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2007年5月

2007年5月30日 (水)

こみなとレンジャー「骨のおもひ」

こみなとレンジャー「骨のおもひ」 ロクソドンタブラック

 舞台から見て客席の側に仏壇があって、姉妹らがそれぞれ客席に向かって手を合わせて亡き母への報告を行うというのは、なかなか面白かった。約1時間とコンパクトな芝居の中で、3人の姉妹のそれぞれの性格や抱えている問題はよく描かれていたといえるだろう。
 しかし、決定的に意味不明な出来事がある。人気番組「ロックは無用」のレポーターとして山本家に闖入する男(大木隆義)の存在。これが実は次女・晴美(角ちひろ。演劇農耕者所属)の不倫相手、お腹の赤ちゃんの父親で、少なくとも直前までは音信不通だった男だという設定になっている。どう考えてもおかしいのだが、それを承知でこうしているわけだろうから、どこかに抜け道でも作っているのだろうか、なかなか見つからない。おそらく最初の登場の時に、晴美は驚きあわてふためいていたり、何らかのサインを出していたのだろうが、ぼくは見落とした。2回目の来訪では、男は食卓の豚すき焼きに目を付け、晴美に「あーん」と食べさせたりして、ひどく奇妙な違和感を出している。この時この二人は他人のふりをしているが、実は訳ありだったということになるわけで、このあと男から晴美に電話がかかってきて晴美が喜ぶという展開になるのだが、設定の上からも演技においても、説得力に欠ける。男のレポーターとしての登場自体が茶番あるいは偽物だったようではあるが、話がつながらない。
 さらに、押入れに潜む謎の男(白木原一仁。ななめ45°所属)も、突然押入れから三女の時雨(ふじまるしの。七月ハリケーン所属)と入れ代わりのように現れる。喪服を着ているので、おそらく亡母の夫、つまり十七回忌の法事なのにリビアに行っていて帰って来れないことを電話で話していて、長女の曇子(野中摩耶)に非難されていた父親ではないかと容易に想像はつく。それでいながら、劇の上では姉妹の前には現れず、古い隣人で幼馴染の新進弁護士、今は時雨の監視役である大風(村上晶夫)にしか現れず、最後まで素性は隠す形となっている。時雨と入れ違いのように押入れから現れるというところから、時雨に何らかの深い思い入れなり関わりがあるのかと思うが、そのような素振りはない。どう解釈したらいいのか、にわかにはわからない。
 このような決定的な謎や矛盾を抱えることで、劇がとんでもない発展的な変容を遂げることはあるだろう。一つはその矛盾にあっと驚くような合理的な解決策を出して収束させるという方法。また、矛盾は矛盾のまま、それを他の出来事が押しつぶすような力で圧倒するという方法。他にも、矛盾を間違いだったとおちゃらけて引っ込めるとか、いろいろあるかも知れない。しかし、ここではおそらく、あえて矛盾を矛盾のまま突っ切って、ハッピーエンドとした。それは、ある意味では強さとさえ言えるかもしれない。あるいは、破綻や矛盾を突っ切る強さがこの劇を作らせたといえるかもしれない。その強さ、作者(野中摩耶)が描きたかったことと、何だったのだろうか。
 タイトルからして、骨となった母の存在に、いつまでもこだわりすぎている長女・曇子が「お母さんやったら、許さへん」と言って妹たちを縛りつけてきた(と晴美が言う)のを、その母への思いは思いとして尊重しながら、もうそれは骨になってしまっているものなのだから、もう少し自由に大らかに考えてみてはどうか、曇子自身、それに囚われすぎているのではないか、というような大風の(弁護士らしい)理にかなった説得がなかなか印象的で、この一節がこの劇のピークになっていたものと思われる。だが、奇妙なことに、その切々としたはずのシーンの印象が妙に薄く、男は実は…という謎解きばかりがドタバタと印象に残ってしまったのが、残念だった。
 レポーターと父親らしい男、この二人に共通しているのは、舞台となっている山本家の敷居が高いということか。押入れの男は、本来ならば一家の長、世帯主であるはずなのだが、曇子に「吟遊詩人」と評されており、娘たちを放ったらかしてきたのだろう。母の死後十数年、一家を支えてきたのは曇子のようだ。レポーターは晴美と不倫、妊娠させて連絡がつかないという状態なのに、照れ隠しだか何だかわからないが、このような登場の仕方をしている。この二人には、特に登場に関してかなり意識的に無理のある設定がされているが、もう一ひねりして深く書き込めば、魅力的なゆがみの強い存在となって、劇自体が不条理性を帯びて別種の魅力を持てたのではないかと思う。
 もう一人の男性、大風は秀才のようで、司法試験に最年少記録で合格したというふれこみである。おそらく最近テレビに出ているような若手弁護士を意識したのだろうが、弁護士に見えないような風体をして、軽い人間に作っているのが、劇としてはどうか。もちろん、会話の端々には、何となく理論的というか、理路整然としているところはあるが。数年前から極端な対人恐怖症の時雨のお守役として時雨の近所に住んでいるようだが、晴美に思いを寄せていて、お腹の子どもを自分の子どもとして認めて結構しようとまで思っているが、相手にされない。
 大風をめぐる男女の思いはなかなか複雑で魅力的だ。しかし、時雨の大風への思いは、回収されないまま終わってしまった。大風の晴美への思いも宙ぶらりんのまま、強引な闖入者によって中断されてしまった。これはちょっと残念だったと思う。無道な闖入者であるレポーターの男は、最後まで謎のままで、観客としては感情移入ができない存在であるが、大風に対して多くの観客は、ずいぶん長い時間を過ごす中で愛すべき存在になっており、いろいろあるだろうけど晴美と一緒になればいいのにと思っていただろう。それを断ち切るだけの魅力的なエンディングを迎えることは、残念ながらできなかったように思う。
 短い上演時間の中で、晴美の手土産の手羽先ういろう飴云々だとか、あまり関連のないエピソードが案外多く、もったいないような気がした。笑いを必要とするのであれば、登場人物のキャラクターを深め、膨らませるために、もっと慎重に描きあげてほしい。
 時雨のふじまるは、思い切った極端な演技が面白かった。対人恐怖をカラッとユーモラスに処理できたのがよかったのだろう。晴美の角は、堅実でしっとりといい演技だったと思うが、エステティックサロンを開業したばかりだとか、よくもてたというようなあたりから、もう少し派手な装いでもよかったように思う。曇子の野中は、受け身の演技が多く、作・演出と兼ねているので、演じきることの難しさはあったかも知れないが、特に後半で怒りや苛立ちを爆発させるような演技で、迫力はあったものの、唐突で不自然な印象もあった。父親らしき謎の男の白木原は、姿もよく迫力もあって、好演。もっと見たかった。

