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2007年1月 9日 (火)

「踊りに行くぜ!!」栗東公演(12/17)

 JCDN(ジャパン・コンテンポラリー・ダンス・ネットワーク)の「踊りに行くぜ!!」を、今年は大阪、栗東(滋賀)、仙台、と3ヶ所で見ることができた。
 企画開始当時から続いている大阪では、こう言っては何だが、そこでコンテンポラリーダンスの公演があること自体が当たり前でもあり、新鮮味がなく、作品のレベルもいま一つのように思えたのに対し、栗東や、特に仙台では、運営する地元の人たちの新鮮な熱意もあり(もちろん、ぼく自身にも遠くまで来ているという一種の昂揚もあったのだろうが)、比較的に言えば充実した内容になっていたように思う。

 まず、栗東での公演(12月17日、栗東芸術文化会館さきら小ホール)は、「りっとーあーとをつくろう隊」というボランティアグループが運営を仕切り、そのプロデュースで「栗東発まもなく行くぜ!!ダンサー」と名づけられた、地元のパフォーマーによるソロ作品が2つあったのが、特徴となった。
 それで選出されたのが、新庄真一しがりょうすけ新庄の「ひとりずもう」は、テレビの音などの日常的な情景をバックに、自分の動きたい方向へは動けなかったり自分を自分の思い通りにすることができなかったりする苛立ちとか、何者かに後ろから引っ張られながらも力業でぐいぐい進んでくるがやっぱり戻されてしまうやりきれなさとか、客席のぎりぎりまでアクティングスペースをとって客席に飛び込みそうになるスリルとか、要するに自分をもてあましてぎりぎりのところまで追い詰めているという危機感がよく出ていたのがよかった。ラスト近くで円周を走るところ、ほぼ全力疾走に近いほどの速さが、もてあました自分を振り切ろうとするような思いがよく出ている。しかしそれでもまた結局は、溶暗と共に背中から何者かに引っ張られるようにして、転倒する、という幕切れも徹底していてなかなかよかった。「ゴン」という音が、印象に残った。

 しがの「拍」もまた、痛々しいほどの自分への拘泥が強く印象的だったが、最後に客席のほうを見て手をたたき(ここからタイトルの「拍」か)ニヤリとするなど、それをある手つきで複雑化あるいは韜晦して処理しようというような意識も見えてくる。そのことで、軸となるテーマであると思われた自分への拘泥が、相対化されるのだが、客観化されて効果的になるというよりは、希薄化されてしまったようだ。
 また、グロテスクなほどの露悪的で自棄的な見せ方から、はたしてここには救いがあるのだろうか、と思わせためらわせるようなところもある。舌を長く出して苦悶する時間が非常に長く続くところなど、かなり観る者にも忍耐を強いるものだったが、それが見せるための示威的な行為なのかどうかが、今一つ見定めにくく、結局は最後にニヤリとするのだから、こけ威しだったのだろうかと、少し後味が悪い。

 ポポル・ヴフの「マチルダ」(構成・振付=徳毛洋子)は、舩橋陽のサックスと原和代のソロ。今回、舩橋のサックスはメロディアスな旋律をもった部分が多く、それに原の動きが沿ったり離れたりする。長い音で爪先立ちから身体を伸ばしたり、音と共に止まったり、足音がパーカッションのように響いたり。だが、愛らしい表情で正確なテクニックをもった原の身体が、やがてバランスを自ら壊して、滑稽ではなく危機的に崩れていくのが、強いインパクトを持っている。
 それを回収する形で、わが身を抱くように丸め、丸くなったまま歩を進め、何かを拾うように、また腕を伸ばして虚空の何かをつかむような動きをするのが、やるせないほどだ。ラストに向けて、主に片足での激しい動きが展開するが、息の音を聞かせたり、片足で長く立ったり、目を見開いたりという動きが、言葉では説明できない(と放棄せざるを得ないのだが)動きそのものがもつかなしみのようなものを感じさせ、最後のとても長い溶暗と共に、観る者がとても長いため息をつくことになる。

