« 2007年1月 | トップページ | 2007年3月 »

2007年2月

2007年2月16日 (金)

アンサンブル・ゾネ「光と風と灰と山」

アンサンブル・ゾネ「光と風と灰と山」 2月11日神戸アートビレッジセンター

 一部分は、以前dBのダンスサーカスで観ていたが、その時はベーシストの稲田淳がライブで演奏をしていて、どちらかというとそちらの方に気を取られていた。すり足のような動き方、スプーン、そのような細部を覚えていた。
 舞台の奥に白っぽい光源が明滅して、女性ダンサーが相次いで入ってくると、もうすっかり一つの世界が確立し、そこに引き込まれているようだった。
 それは、岡登志子が創る、アンサンブル・ゾネの世界としかいいようがない。彼女の作品を観てもう何年にもなるが、これがなかなか歯の立たない世界である。他の誰かのようではないし、非常によく動くというわけでもないし、明確に一つのストーリーや物語をたどるわけでもなさそうだ。このようなダンスである、と説明することが難しい、しかしいつも確かな見応えが残るステージなのだ。
 ぼくにとっては、それはかすかな浮遊感とでも呼べるかも知れない。ちょっとこの世の普通のありようから外れている感じ…何も、椅子の上で倒立したり奇妙なしぐさを見たから思い出したのではなく、動くことよりも、一つの身体の状態がこの空気の中にあることについて、非常に深く考えられているとでも言えばよいか。その空気とでも呼ぶしかないようなものが存在することを意識させられるから、観る者にとっても空気の濃さが変わってしまう。それが浮遊感というわけか。
 垣尾優の視線が、淡泊というか、何も見ていないわけではないのだが、そう高くない山の上から街を俯瞰しているのだが意識はそこにはないというような目。スーツ姿で出てきたときには、左右の動きが奇妙なバランスを作っているのだが、身体全体が一つのバネのような装置になって、次の動きの必然的なきっかけになっているようであった。つまり、動きと次の動き(ということは、前の動きと今の動き)との間に必然的な深い連なりがあると思えたということだ。もちろんそれは垣尾についてだけではなく、メンバーのよく読み込まれた動きのすべてに当てはまることである。
 動きを、たとえばドローイングの作品のように見たとしたら、筆の運び、順序、速度、勢いなどが非常によくわかることだろう。作品の構造が明確であるということだ。二人が去り、一人が入り、去るとまた…というようなダンサーの出はけも明快で、構築的に作られた作品であるということがわかる。
 伊藤愛の動き、存在感が素晴らしい。周囲の空気を掻き出すような大きな四肢の動きが、世界への働きかけに関するある種の貪欲さを示し、一方で深く冷たい情緒を帯びている。ラストで全員ユニゾンの中、一人灰青色のショールのような布を羽織っていたのを投げ上げたりする動き、意味はわからないのだけれど、まず造型の構成として美しかったし、動きの結果として深い感銘を与えることができていたと思う。
 もちろんここにはいろいろな動きがある。腕で世界を大きく掃く。関節を曲げる。腕を伸ばす。腰を沈める。回転する。ボールを転がす。ボールをつかむ。からだをたたむ。…そのような動詞の重なりが作品を構成している。これはダンスが身体の動きから成るものである以上、当然のことであるようにも思われるだろうが、まず形容詞であろうとしたり、概念であろうとしたりする表現が多い中で、あくまで動詞であろうとするのは、実は難しく潔いと言えるのではないか。そのために、ちょっと奇妙な、儀式らしさも生まれてくるのかも知れない。
 岡の動きが与える感動を表現することは、とても難しい。思いつめたような表情も相まってのことだろうが、動詞の重みという言葉が頭をよぎる。人が動くことの重さ。速度をもっていわゆる「よく動く」のではないが、重みのある動き。動くことが重いということは、外界の空気の重みを直接的に感じるということでもある。空気の重さを劇場の中で感じるということは、大いに照明によってである。岩村原太の照明は、身体の位置を明確にし、空気の重みや光の方向性をはっきりと示してくれるものだ。それらの結果、あぁ、人が何十年かを生きて、動いていくということは、このように重さを抱え、重さと抗っていくことなのだろうかと、あえて言葉にするとすれば、そのようなことを何の媒介もなしに直接投げ込まれたような、重みが伝えられる。ぼくがこの作品を観て、悲しくなってしょうがなかったことを、一生懸命説明すれば、このようなことになる。何かが覆われることなくそのものであるということは、悲しいことなのではないか、とさえ思われた。
 この岡のソロから後半にかけて、音楽が少し叙情的になったこともあってか、舞台の空気が非常に濃密になった。折り返して前半と同じような動きがいくつか提示されたこともあっただろうが、「思い返す」「再び見る」という行為にどうしようもなく付きまとう悲しみがまた増幅される。動くということが何かを確認する行為であり、反復が堆積でありうるということが、しみじみと伝わってきた。

