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2007年4月

2007年4月26日 (木)

VsOP「リフレイン・リフレイン」 3/2

VsOP「リフレイン・リフレイン」 3月2日 ロクソドンタブラック

 高校演劇部の仲間3人、女子1人と男子2人。女子が脚本を書いていた卒業公演は仲間内での合意が得られず頓挫、卒業後東京へ出た女子は芸能界入りし、テレビにも出たりしているようだが、思うところあってその卒業公演に予定していた作品を上演しようと、戻ってきた。3人が再会する居酒屋から劇は始まる。
 早速、演出の純一(岸田宙哉)の偉そうなしゃべり方が鼻につく。そういう役にしているのだから、悪いことではない。大輔(佐藤哲也)は、昔からそれを止めたりなだめたりする役回りらしく、朴訥そうな雰囲気で好感の持てる青年。ウォーミングアップのシーンでは意外にからだが柔らかいことに驚かされる。薫(赤阪千明)は無邪気で可愛いヒロインタイプ。この3人が主要人物だから、お決まりの三角関係で誰かが身を引くというような話になるのかと思ったら、気になるシーンのあとで突然薫が顔を押さえてうずくまる。「ごめん、…あと、もうちょっとだけ」と呟くように祈る薫。この倒れ方から、身体性の疾患の発作で、それが劇を進めていくのかと思われたのだが、のちに新しい事物が覚えられないという記憶障害であることがわかる。
 さて、劇や映画にとって、主人公の悲劇、しかも難病というのは、注意して取りかからなければならない強敵である。結核やガン、『愛と死を見つめて』の骨肉腫、『ある愛の詩』の白血病など、それに続く二匹目ねらいがあまりに安易に使われる設定であり、辟易としていると、実世界で夏目雅子や本田美奈子といった人たちが本当にたおれてしまったりする。やりきれない現実である。記憶に関しては、若年性アルツハイマーの『明日の記憶』をはじめ今文学的には旬の難病だから、それを提示された時点で、「あぁ」と白けられてしまうおそれがある、難しいテーマだ。劇はそれをどう乗り越えることができるか。
 彼らはそれを、一つは演劇に求めた。劇を上演するという劇を設定することによって、自分たちと観客にリアリティを与えようとしたわけだ。そしてタイトルにもなっているように、訴えたかったメッセージは、君が忘れても忘れても、何度忘れようとも、ぼくたちは何度も何度も繰り返して、君が忘れる暇なんてないほどに繰り返していくよ、ということだ。
 そのことが純一の口から発せられた時点で、この劇は終わっていてもよかった。それを受ける薫のセリフ「かなわないな、ホント…」は、いかにも軽かったし、単純に溶暗に入る照明は、残念だった。そのあとの展開については、評価が分かれるだろう。劇は5度目だかの再演となり、男子たちもそれなりに演劇界で評価されているようだ。薫はすっかり笑顔が戻り、以前出演していたテレビドラマの監督と結婚、そして劇中劇の主役キャシーとして登場する。病いは癒え、劇もメンバーも評価され、一点の曇りもないハッピーエンドである。
 彼らはこの劇をハッピーエンドにしたかったのだ。人は忘れる。病いでなくとも。それは『ノルウェイの森』で村上春樹がいやというほど強調している。しかし彼らは忘れたくなく、忘れられたくない。そこで、忘却という現象を記憶障害という設定によって急激なものとし、演劇という自分たちの近い過去と現在の最大事と絡め、記憶障害をストレスによる一過性、心因性の状態として治癒させることで、決定的で不可逆的な悲劇となることを回避した。それが場当たり的であろうが、多少の無理があろうが、彼らの祈りの気持ちによるものであって、その祈りの強さによって劇は歪みや撓みを持ったわけだ。
 ぼくはこのような祈りを抱えた劇を作ることそのものについて、まずは高く評価したい。その上で、いくつもの注文を付けたい。
 まず、にもかかわらず、基本的な劇のトーン、空気が定まっていなかったことは痛恨だ。ぼくが観たのは初日だったので、回を重ねるごとによくはなっただろうが、役者たちにその役や舞台の居心地が悪そうに見えたのは、いただけない。技術的な自然な演技云々ということもあるだろうが、劇の目的やゴールといったものが共有されていたかどうか、疑問に思えてしまうのだ。
 また、ちゃりと言っていいのか、「パッショーン!」とかアッチ向いてホイ!で笑わせようとするところについては、有効に機能したとは思えない。もしこのシーンで岸田と佐藤が非常にうまく面白く演じて、大いに笑いを取ったとしても、それがこの劇にとって有効に作用したとは思えない。ここで「大輔って案外三枚目キャラ?」という人物像が提示されたとして、それを劇の中ですくい取り回収していかないのでは、意味がない。劇に夾雑物が必要なことは理解できるが、その集積が何ものかにならなければ、無駄でありマイナスである。
 劇中劇はシェイクスピアの味わいもあり、椿小路(福本竜平)の思いきった演技もあって楽しかったのだが、作者である薫が自らの病いにふれるような結末にしたことについて、純一が自明のように否定するのは理解できない。作品の中に自分を反映したり落とし込んだりすることが、なぜこのように全面的に当然のように否定されることなのか。それはただ単に、演出家としての純一がこの作品を客体視できなくなるというだけの問題であって、高校の卒業公演の失敗の時点から何一つ変わっていないことを露呈してしまっているだけである。
 どれほど重点が置かれていたかどうかわからないが、実は純一と大輔の友情の描き方が、さりげなくしゃれていて、見事だった。大輔は純一の性格をよく知っていて、わざと挑発して怒らせることで行動するように仕向けたり、二人が同時に電話をかけるから話し中になってしまうというすれ違いを見せたりとか、本人たちが意識している以上に、欠くことのできない友情なのだと感じさせた。
 最後に薫がこの二人ではなく、ドラマの監督と結婚しているというのも、二人の薫への淡い恋情に幕が引かれることを回避し、三人の友情が続いていくという祈りを現実化したものだ。甘いと言えば甘いかも知れないが、こういう甘さは不愉快ではない。 

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2007年4月25日 (水)

