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2007年12月 5日 (水)

『それからのアリス』11月23日 福岡市民会館

悲劇としてのアリス

Alice_2  よしもと版、ミューズ版に続いて3度目のサイトウマコトの振付・演出によるバレエ作品<アリス>は、福岡で「アリス」に田中ルリを迎えての上演となった。これまでの<アリス>との相違点を追いながら、今回のアリスの魅力を見ていこう。

 まず、「ルイスキャメラ」(山口章)という存在が追加された。彼の手の甲に装着された小型カメラがとらえた映像が、舞台カミ手のベッドの奥に仕切りのようにしつらえられたスクリーンに映し出され、それを精神を病んだ「それからのアリス」(東福寺弘奈。ダンススタジオ・ユリサ)が見続けている/見させられている、というしくみになっている。

 その映像は、赤松正行のオペレーションによって、加工されたりされなかったりするし、ワイヤレスカメラの性能のせいで左右に白いノイズが走ったりする。そのノイズが、不思議に観る者の感情にシンクロしたり、情緒的な昂揚を引き出してしまったりするのが面白い。色彩もモノクロになったり飛んでしまったりして、過去や夢の中の映像というものの持つ「遠さ」が明瞭に強調され、アレ、ブレ、といったノイズの不確実性が記憶や夢そのものであるような逆さまの現実感を喚起させた。

 この仕掛けによって強調あるいは混乱させられたのが、「アリス」(田中ルリ)と「それからのアリス」の関係である。ほとんどの時間、「それからのアリス」は舞台中央にも観客にも背を向け、ただスクリーンに向かって、ベッドに腰かけたまま、舞台上で舞い踊る「アリス」の映像を見ている。時間軸だけから言えば、それは現在の存在が過去を回想しているという単純なことなのだが、なかなか一筋縄では行かなかったように思う。

 彼女は一体何を見ていたのだろうか。「それからのアリス」は、「アリス」がもう一つのひじょうに豊かで楽しい世界を持ち得ている幸福な少女時代を終え、その至福ゆえに思春期以降には外界(おそらくは平凡で時には苦痛を伴うような世界)との関係をうまくとることができずに錯乱し、入院している姿だと思われる。つまり、時間軸に沿っていえば、「アリス」は「それからのアリス」にとっては過去の時間の中の存在であるということになるはずだ。

 しかし、ここでは「ルイスキャメラ」(もちろん『不思議の国のアリス』などの原作者であるルイス・キャロルをもじった命名)の介在によって、過去と現在と未来が攪拌され、「それからのアリス」と「アリス」は直接向き合いさえする。つまり、この二者の間には一方的な回想という時間の流れしかないのではなく、両者が双方向的に見る/見られる関係になっているわけだ。過去を顧みることは治療の一環であるだろうが、「ルイスキャメラ」はまだ過去に直面できるほど治癒していない彼女に、無理矢理過去を見せつけているようにも思われる。「アリス」が未来の自分である「それからのアリス」を見ることは、この場合残酷なこと以外の何ものでもない。まるでそれが裁判で決められた刑のようでもある。

 「それからのアリス」が入院患者らしく青白く化粧っけのない顔色をしていたのに対し、「アリス」が目鼻立ちのはっきりとした生気ある表情をしていたのは当然だが、虚脱して操られているように機械的で虚無的な動きをとる大人の「それからのアリス」に比べ、少女の「アリス」がかえってコケティッシュな女の魅力を振りまいているように見えたのも、おもしろい。これまでの「アリス」が、当時中学生だった斉藤綾子による思春期直前の少女性そのものであったり、身体の質量をほとんど感じさせない康村和恵であったのに対し、田中は既に女性の身体と感情を持った存在として現れていた。だからこそ逆に、「それからのアリス」の東福寺が、それらを喪失した虚身性を強調して現れることができた。つまりその変化が、単に時間の経過による成長の物語に付随したものではなく、少女性の中に萌芽している女性性をはっきりと提示することによって、「アリス」のその後の物語が、強奪され喪失した物語であることが明確化されたわけである。

