が「深い悲しみをこらえている」というふうに見えるためには、その表現者が内面において、一度はものすごく多くの言葉を出して出して、その上でそれを削いでいくような作業が必要ではなかったかと思いました。
 戦死公報が実家にではなく寄宿先に来るというのはどうしてかなとか、印象派とリアリズム(写実主義)との関係がどうかとか、細部でちょっと引っかかってしまったのも、残念でした。

(5) 金蘭会高等学校『どっこいおばちゃん』
 「おばちゃん」のキャラクターの強さと魅力、その弟の悲劇的な事件の処理、友人たちの関わり、と大きく言って3つの魅力が考えられたのだけれども、「おばちゃん」のキャラクターの魅力に他の2つが霞んでしまったのが残念でした。
 もちろん劇自体の魅力は十分標準以上だったし、「おばちゃん」の周囲の部員たちのアンサンブルも魅力的だったのだけれど、部員たちが無名化してしまったのが、集団としての魅力は理解できるのだけれど、やはり物足りない。と思わせるほど、全体のレベルは高かったということだろうな…。
 弟の事件について、理屈では「おばちゃん」が加害者意識を持つ必要はないんだけど、現実には、たとえば阪神・淡路大震災でも多くの人は理不尽な加害者意識に苛まれたりしているから、あり得ることだとは思う。でもあえて理不尽でも出そうとするなら、もう少し丁寧な書き込みが必要ではないかと思いました。

(6) 工芸高等学校『お気に召すまま』
 ぼくはこれは大好きです。大変お洒落なコメディでしたね。「告白する」という一大事を前にした高校生のドタバタが非常に鮮やかに描き出されていて、シェイクスピアの翻案劇として、かなりのレベルだったと思います。まず楽しかったこと、そして高校生の日常的な心の動きがよく描かれていたこと、さらに一人ひとりが大変チャーミングであったことが、成功につながったのだといえるでしょう。「スミレ」さん、楽しかったです。
 その上で、つまらないことを指摘すると、場面設定を取り壊される前の校舎にする必要はあまりなかったような気もします。また、謎の存在であるレイコさんを一種の学校の怪談としてまとめるためには、もう一段何かが必要だったような気もします。いずれも劇の枠組みの問題で、つまりなぜこのような事態が始まったのかということを合理的に説明する必要があると感じたためだったのでしょうが、乱暴にいえば、端折ってしまってもよかったように思いました。

(7) 福井高等学校『部屋カタス』
 実際に部屋が片付いていなくて日頃母親に注意されている人は多いことでしょうし、そこから一種の病理であるというような報道にふれてか極端化して劇にしていくというプロセスが面白いと思いました。そしてそのことから自分探し(数多の可能性を捨てることによる本質の発見)であるとか、成長のプロセスの物語に結びつけていくのも、なるほどとうなずけます。「みか」の気だるい感じが空気をよく物語っていました。彼女と「りこ」の言葉が通じないような(ディスコミュニケーション)感じも、よく描かれていたと思います。
 「母」の男子が姿を変えて三役で出てきますが、うーん、ビミョーでした。ずっと「母」でよかったのではないか、「みか」の状態に手を焼き心配しながらも何らかの形でかかわり続け、脱皮と成長を祈るしみじみとした述懐でもその口から出れば、一つの劇の推進役として、いい存在感を与えられ、劇にふくらみと深まりを出せたのではないかと思いました。

(8) 交野高等学校『月への贈り物』
 細かいところの不自然さや不合理さを無闇に突っ込まれないように、読み直したり、役者やスタッフでまずつぶしておいたりして、もう少し脚本の完成度を高めたら、本当に扱いたかったテーマがもう少しクリアな形で伝わったのではないでしょうか。
 部員が不慮の死を遂げてしまったという中心となる設定自体に疑問を投げかけては、この劇自体が成立しなくなりますから避けますが、そのことが現在にもっとダイレクトに、ポジティブに作用するような力業がほしかったように思いました。それには、用務員のおじさんという枠の外の存在である人物に大きな役割を与えることとか、手紙をもっと早い段階で共有しておくことで始まる物語をふまえるとか、仕掛けが必要だったかもしれません。ある悲劇を提示した以上、それを乗り越えていく強い力を提示するか、それに押しつぶされていくさらなる悲劇を提示するかしてほしかったように思います。

