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2007年7月

2007年7月31日 (火)

欠陥ロケット「落ちる灯の中」

7/21 ロクソドンタブラック

 ずーっと舞台の上にいる5人の登場人物の内、1人(待つ女=井上エミ)は、最後の最後までほとんど何もしない。アルバイト仲間の橘さん(渡辺展子)と小山君(井田武志。sunday所属)、喫茶店の店長・洋介(若旦那家康、ROPEMAN(29)所属)と日系ブラジル人の妻レイコ(もりたみえ)の2組がかわるがわる照明を当てられ、劇は進んでいく。徹底的にシンプルな舞台である。
 橘さんと小山君の会話は、ひどく淡々としていて、本当に今どこかその辺の駅前の自転車置き場で交わされているような調子である。洋介は、ずーっとスケッチブックに何かを描いている。レイコはそれにイライラしている。
 あくまで淡々とした会話を交わしたり、静かにスケッチブックに向かう他の3人がモノトーンな印象を与えるのとは対照的に、レイコはびっくりするほど奇抜でにぎやかで、服装だけでなく極彩色な印象を振りまいている。最初はブラジル出身とはわからないが、いかにもな体型、片言の日本語、ラテンなステップから、橘さんと小山君の会話でそれと知れたときには、なるほどと納得できた。
 洋介の思い詰めた表情、もう帰ろうと繰り返し誘うレイコに「もう少し、これを描き上げてから」と断る執拗なまでのこだわりの理由は、一体何だったのだろうか。本当のところは劇の中で明らかにされていない。ただ、洋介とレイコの後半の会話の端々、洋介が描いているのが若い女性であること、から徐々に何らかの理由で橘さんか小山君、または両方は、既にここにはいない、おそらくこの世にはいないのではないかということがわかってくる。しかし、謎だ。
 謎解きの鍵になるような言葉やエピソードは、探せば出て来はするだろう。去年4人で行ったお祭、今年は行けても2人でだ。洋介の言葉「橘さんは忙しい。ぼくの声なんか聞こえへんよ」ということは、橘さんは生きている? 橘さんは絵がうまかったらしい。小山君もデッサンを練習しようとしていた。レイコが「ヨーちゃんは、ずっと待ってる」と言い、洋介は「いいねん、それで」と答える。レイコは「毎日、健太郎(=小山)が店に来る。だから私は店を開ける」と言う。橘さんが小山君に「小山君は怖い? 自分がいなくなるって…」と尋ね、小山君は「覚えててくれるんやったら」と言い、「長生きする家系なんです」とはぐらかすが「ぼくのこと、覚えといてくださいね」と言う。ここだけを取り上げれば、小山君がもうこの世の者ではないようだが、最後には苛立ったレイコさんが、たくさんの封筒の束を抱えてくる。毎日洋介は橘さんの姿をせっせと描いては小山君に送っているが、全部宛先不明で戻ってきているよ、届いてないよ、というわけだ。
 わからないと言えば、小山君と待つ女の関係もわからない。橘さんと話しているときに、小山君にかかってきた電話は、彼女からだった。小山君の携帯ストラップは、彼女のとお揃いだ。でも小山君はそれを橘さんにあげてしまう。だから、小山君と橘さんの関係の、本当のところでの深さもわからない。待つ女は最後に小山君に電話をしているようなのだが、いつまでも出ない。