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2007年5月27日 (日)

吉田商店「さくらさくら」 5/12

吉田商店「さくらさくら」 5/12 ロクソドンタブラック

 東北地方の過疎の町。桜の古木のある眺めのいい丘で、その桜を伐採して道路を通そうとしている国土交通省の役人たち。中でも一番クレバーそうな雪代(姓、「ゆきしろ」。原圭太郎)と、中盤で病魔に襲われているということがわかるさくら(うえだのぶこ)との偶然の出会いから始まり、その偶然がいかなる必然であったかということが徐々に明らかにされる、永遠の愛の物語。
 開発行政を担う役人たちのバックには、どうやら地元政界の実力者がいるらしい。一方、桜の古木のバックには、荒ぶる魂スサノオ(横井大三。メインキャスト所属)をはじめ、日本古来の四季の神々がついている。はるか昔、スサノオは一人の百姓から、この桜の根元を神々の集う場所として借り受けていた。その百姓は愛妻を病いで亡くし、端然と桜守として生きていくと決めていたが、スサノオから望みはあるかと聞かれ、ふと亡妻ともう一度この桜を見たいという。スサノオは、すぐにとは言えぬが、いつか必ずと誓って、歳月は過ぎ、現代である。
 観ているときは、非常にシンプルな話であるように思われたのだが、自然保護や都市化や過疎が問題となる現代の世界、神々と百姓が約束を交わしたいにしえまたはそこへ直結する神々の世界、という二つの世界が交互に現れる。両者を結ぶのが、まず、実は神々である5人。そして、男女の愛と出会いの物語である。いわゆる複線の物語として謎解きを置くのではなく、二つの時代を堅く綯った上で、両者を強く太く結ぶものを置くことで、太くシンプルな世界であるかのような作りになっているのが好ましい。ハッピーエンドの夫婦の愛の物語で、病いあり、お笑いあり、踊りあり、と様々な要素が盛り込まれ、新喜劇的な味わいも含めて、いわゆるウェルメイドな劇に仕上がっているのは、小劇場では珍しいことといえるだろう。
 劇の構成という面でも、桜の由来と中世の夫婦の悲劇を雪代に語ってみせるのは、神々たちによる田舎芝居風の劇中劇。このコミカルで時代がかった劇中劇の影響でか、何だか全体が古風な作りの芝居であったかのような印象を残しているが、シェイクスピア風の典雅な作りともいえるだろう。この場面は、めくりの洒落っぷりといい、デフォルメした演技の面白さといい、非常に達者な扱いだったと思う。それだけ大きな外枠の構成がしっかりしていたということではなかっただろうか。
 おそらく神々を見ることができているのは、雪代とさくらだけだと思われる。劇の中で神々の宴に交じって陽気に過ごしているさくらは、現実のさくらではない。現実のさくらは、手術以後意識が戻らず、弟(細井孝一郎)が車椅子を押しながら一方的に声をかけている、そういう状態である。神々と戯れているさくらは、おそらく意識だけの存在。それを見ることができている雪代とは、おそらく雪代の中の別の存在というか、単純に言えば、前世のようなものか。前世の存在と現世の存在が混濁し、時折現世を襲うように貫入して、現実の雪代の人生を変えていく。雪代の煩悶はリアルで、決意に至る表情はすがすがしい。
  さくらの病いの扱いについては、実のところ、劇の設定の上でも、劇の中の人々も、ずいぶん無理をしている。彼女の心臓病はかなり重篤で、本当だったら手術にも耐えられず、もう死んでいても不思議ではないほどの状態。それを生かしているのは、スサノオが約束を実現するために、さくらと雪代を昔の百姓夫婦の生まれ変わりと定めて、特別な力で生きながらえさせているからだ。しかし、その延命策ももうそろそろ限界に近づいていて、見切りをつけなくてはいけなくなっている。そんなさくらを、そして桜の木を救うために、雪代が自分の有望な未来を賭ける。ただし、国土交通省をやめて、桜守になるという雪代が「市役所にでももぐりこみますよ」というのは、興ざめ。現実味という点からは理屈には合っているかもしれないが、ここは思い切って農業をするというふうに夢を壊さないようにもっていくか、いっそ触れなくてもよかったのではないか。
 ラストで、生き長らえることになったさくらは、雪代を含めて一連の記憶は失っているはずと言われていたのに、実は覚えていたという逆転はあざやかなのだが、一言念押しの形で、弥生(百姓の妻)の願いでもあったということをもう一度強調してもよかったのではないかと思う。このラストだが、さくらの姓が木下、雪代の名が桜であることがわかったり、手の痣を見せたりと、いろいろなことが明らかになるのだが、ちょっとバタバタしてしまった印象。別に姓や名がわかったことが決定的ではなかったし、痣はなくても二人の縁が強いことは十分わかっていたのだから。
 ウェルメイドプレイがウェルメイドとなるためには、役者の力量が問われるのは言うまでもない。まず何よりも雪代役の原がみごと。職務に忠実な能吏ぶりも見せつつ、桜を伐ることへの煩悶、退職の決意、などポイントでの表情が的確で、好ましかった。クライマックスの健康になったさくらとの出会いで、「やっとまた一緒に…」とさくらが語ったのを受けた時の、信じられないような、喜びと驚きの入り混じった複雑で爆発寸前の表情は、実にすばらしかった。雪代の上司、蘭(あららぎ)を演じた喜多孝夫(よろずやポーキーズ)は、なかなかピンと来なかったが、終盤で狡猾さと能吏らしい無表情、そしてすべてを呑み込んだ上での懐の深さを一気に見せたようで、好演といっていいだろう。「本当に何が正しいかどうかはわからない。自分くらいは自分を信じたい」というような述懐は、なかなか現実的で、ちょっと放り投げたような口調もよかった。。さくらのうえだは、現代のにぎやかな普通の(ちょっとイケてない?)女性、桜の精(?姫のような出で立ちで現れた)、いにしえの病いに臥せる女性、車椅子の病人、と様々な役柄を求められ、姫らしいしとやかさからはじけたずっこけぶりまで、広い幅を見せた。特に桜の精でのあらわれは同一人物とは思えないほどだった。四季の神々を演じた4人(にのみやあやこ、萬知明(劇団ウエスト)、井上慎弥、久保田康裕)は、とぼけた芸達者ぶりで、よく芝居のアクセントを作ることができていた。スサノオの横井は、雄々しさとおっちょこちょいなところが共存したキャラクターを好演。
 舞台には大きな桜の木。これが駅の場面でもオフィスの場面でも隠されることなく見え続けていることを、シンボリックに解釈していいのかどうか、ちょっと迷うところ。
 プログラムによると、普段は「ショー形式のオムニバス公演」を行っているカンパニーで、初めての一本モノだったらしい。作・出演の細井孝一郎は、これが作家デビューとのこと。初挑戦に当たって、妙な実験や冒険をせず、堅実で観客を満足させることを第一としたウェルメイドプレイを目指したのは、見識といえるだろう。