 東福寺というダンサーは、後ろ向きにベッドに腰かけた背中からも放心や虚脱や喪失を感じさせることができていた。動きには潔さを感じさせる瞬発力と速度があった。身体の反った線がとても美しく、アクロバティックな強い動きに切なさが湛えられている。そして何よりも、物語と振付をよく理解し、強い感情と喪失感を秘めていることがわかるような独特の粘りがあったのがよかった。「ルイスキャメラ」とのデュエットも美しくいい雰囲気をかもし出していた。

 さて、改めて、「ルイスキャメラ」とは何/誰か。それは治療者であり、通底器である。原作者に似た名を持っているからといって、彼が物語のすべてを把握し支配しているわけではなく、「それからのアリス」に同伴して彼女の回復を願い、手助けしているようでありながら、本当は過去と決別しなければならない「それからのアリス」に対して、治療という名目で過去の「アリス」を見せつけることで、その回復を妨げている。回復した彼女が自分の庇護下から離れていくのを恐れているのかも知れない。そして彼の手の甲のカメラは、もちろん画像を送るだけではなく、アリスの過去と現在を通底させ、アリスの内面と外面を反転し惑乱させる。

 「ルイスキャメラ」という大役を務めた山口は、実際に長身でスマートなダンサーでもあるが、カメラであることに徹するために無表情を貫き、そのために彼が「それからのアリス」にどのような感情を持っているかはなかなかわからない。手の甲のカメラは、彼が意志を持って視界を選択・編集する彼自身の目ではないと考えた方がいいと思う。彼自身が、何ものかに動かされているように見えるようなシーンさえあったことが、非常に印象的だった。おそらくはこの作品全体の大きなテーマの一つであると思うが、不随意的に何ものかによって動かされてしまっているという感覚を、実に的確にあらわせていたように思う。後半のダイナミックなダンスも、長い四肢の魅力を存分に発揮した、スケールの大きなものだった。

 登場人物の多くが、ほとんど出づっぱりだったのも、大きな変更点の一つだ。ギャラリーとして各場面に「帽子屋」(原田高博)や「チェシャ猫」(柏木沙織。三ノ上万由美バレエ・スタジオ)など多くの人物が姿を見せていることが、ここでのすべての出来事の証言者としての役割を果たしているようで、大きな効果を出していた。

 それが最後の裁判の場面での緊迫と昂揚につながっていったのではなかったかと思われる。「アリス」に代わって直接的に「ハートの女王」(夏山周久)に裁かれ、弑されるのは「ジャック」(ヤザキタケシ)だが、トランプのジャック=ジョーカーがどのカードにでもなるように、その時の彼は「アリス」でもあったのかもしれない。その「ジャック」の末期は、実に悲劇的で孤独だった。それは、「アリス」(というのは「ジャック」本人かもしれないわけだし)以外の他の誰もが、「ジャック」の悲劇を悲しんでいないからだ。事ここに及んでは、「ハートの女王」の強権の前に、皆は感情を殺して無表情な存在になってしまう。そこから突き抜けているのは、「アリス」だけである。

 たとえば、「ダイヤ」「クラブ」「スペード」の各女王(順に青柳理恵、三上万由美バレエ・スタジオ。眞島左妃、ダンススタジオ・ユリサ。北崎珠子、田中千賀子バレエ団)が腕を左右に出して平面的にしか動かないのは、もちろんそれがトランプのカードだということを表わしているのだが、無表情でリリースのない佶屈しているような定型的で機械的な動きからは、この役の性格であるところの一面性、感情や人間性の欠如、すさまじいまでの威風を帯びた「ハートの女王」に追従する没個性、官僚性などがにじみ出ていて、的確な振付であり、それをよく理解した動きだったといえよう。
 大きな土管から顔を出す「ジャック」のヤザキについては、いつも観ているし、安心して観ていていいのだろうと思っていたが、やはりなかなかどうして、非常にスケールの大きなダンサーであることを、改めて認識することができた。普段は100人とか50人とかいった小さなキャパの会場で観ているが、このような1000人規模の舞台で、いっそうその存在感の大きさを感じることができたのが、うれしい。ピエロのようなコミカルさとシリアスさを併せ持った哀しみを、大きな振幅で表現しきれていた。