 いろいろな事態が想像できるが、どれも今ひとつしっくり来ない。劇の中の橘さんと小山君の二人の姿は、想像しうるどのような悲劇ともしっくりそぐわないように思えてしまうのだ。予想だにしないアクシデントを劇の外側に置いてしまうことは、劇に許されることなのだろうか。
 小説でも演劇でも、謎解きだけで終わってしまうのでは、成立しないと思う。端的に言えば、結論がわかっていても、何度でも観たくなるようなものでないと、意味がない。その意味で、この「落ちる灯の中」は、シモ手の二人(橘さんと小山君)とカミ手の二人(洋介とレイコ)という、過去と現在(であることは確からしい)を隔てることになってしまったある決定的な事件について、それがどのようなものであったか明示されないということが重要なのだろう。それがどのような事件であったかは、作者(井上エミ)にとっては二の次のことだったのではないか。もちろんそれは、作者の中ではもちろん、演出の現場では皆に共有されていたのだろうが、それにしてもなぜ観客には共有されなかったのか。
 つまりおそらく、その事件を明らかにすることで、何かが失われてしまうという判断があったのだろう。または、明らかにしないことで得られる何かがあると。それは、何か。
 それを明らかにしないことで、観る者がある種の宙ぶらりんな状態に置かれることは確かだ。そのことで、因果関係がはっきりすれば、それだけで安心してしまうが、そうでなければ、不安定でしょうがない。謎解きが謎解きで終わってしまうのは、謎がわかれば、興味も関心も離れてしまうからだ。明らかにされることによって矮小化されることがあり、それを恐れてのことだったのだろう。
 それに、作者がこの劇で描きたかったのは、大きな喪失感そのものとでもいうべきものであって、事実関係ではなかったのではないだろうか。ある事件によって誰かを失った洋介が味わっている喪失感は、洋介にとっては理不尽で不可解であると同時に、強く自責の念に駆られるような種類のものだったようだ。その思いと、それを何とかすくい取ろうとするレイコのややユーモラスな行動が、美しいコントラストを作り出している。
 小山君が橘さんに魅かれていたことは、まず間違いないだろう。この舞台の上で提示されていた時間から、待つ女が電話をかける時間まで、どれほどの時が経っていたのか(いなかったのか)、どれだけの出来事があったのかはわからない。その隔たり(時間は隔たっていないとしても)が、洋介の落魄ぶり、レイコの苛立ちと深い思い、橘さんと小山君の姿の奇妙な透明感、シンプルだが効果的で美しい照明、に結実したのだろう。
 以前、桃園会の芝居を観たとき、やはりその劇の背後にある決定的な事件について、最後までわからなくて、終演後に「ところで、何があったん?」と身も蓋もなく聞いたことがある。わかったからと言って、納得したわけでもないし、理解が深まったわけでもなかったように思う。事件というのは、明示してしまえば、あまりに非現実的だったりありえないことだったりして、逆に劇の感興を削ぐことにもなりかねない。そのためにも、最後までわからない、というのも一つのありようだ。
 役者は皆うまかった。飄々とスマートな橘さんに、ちょっとイケてないけど人のよさそうな小山君、動きの少ない忍耐の演技を徹底した洋介、本当にラテンの人のようにしか見えなかったレイコ、と皆この芝居を生きていたように思えた。
 