http://www.geocities.jp/yoshida_show10/

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2007年5月25日 (金)

無名劇団「トビラ、ソファミレド」5/5

無名劇団「トビラ、ソファミレド」5/5 ロクソドンタブラック

 主人公は高校の歴史の教師、七瀬ミツテル(宮崎信哉)。精神的に不安定な(過呼吸のように見えたがパニック障害か)女子生徒、文子(瀧野可菜)を、妹のように親身に面倒を見てやっていたが、文子が自殺、あらぬ憶測に見舞われたこともあり疲弊しきっていたところ、乗り合わせた最終電車の扉の事故で瀕死の重傷にあう。病床で意識が混濁する中、様々な場面が回想のように、また悪夢のように展開する。それら回想を通じて、自分自身、特に家族の関係が明確化される。両親を事故で亡くした後、自分の夢を諦めて弟妹を見てきた兄ヨウイチ(木下聖浩、Borderless Actors所属)へのアンビバレントな思い、ナイーブな年の離れた妹ナツヒ(島原夏海)を含めた不完全な家族というものへの複雑な思いが描かれ、これらの部分については佳編といっていいだろう。
 タイトルにあるように、「扉」がキーとなってはいるが、実は夢の中の出来事が次々と繰り広げられていく構成。特に扉であることが重要なモチーフであるような、たとえば(陳腐だが)自らそれを開くことで世界を拓くとか、叩けば開かれるのだ、とかいったふうな意味づけはされていないように思われた。
 それよりも気になったのが、舞台上の扉を開けることによって開かれる世界と現実世界との関係性に、恣意的ではないかと思われるようなバラつきがあったように思えてしまったことだ。包帯を巻かれた男たちが登場する場面は、おそらく煉獄のような死後の中間地点が描かれていたのだと思うが、ここでのふざけ方というか、チャリの入れ方が全体からやや浮き気味で、劇の序盤で主調を定めるためにはマイナスだったのではないかと思われた。ここで主人公に対して「あなたは何を失くしたんですか」という重要そうな問いかけがされるが、この問いへの答えはある程度明確に出されたのだろうか?
 率直に言うと、夢の場面になるたびに、あまりの転じ方の大きさに、その世界に入り、ついていくのが精一杯になってしまい、後半のシビト(流石矢一)を中心としたいけにえの祭祀の場面では、もうついていけなくなっていた。自己犠牲とか再生とか、重要なテーマが埋め込まれていた場面だろうが、これらの荒唐無稽ぶりは、劇の統一性にとってはマイナスだったように思う。
 また主人公が歴史の先生だったからといって、幕末を舞台に人斬り以蔵(木下)が出てくる場面となるのは、よくわからなかった。殺陣がやりたいから幕末にもっていったとしか思えない。ただし、この場面の剣劇にはなかなか迫力があった。また、ここでも以蔵を助けたいと念じたからフラック(瀧野)が出てきたのだよという言葉や、人の裏切りがあったりと、何かと思わせぶりで意味ありげなシーンが続出する。この落差の大きさのせいで、交互のように現れる全く夢(悪夢)としか思えないシーンと、現実のシーンの往還を楽しめないまま終わってしまったのが残念。
 往還で言えば、ミツテルをめぐる現実を描くために、二つの層が用意されている。一つは彼が勤めている学校で起きている、困難な現実。もう一つは、彼と特に兄との関係をめぐるアンビバレントな感情のもつれ。これらの現実はなかなか魅力的に、強い説得力をもって描かれていると思うのだが、それを分断する形で挿入される夢のシーンで拡散してしまう。はたして、それが狙いだったのだろうか。
 たとえば、ミツテルが妹のナツヒを思う心情と、文子に寄り添う心情とが、淡くシンクロするように思えたのだが、それをもっとはっきりと確認するように丁寧に描けば、現実の現在と過去に太い回路が作れただろう。
 夢と現実の間には、作者にとっては確固とした連関があって、それを観客は読み取るべきだと思っていたのだろうが、ぼくにはややその連関がほのかに過ぎるように思われた。何度も観ればどんどん太くすることも可能だろうが、一度しか観ないほとんどの者には、やや不親切だったように思う。3人の兄妹の関係、学校の2種類の生徒や教頭などには、たいそうリアルで丁寧な描き込みができていたので、もっとそちらに比重を移して、夢の場面を小さくしたほうが、劇の情感は深まったのではなかったか。
 なお、前説で作・演出の中條岳青が諸注意を述べた後、劇への誘導の形で雨がと言い、一人の役者(細井庸平か)が手にした傘をコツコツと鳴らして本編へと入っていく。趣向は悪くないかもしれないが、あまりに取ってつけたようで、所期の効果を表わせたとは思えなかった。観客の「開演前」モードを覆すには、もっと激しい力業が必要だったということではなかったか。非常に大切な劇の始まりが、少し躓いてしまったようで残念だった。
 役者では、キーとなる不安定な女子生徒・文子やフラックを演じた瀧野が出色。幕末の場面での殺陣のうまさには驚かされたし、しっとりした情感を出すこともできる。ドスのきいた太い声を出すかと思うと、消え入りそうな病んだ状態にもなる。ミツテルの宮崎も好演。文子を包み込む姿も真に迫っていたし、抑制したまじめな人柄がよく出ていた。兄の木下も、一人大人な役どころだが、その役割をきっちりと果たしていた。
 最後に一つ苦言を呈したいのだが、会場で配布されるパンフレットには役名が記されていないので、役と役者が同定できない。300円を払って有料パンフレットを買えば、顔写真入りで対照することができるが。配役を知らせる必要がないと考えているのか、知らせたくないのか、観客と出演者の双方に対して、どのような態度をとろうとしているのか、理解できない。劇の作り方として、集団を重視していて、個々の役者の役割を限りなくゼロであると見ているわけではないようなので、演技、役者の個の立ち方ということについて、何を隠そうとしているのか。何か勘違いしているのではないか。スターやアイドルなら稽古場風景の写真も意味があるだろうが、それよりはフラックという役名の意味をはじめ、劇を解読するキーとなるようなヒントのいくつかでも書いておいたほうがよかったのではないか。