(9) 四天王寺高等学校『FLAPPER』
 何週間かたって思い返してみて、奇妙に愛すべき作品だったなと思います。それは、無垢で傷つきやすい(フラジャイルな)正しさといったものが、もしかしたら図らずも、戦隊ヒロインをめぐる物語を通じて生まれ、伝わってきていたからではなかったでしょうか。「みなみ」のまっすぐさ、「さよ」の揺れ、双方がとても危なっかしい愛おしいものに思えたのが、よかったですね。特に「さよ」が最初のちょっとひどいなと思わせるような場面で、微妙な揺れやためらいを見せていたのが、あとの物語にきっちりとつながったと思います。個人的には「ゼニ子」さんもよくやったと思います。なにか落ちか決着をつけてあげてほしかったな。
 FLAPPERという言葉の意味は、ちょっと違うのではないかな、もうちょっとニュアンスがあるのではないかと思います。戦隊の名前がタイトルでよかったのではないでしょうか。

(10) 堺東高等学校『ハコ少女を討て!』
 面白かったし、考えさせられました。安部公房の小説『箱男』との暗合のようなところもあって、不思議です。箱男って、偽箱男に狙撃されるんですよね…。箱を脱がないという姿が、最初は滑稽なものに見えたのに、学校の中での含意である防御の装置としてだけでなく、幻想の世界ではいとも簡単にそれを脱いでしまった女王をはじめとする人たちへの抗議であり攻撃であるという相互性が鮮やかで、自分自身のことも含めていろいろと考えてしまいました。
 「あける」の冒頭の一人芝居というかモノローグのようなところ、ちょっと長くてきつかったかなという印象。実際に誰かを通り過ぎさせたりしてダイアローグにしてもよかったんじゃないでしょうか。
 役のネーミングもひねりがあるし、衣裳もよかったですね。「岩美」の蹌踉とした感じに強くひかれました。欲をいえば女王を連れて逃げるところは一転して勢い込んでエネルギッシュに行ってほしかったです。

(11) 大阪産業大学附属高等学校『echo』
 冒頭のシーン、設定も役柄も何もわからなくてハラハラしましたが、不愉快でなかったのは「男」の抑え気味の落ち着いた演技があったからでしょう。
 主人公を唐突に死なせてしまうことについて、この劇が死後の振り返りという枠組みを持っているにもかかわらず、やはり無理があるといわざるを得ず、非常に残念でした。老いた後の回想にしてもよかったと思うし、枠組みなしで提示してもよかったんじゃないかなぁ。必然性があれば、死なせて悪いわけではないけれども、他の方法で同じことが語れないかと考える必要があると思います。安易な方法に思われてしまうのが損です。
 でも、テーマといい、ダンスや絵画の出し方といい、大好きな作品です。演技のトーンも少し変えてみて、何年か経ってまたやってみてはどうでしょう。皆さんの夢が演劇にあるのかどうか知らないけど、何歳になっても思い出してほしい世界です。

(12) 大谷高等学校『とんとんとん拍子』
 もう一度観たい作品です。見落としてしまっている魅力的な場面がたくさんあるような気がして。目がいくつもほしかったです。歩きながらの会話、軽い疎外感、リフレインの楽しさ、言葉の遊びが世界の本質に垂直に降りていくようなスリル、管理社会(学校でも、一般社会でも)への批判の的確で鮮やかな手つき…本当にたくさん楽しませてもらいました。
 女子だけとはいえ厚みのあるユニゾンの力、皆同じような姿格好であるように見せながら、少しずつ11人の違いや個性が見えてくるワクワク感など、大人数でやることの面白さも満喫しました。
 締めくくりがある種の青春賛歌に収斂されたことについて、賛否があると思います。外に向かって発散しようとしていた力が、急速に内面での心の持ちよう次第というようなことに収まってしまうように思えたことです。これからの宿題とさせてもらいます。

(13) 東百舌鳥高等学校『虚空の恋人』
 「十夜」さん、かっこよかったですね(これ、当日も言って、顰蹙かってたんでしたね…)。「十夜」と「夢良」の人物造型の対照が面白く、「夢良」の中に自分にはない無垢を見てしまって…というのが印象に残る作品です。それがただ単に性格の違いというのではなく、死神であるが故の運命であるところが、悲劇性を増したわけですね。
 もちろん舞台として見た場合には、いくつもの欠点は見つかりますが、このような一つの閉じた仮構の世界を創ることができたことについて、貴重な経験だったと誇りに思っていいのではないでしょうか。
 殺陣の刀さばきや、寝台での演技など、あえて難しいことにチャレンジすることになったのも、今後に生かしてほしいところです。「レン」のスリットはあそこまで深くなくてもよかったように思いますが、アニメキャラとかだと、そうなるのかな。

 皆さん、また次の発表の機会に向けて、がんばってくださいね。

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