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2008年8月30日 (土)

「ダンスの時間」レビュー(1)

(1) 8月9・10日【公演第1週】
 まず5公演、10作品を上演。ソロ作品から、8人という大人数のダンスカンパニー・ディニオスまで、バラエティ豊かな公演となった。いわゆるダンス作品が多く、舞い踊る身体の運動性を重視して、自己表現に連なる作品が多かった。

 まずそこから逸脱していそうな作品からふれると、双子の未亡人「Kiyome08」、またいわゆるダンス的な動きが中心ではなかったという意味で〇九「コール」といったところだろうか。

Futago_3    双子の未亡人は、二通りに映像を使い、ステージ上には不在の佐伯有香の顔を変容、二重化させつつ、舞台空間の中に異なる時間と時間の流れを持ち込んだ。その映像は、カミ手に吊り下げられた掛け軸上のスクリーンに照射されていたので、作品の中でもそれ自体が別種の作品として存在されていることようだった。紋付を着流しのように羽織った荻野ちよが、折り紙の恐竜を数匹つなげて、また舞台上で大きな恐竜を折って、引きずるように、しかし倒れたら起こしてゆっくりと引っ込む。佐伯も荻野もMonochrome Circusのメンバーで、そういえば「怪物」という名の作品は佐伯のために作られたのだったか…などと思い出すが、それが作品化のプロセスとして決定的なものとは思えない。
 再び現れた荻野は、ガイガーカウンターか地雷探知機のように、小型のテルミン(「大人の科学」の付録のものだそうだ)を床や観客に向け、ガーピーと立てる異音と共に入ってくる。それは明らかに、戦争や戦争の後処理の作業を思わせる行為である。
 そう思ってしまうと、折り紙の恐竜は千羽鶴の変形であるとしか思えなくなるし、掛け軸の中の映像は、思い出として語られる存在としか見えなくなる。荻野の紋付は、喪服であると。
 そして荻野が大きく緩やかなストロークの動きをとり、しばらくするとその姿がノイズだらけのモノクロの低い解像度で壁一面に映し出される。蛍光スティックを持って揺らす姿が分割され、不器用な蝶が舞うように見える。 視覚の痕跡や、映像の時差や劣化の強調によって、眼前の身体が過去と分かちがたく結びついていることが伝達される。おそらくこの作品は、身体が動きを追求することで成立しているのではなく、身体が何と通底しているのかを探り提示することに眼目を置いたのだろう。そしておそらくは、その通じているものを提示する部分を追加したり、現在の再提示を行うことで、この2,3倍の長さの作品へと発展していくのではないか。
 「Kiyome08」は、明示されていないが、上記のようにしか思えないような強いテーマがあり、それに比すれば、やや動きのインパクトは作品の中の比率としては小さい作品だった。

09  〇九の「コール」は、4人の自閉的な存在が、時折集まりこそすれ目を合わすわけでもなく、あくまで孤絶した存在としてまた分散していくという、人間関係について絶望的な印象の残る禁欲的でミニマルな作品。いわゆるダンス作品としての動きの要素、動くことによって世界の茫漠を埋めていくという志向は小さく、かろうじて動きとして追求されているものは、倒れる、転がる、ぶつかる、といった原初的なレベルでの動きそのもののインパクトであり、個々の身体の動性ではなく、表面に現れない内面の動きの表現を希求していたり、4人のダンサーの配置(フォーメーション)であるように思えた。
 ある空気、雰囲気を設定することには成功していたと思うが、それを突き動かし突き破るような身体がほしい、と思ってしまう。個々のダンサーの動きには、空間の移動の必要性と、極端に凝縮した内向があったように思えたが、もう一段階の飛躍が見られなければ、次の世界、動かないことの向こう側の世界が見えてこないように思う。
 動きを最小限に抑えること、執拗なほどの動きの反復に、どういう必然性があり、反復による昂揚とそれに基づく説得力が生じたか、再考してみる余地があったのではないだろうか。

Sekinoriko_12  これら2作が、身体が動くことで生じる魅力よりも、そこに身体が存在することで、ある世界を構築することをめざしたのに対し、身体の動きそのものを前面に提示して作品の時間を作ったのが、関典子の「風来居」だったといえるだろう。音楽はギターソロだけで、照明もシンプルな構成に抑え、曲調によって若干の緩急はあるにせよ、基本的には20分間踊りまくるという作品に組み立てた。彼女は、ダンスという表現に向き合うことについて、踊ること、動くことでその時空を塗りつぶしていくことを課し、また動くことが世界に対する自己の存在確認であるように把握していると見えた。動きの速度と、身体の関節が作る鋭角の美しさは、むしろ潔さに近い。時折見せた(特に昼の部で)武道の型のような構えや、攻撃する小動物のような動きからも、踊ることと世界と対決することが相似しているような世界観を持っているようだった。
 ソロを踊るということは、そのように何者かを仮定して、それと対面することなのだろう。それが現在の彼女の中では、このような徹底的に動き続けることによって匹敵することができるものとして把握されているのだろう。