東京ガール「Cafe in the Milk」4/6

東京ガール「Cafe in the Milk」 4月6日 ロクソドンタブラック

 なかなかテンポのいい、愉快な芝居だった。男優だけで、倉庫を舞台にしているので、竹内銃一郎の「大ガラス」やカクスコの舞台を思い出しもし、確かに少しそのような味わいもあった。大いに笑わせてもらい、大変楽しめたのは確かで、その上でいくつかのことを指摘し、考えていきたい。
 劇の大枠として、ありきたりの倉庫に突然喫茶店ができたという不思議なことなのに、倉庫の制度や組織自体がどうもいい加減で、従業員も滅茶苦茶、逆に喫茶店のほうがまともに存在していること、もっとうまくやれば不思議な不条理感をもたらしただろうが、そこまではたどり着かず、逆に違和感をもった。カフカではないが、既存の組織を絶望的なまでに堅牢に描いたほうが、その状況の奇妙さが際立ったのではなかっただろうか。筋違いのない物ねだりをしているかも知れないが、倉庫の従業員たちが最初はすごくしっかりしていて、それが喫茶店ができたことを契機に次々と崩れていくような作り方のほうが、面白かったように思う。
  舞台美術は、遠近法がゆがんだような壁面で、奇妙な空間を作り出していた。不用意に関係ないところが開いてしまうというアクシデントが初日にはあったが、シモ手の隠し扉が他の扉と続いていた、というのは話の筋に関係なく思えた。
 もちろん、すべてが主筋に関係しなくてはいけないとは思わないが、この芝居には主筋に関係なく受けを狙う小ネタが多かったように思う。
 たとえば、作業員の工藤(福井優介)をすごい猫舌に設定して、いつまでもコーヒーが飲めないとしたが、結局のところは一口飲んでしまっていて、他の者と同じように腹痛に襲われる。結局腹痛を免れたのは、同僚にいつもコーヒーを奪われてしまって、一口も飲めないままの一人ということだが、工藤が猫舌云々というエピソードは、なくてもよかったように思えてしまう。
 また、推理小説を読んでいる客の井口(斉藤コータ)に、周囲が次々と犯人をバラしてしまうシーンなど、面白くはあるのだが、マスター(安井竜児)の客への踏み込みの度合いにおいて、ややバランスを欠いたと思えた。
 繰り返されるので、重要なモチーフかと思われたことの一つに「ものがなくなる」ということがある。コーヒー、帽子、果ては主任(鈴木宏志)。これもまた、一貫していたにもかかわらず、主筋との絡みは薄く、そのためにややくどいように思われた。
 となると、改めて、この劇の主筋は何だったのかということを確認しておきたくなる。勤務態度のはなはだよろしくない従業員のいる倉庫に、ある日突然ひじょうにおいしいコーヒーを出す喫茶店ができる。ややあって、倉庫自体が閉鎖されることになるのと並行して、喫茶店容認派と排斥派に分かれて争うことになったかと思うと、皆ばたばたと倒れる。実は喫茶店のマスターを装っていたのは、皆が見たこともない当の倉庫会社の社長で、従業員の働きぶりを偵察に来ていたのだった。
 繰り返しになるが、よけいな小ネタとしか言えないような、必要のないエピソードはたくさんあった。だから、観終わって何日も経って、いざキーボードに向かうと、否定すべき個所がたくさんある。うっかりすると、観ているときにあんなに楽しんだことを、忘れてしまいそうになる。これは一体どうしたことなのだろうか。
 一つ考えられるのは、この劇の面白さや興奮が、刹那的なものに過ぎたのではないかという否定的な見方だ。全体としては破綻していたのに、細部では笑いをとっていた、バラバラなコント的な仕上がりのものだという見方。社長が実はコーヒーに薬を入れていて、みんなバタバタ倒れていくというシーンも必要なければ、両手に荷物を持った作業員がドアを開けられなくて壁の向こうで長時間立ち往生するというシーンも必要ないと考える。劇の細部はすべて主筋に収斂されるべきであって、一見無関係なものも、実は伏線として張られたものだったということが最後にはわかると、そういう作り方であるべきだという考え方だ。
 一方で、その裏返しで開き直ったような言い方になるが、刹那的な細部の集積が現実を形作っているのだから、演劇がその2時間前後の時間を無関係な細部を積み上げることで構成されていたとしても、それは一つの現実というものの把握の手法であるということもできる。ただ、観客はどうしても一つの演劇作品の中には一つの世界を求めているので、ある程度の統一感、一本の筋を求めるのが普通だといっていいだろう。
 この作品は、実験的なほどにはバラバラではなかったが、ざくっとした主筋に面白そうなコントのようなエピソードをペタペタと貼り付けた作品であるように思われた。もちろんそういう作り方もあっていいし、面白いものができてくる可能性も大いにあると思う。今後もこのような手法で作り続けていくのなら、エピソードの面白さ、役者の演技力、細部へのこだわり、主筋の強さなど、全体的にさらに徹底して力を強めていく必要があると思う。
 タイトルの「ミルクの中のコーヒー」というのは、考えてみれば普通とは逆で、うまい思いつき。「倉庫の中の喫茶店」「喫茶店の中の倉庫」とか、釈迦の掌の上でジタバタしている人間たちとか、いろいろなことを考えさせる。

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2007年4月22日 (日)

