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2007年7月31日 (火)

欠陥ロケット「落ちる灯の中」

7/21 ロクソドンタブラック

 ずーっと舞台の上にいる5人の登場人物の内、1人(待つ女=井上エミ)は、最後の最後までほとんど何もしない。アルバイト仲間の橘さん(渡辺展子)と小山君(井田武志。sunday所属)、喫茶店の店長・洋介(若旦那家康、ROPEMAN(29)所属)と日系ブラジル人の妻レイコ(もりたみえ)の2組がかわるがわる照明を当てられ、劇は進んでいく。徹底的にシンプルな舞台である。
 橘さんと小山君の会話は、ひどく淡々としていて、本当に今どこかその辺の駅前の自転車置き場で交わされているような調子である。洋介は、ずーっとスケッチブックに何かを描いている。レイコはそれにイライラしている。
 あくまで淡々とした会話を交わしたり、静かにスケッチブックに向かう他の3人がモノトーンな印象を与えるのとは対照的に、レイコはびっくりするほど奇抜でにぎやかで、服装だけでなく極彩色な印象を振りまいている。最初はブラジル出身とはわからないが、いかにもな体型、片言の日本語、ラテンなステップから、橘さんと小山君の会話でそれと知れたときには、なるほどと納得できた。
 洋介の思い詰めた表情、もう帰ろうと繰り返し誘うレイコに「もう少し、これを描き上げてから」と断る執拗なまでのこだわりの理由は、一体何だったのだろうか。本当のところは劇の中で明らかにされていない。ただ、洋介とレイコの後半の会話の端々、洋介が描いているのが若い女性であること、から徐々に何らかの理由で橘さんか小山君、または両方は、既にここにはいない、おそらくこの世にはいないのではないかということがわかってくる。しかし、謎だ。
 謎解きの鍵になるような言葉やエピソードは、探せば出て来はするだろう。去年4人で行ったお祭、今年は行けても2人でだ。洋介の言葉「橘さんは忙しい。ぼくの声なんか聞こえへんよ」ということは、橘さんは生きている? 橘さんは絵がうまかったらしい。小山君もデッサンを練習しようとしていた。レイコが「ヨーちゃんは、ずっと待ってる」と言い、洋介は「いいねん、それで」と答える。レイコは「毎日、健太郎(=小山)が店に来る。だから私は店を開ける」と言う。橘さんが小山君に「小山君は怖い? 自分がいなくなるって…」と尋ね、小山君は「覚えててくれるんやったら」と言い、「長生きする家系なんです」とはぐらかすが「ぼくのこと、覚えといてくださいね」と言う。ここだけを取り上げれば、小山君がもうこの世の者ではないようだが、最後には苛立ったレイコさんが、たくさんの封筒の束を抱えてくる。毎日洋介は橘さんの姿をせっせと描いては小山君に送っているが、全部宛先不明で戻ってきているよ、届いてないよ、というわけだ。
 わからないと言えば、小山君と待つ女の関係もわからない。橘さんと話しているときに、小山君にかかってきた電話は、彼女からだった。小山君の携帯ストラップは、彼女のとお揃いだ。でも小山君はそれを橘さんにあげてしまう。だから、小山君と橘さんの関係の、本当のところでの深さもわからない。待つ女は最後に小山君に電話をしているようなのだが、いつまでも出ない。
 いろいろな事態が想像できるが、どれも今ひとつしっくり来ない。劇の中の橘さんと小山君の二人の姿は、想像しうるどのような悲劇ともしっくりそぐわないように思えてしまうのだ。予想だにしないアクシデントを劇の外側に置いてしまうことは、劇に許されることなのだろうか。
 小説でも演劇でも、謎解きだけで終わってしまうのでは、成立しないと思う。端的に言えば、結論がわかっていても、何度でも観たくなるようなものでないと、意味がない。その意味で、この「落ちる灯の中」は、シモ手の二人(橘さんと小山君)とカミ手の二人(洋介とレイコ)という、過去と現在(であることは確からしい)を隔てることになってしまったある決定的な事件について、それがどのようなものであったか明示されないということが重要なのだろう。それがどのような事件であったかは、作者(井上エミ)にとっては二の次のことだったのではないか。もちろんそれは、作者の中ではもちろん、演出の現場では皆に共有されていたのだろうが、それにしてもなぜ観客には共有されなかったのか。
 つまりおそらく、その事件を明らかにすることで、何かが失われてしまうという判断があったのだろう。または、明らかにしないことで得られる何かがあると。それは、何か。
 それを明らかにしないことで、観る者がある種の宙ぶらりんな状態に置かれることは確かだ。そのことで、因果関係がはっきりすれば、それだけで安心してしまうが、そうでなければ、不安定でしょうがない。謎解きが謎解きで終わってしまうのは、謎がわかれば、興味も関心も離れてしまうからだ。明らかにされることによって矮小化されることがあり、それを恐れてのことだったのだろう。
 それに、作者がこの劇で描きたかったのは、大きな喪失感そのものとでもいうべきものであって、事実関係ではなかったのではないだろうか。ある事件によって誰かを失った洋介が味わっている喪失感は、洋介にとっては理不尽で不可解であると同時に、強く自責の念に駆られるような種類のものだったようだ。その思いと、それを何とかすくい取ろうとするレイコのややユーモラスな行動が、美しいコントラストを作り出している。
 小山君が橘さんに魅かれていたことは、まず間違いないだろう。この舞台の上で提示されていた時間から、待つ女が電話をかける時間まで、どれほどの時が経っていたのか(いなかったのか)、どれだけの出来事があったのかはわからない。その隔たり(時間は隔たっていないとしても)が、洋介の落魄ぶり、レイコの苛立ちと深い思い、橘さんと小山君の姿の奇妙な透明感、シンプルだが効果的で美しい照明、に結実したのだろう。
 以前、桃園会の芝居を観たとき、やはりその劇の背後にある決定的な事件について、最後までわからなくて、終演後に「ところで、何があったん?」と身も蓋もなく聞いたことがある。わかったからと言って、納得したわけでもないし、理解が深まったわけでもなかったように思う。事件というのは、明示してしまえば、あまりに非現実的だったりありえないことだったりして、逆に劇の感興を削ぐことにもなりかねない。そのためにも、最後までわからない、というのも一つのありようだ。
 役者は皆うまかった。飄々とスマートな橘さんに、ちょっとイケてないけど人のよさそうな小山君、動きの少ない忍耐の演技を徹底した洋介、本当にラテンの人のようにしか見えなかったレイコ、と皆この芝居を生きていたように思えた。
 

☆テディベア コム

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