 Benny Moss(ベニーもす)の「紅芋酢二人旅」は、顔までネットで覆った白衣と黒衣の女性二人のデュオ。動きから意味をはぎ取り、意味から逸れていくように、身体の部位を取り出して強調するような動きが、少し北村成美にも似て面白い。ロボット的な動きが無機的で、マッチョのようなコミックのような動きになって多用されることになる。顔まで覆われて二人とも無人格的になっているから、身体の線が妙に生々しくエロティックに見えてしまうのと同時に、身体の動きが激しくメタに掘り進まれていく。そこから見えてくるのは、動きというものと震えというものが連続していて、何かの行為の意味ではない動き、単なる震えというものが現れてくるということだ。単なるとは言うが、しかしその震えのようなものにこそ、実は生命の初源が宿っていて、動かなくなった黒衣のそばで白衣が震えていると、それがうつって黒衣が蘇生でもしたかのようにまた動き始めるということさえあったのだ。
 震えること、相手の震えを感じること、が唯一のコミュニケーションの方法であるような二人。やや滑稽な外見よりは、実のところずいぶんペシミスティックであるというべきなのか、それでもコミュニケーションが可能であるという点において希望があると見るべきなのか。それが蘇生の道であるとも提示されていたのだ、希望に満ちているわけではないだろうが、かすかな希望を見ることは許されるだろう。

 松山からの星加昌紀(「パズルヲトクオトコ」)はベテランダンサーといってよいのだろうが、ルービック・キューブ、ジョン・レノン、ペットボトル、歯ブラシ、クラッカーと様々な小道具を使い、また自らプロフィールに「ムーブメント・フェチ」と書くように様々な動きのバリエーションを見せながら、一つの世界に収斂させていく強い構築力を持っているようだ。ただ、そのように一つの世界を作ろうという志向が強く出すぎて、せっかく広げた多様な世界を、終盤にまとめようとしてバタバタしてしまう危険もあるのではないか。
 ルービック・キューブがいくつも、色を合わせて置いてある。関節をポキポキと、まるでルービック・キューブをカチャカチャと回していくように動かす動きなど、音楽や小道具と合わせることで、逆に一種の違和感を醸し出しているように思えた。つまり、よく動くこととか、音楽に合わせて素敵に動くことが、相対化されているのではないかと思えた。また、面がそろうことに対しての違和。アフタートークで星加は、自分は6面そろえられたことがないと告白していたが、面の色がそろったルービック・キューブは、妙にのっぺりして不気味で面白みがない。そのようなことから届けられるメッセージのようなものが頭に残る。それらがラストでルービック・キューブの白い面を使って塔を作り、自由の女神の格好をしてクラッカーを鳴らし、1面しかできていないルービック・キューブをさわりつつ溶暗、という強く多様な意味性につながっていくのが、この作品の強さだと思った。

 最後は北村成美の「うたげうた」。何度も見ている作品だが、そのたびに表情が違う。今回は特に、北村が妊娠中であることを知って見ていたせいか、この作品を北村が抱えている長い時間のことも思って、ひとしおのものがあった。
 花を口から出したり、花柄のド派手なパンツ(衣裳=yum)を見せたりと、可笑しなことをやっているのに、決して目は笑っていなくて、クールに客席を見ている感じとか、自分の身体の状況を見きわめながら冷静に動いている感じとか、今回はひときわ北村の冷静さが見えてきたように思う。
 そのことで、「宴」ということの多面性をよく表わすことができ、この決して長くはない作品が、人生のように見えてくる。妊娠中も、そしておそらくは産後も、踊れる範囲で精一杯踊ってくれるようだが、踊ることと生きることが強くシンクロして見える、数少ないダンサーの一人だと、改めて実感できた。

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