マイケルが帰ってきた!~マイケル・シューマッハvsR40's

 元フランクフルト・バレエ団(フォーサイス振付)のプリンシパルで、今はオランダのインプロヴィゼーションのユニットであるマグパイミュージックダンスに所属しているマイケル・シューマッハの2年ぶりの来日を、関西ではサイトウマコト、森美香代、ヤザキタケシ、安川晶子の「R40's」が歓迎した。
 はじめにマイケルのソロを置いた。それは最近亡くなった彼の祖父にまつわるもので、彼が祖父から教わり、共に楽しんだという、ボーリング、釣り、ビリヤードなどのしぐさや指遊びの再現を含むものだった。ここでマイケルは、祖父にそれらの遊びを教えてもらう何十年前かのマイケル自身であると同時に、祖父その人でもあることができていた。彼が祖父とたくさんの美しい思い出を持っていることが、大変うらやましく思えたし、自分自身が既に今は亡い人と共有している物事を回想するような心持ちになっていた。
 ここでのボーリングなどの動きの再現が、マイムのようでなかったのは、その動きが超越的に美しかったからということはもちろんだが、マイムが表現するものと表現されるものが等価であることを目指すのに対し、ここでは表現されるものの方がはるかに多面性と重みを持って、その動きをあふれ出ていこうとするからではなかったか。
 遡れば、冒頭、長い暗闇のあと、かすかに点いた天井からの淡い光、続いて白と青の光の奥の闇の中で、佇立したマイケルは身体を超え出て存在しているように見えた。三浦あさ子の照明は、人が存在したり、存在のありようを変えるために、光と影というものを無視することはできないこと、光と影の構成によってある存在から別のものを導き出すことができるということを示してくれたように思う。また、そのことが導き出されるだけの身体であったということだ。
 マイケルはいくつかの思い出である事柄を提示したあと、それら自分自身の動きを巻き戻して逆に反復することで、時間を元に戻すことと、それら一連の動き、つまり時空を超えた出来事を完全に内面化することに成功した。彼が闇の中に戻っていったあと、問題は、どう引き受け、つないでいくかということだと思われた。
 まずヤザキが厚底ブーツをはいてひじょうに細かな指の動きや物を食べるような動きを見せ、続いて客席から安川がアーウー唸りながら自分を殴るような動きをしながら現れた。ここからは基本的に即興であったようだから、あまり仔細にかつ決定的なように分析などしてみせるのは意味のあることではないと思うが、まずはマイケルの提示した空気を切っておくのだと思われた。しかしやがて、安川の動きが空手チョップで、唸っているのが「ポー」っというジャイアント馬場の真似であり、ヤザキの厚底ブーツがその十六文キックをあらわすのだと気づくと、これは昭和40年代、R40'sにとっての一つの少年時代のノスタルジィのあらわれであることがわかった。このことが、やや淡く細い形での、マイケルの提示への返歌であると思われた。
 森がリスボンでマイケルと踊っていたのが二十数年前、15年前にマイケルが来日したときにこの4人で(もちろん40歳を超えていたわけではないからR40'sという名前はなかったが)踊り、2年前の来日時には森と安川がそれぞれ1対1の即興をここで踊っている。去年の「ダンスの時間」12や今年の「ダンスの時間special」で4人が赤松正行の映像等と即興を踊ったのも記憶に新しい。そこには確かに時間というものが流れているし、何年もの歳月をおいて、互いの身体の変化と変わらなさ、何よりも「まだ踊り続けていること」を確認しあえるという、稀有な関係を保ちえているということは、うらやましいとしか言いようがない。
 5人それぞれの1対1のデュオは、決してそれほど長くなかったが、深く印象に残るものだった。正確に言うと、デュオが始まりそうだと思うと期待が高まり、カッと体温が上がるような興奮に包まれた。そのせいで、おそらくは実際の時間以上に短く、あっという間に終わってしまったように思われた。考えてみれば意外なことに、同性のダンサーのデュオを観ることは稀だったので、森と安川のデュオは、まず楽しそうで美しく、サイトウとヤザキは大きな動きを見せ合いながら戯れているような楽しさとダイナミックさがあった。マイケルが森の髪をぐしゃぐしゃにしたのには、みんな笑わせられたし、それが一つの動きのモチーフとして次々と展開していくのも、楽しかった。
 R40'sが冒頭のマイケルのソロをなぞる動きを見せたのには、感動した。1時間の即興のステージというものを、どのように仕上げていくかははひじょうに難しく、個々のダンサーの技術だけでなく、それ以上に相互のバランス、想像力や理解力、また個々の瞬発的な構成力など、様々な要因が微妙に左右することだろう。先ほど挙げた例でいえば、マイケルが森の髪をさわるというモチーフを出せば、それが次々に広げられていくことで、その時間の中を染め上げる一つのサブテーマのようなものになっていくのだろう。そのように、瞬間的に重要なモチーフとなるものを拾い上げていく力、というものの存在を強く感じることができたのが、うれしかった。
 ただ、やや空手チョップは引っ張りすぎのように思えた。もう一つ、何か別のちょっとしみじみしたモチーフを拾い上げるか、マイケルの冒頭の、そう、釣りとかボーリングとか、そういった動きを強調するか、そのようにしてくれたほうが、作品の全体的なトーンが定められたのではないかと思った。
 難しい…あまりそれを「うまく」やってしまうと、予定調和的になって、即興としてのスリルが減じられるだろうし、ポンと別のトーンをぶつけることによって、思いの他のドラマが生まれたかもしれなかったわけだ。とりあえずは、このメンバーの即興、願わくは作品、とにかくこれらの身体が同じ舞台の上に立っている状態を再度観たいと思わせる、それだけの力のある公演であったことは間違いない。羨望と賞賛と、どちらが大きかったかと問われたら、ぼくは羨望だな。

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2007年4月19日 (木)