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2007年5月16日 (水)

劇団SE・TSU・NA「ラフレシア」

劇団SE・TSU・NA「ラフレシア」4/27

 多角形のかすかな八百屋舞台、TVモニター、無機的なベッド、天井に開けられた灯り取りの小窓からの光…としっかりと雰囲気のある舞台美術。終盤でフラグランスをふりまいたのも、大きな仕掛けの一つ。女性研究者の女子学生への恋慕、記憶障害を装った記憶改造、クローン人間、をめぐる話。と、まずは思われる。
 劇の展開は徐々にスピードを増し、後半はジェットコースターのようにものすごい速さで流れていく上に、専門用語が連ねられるものだから、ストーリーを追いきれず、最後のほうはもうほとんどオーバーフローして、インプット不能な状態になってしまった。おそらく重要な鍵をつかめずに、大切なことが理解できないでいる。そのためか、いくつか腑に落ちないことや、矛盾しているように思えることもある。しかしそれは不愉快ではない。劇の中のことなのに、まるで現実のぼく自身がそのさなかにいるような眩暈の状態に置かれたということだからだ。
 前宣伝でも強調していた二人の女優のキス、大騒ぎするほどのことでもあるまいと高をくくっていたが、煽情的でなく美しいシーンに仕上がっていたこと以上に、そのことを過剰なほどに「禁断」と意識させることで劇の緊張感を高め、ルナ(モリマリコ)の抑えきれない思いの象徴として、そして劇の中から何ものかがあふれ出てくることの表象として、非常に効果的に機能した。ふざけたふりでキスをして「今の、罰ゲームだから」というのも(その表情、演技も合わせて)秀逸なら、そのことで自己嫌悪になりながらもこらえきれずに再びキス、そしてひまわり(鈴木いちか)が顔も変わってしまうほどに嘆くという展開も、すさまじく丁寧で行き届いている。
 ここで確認しておかなければいけないのは、ひまわりはキスをされて泣き嘆いたのではないということが、はっきりとわかるということだ。アダムとイブの楽園追放をふまえた展開は的確かつ魅力的で、「誰も口にしない果実なら…」と倒錯した理屈によって自らを納得させ正当づけようとするルナの狂ったような一途さが切ない。ひまわりの破れたような嘆きは、ルナが自分への思いのせいでそんなふうにまでなってしまうことに対して共振しているのだと思われ、強い魅力を発していた。キスという一事をあえて激しい倒錯(の決壊)として強調したことの効果は、さらにこの後二人が中央で手をつないで回っているシーンで、二人が心なしか上気しているように見えたことへとつながっていく。確実に劇場の温度が上がっているのだと思われたわけだ。
 この劇が魅力的だったのは、一つに二人の女優が魅力的だったことにある。容姿や声が魅力的だったことは言うまでもないが、劇の中のポイントとなる見せ場のモノローグで、実に的確で正確に狂気をあらわしたところ、劇そのものが向こう側へ行ってしまい、観ている者も連れ去られてしまうような力のある演技だった。
 劇の中で、人物が破れたり壊れたりしてしまうような場面に出くわして、身も震えるような衝撃を感じることがある。メジャーなところで最近の経験で思い出すのは、『贋作・罪と罰』の松たか子がそうだった。間違ってはいけないのは、感情が激したからといって、大声で泣いたり喚いたり叫んだりするだけのことではないということだ。「破れ」と書いたが、日常に人を覆っている被膜が破れて、とんでもないものが出てしまうような。きっと能の変化(へんげ)というのは、そういうことなのだろうなと。何か強い刺激…人格をすりつぶしてしまうような刺激を加えられて、必死の思いで耐え、耐えきれずというより、耐えきって、破れる。そこに、既にどうしようもない失われた美しさが、過去形として生じる。
 それでもやはり、いろいろとわからないところはある。いくつかの確実と思われる出来事を並べてみても、記憶云々のこととクローン云々のことのリンケージがよく辿れない。これはぼくが終盤オーバーフローしていたせいで、繰り返すが、これは全く不愉快ではないばかりか、謎が謎のまま残っているのが楽しくさえ思っている。
 ひまわり(実は、陽子)はルナ(実は、ノグチハルミ博士)の講義を聴きに来ていた女子学生だった。だからひまわりがルナのクローンだというには無理がある。ただし、同じ痣があるなど、そうであるというほのめかしもされている(なお、シャツのボタンをはずして痣を確認する姿は、露出度自体はほんのわずかなのに、ゾクゾクさせてくれた)。陽子が大病か何かで瀕死となり、病床の細胞からクローンを生成し、それがひまわりだというには、年齢差の点でかなり無理がある。年齢差という超えられない障壁をどうにかするために、記憶操作に走ったのか。あるいは、血痕の幻が提示され「私が陽子を…ごめんね、痛かったよね」と言っていたことから想像するのだが、ルナは陽子を殺害しようとし、瀕死の陽子をひまわりとして再生させたのか。
 女性である自分に全く恋愛感情を持ってくれない陽子に、「ただ抱きしめたかっただけなのに…」とルナは苛立ち、その記憶を全部消して新たに関係を構築しようとしたのだったか。すべての記憶を抹消したつもりだったが、視床下部にわずかに記憶の残滓が残っていたことがわかり、再度すべて取り除くためにコードをつなぐ。
 なお、スクリーンの中の男性研究者(神兼人)の存在については、単なる一登場人物、狂言回しや解説者といった域を超え、劇の基本的な構成の点で重要だったといえるだろう。これがもし映像でなく、劇場の空間(ということは、ルナとひまわりの時空間)に同時に存在するものであったら、これほどの隔絶感、隔靴掻痒の感は生まれない。映像の中にしか存在しない、もしかしたらもう不在であるかも知れないからこそ、不可触で侵犯不能な存在として機能した。もちろんそれは逆の方向からもそうだということで、彼の方からも既にルナ(博士)に働きかけることが不可能であるということだった。
 この不可触性(アンリーチャブル)ということが、実はこの劇の重要なテーマの一つではなかったか。ルナはひまわりに手が届かず、ひまわりはルナに理解が及ばず、二人は外の世界に手が届かず、男性研究者はルナを止めようとして手が届かない。そして冗談ではなく、ぼくはこの劇の真相に手が届かないまま、放置されている。快感である。

