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2007年4月18日 (水)

浪花グランドロマン「海色のトランク」3月10日

浪花グランドロマン「海色のトランク」3月10日 ロクソドンタブラック

 二人の姉妹が中心となっていて、ちょっと変だが罪のない人がたくさん出てくる。無
断欠勤のお父さんも「ばれちゃったか」で一件落着、妹にだけ見える亡母の姿もニコニ
コしてあっけらかんとしているし、クジラや「旅するトランク」といったメタファの扱いも淡く、深刻にはならない。
 舞台は庶民的な町の中にぽっかりとあるような小さな公園。すべり台とシーソーと街
灯があるが、上からは緑や青が垂れてきているから、ちょっと神秘的な空間であること
も意識させたかったようだ。冒頭のクジラを云々という独白から続く場面では現実を異
化するような超越的な雰囲気もあったが、劇は滑らかな大阪弁で、淡々と日常的に進ん
でいく。
 一番グッと来たのは、幽霊のような存在である亡母チサト(森岡さかえ)が、娘のマ
ドカ(高岡美香)をいきなりひしと抱きしめるところ。冗談めかした「相撲取ろうか!
…荒瀬のがぶり寄りー」からの展開で、表情、動作、声、すべてにおいて名演、名場面
だった。いつもニコニコしているチサトは、姉妹のうち、母の顔も知らない妹のマドカ
にしか現れない。昔の姉妹のことや父親のことをよく知っていて、マドカは面食らい怪
しんでいる。観客にはもう亡母らしいとわかっているのに、物心つかない内に母を亡く
したマドカにはわからない。写真だって見ていただろうし、いくら何でもわかるだろう
と思わないでもないが、当人にはかえって「まさか」の思いもあっただろう。マドカは
幼い頃、母に叱られると「お母さんのおれへん世界」になったらいいのにと願っていた
という。それが本当に母が急性心不全で亡くなってしまい、幼な心に自分がそう願った
せいではないかと思っていた。それが大人になってもある種のトラウマになって、母の
ことを思い出しにくくなっていたということも考えられる。このあたりの細部の詰め方
は、なかなかみごとだと言っていいだろう。
 亡母が公園に普段着でニコニコしながら現れる。舞台の上では確かに超常的なことも
起きる。もちろん、起きていい。ただ、それは何のために必要なのだろう。その不思議
な出来事は、何の必要があって出現したのだったろうか。それを問うことは、この劇の
主筋は何だったのだろう、ということである。このシーンが最も感動的だったと言って
も、亡母の幼くして死別した娘への思いが、この劇の主筋ではないだろう。
  男手一つで姉妹を育ててきた、製薬会社の研究職の父は、舞台には現れない。北海道
出身でアイヌの血を引いているという彼は、三十年も関西に暮らしているのに、未だに
なじめず、北海道に帰りたい。姉妹には北海道出張だと言って、実は会社を無断欠勤
して、北海道で暮らすアパートを探しに行っているらしいことがわかる。帰るという形で、新しい一歩を踏み出そうというわけだ。この父という存在が、住処を定めることなく
常に旅行鞄を持って暮らしているようなものだという、劇の重要なモチーフの一つにつ
ながっていく。しかしここでも、アイヌという出自の問題は、かすかにほのめかされる
だけで、厳しく深められはしない。
 姉マリナ(めり)は、長い間つきあって結婚直前だった恋人と最近別れ、勤めも辞め
たらしい。マドカはそのことを薄々知ってはいるものの、直接尋ねるわけではない。踏
み込まないことが姉妹の間の、そして父との間のルールまたは習慣になっているよう
だ。どうも別れの理由は、父がアイヌであることと関係しているようだが、そのことは姉
が口ごもっているだけということで表現される。妹からそのことを知っていたかと聞か
れ「ごく最近…」と答えたので、そうかと観客が感じる程度のふれられ方である。おそ
らくこのことについて、彼女は複雑なやりきれなさを抱いていると思われるが、それに
