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2007年2月 6日 (火)

冨倉崇嗣の絵画

「Absolute basis 冨倉崇嗣とフジイ フランソワの場合」~2月17日Oギャラリーeyes
 面白かったのが冨倉。中央に大きく黒いケモノを描いている。前脚はない。後ろ脚で立ちかけているような格好で飛翔せんとしているが、前脚がないのでバランスが悪い。タテガミのようなものがあるが、よくみるとなかなかリアルなシルエットで書かれた植物の蔓である。
 空にはかすかに馬の形の白い雲。遠くの山の稜線に小さく十字が描かれているのは、墓だろうか。風力発電ではなさそうだ。左の方の山の斜面にはコンクリートの唇のような形のものから水が勢いよくほとばしり出ているが、遥か手前にあるように見える植物の手前に水が描かれているので、遠近はむちゃくちゃになっている。
 無意識のうちに、手前とか遠くとか言ってしまうが、それもまた一つの約束事に過ぎないということはわかっている。遠くにある蛇口から出ている水が手前の植物の前を横切っているというのは、おかしい。しかし、絵画ではそれを描くことができる。なぜか。「ぼくは嘘つきだ」というのと同様、言語や図像は、いとも簡単にパラドキシカルなことを表出することができるからだ。
 その結果、この絵画のキャンバスとしての平面は、それ自体がメビウス空間であるような歪みを持つことができる。その平面には地平線はなく、遠近は矛盾し、「ここ」は「あそこ」より遠いのかも知れない。
 それが時間であれば、もっと簡単だ。ぼくたちは遠い過去と近い過去を、いとも簡単に現在に並列することができる。冨倉の画面には、そう多くのものが盛り込まれているのではないように見えるが、描かれたものとものとの間の間隙、溝のような関係が、非常に多弁であるようだ。そこには植物、動物、山、家、空、雲…およそ世界を構成するほとんどのものが描かれているにも関わらず、生命は感じられず、動きや勢いというものは見られない。世界が平面化されているせいだろうか。影がないから光源もなく、おそらくは温度もないと言っていいのだろう。
 ダリの描く夢のような、のっぺりと平面的な粘った湿度のようなものを持っている。つい、夢や記憶のようだと言いたくなるが、はたしてそうか。現実の事物をシャッフルすると、こんな情景が生成するのかどうか。眼前の現実ではない、脳内の映像としてそれらは存在しているように見える。自由に想起できるもののように思えるのに、決して意のままにならないものでもある。配付資料に冨倉は「私は作品において未完成な記憶の断片を描いている」と書いている。「記憶の断片」、確かに。では「未完成な記憶」とは何だろうか? 続けて彼は「記憶が喚起される際に生じるズレ、不確かなイメージである」と書く。過去という時間の中に固定された記憶そのものではなく、記憶を喚び起こす生成過程であるというのだ。そのもどかしさや不確かさ、揺れ、ためらい。
 ケモノのようなものを喚び起こす私というもの自体が揺れているかもしれないということ。そのイメージが逆行して空に雲のようなものとして浮遊してしまうこと。遠くに見えるものに手を伸ばせば届いてしまうようなこと。…記憶の不定形性をではなく、記憶を喚び起こす際の揺らぎが現出されているという点で、類を見ない作品だといえるだろう。

Oギャラリーeyes http://www2.osk.3web.ne.jp/~oeyes/

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