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2007年1月

2007年1月29日 (月)

劇団態変「ラ・パルティーダ -出発 '06 」

本当のギター~ラ・パルティーダからの響き
    (「イマージュ」38号、2007年冬号に寄稿)

 ぼくたちは一体何を観たのだろうか。奇妙な格好をした人たちがたくさんあらわれた。すてきな音楽が流れていた。あれはもう数ヶ月も前、公園に建てられたテントの中。ずいぶんと風が強くてテントはパタパタと鳴って、その中のたくさんの人が、終わると熱い拍手をした。
 歌は声として、響きとして届いてきた。言葉の意味ではなく、身体の震えが音に、空気の震えとなって、こちらに届いたときにはぼくの身体のどこかを震わせていた。言葉の意味がわからないことで、ぼくらは歌の震えのもつ思いを、直接受け止めようとした。
 歌が直接に空気の響きとして心臓の鼓動を早めたように、舞台の上の人たちの存在そのものが、ぼくの存在を揺るがせる。生きている、生き続けているということの難しさと尊さが直接に伝わり、問われるようで。

  お前の持っているギターは、働き者のギターかい?
  お前はギターを、ぎりぎりのところでかき鳴らしているのかい?

 「細民」というのは、本当はもっと意味を帯びた言葉ではあるのだろうけれど、ここでは日々を細々と営々とつましく暮らしてきた民のことを言うと思ってほしい。そんな言葉を使いたいのだ。かっこよくもなく、英雄的でもなく、いや別に太っていてもいいのだけれど、細民と呼ばれるのが最もふさわしいような人々が、さほど悪いことをせず、やっと生きていけるだけの暮らしをしのぎ、その中からやっと雨露を防ぐだけの、家とも呼べぬような囲いをつくることができたとしよう。それがいかにどれほど大変なことであったかということを、本当の意味で目に見せるためには、舞台の上の人たちの身体が、いかにふさわしく、神々しかったことか! 

  一つずつの塚を、一人ずつきずくことが、
  すぐに希望につながるとは、言えないけれど

 だからそれが一瞬のうちに破壊されたときの衝撃といったら、他人事ではなかったのだ。強いもの、大きなもの、権力の暴力というのは、こういうふうに行使されるのか、という事実を、とても正確な形で見ることができた。そのために、舞台の上の人たちの身体は、まことに適切であった。
 麿赤児が、舞踏というのは、ということは、芸術というものはと言ってもいいだろうが、地点Aと地点Bの最短距離をとらないものだ、と語っていた。細民の暮らしはきっと、たとえば木っ端を壁のように建てようと思っていても、すぐにはそのことに向かうことができず(だって、今夕の飯を何とかしなければならなくて)、別のことをせざるを得なくて、中断している間に、木っ端が薪になってしまったり、誰かに取られたり。傍目には、何をしているのかわからない。
 舞踏も、何をしているのか、どこへ行こうとしているのか、ちょっと見ただけではわからないが、最後には「ああそうだったのか」と思わせる。よく見ることとは、それを想像して、共感することではないか。

  ぼくたちは誰かの運命について、
  本当に伴走者になれるのだろうか?

 だからここに再現された世界には、それがビクトルと呼ばれる者だかどうかは後で知ることになってもよいのだけれど、誰かと共に生きることで、誰かと共に死ぬことになってしまった人が、あらわれてしまった。その最果ての荒野のことなど、知らないし知ろうとしたこともなかった者にも、その荒野にきずかれた木っ端の囲いが、それをきずくために費やされた歳月や労力と共に立ち現れて見え、それらが一瞬のうちに…消えたのではない。あったものが壊され潰されたということは、消えたりなくなったりしたのではなく、何ものかによって壊され潰されてあり続けるということなのだ、ということが、はっきりと見えた。今もそれは見え続けている。
 だからここからは、降ってきたビラに記されていた教育基本法のことや障害者自立支援法のことが、違和感なく陸続きに考えられることができそうだ。それによって壊され潰されるもの、ではなく、人が、現実に目の前に見えたからだ。そしてその存在が、他ならずぼく自身と陸続きであることがわかるからだ。あの一瞬で壊され潰されたことが、他ならず自分自身の痛みであり、しかも、あろうことか、それが何度も繰り返されるのだ。この、世界では。
 ぼくの好きなシーンは、福森さんと井上さんが酒場で何だか楽しげにお喋りをしているところだ。こういう、ささやかで、平凡かもしれないし、そのさなかには当たり前の日常であるようなくつろぎや喜びを大切にしてくれるのが、本当のヒロイズムであるとも思う。