 シンプルなテーマを明示し、それを説明し描写するような動きを見せたり、抽象的に微分したような表現を行ったりした作品もいくつかあった。安川晶子の「ホセ無しカルメン」は、6月に神戸学院大学で発表された「待つ」を解体再制作したということで、曲は「待つ」同様、ビゼーの「カルメン」だが、ごく部分的な断片を使用していた。第一の動きの要素は、腕をだらりと下げて、手首を「ハバネラ」の序奏に合わせて前後にスナップさせるようなもので、これを曲に合わせたり合わせなかったりしながら何度も繰り返す。ずっと無表情ではあるのだが、徐々にそれが冷たく、さらに攻撃的に変わっていったようだった。それはおそらく舞台の上で存在する力が、急速に尖鋭化していったということなのだろう。横転しながらカミ手にはけて行きそうなほど極端な空間を動いたり、斜めの視線の鋭さを出してみたりと、随所で強い激しさが見られた。
 タイトルから類推ないし深読みするが、ホセの不在ないし欠如がどのように出来した事態なのか。元からそもそもホセなる存在がなかったのであれば、一人で生きるカルメンとはどのような存在であるのかと思わせられるし、ホセが途中でいなくなったとしたら、その後のカルメンはどのように生きているのかと思わせられる。舞踊する身体というものに、そこには描かれていない物語が想像されて盛りつけられるというのは、大変スリリングなものだ。

Xavier  描写的といえば、ザビエル守之助の「鷺草によせて」も、その名のとおりに捉えれば、鷺草という植物を何らかの方法かレベルかによって描写ないしトリビュートした作品だということになる。たしかに、植物の垂直的な生命力であったり、鷺という鳥の飛翔のさまであったりを見て取ることはできた。しかしもちろん、そういう描写力だけが重要だったわけではなく、生命力の強さ、軽やかな飛翔感、美しさに吸い寄せられる心といった、トータルな意味で、鷺草というものの全体像に肉薄しようとしていた。
 ある意味ではモダンダンスの原点とでも呼ぶべき地点へ、自らの出発点へ本卦帰りをしようとした作品だったといえるのではないだろうか。1回目には鳥の飛翔のような手真似が見えたが、2回目ではその動きは採られなかった。そうした試行錯誤というものは、その都度の世界へのストロークが有効であるか、また自己像にふさわしいか、といったおそらくは直観的な手ごたえによって修正されたものなのだろう。
 そういう意味で、ザビエルにとって現在は激しく過程であり、模索の途次であるように見える。原点に帰ることが模索であるということは、原点の意味そのものが問われているということであり、原点へ帰るその道は新しい道だということになる。厳しい道をたどっているのだ。

Mikayo  森美香代の「マヒナの雫」のラストの掌の形と動きが、たしかに雫が落ちるさまをスローモーションで再現したようだったといってみたところで、それは森のダンスの魅力をほとんど語らない。マヒナとは月という意味だそうだが、月がしずくを垂らすことなどないように、それは具体的に存在する何ものかをあらわしていたと完結させてはならないだろう。作り手にとってはどうだかわからないが、見る側にとっては、それは掌が合わさったまま身体の内側に吸い込まれ溶けていくような動きが見えたということであって、喩はその後から追いかけてくるものだ。それが月の雫のようだと思わせることではなく、合わされた掌が震えるように身体の中へ入っていくという、現われと動きと予想される消滅(合一)そのものが、言葉以前の強い感動を与える力を持っている。
 森のダンスが、美しさ以上に観る者を衝き動かし、ざわざわさせるような力を持っているのは、まさにそこにおいてのことだ。人間の知覚の動きというものは、とてつもなく速いもので、普段ぼくたちは受容器官による捕捉から認識までの間に時間差を感じることはない。しかしたとえば森のダンスのようなものにふれると、目に映ったものが感情という形をとるまでに、すさまじく厚く時間や感情以前の何ものかが堆積しているような気がする。