ついて直接的には描かれていないようだ。いずれにせよ、いくつものことにピリオドか
カンマを打ち、何かを始めなければいけない存在である。
 ピアノ教室に通っていた小さい頃から姉妹の憧れの存在で、音大を出て今は小学
校の先生をしているミヅエ(菊池裕子)は、いつも缶コーヒーを持って公園に現れる。しば
らくピアノのコンサートをしていないというから、先生をしながらも演奏活動を続けて
いたようだ。終盤、またコンサートをするよと言うから、何かを始めようとする存在で
ある。なかなかいい雰囲気を出して、空気を変える演技ができていたように思う。
 近所の主婦ゴトーさん(サトーエミ)、クドーさん(つげともこ)が公園で漫才の練
習をする。劇中の笑いを一手に引き受けるわけだが、この役割がわからない。もしこの
二人がいなくても、この劇は成立したかどうかと考えると、残念ながら容易に成立した
ように思う。この手の笑いが息抜きとして必要なほどには、緊迫した厳しいばかりの劇
ではなかったし、劇に二重性が必要だというのなら、既にこの劇には日常性を離れた幻
想的な、黒服の女たちがコロスとしてクジラの物語を朗唱するシーンが機能していた。
 もう一人、難しい存在が公園でトランペットを練習しようとしている女性(中谷仁美)。
おそらく近い将来に出るようになるであろうトランペットの音と、クジラの鳴き声
を重ね合わせようとするのではないかと思うが、おそらく彼女の存在自体が幻であろう
し、何か重要な意味を象徴する重要な役割をもっているのだろう。クジラを予感させる
存在であると思われるのだが、そうだとしても、そもそもこの劇でクジラがどのような
メタファであるのかが見えてこない。
 浪花グランドロマンは、以前からクジラをテーマにすることが多かった。今回は、ク
ジラがそもそも棲息していた陸地から海へ移って、適応という名の変化を遂げたことが
朗読の形で語られ、また父が勤め先から持ち去ったクジラの退化した後ろ足の骨という
メタファによって、父の思いとオーバーラップするものの、そのつなぎは非常に淡い。
もちろん、旅行鞄、本来あるべき土地、仮の土地、旅の途中、などといった言葉をつな
げていけば何となくそれらしいイメージの連鎖が出来上がるのだが、印象として、それ
はこの劇の主筋に伴走してかすかにほのめかされたり思い出されたりしこそすれ、本格
的に向き合ったり絡み合ったりはしない。
 彼らが重用しているいくつもの印象的で魅力的なメタファは、どこかで現実と劇の間
を取り結んでいるのだろうが、長年の彼らの上演歴の中で、その結節点が彼らにとって
自明のものとなってしまい、彼らの中では改めて確認する必要のないものになっている
のではないだろうか。だからぼくたちは、その結節を予感しながら観ることはできるも
のの、この劇を単体として観ると印象的なイメージがバラバラにちりばめられて連結さ
れていないような印象を受けてしまう。ラストで、地球温暖化によって此花区から大阪
駅までも水没するというが、今も私たちは空気の海に物質の海に埋没しているようなも
のではないかと語られる。そのことも、陸上の生物であったクジラが水中生活に適応し
たということと遠く響き合っているのだろうが、やはりあまりにその示唆が遠慮がちす
ぎて、観る者が「よいしょ」とばかりに考えないと結びつかないように思える。率直に
言って、くじら座のミラという星が変光星(調べたところ、2等星が10等星にまでなる
らしい)であるということが何を暗喩しているのか、ちょっとそこまで付き合えないな
ぁ、というまだるっこしさがある。
 何をためらって、それら重要な結節を遠慮がちにしか提示しないのだろうか? 全体
を通じて、淡さがややもすると物足りなさとしてひっかかりそうになる。マドカはなぜ
姉に直面して「どうかしたのか」と尋ねないのか、父の内面に踏み込もうとしない姉
妹、それら家族のありようとのシンクロであると言われても、ちょっとつらい。

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