☆テディベア コム

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2007年7月25日 (水)

ハキダメトレイン「SCHOOL GIRL BYE BYE」

6月23日 ロクソドンタブラック

 生き返った死者=ゾンビの存在を日常の中に設定し、自殺してゾンビになった青年・小林の純愛とアイデンティティ・クライシス、彼を成仏させよう(=再び殺そう)と探している兄との応酬、納豆を椅子の上に置かれるといういじめに遭っている転校してきた女子高生ユミ、そんな物語が、スピーディに、しかも強烈な納豆のにおいの中で展開するという、破天荒な芝居。シリアスで叙情的な部分と、破壊的なギャグのコントラストが面白かった。
 ユミがいじめられるきっかけになったのは、転校初日、通学路で走っていて男子生徒とぶつかり、そのはずみで納豆のパックが頭についてしまったのを気づかないまま、クラスで「茨城から来ました。好物は納豆です!」と自己紹介をかましてしまったものだから、みんながリアクションに困って避けるようになり、次の日からユミの椅子の上には納豆が置かれるようになってしまった、ということだそうだ。むちゃくちゃな設定と、いじめの一因のリアリティのバランスが、なかなか好ましい。また、ここで全力疾走する男子生徒の姿が、ラストの小林の全力疾走と重なるのも、なかなか秀逸。
 一方のゾンビたちだが、微妙な師弟関係にあるようで、師匠格のほうはアパートの大家として生計を立てており、小林は居候的な存在。上階には女子高生が住んでいるらしい。
 高校生の間で、通り魔がいて、小指をかじられたという都市伝説的な噂が広がっていて、ユミをいじめているマナ、カナは盛り上がっている。ある夜、カナが襲われる。
 物語が展開するのは、小林がユミへの恋に落ちるところからだ。日光に当たると煙を噴いて溶けてしまうゾンビである小林は、夜中にしか出歩けないので、新月の夜に森に出かけると、ユミが丑の刻参りの装束で藁人形に釘を打っているのに出くわす。そこでの短いが印象的な会話で、小林はすっかり恋に落ちてしまうのだ。その後の場面で、小林が「2人で星を見るのに慣れて、1人じゃ、さびしい」と呟いて、生きるということを考えるところなど、非常に叙情的でありながら、一度死んだゾンビが生きるととは何かを考えるという根本的な矛盾がおかしくて、切なさが増幅する。また、2人は闇の中で会っているので、姿を見たことはないということになっている。ユミの「背中から声が聞こえる…支え合っているような」という独白、これは相手がゾンビであることを知らないから普通の恋の思いの吐露ではあるが、観る者はこの2人が支え合って生きていくことなどできないことを知っているから、なお切なくなる。うまい設定である。
 終盤で、小林はユミに顔を見せることになる。ゾンビだと告げる彼に、ユミは「関係ありません」と言い切り、小林は「俺の目を見て言える?」と帽子、包帯をとる。ユミはじっと小林を見つめて「やっと会えましたね。はじめまして」と言う。『ファントム』(オペラ座の怪人)なら悲鳴とともに女が駆け去るシーンだ。これを甘いと言わせない力が、この劇にはあった。この後での小林の泣き、すばらしい演技だった。
 ユミが何を呪っているのかは明示されていない。普通に考えれば、自分をいじめているマナやカナを呪っているということになるのだが、どうもそのようには見えてこない。ユミは入院したカナを見舞いに行くし、マナはユミに謝りたいと思っていることを舞台では見せており、このいじめの関係を劇の中では決定的なものとは描いていないように思われる。理由のないのろい、存在への不快、といったものなのだろうか。
 続くシーンでユミは、この劇の冒頭で仮面の男がしていたように、首を吊って死のうとしている。時間を前後させるか先取りして、彼女が小林の行為を追体験(未来体験)しようとしたと考えられなくもない。それを止めようとする大家とのドタバタ、真面目くさっているユミと、ゾンビであることを言えずにしどろもどろしている大家のコンビが大変面白かった。よく劇の中で、前後の脈絡なく(と思えるように)アドリブコーナーとかお笑いのシーンを挿入して息抜きをさせるものがあるが、だいたい成功しない。日常の中には必ず笑うような時間があるのだから、それをうまくデフォルメして挿入すればいいのに、わざわざ劇の流れを切ってまで笑いを促すのは理解できない。その点、ここでの笑いは、ゾンビであることから必然的に導き出されるもので、腑に落ちもし、劇の流れに乗っていてよかった。
 小林の兄がいよいよ小林を殺しに来るところでは、兄のあくまでクールな演技にやや違和感を持つが、それも弟への熱い思いとのアンビバレントな思いを押し殺した表情であったようだ。ここでの兄弟の議論はなかなか熱く、人の生き死にということ、自殺ということ、自殺された家族の思い、などを余すところなく掬いとっているようだ。自殺してゾンビになった弟が「こんな姿になってやっと自分のやりたいことがわかった」とか、「生きてるってことが楽しいと思えるようになってきた」とか、「死にたくないんだ」と言うのは、大いなる矛盾だが、その矛盾をきっちりと成立させているのがいい。
 最後はいささか強引だが、兄がユミを人質に取り、明日の昼迎えに来ることを約束させる。ゾンビは日光に当たると死ぬということを知ってのことである。もちろん小林は、自殺的行為をとる。滑稽なのは、日焼け止めを塗ったり、傘をさしたりすることなのだが、アパートから森まで、全力疾走している間に死んでしまわないように、少しでも日光の摂取を防ごうという処置なのだ。こういう滑稽さは、悲しい。そして、疾走するゾンビは、納豆やらペンキやらでドロドロになってユミのもとにたどり着き、ドロドロの小林をユミは抱きしめ、すさまじい納豆のにおいの中、小林は息絶える。劇の中でも、本当にゾンビの腐臭がしていたにも関わらず、ユミは小林を強く抱きしめたんだよ、ということがよくわかり、それを強調したい作者の声が聞こえてくる、劇として衝撃的なエンディングだ。
 これまた余計なことかも知れないが、当日配布のプログラムでキャストと配役がわからなかったのは、不満。また、開演前に仮面の男が舞台上で火のついていないタバコをふかしてスタンバイしていたのだが、立ち方、居方のスタイルができておらず、また観客への態度も不明瞭で、非常に雰囲気が悪かったのは、マイナスだった。もったいない。

