« 尼崎ロマンポルノ「落爆の少年が添える花」3/10 | トップページ | プラズマみかん「田中山君の白いうさぎ」4月21日 »

2007年5月 9日 (水)

妄想プロデュース「ホムラの少年」 4/15

妄想プロデュース「ホムラの少年」 4/15 ロクソドンタブラック

 マッチをすった裸火の色、光、においが印象的だった力強い作品。政治的と思われるようなメッセージも含めて、たくさんのテーマがぎっしりと詰め込まれていて、ずっしりと重みがあった。個々のテーマは結構未整理だったり生のまま放り投げられたものもあったのだが、力業で押し切ったという感じ。そういう強さを感じさせてくれる舞台は大変貴重だと、改めて思わせられた。
 というわけで、説明だの解説だの粗筋だのを簡単にまとめるのは難しい。中心人物は、もちろんタイトルロールのホムラの少年(梶山竜矢)だが、少女の天野有希子(劇団ウエスト)、「怪鳥」という役名の山尾彩子も非常に重要な存在。つまり、消防団員、マッチ売りの少女、ロビンソン・クルーソーという3つの太い軸がぎしぎしと詰め込まれ、しかもそれぞれに魅力的な役者を当てることができたというのは、小劇場としてはなかなか実現しにくいことではないか、これが大きな魅力となった。
 まず、大隕石または火星人の襲来とされているようだが、原爆を思わせる災禍によって炎に包まれ、記憶を失い、炎を愛してしまったホムラの少年。愛する炎を抱擁するシーンの演技は、一人芝居となって難しかったと思うが、奇妙さや異常性が出ていてよかった。要救助者のいない火災という、およそ非現実的な「事件」を、炎を消すのではなく抱きしめることによって収束させるという役割をホムラに担わせたことで、様々に派生的な非現実・超現実を盛り込むことができたのは、うまい設定だったと言えよう。
 他の人物を例にとっても同様だと思うが、特にホムラについては、この人物にある一つの属性を定めることで、また次のイメージが導き出され、新たなプロットが生み出され、劇の大枠が新たに規定されていくという連環が自動生成的に発生し、劇をこのように奇形的なまでに増殖させたのではないかと思う。どれが中心や発端だったかは想像しにくいが、複数の中心から同時多発的に増殖してきたのだと思われる。作者(池川辰哉)の構築力は、すさまじい。
 池川はチラシでも「マス」によって埋没したり急に姿を現したりする事象の奇妙さや異常さを指摘しているが、劇の中でも様々な事象が唐突にまた不規則にも思われるように時間や空間を自在に横断する形で現れた。それは混乱のようにも思えたが、背後や奥底には怒濤のような大きな流れがあって、断片的に見せられる事物は確実に時間軸を進んではいる。ある特定な人物なりにまつわる複数の物語(たとえばA~Dとしよう)のすべてを語って見せるためには、確かにこのようにA・B・C・D・B・D・C・B・A…というふうに見せるというのが、考えうる普通の方法であって、それ以外にはオムニバス形式でA・B・C・Dと一つずつ順番に見せるしかあるまい。
 とは思うものの、このことによってAなりDなりの物語が、どうしても浅く留まってしまうのではないかという危惧も持つ。A~Dをほぼ等価に並列するのではなく、AならAを中心にして、それを思い切って刻み込むように深めながら、B~Dを周囲に配置したり、思いきって削ってしまって、なおもAだけで十分に世界を描けるような、そんな決定的なAを探し当てられなかったのだろうか、と。
 この「ホムラの少年」では、爪、皮膚がどろどろと…というような原爆投下後の惨状を思わせるような描写や、火星人云々といったサブテーマは、劇の後景に使われていて、提示されはしたが深められていたわけではない。もちろん、いったん提示された以上、他のテーマの深化に連れて反照されながら螺旋的に深まっていくようなことが期待されたが、残念ながら、そこまでの緊密さは生まれなかった。むしろ、原爆をこのように「軽く」(というつもりではないのだろうが)エピソードのように扱ってしまうことへの戸惑いが先に立ってしまって、没入を妨げたように思われたことも残念だった。それはぼくやぼくの世代に著しいことかも知れないが、というのは今の若い人は異なる感覚を持っているのかも知れないが、原爆、差別、自殺といったことをエピソードやサブテーマとして軽く浅く扱うことは、どうしても許されないことと感じてしまう。それらのことを扱う以上は、正面切って全体的に取り扱わなければいけないのではないかと。そうでなければ、扱うべきではないのではないかとさえ思う。そのように感じさせてしまうのは、やはり劇の作り方が垂直的ではなく連鎖的、水平的だったからではないだろうか。
 実のところ、最も魅力的な謎として印象に残っているのは、ロビンソン・クルーソーだ。表れとしての言葉によるコミュニケーション、信仰の対象の存在への懐疑、無垢の罪など、いくつものテーマを深めることができ、「ロビンソン・クルーソー!」としか言わない山尾の発声の力も強かった。この二人をめぐる物語だけでも一編の物語として成立したのに、惜しいなとも思わせる。様々なトーンや速度の「ロビンソン・クルーソー」という言葉を船乗り(成冨時春)が通訳のような形で復唱(これもまた、うまかった)、突然「さあ、交代しましょう。声をもらうわ」と船乗りの首筋を吸って立場が逆転、船乗りが「ロビンソン・クルーソー」と叫び出すところの転換は鮮やか。連れ去られる船乗りを見送る怪鳥の姿も印象深かった。このような情緒面での深みも合わせ、そういう過剰なまでの詰め込みが、この劇の未整理な魅力であることは、再確認しておきたい。
 装置・美術は、ややアナクロっぽい雰囲気も含めて、なかなか洗練されていたが、舞台カミ手にせり出したような形でマッチ売りの少女が座っていたのは、席によっては見えにくかったのではなかったか心配。アナクロつながりでいくと、「男」(池川)の存在は、すこし唐十郎を思い出させたりした。吸血姫のような怪鳥、炎に包まれる街、少女の重要性など、エピソードの作り方にもやや似たようなところを感じないわけではない。
 マッチ売りの少女の天野は、特に長い独白を好演。すべてが彼女の一本ごとのマッチの炎の中に明滅した妄想であったかのように、全体を支配するような空気を創ることができていた。少女がマッチの炎の中に見る夢、民衆がヒーローの出現に見る夢、怪鳥らがロビンソン・クルーソーの地を探し当てようと見る夢、少年が炎の中に恋焦がれる禁断の夢、いくつもの夢、あるいは妄想を炎の揺らめきの中に見せては隠すような作品だったといえるだろう。もう一度見れば、もっといろいろなことがわかっただろうに、少し残念に思っている。

■(PS2)HOMURA (ホムラ)

|

« 尼崎ロマンポルノ「落爆の少年が添える花」3/10 | トップページ | プラズマみかん「田中山君の白いうさぎ」4月21日 »

コメント

ご無沙汰です。
いつもながら、鋭い感性と分析力、そして文章力に感心いたします。


どんなことでも言葉にするって大切!って最近、切に思うのに・・。
が!
私の場合、好きとか私に合うとか、なんか心に残る、沁みる・・・な感じで、
とてもとても抽象的な感じでしか表現できない。
自分の気持ちを言葉で表現するってとても重要なのに、まだまだ未熟者です。(泣

投稿: sawachuu | 2007年5月10日 (木) 23時02分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 妄想プロデュース「ホムラの少年」 4/15:

« 尼崎ロマンポルノ「落爆の少年が添える花」3/10 | トップページ | プラズマみかん「田中山君の白いうさぎ」4月21日 »