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2007年4月22日 (日)

マイケルが帰ってきた!~マイケル・シューマッハvsR40's

 元フランクフルト・バレエ団(フォーサイス振付)のプリンシパルで、今はオランダのインプロヴィゼーションのユニットであるマグパイミュージックダンスに所属しているマイケル・シューマッハの2年ぶりの来日を、関西ではサイトウマコト、森美香代、ヤザキタケシ、安川晶子の「R40's」が歓迎した。
 はじめにマイケルのソロを置いた。それは最近亡くなった彼の祖父にまつわるもので、彼が祖父から教わり、共に楽しんだという、ボーリング、釣り、ビリヤードなどのしぐさや指遊びの再現を含むものだった。ここでマイケルは、祖父にそれらの遊びを教えてもらう何十年前かのマイケル自身であると同時に、祖父その人でもあることができていた。彼が祖父とたくさんの美しい思い出を持っていることが、大変うらやましく思えたし、自分自身が既に今は亡い人と共有している物事を回想するような心持ちになっていた。
 ここでのボーリングなどの動きの再現が、マイムのようでなかったのは、その動きが超越的に美しかったからということはもちろんだが、マイムが表現するものと表現されるものが等価であることを目指すのに対し、ここでは表現されるものの方がはるかに多面性と重みを持って、その動きをあふれ出ていこうとするからではなかったか。
 遡れば、冒頭、長い暗闇のあと、かすかに点いた天井からの淡い光、続いて白と青の光の奥の闇の中で、佇立したマイケルは身体を超え出て存在しているように見えた。三浦あさ子の照明は、人が存在したり、存在のありようを変えるために、光と影というものを無視することはできないこと、光と影の構成によってある存在から別のものを導き出すことができるということを示してくれたように思う。また、そのことが導き出されるだけの身体であったということだ。
 マイケルはいくつかの思い出である事柄を提示したあと、それら自分自身の動きを巻き戻して逆に反復することで、時間を元に戻すことと、それら一連の動き、つまり時空を超えた出来事を完全に内面化することに成功した。彼が闇の中に戻っていったあと、問題は、どう引き受け、つないでいくかということだと思われた。
 まずヤザキが厚底ブーツをはいてひじょうに細かな指の動きや物を食べるような動きを見せ、続いて客席から安川がアーウー唸りながら自分を殴るような動きをしながら現れた。ここからは基本的に即興であったようだから、あまり仔細にかつ決定的なように分析などしてみせるのは意味のあることではないと思うが、まずはマイケルの提示した空気を切っておくのだと思われた。しかしやがて、安川の動きが空手チョップで、唸っているのが「ポー」っというジャイアント馬場の真似であり、ヤザキの厚底ブーツがその十六文キックをあらわすのだと気づくと、これは昭和40年代、R40'sにとっての一つの少年時代のノスタルジィのあらわれであることがわかった。このことが、やや淡く細い形での、マイケルの提示への返歌であると思われた。
 森がリスボンでマイケルと踊っていたのが二十数年前、15年前にマイケルが来日したときにこの4人で(もちろん40歳を超えていたわけではないからR40'sという名前はなかったが)踊り、2年前の来日時には森と安川がそれぞれ1対1の即興をここで踊っている。去年の「ダンスの時間」12や今年の「ダンスの時間special」で4人が赤松正行の映像等と即興を踊ったのも記憶に新しい。そこには確かに時間というものが流れているし、何年もの歳月をおいて、互いの身体の変化と変わらなさ、何よりも「まだ踊り続けていること」を確認しあえるという、稀有な関係を保ちえているということは、うらやましいとしか言いようがない。
 5人それぞれの1対1のデュオは、決してそれほど長くなかったが、深く印象に残るものだった。正確に言うと、デュオが始まりそうだと思うと期待が高まり、カッと体温が上がるような興奮に包まれた。そのせいで、おそらくは実際の時間以上に短く、あっという間に終わってしまったように思われた。考えてみれば意外なことに、同性のダンサーのデュオを観ることは稀だったので、森と安川のデュオは、まず楽しそうで美しく、サイトウとヤザキは大きな動きを見せ合いながら戯れているような楽しさとダイナミックさがあった。マイケルが森の髪をぐしゃぐしゃにしたのには、みんな笑わせられたし、それが一つの動きのモチーフとして次々と展開していくのも、楽しかった。
 R40'sが冒頭のマイケルのソロをなぞる動きを見せたのには、感動した。1時間の即興のステージというものを、どのように仕上げていくかははひじょうに難しく、個々のダンサーの技術だけでなく、それ以上に相互のバランス、想像力や理解力、また個々の瞬発的な構成力など、様々な要因が微妙に左右することだろう。先ほど挙げた例でいえば、マイケルが森の髪をさわるというモチーフを出せば、それが次々に広げられていくことで、その時間の中を染め上げる一つのサブテーマのようなものになっていくのだろう。そのように、瞬間的に重要なモチーフとなるものを拾い上げていく力、というものの存在を強く感じることができたのが、うれしかった。
 ただ、やや空手チョップは引っ張りすぎのように思えた。もう一つ、何か別のちょっとしみじみしたモチーフを拾い上げるか、マイケルの冒頭の、そう、釣りとかボーリングとか、そういった動きを強調するか、そのようにしてくれたほうが、作品の全体的なトーンが定められたのではないかと思った。
 難しい…あまりそれを「うまく」やってしまうと、予定調和的になって、即興としてのスリルが減じられるだろうし、ポンと別のトーンをぶつけることによって、思いの他のドラマが生まれたかもしれなかったわけだ。とりあえずは、このメンバーの即興、願わくは作品、とにかくこれらの身体が同じ舞台の上に立っている状態を再度観たいと思わせる、それだけの力のある公演であったことは間違いない。羨望と賞賛と、どちらが大きかったかと問われたら、ぼくは羨望だな。

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コメント

自己レス。ごめんなさい。

 書き忘れていたが、もうひとつ、互いが互いの動きをなぞって見せたのが、ひじょうに面白かった。
 ヤザキの特徴ある痙攣、森の両手を輪にした大きく滑らかで柔らかな動き、などをマイケルはじめそれぞれがなぞってみる。当然のことながら、それでも少しは違いがあるのだが、その違いから個々の特性が見えるし、何よりも、他者の動きをなぞることで相手に対する尊重や敬意のようなものや、親しさが見えてきた。
 もちろん、マイケルの冒頭の、祖父の姿をなぞる動きそのものをなぞったものであっただろう。
 何重もの思いが、とても貴いものに思われた。

投稿: 上念省三 | 2007年4月22日 (日) 09時30分

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