お得なポイント貯まる!ECナビ

ブログ検索☆BITZ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月12日 (月)

アンサンブル・ゾネ 「Light,Wind,Ash and Mountain」

岡登志子さんを中心とするアンサンブル・ゾネ、神戸公演は明日までですが、素晴らしいです。

本当に説明しにくいのですが、まず動きに余計な形容詞がなくて、動詞だけで連ねられていること。

一つ一つの動きが、前後の動きと非常に強い関連を持たされていること、それがダンサー、特に岡さんの動きには明瞭に見て取れること。

動詞的な動きが強調されているためだろうと思われるが、動くことが、外界を切り裂き抗うことであることが、明確に意識されていること。だから、動くことの貴重さ、稀少性がはっきりと伝わってくる。空気の重さ、闇の重さ。

照明が、光の方向性を明確に示してくれて、作品を非常に明快にしてくれていること。

結果的にというべきか、ぼくは中盤から、名状しがたい悲しみに襲われて、居ても立ってもいられないような気分になってしまっていた。その悲しみに関しては、ぼくは言葉を持たない。ぼくが存在してきたこの歳月のすべての澱をかき出されるような、そんな徹底的な悲しみであった。初めての体験だった。

神戸公演 神戸アートビレッジセンター
     2007年2月11日(日) 19:00 / 12日(月祝) 15:00開演

東京
公演 シアターX(カイ)
     2007年2月23日(金) 19:30 / 24日(土) 14:00開演

名古屋
公演 愛知県芸術劇場小ホール
     2007年2月25日(日) 19:00開演 

http://www.ne.jp/asahi/ensemble/sonne/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月 6日 (火)

冨倉崇嗣の絵画

「Absolute basis 冨倉崇嗣とフジイ フランソワの場合」~2月17日Oギャラリーeyes
 面白かったのが冨倉。中央に大きく黒いケモノを描いている。前脚はない。後ろ脚で立ちかけているような格好で飛翔せんとしているが、前脚がないのでバランスが悪い。タテガミのようなものがあるが、よくみるとなかなかリアルなシルエットで書かれた植物の蔓である。
 空にはかすかに馬の形の白い雲。遠くの山の稜線に小さく十字が描かれているのは、墓だろうか。風力発電ではなさそうだ。左の方の山の斜面にはコンクリートの唇のような形のものから水が勢いよくほとばしり出ているが、遥か手前にあるように見える植物の手前に水が描かれているので、遠近はむちゃくちゃになっている。
 無意識のうちに、手前とか遠くとか言ってしまうが、それもまた一つの約束事に過ぎないということはわかっている。遠くにある蛇口から出ている水が手前の植物の前を横切っているというのは、おかしい。しかし、絵画ではそれを描くことができる。なぜか。「ぼくは嘘つきだ」というのと同様、言語や図像は、いとも簡単にパラドキシカルなことを表出することができるからだ。
 その結果、この絵画のキャンバスとしての平面は、それ自体がメビウス空間であるような歪みを持つことができる。その平面には地平線はなく、遠近は矛盾し、「ここ」は「あそこ」より遠いのかも知れない。
 それが時間であれば、もっと簡単だ。ぼくたちは遠い過去と近い過去を、いとも簡単に現在に並列することができる。冨倉の画面には、そう多くのものが盛り込まれているのではないように見えるが、描かれたものとものとの間の間隙、溝のような関係が、非常に多弁であるようだ。そこには植物、動物、山、家、空、雲…およそ世界を構成するほとんどのものが描かれているにも関わらず、生命は感じられず、動きや勢いというものは見られない。世界が平面化されているせいだろうか。影がないから光源もなく、おそらくは温度もないと言っていいのだろう。
 ダリの描く夢のような、のっぺりと平面的な粘った湿度のようなものを持っている。つい、夢や記憶のようだと言いたくなるが、はたしてそうか。現実の事物をシャッフルすると、こんな情景が生成するのかどうか。眼前の現実ではない、脳内の映像としてそれらは存在しているように見える。自由に想起できるもののように思えるのに、決して意のままにならないものでもある。配付資料に冨倉は「私は作品において未完成な記憶の断片を描いている」と書いている。「記憶の断片」、確かに。では「未完成な記憶」とは何だろうか? 続けて彼は「記憶が喚起される際に生じるズレ、不確かなイメージである」と書く。過去という時間の中に固定された記憶そのものではなく、記憶を喚び起こす生成過程であるというのだ。そのもどかしさや不確かさ、揺れ、ためらい。
 ケモノのようなものを喚び起こす私というもの自体が揺れているかもしれないということ。そのイメージが逆行して空に雲のようなものとして浮遊してしまうこと。遠くに見えるものに手を伸ばせば届いてしまうようなこと。…記憶の不定形性をではなく、記憶を喚び起こす際の揺らぎが現出されているという点で、類を見ない作品だといえるだろう。

Oギャラリーeyes http://www2.osk.3web.ne.jp/~oeyes/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年1月 | トップページ | 2007年3月 »