■【女子高生が好きな香りNO.1】ブンブンマスカット

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彗星マジック「まぼろし楽団」

5月27日 ロクソドンタブラック

 アコーディオン、ギター、ベース、リコーダー、ボーカル、そして指揮と、出演者による楽団の奏でる音楽によって進められていく、いわば音楽劇。だからその音楽の出来によって劇の印象が左右されてしまうということもあって、いささか微妙なことになる。ぼくが一番気になったのは、指揮者の身ぶり。確かにこれは難しかったとは思うが、膝を動かし過ぎていたように思う。
 残念だったのは、この楽団が静かな音楽を淡々と奏でるタイプの演奏をしたことだろう。静かさの中で、どうしてもあらが目立ってしまうのはやむを得なかった。さて、それでは、進行とともにそのあらを忘れさせるような流れをこの劇が作り得たかどうか、それを見ていくことが、この劇がどれほど観客を引き込んだかを測ることとなるだろう。
 この劇は、登場人物の数名の物語による連作短編のような構成となっていた。リコーダーを吹くアザミ(もりのくるみ。フリー)ら少女たちの「春笛」発見の物語。もともと鳥だったボーカルのキウイ(田村めぐみ。劇団製造迷夢)が、飼い主のユッカ(小永井コーキ。フリー)と引き離され、権力者によって声も美しさも奪われるという悲しい物語。…それらの物語が一つ一つ綴じられていくごとに、物語の謎が一つずつ解けていく。後にパウロという名であることがわかる青年(山本正典。フリー)が持っていたクシャクシャになったチケットは、かつてそこにあった楽団の最後のコンサートのチケット。ここは楽譜と音楽が流れ着く場所で、既に命を終えた楽団員が集まる場所であるという。彼らが一つずつ語る、戦争と人々の物語。固いつぼみが時間をかけて開いていくような印象の構成をもった劇である。設定や印象は優しく穏やかな物語のようなのだが、一つ一つの物語はアイロニーと悲劇に満ちている。雪深い常冬の小国で発見された「春笛」を奏でたところ、暖かな陽光が射して雪が融け洪水となり、その国は湖になってしまった、とか。
 それらの物語は、すべて一つの戦争によって生まれてしまったものである。そもそもその常冬の国が失われてしまったために、人々は新しい天地を求めて、戦さが始まったのだ。この物語の中心となるのは、ベース弾きの弟ムグラ(八木進。劇団どろ所属)と姉の人形作りで耳の不自由なヤマヒメ(西出奈々)の物語だろう。とても魅力的な物語なので、詳しく紹介したいのだが、複雑でもあり肝心なところを理解できていないかも知れないという不安もある。…姉は弟の演奏の相手にするためにアコーディオンを弾く自動人形(オートマタ)を作っている。それがアシタバ(木下朋子)だ。耳の不自由な姉だが、音楽がわかるらしく、弟の出演するコンサートには欠かさず足を運んでいる。両親を亡くして姉が細々と家業の人形作りを継いでいるようだが、生活は苦しい。やっと正団員になれるという弟のコンサートに行くにも、ドレスを売って入場券を工面する始末。弟はアシタバに、身の回りの物を売ってまでコンサートに来ないよう、お前からも言ってくれ、と懇願する。「もう、身を削らないで…」と。そうこうしているうちに、戦況が悪化、オーケストラのメンバーも軍隊に志願し、コンサートは中止になってしまった。弟は、向こうの軍隊を率いているのは、マエストロらしいから、コンサートホールは安全だとそこに残る。コンサートが中止になったことを知らない姉は、地面に耳をつけて銃声の響きを聴き「いい音…」と陶酔している。姉が心配になって弟が帰ってくるが、弟はアシタバを庇おうとして撃たれてしまう。姉が気づき、暗転。