 ヤザキがバレエの中のコンテンポラリーダンサーということである種の違和を作ることで「おいしい」ところを持っていったように、「ネズミ」の中島GEN元治がストリートダンスを主体とする柔らかな動きやストップモーションを効果的に使った。もっと図々しく前面に出てきてもよかったと思わせるほど、ワンポイントに徹し、控えめで品があった。配下のSection.G所属のダンサーたちも、10羽の「鳥」役で力強いユニゾンを踊り、時間の流れ方の異なるダイナミックな動きをしていたのが、舞台のメリハリを作って効果的だった。

 「チェシャ猫」の柏木、「眠りネズミ」の石橋理恵(田中千賀子バレエ団)、共に柔らかさがある種の倦怠感を誘い、アンニュイな魅力となったのがよかった。柏木は猫というより、もっと軟体でセクシーで、「ウサギ」(新井崇)にしなを作って見せたり、ダラリとした雰囲気が役に適っていた。石橋は、速度と鋭さと柔らかさを活かして、「帽子屋」(原田)らとのテーブルをめぐる軽快なダンスでも高い緊張感を出せていた。
 「伯爵夫人」(高橋智子、高橋さと子バレエ・スタジオ)が口パクで歌を歌うバックで皿を空中に放り投げ続ける「料理人」(岡祥子、井上真喜子バレエ・アート)という奇妙で印象的なシーンも、岡のイノセントな無表情、美貌の高橋の硬質な品格、「鳥」たちのユニゾンの面白さで、上質に仕上がった。
 今さらこんなところで言うまでもないが、「ハートの女王」の夏山の存在感は大きい。迫力や威風というような言葉を使いたくなるが、終盤の「アリス」とのデュオで「アリス」を追い詰めていく厳しさ、それに続いて「ジャック」(ヤザキ)を引っ立てて処刑する厳しさが、「ジャック」の狂ったような死の踊りを導いたのだと思う。見せ場が少なかった中で、王たち(「スペード」=高須佑治、「クラブ」=原田祥博、「ダイア」=大平哲磁)は、終盤の短いソロで存分にピルエットなどを見せ、さかんな拍手を受けていた。
 「アリス」の田中ルリのすごさは、足の上がり方がきれいだとか動きのしなやかさや正確さが並外れているといったレベルの問題ではなく、役へと入り込む感情の強さが舞台の上に形としてきちんと表われていることだ。ウサギ(新井)や芋虫(ヤザキ)とのデュエットでは、柔らかなユーモアがにじみ出ていたのが魅力的だった。終盤で皆が別れを告げるように踊り去って、「アリス」がベッドに向かい、そこに「それからのアリス」が行くという場面があるのだが、この前後での「ルイスキャメラ」を交えた関係の緊張の強さはすばらしかった。もちろんそれに続くソロは大きく、強い切迫感を見せた。
 全体で2時間弱という大作だが、前回よりもずいぶんコンパクトになり、「アリス」「それからのアリス」の悲劇性や、「ハートの女王」のエキセントリックな残酷さが明確になり、骨組みのしっかりした作品になった。何よりもワイヤレスカメラを装着した「ルイスキャメラ」を加えたことによって、舞台の中に一つの視点が生まれたことが大きい。水玉上の白い円(球)を多用した映像イメージ(赤松)が最初と最後を締めたが、それが上昇し下降する様が、「アリス」が空間を移動することの喩でもあり、うたかたらしさをうまく象徴する喩でもあった。赤松の映像によって、舞踊空間という身体の生々しさが、今そこにあるのかどうかわからないような虚性を帯びたことが、興味深かった。

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