トライシンク「親愛なる冒険者へ」2月18日

トライシンク「親愛なる冒険者へ」2月18日 ロクソドンタブラック

 ここで冒険とは、世界に存在するいくつもの謎を解くことだとされている。しかし既にそれらのほとんどはアディ(浦壁聡浩)の父ローディによって解かれてしまっているそうだ、唯一つを残して。でも世界にはまだ冒険者という属性の人たちが少し残っている。その者たちの物語。
 テーマは、すべての謎が解かれてしまっても、なお冒険者には生きる価値があるか、ということ。それに価値はないとするのが、その伝説的な名冒険者ローディを源とする登場人物たちの主流で、揚げ句の果てには意味のない生を送らせたくない、冒険のさなかに命を絶たせてやりたいと、ローディの盟友でもありアディと共に冒険を続けているウォード(洗屋蓮之)は、同志であるラン(黄瀬慶子)に殺される。
 そういう考え方に対して、アディは抵抗する。目的を達成して目的がなくなったら、また新しい目的を探せばいいじゃないかと。それに対して、かつてはローディの盟友であったジェイル(若山隆史。フリー)は、目的を達成するたびにまた新しい目的を探すというのは不毛ではないかと否定する。
 他には特に大きな恋愛や人間関係や事件が描かれているわけでもないから、この劇の主題は、人の生き方に関する考え方をめぐる対立であって、大げさにいえば思想劇だと捉えることができる。そうであるとすれば、この劇の中で展開される人生観の応酬に、観客がどれだけ共感したり反発したり、つまりその議論の中に入り込むことができるかに、この劇の成否がかかっているということになるだろう。
 さて、そのことを考える前に、それ以外の演劇としての要素について振り返っておこう。まず全体に役者の上半身の動きが不自然に多く大きく、いかにも演技をしようとしているようで、見ていて居心地が悪かったのは残念。また、劇の進行がセリフの言葉で語られすぎて、演劇としての身体性や空間を感じることが少なかったのも課題だろう。セリフの間合いや掛け合い、また暗転がらみの場面転換にも、余計に時間がかかりすぎているようなところが散見された。若い劇団だし、速いテンポで議論を重ねていく劇だし、冒険に出てそこで立ち回りも演じるという活動的な展開なのだから、むしろ間合いを詰めて、セリフを前の人に重ねていくぐらいの速度と勢いで疾走するような演技を見せてほしかった。
 舞台美術は、いわゆるハコウマと長いベンチで抽象的なように見える空間から始まり、他は室内を表わすカーテンの掛かった壁⇔遺跡の入口が裏表になったパネル、というふうにいたってシンプルな作り。ちょっとパネルを前に出しすぎてスペースを浅くしてしまっていたようなところがあったのと、ラストでパネルを中央に置いたまま左右に振り分けた役者がコロスで語るところ、パネルが舞台を分断する形となり、舞台の求心性を失わせてしまった。
 話を戻すと、「思想劇」と見たときに、ここで展開された人生についての考え方は、はたして十分な説得力を持つものだっただろうか。アディは、際限ない目的の設定と達成と再設定と…という虚脱の繰り返しを避けるのは現実逃避ではないかとジェイルに反発しただけで、明確な回答は与えない。ジェイルはアディに1年後のお前の姿で判断すると言い、1年後アディは手紙を書いてそれで回答しようとする。もちろんその手紙の内容がジェイルや父に対する回答であるのだろうが、劇として印象に残ってしまうのは、その文字で書かれ声で読まれる内容よりも、1年を経てアディがエリス(植垣依子。メディアケード所属))をパートナーとしているらしいというほのめかしの方だ。
 ここに至るまでも、冒険云々よりも恋愛や子どもについてヴェネッサ(坂本まなわ。フリー)から語られたり、女の幸せは幸福な家庭といった内容がローディの言葉として紹介されたりしていて、冒険に代表されるものと恋愛や家庭に代表されるものが淡く対比されていたのだが、このラストのエリスの再登場は、その対比を突然クローズアップするものとなった。エリスの役回りが、ランの依頼で無批判的にウォードにとどめを刺すというものだっただけに、いっそう腑に落ちにくくもあった。目的を追い続けていくのが冒険者のありようで、それへの対比として女性に代表される家庭的なものを置くということであったのだとすれば、いささか旧式なステレオタイプに留まったといわざるを得ず、残念だ。そのことに気をとられているうちに、手紙の内容に集中力が働かなくなってしまって、申し訳ないというか、重ねて残念。
 最後に、目的のない人生は無意味か、という問いに対しては、凡庸だが「終わりなき日常を耐えよう」としか言いようがないし、その前にこの世界から謎がなくなるという仮定自体に、人の心自体が謎としてそびえ立っているではないかと疑問も持ってしまう。もし作者(洗屋)が、そのような容易な反論を認識した上で、なお一つのゲームとしてこのテーマを提示したのだとしたら、もっと論理や言葉で演劇的に遊ぶべきだっただろう。このようなテーマで劇を作ると、観る者の立場や考え方や人生経験によって、簡単に反発や反論を招いてしまう。演劇という手段によって世界の冒険を続けることを選んでいる以上、舞台の上の複数の人物にきっちりと生命を与え、生きた議論を衝突させてほしい。台本に書かれた文字から、身体を持った演劇として立ち上がってくるための何かが足りなかったように思える。舞台の上の人物に、もっと生命感が豊かで、舞台の上に独自の時間が流れていれば、議論の内容を超えたところで、真実に突き当たることができるのではないかと思う。