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2007年5月11日 (金)

プラズマみかん「田中山君の白いうさぎ」4月21日

プラズマみかん「田中山君の白いうさぎ」4月21日 ロクソドンタ ブラック

 あまり後味のいい作品ではない。主役の女性漫画家が、あまりにわがままでいい加減なことに、最後まで共感できない。それはぼくの個人的な趣味嗜好によるのかもしれないが、まあ開き直れば、ぼくも決して観劇初心者ではないので、ある程度の広さのストライクゾーンは用意しているつもりだ。ぼくが共感できないということは、半数ぐらいの観客が主役の造型に対して「?」のまま帰ってしまったのではないかと思うのだが、どうだろう?
 劇の中心となるのは、今はコミケで自費出版を出している程度の漫画家志望の3人。発表される作品は3人の共作という建前になっているが、実は一人本条楓(室屋和美)という自分勝手に見える作家が独裁的な立場にある漫画家集団である。いつも意見を言いながら取り上げられず、不満を押し殺しているようで助手扱いされている塩谷理央(屋鋪柚佳)が、楓に却下された作品を一人で投稿し、それが入賞したことによって、この集団は破綻する。他に普通の高校生・町田厚(的地厚)、不登校の高校生=ストーカー(近藤和輝)、本条とストーカー高校生の出会い、本条の妹・幸子(米山真理)の勤め先でのトラブルなど、様々な、どちらかというとありふれた、淡々とした感じのストーリー展開となっておかしくないのだが、異彩を放っているのが、詮じるところ、タイトルどおりではあるが「田中山君」である。
 実はタイトルの「田中山君」は、この劇の中であまり明確で固定的な存在ではない。町田と同級だが入学以来不登校でまだ会ったこともないという高校生。また楓に絶え間なく手紙を書き続けているファン。さらにそれは、楓たちの部屋の壁にかけられたオブジェ風のウサギのレリーフに付けられた名でもあり、その壁の向こうに住んでいると信じられている、楓の憧れのまだ見ぬ「田中山君」のことでもある。このような曖昧さ、不可視性が最後まで続いたほうが、面白かったのではないかと思う。
 実際の劇の登場人物の中では、少なくとも途中までは曖昧にされていて、刹那という役名の、しかしセツナなどと呼ばれることのない、いかにも不気味で変質者然としたストーカーが、田中山君なんだろうなと思われるようになっている。刹那と名づけられているこの男は、目つきの悪い不気味な盗撮者として現れる。楓たちの室内を盗撮したり、ゴミ袋をあさったり、盗撮した楓の「どアップ」の写真を郵便受けに入れたりと、立派な犯罪者ぶりである。
 そんな彼が、堂々とドアチャイムを鳴らして楓にファンレターを渡すことによって、存在が明らかになり、楓とラブラブの関係になる。うがった見方をすれば、ここでも彼が「田中山君」かどうかは、楓らがそう決めつけているだけのようにも思える。その直後に理央が投稿した作品が優秀賞だかに選ばれていたことがわかる。様々なものが崩壊することの始まりである。富永は理央を「裏切り者!」とののしるが、観ている側としては、理央にほうに分があるように思えてしまう。
 つまり、全編を通じて、楓のわがままというものに、どれだけの説得力や魅力があるとしたかったのか。創作過程での独裁的な仕切り方や態度、都合が悪くなると吐いたり「田中山君」と名づけられたウサギのレリーフに依存しようとする姿、田中山君らしきファンの出現によって異様なほどに化粧をして上気して出かけようとする姿、それらの醜悪さ(と呼んでかまわないと思うのだが)に、それでも掬すべき人間の真実が珠玉のごとく現れてくる……舞台の上にはそのようなものを求めたいのだが、この劇ではかなり徹底的にそのような「美」は排除されていたように思う。逆に対比で言えば、理央の耐える姿や、ぎりぎりで叛旗を翻すような行為に、非常に強い説得力やリアリティがあり、魅力的に思えたということだ。
 こういう言い方をしていると、結局は好悪の問題でものを言っているようで不安になるのだが、この本条楓という人物造型に、もし可能性があったとすれば、わがままで自分勝手な中にも何らかの愛らしさが仄見えるような描き方をすることだったと思う。田中山君とのラブラブな姿の中に、それを期待することはできたと思うのだが、過剰な化粧の不気味さが、それを遠くへ押しやった。
 こういう想像はあまりすべきではないのかもしれないが、もし、楓を屋鋪が、田中山を的地が演じていたらどうだったか。つまり、不気味で異常なところのあるこの二役を、比較的には普通な感じの役者に当てていたらどうだったろうという夢想である。そしてもう少し構成をシンプルにして、普通に見えた彼らがあるところから急に変質していくような劇であったら…と。あるいは、話は一層逸れるが、町田が実はストーカー行為をしていたとか。
 いくつかの、あまり主筋と絡みのない脇筋の一つに、駅前のスナックで働いている元村あみ(尾上好美)の物語がある。ちょっとコケティッシュで胸の谷間もあざやかな気になる存在の彼女は、自称オミズのコリアン。登場人物の中での人間関係の脈絡がややたどりにくかったのだが、漫画家集団のもう一人の助手格である富永亮太(下村唯)と交友があり、部屋に出入りしているところを幼なじみの町田と出くわす。町田が懐旧の念からかちょっとした意地悪でか(町田としてはおそらく前者。しかし微妙)、「お前、いつも鉛筆折られてたじゃん! ヨソ者!ーって」とみんなの前で言ったことに対し、「今あなたのやったことは、筆箱叩き割るよりひどいことなんだよ」と言い放つ。
 他の作品について書いたときにも同じようなことを指摘したのだが、町田があみをほとんど無意識的に、差別から守ろうとすることによって逆に差別の闇の中へ放り込むようなことをしてしまう結果になったのは、非常に深く重いテーマだといえるのだが、この劇の全体の流れの中では脇筋の一エピソードに過ぎなかったように思え、残念だった。この挿話を加えることによって、逆に町田という人物の性格づけは不明瞭になってしまった。町田に闇の部分があったとしたら、それをもっと効果的な方法で見せるべきではなかったか(だから、実は町田がストーカー行為を重ねていたという設定を考えてみたりするのだ)。
 また、漫画家集団の物語との関わりも、富永という接点はあるが、特に不可欠なものではなかったように思う。ユニークな男性観を持ってオミズの世界を泳いでいるチャーミングなあみを中心にして、もう一つの作品を創るほどの彫り込みが必要ではないかと思われた。作者(中嶋悠紀子)としては、登場人物すべてに、あるドラマを与えることが必要だということだったのだろうが、それにしてはこの存在、テーマは重すぎ、観客には消化不良のまま残ってしまった感がある。
 楓と幸子の姉妹が、父の暴力に苦しんでいたというエピソードも、幸子が保育所で園児に暴行を加えてしまったということへの伏線だろうが、やや唐突で重すぎる。多くの深刻さを盛り込もうとする意欲は買うが、事のついでに撫で斬りにするような結果になって、一つひとつの扱いがぞんざいになってしまったのでは、所期の目的を違えることになってしまうのではないか。
 ぼくの観た回は超満員だったせいだったかも知れないが、シモ手側、部屋への入口のドアの外のスペースがあまりに狭く、そこでの演技も結構あったのに窮屈そうだったし、カミ手の客席からは見えにくかったのではなかっただろうか。シモ手のハケ口もかなり狭かったようで、転換の時にゾロゾロと背中が見えたのは、やや興ざめ。カーテンをうまく使うなど、できなかったものか。シモ手奥に高台のような街の石段の踊り場のようなスペースを作っていたのは、舞台の中にいい遠近ができていたといえるだろう。それでもやはり窮屈な感じが否めず、ドア外スペースと合わせ、中心となる部屋のスペースを大きく取りすぎていたのではなかったかと思われる。