 ここで劇の冒頭を思い出して重ね合わせると、パウロはこの姉ヤマヒメと三〇年間暮らしていたようで、劇の冒頭で別れを告げ、旅に出ていた。祖母の友人に会いに来たと言っているから、ヤマヒメの三〇歳になる孫ということになる。そしてこの旅は、時空を超えた旅である。「向こうの軍隊」とは、劇の序盤に出ていた常冬の国出身のまさに指揮者カタバミ(太田真紀。演劇ユニット明朗会計)が指揮する軍隊のことで、彼女は捕虜に「お前が音楽を人殺しの道具にしているカタバミか!」と非難され、自問しつつ、撃たれて死ぬ。このように、一つの戦争を様々な物語によって綴れ織りのように語ってきた。この語り口は静かでしみじみとしており、展開も美しい。ただ、そのわりには演技や発声が大きすぎるようなところが気になった。静かにしみじみと語ってほしかったところで、バタバタとしてしまって、やや興を削いだところがある。
 その三〇年間、ヤマヒメは孫のパウロに一つの音楽をオルゴールとして刻み込んでいた。アシタバにはそれが聞こえるらしい。それは、あの時にヤマヒメが聴いた戦争そのままの音だったのだ。人々からその音が忌み嫌われていたことの理由もそれで明らかになった。パウロは「なんで、ぼくを作ったの!」「ぼくは、忘れられなきゃいけないんだ!」と痛切に叫ぶ。戦争の音だから、嫌われて、揚句の果てには壊されて…という嘆きだが、その後それはそういう理由ではなく、それを壊すことによって誰かが悲しまなくなるならと思って壊した、本当は戦争の音楽ではなく、戦争によって亡くなった弟のことを思って作った音楽として世界に届けたい、という心情が吐露される。そしてカタバミに代わって新しい音楽を得たパウロが指揮者として、戦争によって失われた音楽を「心あるあなたに」届けよう、と劇は終わっていく。
 非常に複雑だが、美しい終わり方である。しかし、何か肝心なことを聞き漏らした、理解できないでいるような感覚は残っている。もう少し筋の運びを整理できなかっただろうかという思い。そして、せっかく複雑で複線的な物語が螺旋状に回転するような昂揚を示すのに、やはり演奏のシーンになると少し白けてしまったことを残念に思うという点。パウロの音楽がオルゴールという物に外化されていることについてのためらい。それらのことが残念な点としては残っているが、たっぷりした見ごたえと、大きく美しい物語を作ろうとした壮図、かなりの水準で実現し得た実力は、すばらしいものだと思う。
 キウィの歌声の美しさ、アシタバの存在感と愛らしさが強く印象に残っている。ヤマヒメの演技力もすばらしく、特に耳の不自由な人の演技はリアルだったが、ややリアルすぎるようにも思え、ある程度のところで様式化しておいた方がよかったようにも思えた。余計なことだが、開演前の前説が、やや過剰に思われた。

