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2008年5月11日 (日)

「ダンスの時間」19 佐藤健大郎

(2) 佐藤健大郎「犬」
 そう言われれば犬の形態模写であるとも思えるような部分と、それとは全く離れたがむしゃらな動きを見せる部分とが、それぞれに佐藤の特質をよく見せて、休み時間のないぎっしり詰まった作品だった。
 入ってくるなり、佐藤は観客に強迫的とも思えるほど強い笑顔を見せる。張り付けたような笑いを、客席全体にではなく、一人に食い入るように見せるものだから、笑顔でありながら、にらみつけているというような仕儀に相成る。舞台への現れの挨拶としては、なかなか過激なはじまりだ。何か普通ではない、違和感を与えるような現れ方を望んだのかも知れない。あるいは、彼がその美貌(文字通りの意味で)を強調するために、そういう現れを選んだと解せないでもないが、それは逆に引かれてしまう場合もあるかも知れず、やはり狂気に近い違和感を与えるものだと解釈したい。
 「おすわり」の姿勢や四つん這いでの移動があり、続いて落ちる、倒れる、転がるといった接地による硬さを強調した連続的な動きが面白い。それは、骨と床がぶつかり合う音がゴツゴツと激しいというもので、硬さというのは骨の硬さ、肉の硬さが耳を直撃するというものである。自分の身体のバランス、強度や硬度を測っているような動き。倒れるのも、受け身と言われるような柔らかく衝撃を少なくして倒れる手だてを全く使わず、接地の衝撃をすべて受け止めようとするような倒れ方である。そのことで、凄みが生まれてくる。徐々に佐藤の表情が鬼気迫るものになっている。
Sato1  ここに至っては、冒頭で観客にふてぶてしく攻撃的な笑顔を見せたような作為めいたものは一切ない。自分で決めた行為でありながら、その行為を続けることによって我を失い亡ぼしてしまうような恐怖さえ感じられる。
 まるで踊ることに魅入られた身体であるかのようだ。いや、踊ることである必要さえないのかも知れない。踊るということは結果に過ぎず、ある一つの動きであることを自分に強いた結果が、この凄まじさとなって現れている。それをぼくたちはたまたまダンスの公演という場で見ている。もちろんそれは鍛錬された(エラボレーティド)身体には違いないが、その果てにそれを化粧してよきものとして提示しようとするわけではない。ある方法論に従おうとしてもいない。その身体が自分自身のものであるからこそ可能な、自由な残虐という領域に踏み込もうとしている。宗教にもこのような自身への残虐が見られることがあるが、その果てに何かが見えてくるということを経験的に知っているからだろう。

■ソフビビクター犬

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