http://www.geocities.jp/trisink/

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baghdad cafe「サヨナラ」2月10日

baghdad cafe「サヨナラ」 2月10日 ロクソドンタブラック

 中心にあるのは、姉(一瀬尚代)の不機嫌さ。それを軸に、複数の物語を一つの町を舞台に綴れ織りのように編み込んでいき、しみじみと別れを味わう物語に仕立てることができていた。
 姉は、まず弟(勝山修平。彗星マジック所属)の存在が我慢ならない。この町が嫌い。昼間の介護センターでの仕事でも、お年寄りの存在が面倒くさくてたまらない。詳しくは語られないが、天涯孤独で、弟とは血のつながりがないことを知っている。幼い弟はロケットで遊んでいてばっかりで、食べ物の好き嫌いもあり、いちいち癇にさわる。何かのトラブルでかバブルの地上げでか、借家も瓦礫と化した。夜の勤め先であるスナック(?)も同じ理由で瓦礫と化した。世界は彼女に笑顔を見せないし、彼女も世界に笑顔を見せない。
 スナックのママ(大津裕子。ホネつき数珠'S所属)とグラサンの地上げ屋ヤクザ(成瀬トモヒロ、劇団kuskus所属)とのドタバタな応酬。介護センターにいる元教師でダンス好きのおじいさん(岡部雄一郎。コレクトエリット所属)やおばあさん(溝口裕子。oki-doki所属)の淡い心の通い合い。仕事がうまく行かないサラリーマン(岡部、二役)がなぜか宇宙飛行士になって、隕石の衝突を回避させるまでの様々な述懐。そんな小さな町で、スナックが壊されて女の子たちがちりぢりになったり、おばあさんが死んだり、弟が私淑している博士(成瀬、二役)の開発したロボット(森佐夜子。oki-doki所属)が事切れたりと、いくつもの「サヨナラ」がある。
 この町に10年前に起きた洪水によっても、傷ついたり大切な人を失ったり、多くの「サヨナラ」があったのだろう。たとえばおじいさんは、あの時、妻と一緒に出かけていれば、一緒に死んでしまえたのにと悔やむ。この劇は、阪神・淡路大震災をふまえているようにも思える。災害によって壊滅した町という設定、瓦礫、といったモチーフがそう思わせるのだ。災害という特異点を置き、そこから時間を遡行させることで見えてくるような世界であったわけだが、過去の洪水と、迫り来る隕石の接近という、二つの災害の狭間にこの世界を置いたことで、この世界の不安定さが増した。
 姉は、その洪水という災厄によって、両親をはじめ大切な人やこの町の大切な愛おしいものをなくしたのだろう。しかしラスト近く、いよいよ隕石による世界の終わりが近づき、超常的な現象で弟の実母(よしだ☆じゅんこ。abish・oki-doki所属)が現れ、弟を引き取ると告げると、「笑顔で別れてやるわよ」という一種の啖呵を切りながらも、「なんでこんなに涙があふれてくるのよ」と、初めて感情を吐露する。続いて「サヨナラがそれでも何かの始まりなら、ちょっとこの町を好きになれるかも知れない」という意味の述懐があり、隕石の接近による世界の終わりも回避され、劇は終わる。
 あんなに嫌っていた弟との別離、しかも本当の肉親(自分に肉親はいない)との対面という形での別離を目前にして、初めて味わった感情。弟という存在の発見である。実はそれは他の物語ともシンクロしていたのだろう。そのようなことを経て、やっと姉は笑顔でサヨナラが言えるようになり、この町がちょっと好きになり、弟の存在も受け入れられるようになる。町で生起するいくつものサヨナラの物語が、姉の中にしみこんでいく、長い長い癒しのプロセスの物語であったと読むことができる。
 綴れ織られた一つ一つの「サヨナラ」の物語が、じわじわとボディブローのようにからだの奥に響き、悲しみが染みわたってくる作品であった。破綻や無理、強引さもあるが、宇宙の時間をこの町にも流れさせようとした思いがあらわれてのひずみであると思われた。
 役者たちは、決してうまいわけではないが、この世界を生きているという存在感があり、舞台での姿が大きく見えた。一瀬の徹底した不機嫌さ、できれば最後にすべてを溶かすような笑顔を見せるまでに物語も展開してほしかったような気もするが。勝山の屈折した少年らしさは、みごと。若い役者に老人役は難しく、岡部も溝口も苦労していたが、物語の強さもあってさして違和感なく見ていられた。同様のことは博士のにも感じられたが、これは衣裳も一因。白衣の下の黒いカットソーが、博士と呼ぶには違和感があって、慣れるまで時間がかかったが、ロボとの絡みが深まるに連れて、物語に没入させられた。
 垂れ幕のような布を使った舞台美術は、宇宙とも水中ともつかぬ魅力的な空間を創り出し、秀逸だった。宇宙の物語、水没した町、その双方を思わせ、その狭間にあるこの現実をよくあらわしていた。場面転換で役者が輪になって静かに歩き、次のシーンの登場人物が残るという展開も新鮮だった。

http://fhp.from.jp/baghdadcafe/

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なにわ三国志「叫び」 2月2日

なにわ三国志+市川富美雄共同企画「叫び」 2月2日 ロクソドンタブラック

 小劇場で演じられる時代劇とあって、もっと濃厚な世界を想像していたのだが、意外にもさっぱり、さらりとした展開で、やや淡白な観劇後感となったように思う。
 一つには、なかなか禁欲的でセンスのいい省略のしかたにある。たとえば兵衛門(河西秀樹)の自害の場面を最後まで見せない、早苗(鳩笛真希)が失明した後の愁嘆場を見せない、兵馬(中村信行)が記憶を喪失したことを後でわからせるようにする、といったふうに、泣かせる場面や緊迫した場面をあえて舞台に乗せないことで、観客に物語の行間を読みとらせようとしたようだった。
 センスの良さは選曲や音楽(ギター:新涼平)、照明(鳥居博司)など舞台の随所に現れた。冒頭の加持祈祷、落雷の照明や音響(横田和也)の美しさ、ギター奏者の見せ方、屏風状のボードを使った場面転換のみごとさなど、舞台づくりの豊かな経験やノウハウの蓄積をさりげなく見せるところも洒落ていた。
 終始抑え気味の兵馬(中村信行)の演技も、だからその延長上にあったといえるだろう。しかも、後半の兵馬は記憶を失って、おそらく感情の起伏も浅いものになっていたのだろう。そうであったとしても、弟である一馬(市川富美雄)との対決のさなかに記憶を取り戻したその時だけは、大きな演技をして人生を振り返り、そして眠るように落命していく、というふうにヤマ場を作ってもよかったのではなかったか。
 ぼくたちは劇場に、必ずしも泣くためにに行くわけではないし、感動の大きさと劇の質が比例するとも思わない。しかし、劇の流れから当然大きく心を揺さぶられるはずの場面になるのに、それをあえて描かずに回避し、その情景や感情を委ねられてしまったわけで、やや肩透かしの感が残った。ではこの劇の軸は何だったんだろうか?
 実は、兵馬の最期の場面では、妻・雪絵(未央一)がその首をかき抱いて静かに涙するところや、お藤(谷川恵津子)が静かに合掌するところが、観客の感情を導く線となって深い感動を与えてくれていた。牢内でのお藤の号泣(やや唐突だったが、雪絵の好意によって心を開かせられたことによると思われる)、牢名主お徳(横山和子)の達観と悲劇的な最期とその受容もまた美しいものだった。女たちのこのようなドラマに代表される人生の哀歓の大切さを、一馬は越前守(藤崎啓)や乱花(大咲せり花)の屋敷に乗り込んで「世の中は一人一人のものだ」と訴えかけたわけだ。
 つまり、大きなドラマももちろんだが、小さなドラマに重点を置こうとしたのだろう。そして、小さなドラマを登場人物の多くに振り当てようとしたのは、大変素晴らしいことなのだが、結果的にはやや劇のヤマが分散し、中心となるべきドラマのヤマが相対的に小さなものとなってしまったように思えてならない。
 見終わって、しみじみとゆるやかな哀しみに包まれたことに一応の満足はしているのだが、もっと深く鋭い感銘を与えるためには、兵馬と一馬の応酬をもっと深く激しくした方がよかったように思う。見せ場はどこかということだ。見せ場である以上、あらゆる遠慮や配慮を排し、大衆演劇であろうが小劇場であろうが剣劇であろうが、観客を自分たちのフィールドに引きずり込み、徹底的に自分たちの手法でやりきったほうが、突き抜けるような説得力を持てたと思う。
 殺陣はもっと長くてもよかったし、仮面を着けたダンスシーンはもっと踊りきってほしかった。セリフのやりとりがちょっとぎくしゃくしたところがあったのは残念。特に瓦版売りの二人が携帯電話等の注意をする辺りの持って行き方は少々無理があり、笑いを取れるはずのところで引かせてしまったようで残念。いっそ音楽に乗せるなどして間を詰めた方がよかったのではなかったか。