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2007年5月 9日 (水)

妄想プロデュース「ホムラの少年」 4/15

妄想プロデュース「ホムラの少年」 4/15 ロクソドンタブラック

 マッチをすった裸火の色、光、においが印象的だった力強い作品。政治的と思われるようなメッセージも含めて、たくさんのテーマがぎっしりと詰め込まれていて、ずっしりと重みがあった。個々のテーマは結構未整理だったり生のまま放り投げられたものもあったのだが、力業で押し切ったという感じ。そういう強さを感じさせてくれる舞台は大変貴重だと、改めて思わせられた。
 というわけで、説明だの解説だの粗筋だのを簡単にまとめるのは難しい。中心人物は、もちろんタイトルロールのホムラの少年(梶山竜矢)だが、少女の天野有希子(劇団ウエスト)、「怪鳥」という役名の山尾彩子も非常に重要な存在。つまり、消防団員、マッチ売りの少女、ロビンソン・クルーソーという3つの太い軸がぎしぎしと詰め込まれ、しかもそれぞれに魅力的な役者を当てることができたというのは、小劇場としてはなかなか実現しにくいことではないか、これが大きな魅力となった。
 まず、大隕石または火星人の襲来とされているようだが、原爆を思わせる災禍によって炎に包まれ、記憶を失い、炎を愛してしまったホムラの少年。愛する炎を抱擁するシーンの演技は、一人芝居となって難しかったと思うが、奇妙さや異常性が出ていてよかった。要救助者のいない火災という、およそ非現実的な「事件」を、炎を消すのではなく抱きしめることによって収束させるという役割をホムラに担わせたことで、様々に派生的な非現実・超現実を盛り込むことができたのは、うまい設定だったと言えよう。
 他の人物を例にとっても同様だと思うが、特にホムラについては、この人物にある一つの属性を定めることで、また次のイメージが導き出され、新たなプロットが生み出され、劇の大枠が新たに規定されていくという連環が自動生成的に発生し、劇をこのように奇形的なまでに増殖させたのではないかと思う。どれが中心や発端だったかは想像しにくいが、複数の中心から同時多発的に増殖してきたのだと思われる。作者(池川辰哉)の構築力は、すさまじい。
 池川はチラシでも「マス」によって埋没したり急に姿を現したりする事象の奇妙さや異常さを指摘しているが、劇の中でも様々な事象が唐突にまた不規則にも思われるように時間や空間を自在に横断する形で現れた。それは混乱のようにも思えたが、背後や奥底には怒濤のような大きな流れがあって、断片的に見せられる事物は確実に時間軸を進んではいる。ある特定な人物なりにまつわる複数の物語(たとえばA~Dとしよう)のすべてを語って見せるためには、確かにこのようにA・B・C・D・B・D・C・B・A…というふうに見せるというのが、考えうる普通の方法であって、それ以外にはオムニバス形式でA・B・C・Dと一つずつ順番に見せるしかあるまい。
 とは思うものの、このことによってAなりDなりの物語が、どうしても浅く留まってしまうのではないかという危惧も持つ。A~Dをほぼ等価に並列するのではなく、AならAを中心にして、それを思い切って刻み込むように深めながら、B~Dを周囲に配置したり、思いきって削ってしまって、なおもAだけで十分に世界を描けるような、そんな決定的なAを探し当てられなかったのだろうか、と。
 この「ホムラの少年」では、爪、皮膚がどろどろと…というような原爆投下後の惨状を思わせるような描写や、火星人云々といったサブテーマは、劇の後景に使われていて、提示されはしたが深められていたわけではない。もちろん、いったん提示された以上、他のテーマの深化に連れて反照されながら螺旋的に深まっていくようなことが期待されたが、残念ながら、そこまでの緊密さは生まれなかった。むしろ、原爆をこのように「軽く」(というつもりではないのだろうが)エピソードのように扱ってしまうことへの戸惑いが先に立ってしまって、没入を妨げたように思われたことも残念だった。それはぼくやぼくの世代に著しいことかも知れないが、というのは今の若い人は異なる感覚を持っているのかも知れないが、原爆、差別、自殺といったことをエピソードやサブテーマとして軽く浅く扱うことは、どうしても許されないことと感じてしまう。それらのことを扱う以上は、正面切って全体的に取り扱わなければいけないのではないかと。そうでなければ、扱うべきではないのではないかとさえ思う。そのように感じさせてしまうのは、やはり劇の作り方が垂直的ではなく連鎖的、水平的だったからではないだろうか。
 実のところ、最も魅力的な謎として印象に残っているのは、ロビンソン・クルーソーだ。表れとしての言葉によるコミュニケーション、信仰の対象の存在への懐疑、無垢の罪など、いくつものテーマを深めることができ、「ロビンソン・クルーソー!」としか言わない山尾の発声の力も強かった。この二人をめぐる物語だけでも一編の物語として成立したのに、惜しいなとも思わせる。様々なトーンや速度の「ロビンソン・クルーソー」という言葉を船乗り(成冨時春)が通訳のような形で復唱(これもまた、うまかった)、突然「さあ、交代しましょう。声をもらうわ」と船乗りの首筋を吸って立場が逆転、船乗りが「ロビンソン・クルーソー」と叫び出すところの転換は鮮やか。連れ去られる船乗りを見送る怪鳥の姿も印象深かった。このような情緒面での深みも合わせ、そういう過剰なまでの詰め込みが、この劇の未整理な魅力であることは、再確認しておきたい。
 装置・美術は、ややアナクロっぽい雰囲気も含めて、なかなか洗練されていたが、舞台カミ手にせり出したような形でマッチ売りの少女が座っていたのは、席によっては見えにくかったのではなかったか心配。アナクロつながりでいくと、「男」(池川)の存在は、すこし唐十郎を思い出させたりした。吸血姫のような怪鳥、炎に包まれる街、少女の重要性など、エピソードの作り方にもやや似たようなところを感じないわけではない。
 マッチ売りの少女の天野は、特に長い独白を好演。すべてが彼女の一本ごとのマッチの炎の中に明滅した妄想であったかのように、全体を支配するような空気を創ることができていた。少女がマッチの炎の中に見る夢、民衆がヒーローの出現に見る夢、怪鳥らがロビンソン・クルーソーの地を探し当てようと見る夢、少年が炎の中に恋焦がれる禁断の夢、いくつもの夢、あるいは妄想を炎の揺らめきの中に見せては隠すような作品だったといえるだろう。もう一度見れば、もっといろいろなことがわかっただろうに、少し残念に思っている。

■(PS2)HOMURA (ホムラ)

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2007年5月 3日 (木)