  一杯の、グラッパでも焼酎でもなんでもいいのだが、
  忘れるためでも笑うためでもいいのだが、
  すべての雨を集めても足りないほどの
  悲しみの涙でも笑いの涙でもいいのだが。

於・大阪・扇町公園NGR雷魚テント

2006年9月21~23日

http://www.asahi-net.or.jp/~TJ2M-SNJY/past-pf/partida06.htm

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2007年1月19日 (金)

ダンスの時間special 【earthen bodies 陶製の身体】

 おかげさまで、昨日終わりました。

 最悪の予想よりはお客さんは多く入ってくださったし、何よりも、お客さんが大変喜んで満足して帰ってくださったのがうれしかった。

Special_red1 拍手の音が、その人数とは思えないぐらい、大きくて、熱くて、一番後ろの隅で見ていたから、しばらく自分は拍手を忘れて、お客さんの拍手の音に聞き入ってしまいました。

 ダンスやコンテンポラリーアートなんて初めてという人も、自分でも踊っている人も、すごく喜んでくれたのがよかった。

 いろいろ反省点はあるし、もっとできたんじゃないかと思うことはたくさんあるけど、まずはよしとしよう。

 詳しくは、また。

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2007年1月12日 (金)

Monochrome Circusのリハーサル

 今日はロクソドンタ ブラックで、明日のMonochrome Circusの公演「掌編ダンス集」のためのリハーサルを少しだけ見学。

 「夏の庭」「きざはし」はこれまでにも観たことがあって、というか、「ダンスの時間」でやっていただいていたので、まさにロクソドンタでの再演は「待ってました!」という感じなんだけど、ぼくが見せてもらった範囲では、「きざはし」にいい変更が付け加えられていて、作品に入りやすくなっているように思えた。

 面白いのが「蠅の誕生」。ネタばれ注意なので、あまり説明しませんが、数分の小品、坂本公成のソロ。「冗談音楽」というジャンルがあったと思うが、そういう並びでいえば「冗談舞踊」なんだろう。でも、ダイナミックな動きもあり、驚かせるような瞬間もあり、もちろん笑えます。
 興味深いのが、笑いといっても、ベタな笑いではなく、ちょっとすかしたようなクールなところがあるように思えること。坂本ならでは、というところか。
 まだチケットはあるようなので、これはぜひ観ておいていただきたい。

1月13日 14時 18時(開演)
ロクソドンタ ブラック(大阪市営地下鉄谷町線 阿倍野駅1番出口徒歩1分。06-6629-1118)
 

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「ダンスの時間14」リハーサル

 今日は(もう昨日か)ロクソドンタブラックで、14日に迫った「ダンスの時間14」のリハーサル3組。プロデューサの一人として手前味噌で申し訳ないのだけれど、本当にいい作品、いいダンサーに集まってもらえているということを実感。一人でも多くの方に観ていただきたい。

 あまりバラスといけないのかもしれないが、CRUSTACEA「回」(写真)は、P1010122 二人の関係性の伸縮のバリエーションが、非常に面白い。これまでの彼女たちの作品から、一段ジャンプアップした作品だと思う。ちょっと古臭い音(濱谷の言)の使い方が、なかなかおしゃれで、ちょっとグッと来る。

 指村崇(TELESCOPIC)のソロ「ロースト・エンド」は、ちょっとロード・ムービーっぽい味わいのある、青年らしいロマンチシズムにあふれた佳作。指村の大柄な身体の魅力も存分に見ることができるし、ポーカーフェイスがちょっと愉快。