■『楽器別クラシック名曲集』

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2007年7月23日 (月)

漢魂「キャミソール刑事」

6月1日ロクソドンタ・ブラック

 一度見たら二度と見たくなくなるようなインパクトの強いチラシ、キャミソールを着てきた男性は割引、などとあざとい仕掛けに満ちた公演で、おまけに当日プログラムには代表の某の緊急入院によって、内容が当初予定していたものとはずいぶん変わってしまったとのお詫びが記されていた。そのため、コント集になってしまうとか、未完成なものになってしまうのかと危惧されたが、とりあえずはコメディとして一定のまとまりは示せていたと言えるだろう。
 ドラッグストアで制汗スプレー「8×4」だけを狙った強盗が出没、しかもその強盗は警察のマークをつけたキャミソール姿の男だという。捜査に向かう刑事たちは、証拠品のキャミソールを自分のポケットに突っ込んでいたり、プロファイリングと称してインターネットで犯人の検索をしようとしたり「ムー」を愛読していたりする山田将之をはじめ、ふざけているとしか思えないような面々である。
 一方の犯人側も、やたらと銃を使いたがる子分(加納雅也)、カレーしか食べず、くだらない語呂合わせで次の襲撃先を決める親分(森島達也)と、おふざけ加減では負けていない。
 こんな両者の捕物劇だから、まともに展開するわけもなく、途中で犯人を追っていた刑事のヤマさん(大木花男)が、親分を追い詰める。自首するという親分に「早まるな」とその心意気を気に入って刑事として採用するというくだりなど、失笑したくなるほどの展開。
 さて、失笑という言葉を使ったが、彼らの、少なくとも今回の舞台に関しては、失笑を買うような部分こそが大きな魅力になっている。新喜劇的な笑いではなく、ナンセンス・ギャグの笑いと言っていいのかも知れない。ボケが中心というのは新喜劇ではそうだし、多くの漫才でもそういう例はあると思うが、ボケることによって好感度を増し愛される存在になっていくというのではなく、ヒーローを作らないことにこだわっていて、脱力するようなジョークによって展開するだけという中心不在の志向であるように思う。
 また、この劇には異物感のある存在が二つあって、奇妙な味わいを出していた。一つは爬虫類のような宇宙人(または骸骨)。これは実に全くわからない。ヤマさんと山田に囲まれた加納がピストルを連射すると山田がカンフーよろしくネギ(張り込み用にカレーの材料を買ってきていた、というわけで)を振り回して弾をよけていると(ここの山田の動き、シャープで素晴らしかった)、いきなりその宇宙人が飛び込んできて釣り銭を渡し、身代わりのようにして撃たれてしまう。かと思うといつの間にかまた生き返っていて(?)自然にゲームに入って勝って帰っていく。そういう存在である。超常現象を好きな山田が生み出した幻視のようなものともいえず、非常に理解しにくい。おそらく、何の脈絡もなく奇妙な存在を出したかったのだろう。
 もう一つの異物は、背広姿で登場する刑事、谷村欣也である。同じ刑事でありながら、ヤマさんと山田の話の輪に入れず、意味なく疎外され続けている。時折「仲間に入れてください!」と叫ぶが、軽く無視される。疎外される理由は劇の中で何も説明されない。谷村が主人公であれば、不条理劇にでもなりそうな無理由である。
 劇のラストは、骸骨(宇宙人)と加納が何事か話したあと、実はこの登場人物全員に嫌疑がかかっていて、観客の拍手が一番大きいのが犯人だということになる。ぼくが観た回は、サクラのせいかヤマさん(大木)になったのだが、顔にパンストをかぶせて風船を入れ、膨らませて破裂させるという罰ゲーム。途中の大喜利風なアドリブといい、ゆるく締まりのない終わり方が、またこの劇の終わりらしくて、軽く納得させられた。
 音楽やダンスをふんだんに使って、結構レベルが高く、自分たちのやりたいことをやりたいふうに突き詰めて行っている男たちであるように思えて、なんとなく好感が持てた。劇団名の漢魂からメンのソウル、メンソール、キャミソールというのも、ベタで頭を抱えたくなる。

http://mensoul.onushi.com/top.html

Lovely☆フェミニンSweet レース キャミソール 

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2007年7月 5日 (木)