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2007年4月18日 (水)

浪花グランドロマン「海色のトランク」3月10日

浪花グランドロマン「海色のトランク」3月10日 ロクソドンタブラック

 二人の姉妹が中心となっていて、ちょっと変だが罪のない人がたくさん出てくる。無
断欠勤のお父さんも「ばれちゃったか」で一件落着、妹にだけ見える亡母の姿もニコニ
コしてあっけらかんとしているし、クジラや「旅するトランク」といったメタファの扱いも淡く、深刻にはならない。
 舞台は庶民的な町の中にぽっかりとあるような小さな公園。すべり台とシーソーと街
灯があるが、上からは緑や青が垂れてきているから、ちょっと神秘的な空間であること
も意識させたかったようだ。冒頭のクジラを云々という独白から続く場面では現実を異
化するような超越的な雰囲気もあったが、劇は滑らかな大阪弁で、淡々と日常的に進ん
でいく。
 一番グッと来たのは、幽霊のような存在である亡母チサト(森岡さかえ)が、娘のマ
ドカ(高岡美香)をいきなりひしと抱きしめるところ。冗談めかした「相撲取ろうか!
…荒瀬のがぶり寄りー」からの展開で、表情、動作、声、すべてにおいて名演、名場面
だった。いつもニコニコしているチサトは、姉妹のうち、母の顔も知らない妹のマドカ
にしか現れない。昔の姉妹のことや父親のことをよく知っていて、マドカは面食らい怪
しんでいる。観客にはもう亡母らしいとわかっているのに、物心つかない内に母を亡く
したマドカにはわからない。写真だって見ていただろうし、いくら何でもわかるだろう
と思わないでもないが、当人にはかえって「まさか」の思いもあっただろう。マドカは
幼い頃、母に叱られると「お母さんのおれへん世界」になったらいいのにと願っていた
という。それが本当に母が急性心不全で亡くなってしまい、幼な心に自分がそう願った
せいではないかと思っていた。それが大人になってもある種のトラウマになって、母の
ことを思い出しにくくなっていたということも考えられる。このあたりの細部の詰め方
は、なかなかみごとだと言っていいだろう。
 亡母が公園に普段着でニコニコしながら現れる。舞台の上では確かに超常的なことも
起きる。もちろん、起きていい。ただ、それは何のために必要なのだろう。その不思議
な出来事は、何の必要があって出現したのだったろうか。それを問うことは、この劇の
主筋は何だったのだろう、ということである。このシーンが最も感動的だったと言って
も、亡母の幼くして死別した娘への思いが、この劇の主筋ではないだろう。
  男手一つで姉妹を育ててきた、製薬会社の研究職の父は、舞台には現れない。北海道
出身でアイヌの血を引いているという彼は、三十年も関西に暮らしているのに、未だに
なじめず、北海道に帰りたい。姉妹には北海道出張だと言って、実は会社を無断欠勤
して、北海道で暮らすアパートを探しに行っているらしいことがわかる。帰るという形で、新しい一歩を踏み出そうというわけだ。この父という存在が、住処を定めることなく
常に旅行鞄を持って暮らしているようなものだという、劇の重要なモチーフの一つにつ
ながっていく。しかしここでも、アイヌという出自の問題は、かすかにほのめかされる
だけで、厳しく深められはしない。
 姉マリナ(めり)は、長い間つきあって結婚直前だった恋人と最近別れ、勤めも辞め
たらしい。マドカはそのことを薄々知ってはいるものの、直接尋ねるわけではない。踏
み込まないことが姉妹の間の、そして父との間のルールまたは習慣になっているよう
だ。どうも別れの理由は、父がアイヌであることと関係しているようだが、そのことは姉
が口ごもっているだけということで表現される。妹からそのことを知っていたかと聞か
れ「ごく最近…」と答えたので、そうかと観客が感じる程度のふれられ方である。おそ
らくこのことについて、彼女は複雑なやりきれなさを抱いていると思われるが、それに
ついて直接的には描かれていないようだ。いずれにせよ、いくつものことにピリオドか
カンマを打ち、何かを始めなければいけない存在である。
 ピアノ教室に通っていた小さい頃から姉妹の憧れの存在で、音大を出て今は小学
校の先生をしているミヅエ(菊池裕子)は、いつも缶コーヒーを持って公園に現れる。しば
らくピアノのコンサートをしていないというから、先生をしながらも演奏活動を続けて
いたようだ。終盤、またコンサートをするよと言うから、何かを始めようとする存在で
ある。なかなかいい雰囲気を出して、空気を変える演技ができていたように思う。
 近所の主婦ゴトーさん(サトーエミ)、クドーさん(つげともこ)が公園で漫才の練
習をする。劇中の笑いを一手に引き受けるわけだが、この役割がわからない。もしこの
二人がいなくても、この劇は成立したかどうかと考えると、残念ながら容易に成立した
ように思う。この手の笑いが息抜きとして必要なほどには、緊迫した厳しいばかりの劇
ではなかったし、劇に二重性が必要だというのなら、既にこの劇には日常性を離れた幻
想的な、黒服の女たちがコロスとしてクジラの物語を朗唱するシーンが機能していた。
 もう一人、難しい存在が公園でトランペットを練習しようとしている女性(中谷仁美)。
おそらく近い将来に出るようになるであろうトランペットの音と、クジラの鳴き声
を重ね合わせようとするのではないかと思うが、おそらく彼女の存在自体が幻であろう
し、何か重要な意味を象徴する重要な役割をもっているのだろう。クジラを予感させる
存在であると思われるのだが、そうだとしても、そもそもこの劇でクジラがどのような
メタファであるのかが見えてこない。
 浪花グランドロマンは、以前からクジラをテーマにすることが多かった。今回は、ク
ジラがそもそも棲息していた陸地から海へ移って、適応という名の変化を遂げたことが
朗読の形で語られ、また父が勤め先から持ち去ったクジラの退化した後ろ足の骨という
メタファによって、父の思いとオーバーラップするものの、そのつなぎは非常に淡い。
もちろん、旅行鞄、本来あるべき土地、仮の土地、旅の途中、などといった言葉をつな
げていけば何となくそれらしいイメージの連鎖が出来上がるのだが、印象として、それ
はこの劇の主筋に伴走してかすかにほのめかされたり思い出されたりしこそすれ、本格
的に向き合ったり絡み合ったりはしない。
 彼らが重用しているいくつもの印象的で魅力的なメタファは、どこかで現実と劇の間
を取り結んでいるのだろうが、長年の彼らの上演歴の中で、その結節点が彼らにとって
自明のものとなってしまい、彼らの中では改めて確認する必要のないものになっている
のではないだろうか。だからぼくたちは、その結節を予感しながら観ることはできるも
のの、この劇を単体として観ると印象的なイメージがバラバラにちりばめられて連結さ
れていないような印象を受けてしまう。ラストで、地球温暖化によって此花区から大阪
駅までも水没するというが、今も私たちは空気の海に物質の海に埋没しているようなも
のではないかと語られる。そのことも、陸上の生物であったクジラが水中生活に適応し
たということと遠く響き合っているのだろうが、やはりあまりにその示唆が遠慮がちす
ぎて、観る者が「よいしょ」とばかりに考えないと結びつかないように思える。率直に
言って、くじら座のミラという星が変光星(調べたところ、2等星が10等星にまでなる
らしい)であるということが何を暗喩しているのか、ちょっとそこまで付き合えないな
ぁ、というまだるっこしさがある。
 何をためらって、それら重要な結節を遠慮がちにしか提示しないのだろうか? 全体
を通じて、淡さがややもすると物足りなさとしてひっかかりそうになる。マドカはなぜ
姉に直面して「どうかしたのか」と尋ねないのか、父の内面に踏み込もうとしない姉
妹、それら家族のありようとのシンクロであると言われても、ちょっとつらい。