 安川晶子、タイトル忘れた。まだできていないと言いながら、起と結にきっちりと仕掛けが仕込んである。NMさんとも話していたのだが、ちょっと吹っ切れた感じと言うか、新しい局面が出てきたことを感じさせる、いい動き。ぼくは、切迫感のようなものがなくなった、とコメントしたが、肩の荷が下りたというのとはちょっと違うが、肩の荷の担ぎ方を変えてみたとでもいおうか、それでかなりいい感じになったように思うのだ。

 まだチケットあります。ご希望の方は、jonen-shozo@nifty.com

11414:0018:00

ロクソドンタブラック(大阪市営地下鉄阿倍野駅1番出口南へ徒歩約1分)

前売り・予約¥2500(当日¥3000)

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販売価格:¥1,000

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2007年1月 9日 (火)

「踊りに行くぜ!!」栗東公演(12/17)

 JCDN(ジャパン・コンテンポラリー・ダンス・ネットワーク)の「踊りに行くぜ!!」を、今年は大阪、栗東(滋賀)、仙台、と3ヶ所で見ることができた。
 企画開始当時から続いている大阪では、こう言っては何だが、そこでコンテンポラリーダンスの公演があること自体が当たり前でもあり、新鮮味がなく、作品のレベルもいま一つのように思えたのに対し、栗東や、特に仙台では、運営する地元の人たちの新鮮な熱意もあり(もちろん、ぼく自身にも遠くまで来ているという一種の昂揚もあったのだろうが)、比較的に言えば充実した内容になっていたように思う。

 まず、栗東での公演(12月17日、栗東芸術文化会館さきら小ホール)は、「りっとーあーとをつくろう隊」というボランティアグループが運営を仕切り、そのプロデュースで「栗東発まもなく行くぜ!!ダンサー」と名づけられた、地元のパフォーマーによるソロ作品が2つあったのが、特徴となった。
 それで選出されたのが、新庄真一しがりょうすけ新庄の「ひとりずもう」は、テレビの音などの日常的な情景をバックに、自分の動きたい方向へは動けなかったり自分を自分の思い通りにすることができなかったりする苛立ちとか、何者かに後ろから引っ張られながらも力業でぐいぐい進んでくるがやっぱり戻されてしまうやりきれなさとか、客席のぎりぎりまでアクティングスペースをとって客席に飛び込みそうになるスリルとか、要するに自分をもてあましてぎりぎりのところまで追い詰めているという危機感がよく出ていたのがよかった。ラスト近くで円周を走るところ、ほぼ全力疾走に近いほどの速さが、もてあました自分を振り切ろうとするような思いがよく出ている。しかしそれでもまた結局は、溶暗と共に背中から何者かに引っ張られるようにして、転倒する、という幕切れも徹底していてなかなかよかった。「ゴン」という音が、印象に残った。

 しがの「拍」もまた、痛々しいほどの自分への拘泥が強く印象的だったが、最後に客席のほうを見て手をたたき(ここからタイトルの「拍」か)ニヤリとするなど、それをある手つきで複雑化あるいは韜晦して処理しようというような意識も見えてくる。そのことで、軸となるテーマであると思われた自分への拘泥が、相対化されるのだが、客観化されて効果的になるというよりは、希薄化されてしまったようだ。
 また、グロテスクなほどの露悪的で自棄的な見せ方から、はたしてここには救いがあるのだろうか、と思わせためらわせるようなところもある。舌を長く出して苦悶する時間が非常に長く続くところなど、かなり観る者にも忍耐を強いるものだったが、それが見せるための示威的な行為なのかどうかが、今一つ見定めにくく、結局は最後にニヤリとするのだから、こけ威しだったのだろうかと、少し後味が悪い。

 ポポル・ヴフの「マチルダ」(構成・振付=徳毛洋子)は、舩橋陽のサックスと原和代のソロ。今回、舩橋のサックスはメロディアスな旋律をもった部分が多く、それに原の動きが沿ったり離れたりする。長い音で爪先立ちから身体を伸ばしたり、音と共に止まったり、足音がパーカッションのように響いたり。だが、愛らしい表情で正確なテクニックをもった原の身体が、やがてバランスを自ら壊して、滑稽ではなく危機的に崩れていくのが、強いインパクトを持っている。
 それを回収する形で、わが身を抱くように丸め、丸くなったまま歩を進め、何かを拾うように、また腕を伸ばして虚空の何かをつかむような動きをするのが、やるせないほどだ。ラストに向けて、主に片足での激しい動きが展開するが、息の音を聞かせたり、片足で長く立ったり、目を見開いたりという動きが、言葉では説明できない(と放棄せざるを得ないのだが)動きそのものがもつかなしみのようなものを感じさせ、最後のとても長い溶暗と共に、観る者がとても長いため息をつくことになる。

