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2007年4月19日 (木)

トライシンク「親愛なる冒険者へ」2月18日

トライシンク「親愛なる冒険者へ」2月18日 ロクソドンタブラック

 ここで冒険とは、世界に存在するいくつもの謎を解くことだとされている。しかし既にそれらのほとんどはアディ(浦壁聡浩)の父ローディによって解かれてしまっているそうだ、唯一つを残して。でも世界にはまだ冒険者という属性の人たちが少し残っている。その者たちの物語。
 テーマは、すべての謎が解かれてしまっても、なお冒険者には生きる価値があるか、ということ。それに価値はないとするのが、その伝説的な名冒険者ローディを源とする登場人物たちの主流で、揚げ句の果てには意味のない生を送らせたくない、冒険のさなかに命を絶たせてやりたいと、ローディの盟友でもありアディと共に冒険を続けているウォード(洗屋蓮之)は、同志であるラン(黄瀬慶子)に殺される。
 そういう考え方に対して、アディは抵抗する。目的を達成して目的がなくなったら、また新しい目的を探せばいいじゃないかと。それに対して、かつてはローディの盟友であったジェイル(若山隆史。フリー)は、目的を達成するたびにまた新しい目的を探すというのは不毛ではないかと否定する。
 他には特に大きな恋愛や人間関係や事件が描かれているわけでもないから、この劇の主題は、人の生き方に関する考え方をめぐる対立であって、大げさにいえば思想劇だと捉えることができる。そうであるとすれば、この劇の中で展開される人生観の応酬に、観客がどれだけ共感したり反発したり、つまりその議論の中に入り込むことができるかに、この劇の成否がかかっているということになるだろう。
 さて、そのことを考える前に、それ以外の演劇としての要素について振り返っておこう。まず全体に役者の上半身の動きが不自然に多く大きく、いかにも演技をしようとしているようで、見ていて居心地が悪かったのは残念。また、劇の進行がセリフの言葉で語られすぎて、演劇としての身体性や空間を感じることが少なかったのも課題だろう。セリフの間合いや掛け合い、また暗転がらみの場面転換にも、余計に時間がかかりすぎているようなところが散見された。若い劇団だし、速いテンポで議論を重ねていく劇だし、冒険に出てそこで立ち回りも演じるという活動的な展開なのだから、むしろ間合いを詰めて、セリフを前の人に重ねていくぐらいの速度と勢いで疾走するような演技を見せてほしかった。
 舞台美術は、いわゆるハコウマと長いベンチで抽象的なように見える空間から始まり、他は室内を表わすカーテンの掛かった壁⇔遺跡の入口が裏表になったパネル、というふうにいたってシンプルな作り。ちょっとパネルを前に出しすぎてスペースを浅くしてしまっていたようなところがあったのと、ラストでパネルを中央に置いたまま左右に振り分けた役者がコロスで語るところ、パネルが舞台を分断する形となり、舞台の求心性を失わせてしまった。
 話を戻すと、「思想劇」と見たときに、ここで展開された人生についての考え方は、はたして十分な説得力を持つものだっただろうか。アディは、際限ない目的の設定と達成と再設定と…という虚脱の繰り返しを避けるのは現実逃避ではないかとジェイルに反発しただけで、明確な回答は与えない。ジェイルはアディに1年後のお前の姿で判断すると言い、1年後アディは手紙を書いてそれで回答しようとする。もちろんその手紙の内容がジェイルや父に対する回答であるのだろうが、劇として印象に残ってしまうのは、その文字で書かれ声で読まれる内容よりも、1年を経てアディがエリス(植垣依子。メディアケード所属))をパートナーとしているらしいというほのめかしの方だ。
 ここに至るまでも、冒険云々よりも恋愛や子どもについてヴェネッサ(坂本まなわ。フリー)から語られたり、女の幸せは幸福な家庭といった内容がローディの言葉として紹介されたりしていて、冒険に代表されるものと恋愛や家庭に代表されるものが淡く対比されていたのだが、このラストのエリスの再登場は、その対比を突然クローズアップするものとなった。エリスの役回りが、ランの依頼で無批判的にウォードにとどめを刺すというものだっただけに、いっそう腑に落ちにくくもあった。目的を追い続けていくのが冒険者のありようで、それへの対比として女性に代表される家庭的なものを置くということであったのだとすれば、いささか旧式なステレオタイプに留まったといわざるを得ず、残念だ。そのことに気をとられているうちに、手紙の内容に集中力が働かなくなってしまって、申し訳ないというか、重ねて残念。
 最後に、目的のない人生は無意味か、という問いに対しては、凡庸だが「終わりなき日常を耐えよう」としか言いようがないし、その前にこの世界から謎がなくなるという仮定自体に、人の心自体が謎としてそびえ立っているではないかと疑問も持ってしまう。もし作者(洗屋)が、そのような容易な反論を認識した上で、なお一つのゲームとしてこのテーマを提示したのだとしたら、もっと論理や言葉で演劇的に遊ぶべきだっただろう。このようなテーマで劇を作ると、観る者の立場や考え方や人生経験によって、簡単に反発や反論を招いてしまう。演劇という手段によって世界の冒険を続けることを選んでいる以上、舞台の上の複数の人物にきっちりと生命を与え、生きた議論を衝突させてほしい。台本に書かれた文字から、身体を持った演劇として立ち上がってくるための何かが足りなかったように思える。舞台の上の人物に、もっと生命感が豊かで、舞台の上に独自の時間が流れていれば、議論の内容を超えたところで、真実に突き当たることができるのではないかと思う。

http://www.geocities.jp/trisink/

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