尼崎ロマンポルノ「落爆の少年が添える花」3/10

尼崎ロマンポルノ「落爆の少年が添える花」 神戸アートビレッジセンター 3月10日の所見

 一度書きかけたのだが、どうしても事件のことそのものの周辺のことばかり書いてしまって、舞台のことに至り着かない。現実に起きた衝撃的な事件を題材にして創られた劇を観ると、どうしてもそのようなことになりがちだ。その現実をいきいきと、残酷なまでに再現しながら、どのように超えることができるか、それがまずはこうした劇の眼目となる。そのために作家たちは様々な仕掛けをこらしてきた。ぼく自身、すぐ思いつくだけでも、岩崎正裕、山崎哲、坂手洋二らの、リアリティにおいてすぐれた劇を見てきたわけだ。
 それにしても本作は、隠すことなく酒鬼薔薇事件を正面から扱い、「ノンフィクションです」と宣言までしている。神戸に住んでいるぼくにとっては、震災に続く衝撃的な事件であった一方で、震災のようには自分の中で継続的な問題と捉えることができていなかった。しかし、そのこと自体を問われるような思いもして、一般的な社会事象としてということではなく、鋭く熱く痛いテーマだった。
 観ている時にはわからなかったことで、後で事件に関する本を読んで腑に落ちたこともあった。少年Aの内的存在の一つであるエグリは、実際にその名の通りだったようだし、少年Aの性格や趣味のいくつか、医療少年院の中での母的な存在など、作者の創作であるかと思っていたいくつかのことが、「事実」であったことは、驚きだった。
 そのことで、劇としての本作の感動が薄れたかどうか、正直に言って、わからない。しかし、現実にはありえない荒唐無稽なことのように思えた設定が、実は現実であったということを知ると、実在の人間の闇のあまりの深さに、昏倒しそうになる。演劇は、芸術は、現実を超えることができるのだろうか、大変重いテーマを選んでしまったものだなと。そういうことだ。
 まず舞台の作り方として面白いと思ったのが、冒頭、いわゆるタンク山の塔の上と下とで、少年A(森田真和)と少年B(伊与顕二)によって掛け合いされる漫才である(なお、少年Aは「現実」に漫才や人を笑わせたりすることが好きだったそうだ。少年Bを想起させる存在も、実在していたようだ)。漫才をする同級生という限定的な関係とはいえ、そこでさえコミュニケーションを成立させるためには階段を激しく上り下りしなければいけないという設定、そして徐々に二人の関係がぎくしゃくして、少年Bがこの関係を拒否していくという流れは、一つの象徴として秀逸だった。演劇は、このように「現実」から「虚」を「構」えることができるのだと思った。
 もう一つ印象深かったのは、サイゴと呼ばれる医療少年院のカウンセラー(村里春奈)が自転車に乗っていること。自転車に乗って無邪気にはしゃいでいるようなサイゴに、いらつく青年A(堀江勇気)。建物の中を自転車で移動するという非常識をなじる青年Aの常識加減が面白くもあり、もちろん自転車というシンボルから不安定さや、回転していなければ倒れるといった喩としての面白さ、しかもそれは青年Aの属性であるのを、外在化してサイゴが乗り回しているというのも巧みな扱いだと思った。あっけらかんと陽性の明るい表情をした村里もいい存在感。
 なお、サイゴという名は、作者のオリジナルだろうが、青年Aにとっての双方向的な意味で「最後」の砦のような存在であることと、「サイコ」セラピストであることをかけているかと思われる。このせいで、ぼくはエグリという少年Aの中の存在を、エクリチュールとかけているのかと思ったが、エグリは実際に少年Aの命名によるものらしくて、命名それ自体の意味は不明。
 エグリ(山本和加子)は、少年Aの内面にあって、奇妙に魅力的な女性性によって少年Aを翻弄し、残酷さを引き出すような機能を果たす。設定としては妥当でもあり、魅力的なのだが、象徴的な意味づけによるものではあろうが、塔の上のゴンドラのような小さなスペースの中での演技に終始したことが、残念に思えた。もちろん少年Aの内部の存在ということだからと、理にはかなっているのだが、せめて終盤でいよいよ劇が混沌と渦を巻くようになるところでは、大きな動きが見られてもよかったように思う。