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空中☆分解企画『それはまるでメロスのように』3月16日

空中☆分解企画『それはまるでメロスのように』3月16日ロクソドンタブラック

 わけがわからないと言われるのは承知の上、とにかく疾走する芝居を作りたかったよ
うで、スピード感、全体の統一されたトーン、めくるめくような展開が観ていてとても
楽しかった。次々と変わる場面や設定を追いかけるだけで精一杯という状態に身を置か
れたが、決して不愉快ではなく、むしろジェットコースターに乗っているような快感が
あった。
 衣裳は全員白いツナギ。どうにでもなるようでいて、うっかりするとどうにもならな
い恐れもあったとは思うが、それぞれの場面や役柄に応じて、よく染め上げた。シンプ
ルな舞台装置も、どうにでも見せることができ、一定の効果を出していたといえるだろ
う。
 役者たちも走りやダンスの体のキレがよく、観客に見せる身体としてよく鍛えられて
いると思われた。主役格の桑原孝史は、姿も声もよく、さわやかな存在感がある。高坂
陽子は効果音役(?)のあっけらかんと開き直った姿が面白かった。根本沙織はこの中
ではアイドルタイプかもしれないが、演技が着実で、表情がよくできている。
 しかし実は、根本的なところで疑問が残っている。劇を展開させていくのは、作劇の
現場。ズーッと進んでいたシーンに突然素の声で「そうじゃないだろ」とダメ出しが入
り、意見の衝突があって引き戻されたりする。つまり、稽古場かどこかからビヨーンと
ゴムが伸びるようにあるシーンが作られ、勢いが出てきたなと思うと、ゴムが縮むよう
にまた稽古場に戻って、また違う方向性が出されてビヨーンと出ていき、しばらく疾走
するとまた稽古場に戻る、そういう繰り返しだったわけで、稽古場に戻るたびに、楽屋
落ち的にトーンが下がり、やや興ざめしてしまうようなところがあったように思う。
 もちろんそれは、一つの構成の方法として面白いと言えなくもない。混沌の中を疾走
するスピード感を出すためには、ありったけの多くの要素を乱雑にぶちまけて、それを
一気に抜き去っていくような勢いが必要なのであって、あえて脈絡のない多くのモチー
フを羅列するために、この仕掛けはうまい動力源だったという一面もあったかもしれな
い。ただ、一つの物語を深め、役者が一つの役を演じきるためには、この構成は物足り
なかった。
 物語にはいくつもの流れがあるが、最も太い筋は母探しといえるだろう。その他、思
いつくままに列挙すると、ガガーリン「地球は青かった」、銀行強盗、月面着陸→月の
ウサギ→因幡の白ウサギ、野球、腹痛と下痢、足跡の化石発掘とテレビ報道、シンデ
レラ、父を施設へ入れようとしている家族、数学の授業の無限数の話、三千里…、
それらがある時は自然に、時に無理矢理結び合わされて、新たな物語を作ったりもする。それらが一貫して均質な速度感とエネルギーをもって流れていることが、この劇の美点である。そのことが単調にならず、勢い込んで前のめりになって観客に働きかけてくる強さ
となった。
 それは少なくとも、台本を読んだだけでは決してわからない、演劇としての魅力であ
る。もしかしたら、演出以前の、若さとしか言いようのないエネルギーの発現でしかな
いのかもしれないが、それを客演も含めて、ためらうことなく出しうる場を作れたこと
は評価したい。
 多くのモチーフに埋もれて、タイトルにも使われた「走れメロス」の線は「どうして
走るんですか」「待ってる人がいるからじゃないですか」「本当に待ってますかね」と
いった短い会話に収斂され、細く印象に残りにくかったように思えるが、むしろ全体の
トーンにかかわるものだったと解したほうがいいのかもしれない。走り続けることによ
って、何か非常に大切なものを守ることができるという信念。それが「母をたずねて三
千里」と重なり、無限数が決して1にはならないことや光速で走ってもたどり着かない
という喩となり、というふうに舞台の上の疾走感とテーマが併走するスリルを楽しめた。
 このように、一貫して散乱した世界を行きつ戻りつしながら疾走する感覚を楽しめた
ことは間違いないのだが、できれば次回作では、古いタイプといわれるかもしれないが、ここまで多くの要素を使わずに重要なものだけに整理し、一つの太い筋を設定し
た、求心力の強い物語を観てみたい。できれば役者陣にも、一つの人物を掘り込めるように、一人の役を当てはめてみてほしい。