ボイヤーチーム「ハイパープラズマ店員」 7/1

ボイヤーチーム「ハイパープラズマ店員」 7/1 

若い人のお芝居を観ていると、その言葉の使い方や小道具や小ネタの背景となっているらしい世界のことがとても新鮮に思えて、それだけでへぇーっと感動してしまうことがある。今回はコンビニのアルバイトの青年たちが地球を侵略しようとするスペースインベーダーから地球を守ろうとするという物語で、コンビニで働く現場がベースとして前提されているのが、奇妙に面白かった。
 宇宙人に拘束されている元店員AJ(「リフレイン・リフレイン」にも出ていた赤阪千明)が、複層的にスパイの役割を演じていたり、老いた元店長ジャスティス(中舘淳一郎)が謎めいた格好で謎めいた存在として現れたり、発注担当のプロと言われていて、今もその端末(ゴットというらしい)を離さないばかりか、ゴットにGPSや電話などの様々な機能を付加しているドゥビダバンク(データバンク)、棚の陳列に異能を示していた、フラフープがうまくてスリムでかわいいムギちゃん(南のうお座のフレーバー)とコンビニ店員も多士彩々だ。スペースインベーダーの面々も非常に奇抜で、一人の男爵は後述のように巨大なロボット、もう一人のノートシーゴ男爵(ブログ太久麻呂)は小猿のぬいぐるみで、黒子が操作している。彼らよりもエイリアンみたいな不気味で邪悪な存在なのが、コンビニの残飯(廃棄、というらしい)をブーメランのように投げて相手を殺す殺人鬼ダークサンタ(勇気ブレイブ)で、コンビニ店員たちを皆殺しにしたり、でもすぐに生き返るものだから、意味があるのかないのか。
 しかし、実はこの劇の眼目は、劇の外側にあったといえるかもしれない。プログラムに書かれていたように、「ケータイ使ったり、写真撮ったり、飲み食いしたり、喋ったり、」してもいいと、つまりはテレビでも見ているような感じで見てくれ、そして「スーパーB"O"Bシステム」と名づけられているのだが、QRコードを使って携帯電話でメッセージを送ると、舞台奥に投射されるというインタラクティブな(?)仕掛け。観客が芝居に「匿名でツッコミが入れられる」という画期的な仕掛けである。
 これらのおかげで、客席が緩く和んでいたことは確かだろう。さらにこの緩さを支えていたのは、段ボールでぞんざいに作られたようにしか見えない小道具であったり、意識して見せられる演技や演出のほころびであったりする。それに気づけば、観客は、鬼の首でもとったような気がして、携帯からツッコミを入れ、それが投射されて共有され、笑いを誘ったりするものだから、参加意識が高まってもいくというものだ。
 どういう経緯でか、その導線となっていたのは、スペースインベーダー側のマージャクシ男爵という、巨大かついい加減な作りで移動にも不自由を来している段ボールを紐でつないだかぶりもののロボットを演じていた出口雅敏(アホスタイル)。元は地球人だったミス・ヨーコ婦人(赤阪。このカンパニーでは脳弱モヱ子。ミスなのに婦人というのも、一つのツッコミどころなのだろう)とのやりとりの中で、「さっきから気になっていたんだが、顔はもっと上の方だ」などと、ベタでメタなコメントで笑わせたりするのが、楽しい。これは、本来なら稽古場の演出の場面で交わされる言葉だ。巨大段ボールロボットの顔は遥か上の方に(涙まで添えて)描かれているのに、ミス・ヨーコ婦人は、どうしても中に入った人間の顔が透けて見える辺りに向かって話しかけてしまう。
 これは(皮肉ではなく)非常に優れた演出である。このことに代表される、いくつもの舞台以前であるかのような言説によって、このコメディは単に笑うための劇であるにとどまらず、演劇を、笑いを成立させているものを問い崩す劇となる可能性をもったわけだから。
 マージャクシ男爵は、はなはだいい加減なお調子者で、結局は殺されてしまうのだが、その最期のシーンもドラマティックにはしない。アンチクライマックスであり続けることによって、一つの空気を作ろうとしていることが明確だ。それを大いに助けているのは、前述の「スーパーB"O"Bシステム」である。劇団のスタッフもサクラで「投稿」していたようだが、実際にぼくの周りでも何人かが送信していたし、的を射たコメントには、劇の流れとは別に笑いが起きたりもした。つまり、劇が劇の内側だけで成立しているのではなく、外側からツッコミを入れられることを容認して成立していたということだ。
 これは、随分危険なことだったことはいうまでもない。フィルターがかからないわけだから、どんな野次や否定辞が投げられるか想像もつかないし、ネタばれされるおそれだってある。つまらないコメントで白けてしまうおそれもあるし、要するに劇が壊れてしまうおそれだってないとはいえない。
 それを回避するために、おそらく脚本・演出の(主役のチースケを好演)は、わざとこの劇を緩く作ったのではなかったか。つまり、ツッコミどころを適当にちりばめておくとか、アドリブまたはアドリブのように見えるシーンを多くしておくとか、役者が素の姿を見せるような場面を作っておくとか、役者にあまり達者な演技をさせないとか。
 おそらくぼくたちは、きっちりとその罠にひっかかった。これらの計画された緩さについては、おそらくベターポーヅであるとか、ぼくのあまりよく知らない東京の若手劇団の流れに位置づけられるのかも知れないが、コンビニ店員、フリーター、ホームレス、といったリアルな空間と地球を侵略云々というバーチャルな世界の、いい加減な結び付け方が、また安易で、なかなか面白かった。

http://boiya-team.com


Hello Kitty × SPACE INVADERSハローキティ×スペースインベーダーフェイスタオル

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