 Benny Moss(ベニーもす)の「紅芋酢二人旅」は、顔までネットで覆った白衣と黒衣の女性二人のデュオ。動きから意味をはぎ取り、意味から逸れていくように、身体の部位を取り出して強調するような動きが、少し北村成美にも似て面白い。ロボット的な動きが無機的で、マッチョのようなコミックのような動きになって多用されることになる。顔まで覆われて二人とも無人格的になっているから、身体の線が妙に生々しくエロティックに見えてしまうのと同時に、身体の動きが激しくメタに掘り進まれていく。そこから見えてくるのは、動きというものと震えというものが連続していて、何かの行為の意味ではない動き、単なる震えというものが現れてくるということだ。単なるとは言うが、しかしその震えのようなものにこそ、実は生命の初源が宿っていて、動かなくなった黒衣のそばで白衣が震えていると、それがうつって黒衣が蘇生でもしたかのようにまた動き始めるということさえあったのだ。
 震えること、相手の震えを感じること、が唯一のコミュニケーションの方法であるような二人。やや滑稽な外見よりは、実のところずいぶんペシミスティックであるというべきなのか、それでもコミュニケーションが可能であるという点において希望があると見るべきなのか。それが蘇生の道であるとも提示されていたのだ、希望に満ちているわけではないだろうが、かすかな希望を見ることは許されるだろう。

 松山からの星加昌紀(「パズルヲトクオトコ」)はベテランダンサーといってよいのだろうが、ルービック・キューブ、ジョン・レノン、ペットボトル、歯ブラシ、クラッカーと様々な小道具を使い、また自らプロフィールに「ムーブメント・フェチ」と書くように様々な動きのバリエーションを見せながら、一つの世界に収斂させていく強い構築力を持っているようだ。ただ、そのように一つの世界を作ろうという志向が強く出すぎて、せっかく広げた多様な世界を、終盤にまとめようとしてバタバタしてしまう危険もあるのではないか。
 ルービック・キューブがいくつも、色を合わせて置いてある。関節をポキポキと、まるでルービック・キューブをカチャカチャと回していくように動かす動きなど、音楽や小道具と合わせることで、逆に一種の違和感を醸し出しているように思えた。つまり、よく動くこととか、音楽に合わせて素敵に動くことが、相対化されているのではないかと思えた。また、面がそろうことに対しての違和。アフタートークで星加は、自分は6面そろえられたことがないと告白していたが、面の色がそろったルービック・キューブは、妙にのっぺりして不気味で面白みがない。そのようなことから届けられるメッセージのようなものが頭に残る。それらがラストでルービック・キューブの白い面を使って塔を作り、自由の女神の格好をしてクラッカーを鳴らし、1面しかできていないルービック・キューブをさわりつつ溶暗、という強く多様な意味性につながっていくのが、この作品の強さだと思った。

 最後は北村成美の「うたげうた」。何度も見ている作品だが、そのたびに表情が違う。今回は特に、北村が妊娠中であることを知って見ていたせいか、この作品を北村が抱えている長い時間のことも思って、ひとしおのものがあった。
 花を口から出したり、花柄のド派手なパンツ(衣裳=yum)を見せたりと、可笑しなことをやっているのに、決して目は笑っていなくて、クールに客席を見ている感じとか、自分の身体の状況を見きわめながら冷静に動いている感じとか、今回はひときわ北村の冷静さが見えてきたように思う。
 そのことで、「宴」ということの多面性をよく表わすことができ、この決して長くはない作品が、人生のように見えてくる。妊娠中も、そしておそらくは産後も、踊れる範囲で精一杯踊ってくれるようだが、踊ることと生きることが強くシンクロして見える、数少ないダンサーの一人だと、改めて実感できた。

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