http://www.geocities.jp/ktb_kikaku/topTS.html

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2007年4月11日 (水)

小林亜有美展(Oギャラリーeyes)

 クマのぬいぐるみや鳥をかたどった公園の遊具、花、などの具象。

 というと、何だかファンシーで柔らかなものばかりを想像するかもしれないが、どうもそうとは行かない。
 「クマ」は、緑色の背景にクマのぬいぐるみが3体ごろんと転がっている大きな平面(130.3×162.0cm)。クマのぬいぐるみであることはわかるのだが、その扱い方について、なかなか確定できないところがある。かわいく愛らしいファンシーなだけのものとして扱っているのではないことはわかる。かといって、残虐に抑圧的に扱っているのでもないようだ。ただ、さびしげだ。

 作家自身は、ギャラリーが用意した資料に「化学繊維やプラスチックでできたカワイイぬいぐるみや人形は人に喜びや癒しを与えることが出来ます。しかし私はそんな存在がなんとなく怖く感じます。それを作品にしてみたらどう見えるのか形にしたくなりました」という解説を寄せているが、にもかかわらず、この作品たちからは、それでも作家自身も、これらぬいぐるみから、一定の「喜びや癒し」を得ていたように思えてしまう。しかし、それが「怖く」感じられる、という両面性をも。

 どういうことなのだろうか。ぬいぐるみのクマたちが愛らしい理由の一つに、その真ん丸でつぶらな瞳、があるだろう。それが、小林の作品の中では、どうも強調されないばかりか、ぼやけている。避けられている。クマのほうからわれわれへの愛らしい瞳が回避されているのと同時に、われわれからクマへのまなざしも拒否されているようだ。小林の絵画の中のクマたちは、われわれを見ていない。「クマと人」のクマは、人の右手に抱えられているが、左のほうに目をやって、こちらに視線を注がない。抱えている人も、右半身の胸から腰ぐらいまでしか描かれていないので、視線は画面上には存在しない。

 ここに描かれているのは、決して小林が書き付けたような「怖い」存在ではなく、避けあっているような存在。女性の手と、腰からスカートのすそ、太ももから下だけを描いた「待合室」という作品も、やはりその視線は描かれていない。画家の視点は、上から、モデルの視線を避けて、ただ下を向いているようだ。そのような、交叉しない視線が作り出す孤独のような、体温より少し低い不気味な世界を、非常に的確に描く作家だと思う。魅力的だ。
 
2007年3月12~17日

http://www2.osk.3web.ne.jp/~oeyes/

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2007年4月 8日 (日)

猪原秀彦展 Oギャラリーeyes

猪原秀彦展 Oギャラリーeyes

 木、真鍮、銅、そして目立たないがフェルトを使った立体。
 正面には、上部に金色に光るくちばしのような尖端を持った細長い木のフォルムが壁にかけてあり、まずその2m以上あると思われる木の形の美しさにうっとりするほどである。下部は銅の円錐で、垂直に真下を指し示しているようだ。測量船の道具であるようにも見え、上下への鋭い方向性が見て取れる。
 「種子のゆくえ-その二」と題されたこの作品は、散文的に意味づければ、種子が真下に根を張っていく方向性や、茎の細く鋭い形状、そして上部で蕾を持って太陽の方向に顔を向けているような生命感、と説明することができるだろうが、実際のところ作品から受ける感触は、そのような散文的説明を超えてしまう。
 題された「種子」という言葉から植物であることが与えられ、そこから説明的な言葉が出てくるという方向性を否定して、この作品がこのようなものであるから、本当には植物というものは、違ったものであったのではないかと思わせる、そういう力があるということだ。
 一言でいってしまえば、これが植物であるとしたら、なんと強いものであるのか、という感嘆だ。
 その強さへの感嘆が、猪原の造形に直接注がれることになる。この作品のサイズは、2.3mの長さに対し、幅と奥行きは12cmと、棒のように細長い。にもかかわらず、正面の壁からギャラリー全体を支配するような広がりまたは凝集感を持っている。方向性としては凝集。この作品に集められたアトモスフィアが、一気に絞られて下部の円錐から地中深く彫り込まれたり、逆に掘り出されたりするような。
 一転、「発芽を待つための道具」は、穏やかで親しみやすい円やかな形状を持っている。六角形の上部には光る真鍮が平面をなし、小さな穴が4つ開いていて、呼吸しているような、そこから音が出てくるような。側面は焦げ目のあるフェルトが羊皮のような軟らかさを出していて、下部は茶色い銅が引き締めている。ぼくには楽器のように見えたが、人がしゃがみこんでこれを両手で抱え、いとおしむようにしながら取り扱う「道具」。
 タイトルに戻れば、生命の発露を待っている状態のものであるというわけだが、それ自体生命が既に一心ににじみ出ているというわけだ。
 生け花のような「水の種子-その六」を含め、たった3点の作品による個展だが、作品の存在感、空間を凝集させる求心力が強く、見ごたえのある、心穏やかになる、豊かな展示だった。
 2007年4月2~7日 Oギャラリーeyes(大阪市北区西天満4)
http://www2.osk.3web.ne.jp/~oeyes/

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