Miyoshi_3  何らかの物語を感じさせるような作品もあった。三好直美村上和司と共演した「迷走☆劇場」は、旅行鞄を持ったトレンチコートの女があらわれる、古いフランス映画のようなしっとりしたムード、二人のユーモラスなやり取り、思わせぶりなラストシーンがシリアスなのかコミカルなのかわからないように迎える幕切れの宙ぶらりんさなど、観る者の感情を何度も幾通りにも揺らす、楽しみどころがたくさんある作品だった。
 そのラストシーンだが、三好が古い革の旅行鞄をあけ、中からしわくちゃの紙や写真を取り出すと、覗き込むように見ていた村上が名前を呼ぶ。「私を通り過ぎた男たち」といった感傷的な場面にもなっただろうが、村上が呼ぶ名前のいい加減さ(「スネオ」とか「ノビタ」とか)やタイミングの外し方もあって、妙にコミカルな空気になり、笑いがもれた。それは決して失敗ではなかったようだから、作品を閉じた形で終結させるのではなく、宙ぶらりんで謎な気分のままに放り出すという、勇気のあるエンディングを選んだわけだ。
 率直に言ってそれは完全に成功したとはいえないかもしれないが、それをシリアスに終わらせたときの凡庸さに比べれば、はるかに意義深いものだったと思う。それには、このラストにいたるまでのドラマ性や、二人の社交ダンスのような動きの掛け合いの即妙の面白さ、実際の年齢差を生かして世間的にはちょっとアンバランスな男女関係にしたおかしさなど、作品を流れてきた軽い高揚感のようなものが大いに役立ったといえるだろう。

Fupro_1    FUPRO-jectの「橋をかけること」(振付・田岡和巳)は、あや取り、椅子取りゲームといった遊びを随所に取り入れ、きっちりと構築された遊戯性、ガーリッシュなストーリーの存在をかすかに感じさせること、ダンサーの生き生きした表情、しなやかでシャープな動きの爽快感、「つぐない」をサンプリングした音楽(柳和史)の面白さなど、見どころの多い楽しい作品だった。この作品の中では、普通の女の子がはしゃいだり遊んだりしていたような印象が残るのだが、実は表面的にそう装われていただけで、動きはもちろん、作品の空気は日常めいたものではない。同じトーンで3人が動き、それが空気を揺らすことそのものをいとおしんでいることが伝わってくる。ダンスが日常の延長なのではなく、日常の中でダンスが大切なものとして置かれているのではないかと、そういう思いが伝わってくる。

 アンサンブル・ゾネの岡本早未と山岡美穂による「地と地の間」(振付・岡登志子)は、床にチョークで唐草のような模様を描くのがまず印象に残る作品。地に何かを書くというと、イエス・キリストを思い出すが、直接的には舞踊的動作というよりは「書く」という目的的行為であることに違いない。儀式的もしくは呪術的な行為にも思われ、しかしこの作品の時空の中ではそれがどのような物語に依拠しているのかいないのかはわからない。いずれにせよ、作品に接する上での取っ掛かりとしては強い印象を与え、享受に当たっての補助線として大きな役割を果たしていた。まずシモ手で岡本が描き、パターンが徐々に大きくなり、動きが加速度的に大きくなる。ダンサーの動線が記録されているようでもあり、描くという課題が動きを導いているようでもある。岡本が大きなストロークで中央に逸脱したかのように描線を侵入させると、カミ手で山岡が、今度は大きなパターンから徐々に小さくしていくというふうに描画を始める。
 シンメトリカルな収束が作品の枠を大きくとって、観る者が作品の骨格を把握しやすいことが、作品に安定感を与えることとなったと思う。重なり合うように接近した二人が、間近を見つめる視線が強く印象的だったこと、など、非常に強いインパクトのある、輪郭のはっきりした作品だった。

Dynios_1  ダンスカンパニー・ディニオス「poem」は、五十田淳が朗読する近代日本の短歌や詩に乗せて、8人のダンサーが濃密な世界を繰り広げた。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」をややコミカルに軽く仕上げたのが面白かったこと、茨木のり子の「私が一番きれいだったとき」の「遠い目をして」や最後に置いた北原白秋の「落葉松」における希望の発見など、演出・構成・音楽の渡辺タカシの解釈が冴え渡っており、それを的確に表現する感受性と技術を個々のダンサーが持っていることなど、通り一遍のではない改ベラ、深海愛、江波未有の安定した高いレベルの表現性に加え、藤マナをはじめとした若手の表現力が高まってきたことが、カンパニーとしての説得力を強めている。

『ダンス・ミュージック・クロニクル~History of Dance Music~』 CD10枚組《全176曲》

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