 さて、この劇団の一つのウリなのだろうが、歌の扱いについて、ぼくはあまりよく理解できない。この詞を音楽に乗せて歌い、振付も加えて踊ることで、この劇にどのようなプラスがあったのだろうか。しかも、劇はかなり進んで、観客が劇の中にずいぶん入り込んで同じ時間を共有しかけたようなところでのものだったので、かえって流れを中断するものになってしまったようで、残念だった。
 言葉が演劇として立ち上がってくるためには、音楽性や身体性というものは不可欠で、劇に歌を取り入れて成功している作品というのは、詞が歌われることで独特の昂揚や浮遊感が起き、前のめりな切迫感や緊迫感につながっているのだ。最近観たものでは、流山寺事務所(演出=天野天街)の「浮世混浴鼠小僧次郎吉」がそうだったし、寺山修司の「大山デブ子の犯罪」の劇団・太陽族による再演がみごとにそれを実現していて感心したが、そういえば太陽族は以前からうまく歌を取り入れていた。デス電所の歌の扱いもエンターテインメント的な昂揚がはっきりとねらいとして定められているようだ。少なくとも今回の作品においては、現実の事実の重みのせいか、詞を歌にすることで生じる浮遊感が切迫感となることがなく、うまく機能できたとは思えなかった。
 もちろんはっきりと分けられるわけではないが、この劇を見終わったときの何とも言えない澱んだようなずっしりした疲労感は、事実そのものの重さのためだったのか、それを劇とすることで新たに生まれたものだったのか。事実のあまりの重さのせいで、この劇を観たぼくたちは、両者を混同して、ややもすると劇の重みに目が向かない。しかし、10年前の14歳たちが10年を経て再現するようになぞったのは、様々な歪みや誇張や曲解といったブレやズレとともに、一人称としての少年Aや青年Aを誠実に(という言い方には違和感があるだろうが)生き直そうとする執念のような熱さがあったからだろう。
 あの事実そのものが、今なお様々な曲解に包まれているそうだし、ぼくたち一人ひとりにあの事実、そしてそれに連なる14歳たちの事件を「正しく」解釈することはできないだろう。この劇が誠実であったと思われるのは、とにもかくにも一人の人物の10年に正面から向き合ったこと、その人物の問題を自分自身の問題として、なぞる以上に生き直そうとすることができていたことだ。ただの解釈や批評であれば、それこそ象を評すようなもので、全容をつかむことなどできまい。だから、この劇は、その人物の中に入ることで生き直すということを試みたのだろう。先ほどの問いを発した趣旨とは矛盾するが、妙にあざとい解釈を施そうとすることなく、事実そのものの重さイコール劇の重さであることが実現できたという点において、この劇は大いに成功していたといえる。出演者やスタッフにとっても、非常につらい作業だったに違いない。
 その役者たちは好演。少年Aは、もう少年Aはこのような少年だったとしかぼくは思えない。固着的な性向、不気味な哄笑、孤独感を的確に表現する表情。この劇団の作品は初見だったので、これ以外の役ができるのかと思ってしまうほどの好演、適役だった。少年Bの普通さもみごと。ここではあまりに普通な好青年という役どころだったと思うが、ブレザーがよく似合い、不登校の少年Aに関わることになってしまったことが気の毒に思えたほど。青年Aの色白で神経質そうな前傾の役づくりもよかった。厳しいストーリーの中で、のほほんとした雰囲気を作り出せたサイゴも好演。あまりふれる機会がなかったが、少年Aと青年Aを翻弄していく黒幕ともいえる黒江を演じた千葉哲茂の、粘着力のある「いやな感じ」がとてもよかった。

http://www.geocities.jp/titiharahara/

↑ぼくが観劇後参考文献として読んだ本です。

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