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2008年9月 4日 (木)

「ダンスの時間」レビュー(3) 第2週(2)

~2人の振付家の作品~

 何とか最後までたどり着こう、全作品について書こうと思っているのだが、だんだん舞台裏の内輪話が増えてきた。まぁ、それを書きとどめておくことも、悪くないかもしれない。こういう不定形な公演だから、何をもって「1回」と数えるのかさえバラバラだが、とにかくこのSummer Festival 2008が丸6年、20回目という節目でもあり、いろいろなことを確認しておくことも必要だろう。ご容赦願いたい。
 
 16日からの2日間には、セレノグラフィカの2つの作品、サイトウマコトの3つの作品を観ることになった。いずれも作品には振付家本人(たち)が入ったり入らなかったりだったが、ダンスの振付というものの多様性と同質性を垣間見ることができ、興味深いものだった。
 実は、セレノグラフィカに出演を依頼し、快諾を得てしばらくして、隅地さんから、1日2公演のうち1回はセレノグラフィカと吉福敦子さん、もう1回はセレノグラフィカ作品を花沙+升田学で踊らせたいという連絡があり、はいはいとあまり考えずにOKしたのだが、考えてみれば、何とか調整してこの2組に2回ずつ踊ってもらえばよかったのだ。残念なことをした。
 都合30組の日程調整は、といっても決して複雑なことではなく、都合の悪い日を聞いておき、あとはバランスを考えたり考えなかったりしながら、ポコポコと当てはめていく。少しは、集客力のありそうな人となさそうな人を組み合わせたり、集客力のある人をぶつけないようにしたり、ということは考える。その程度のことで、悩んだことはあるが、苦しいと思ったことはない。パズルのようなものだ。大変だけど、楽しい。

Sereno  セレノグラフィカと吉福敦子の「『短編小説』 シリトリジンギ」は、西陣ファクトリーガーデン、スタジオgooで続演されたものを短くした再演。共に元工場や民家のようなもので、いわゆる劇場で上演されるのは初めてだとのこと。阿比留修一、隅地茉歩、吉福敦子の振付、デザインコンセプト等が岩村原太、小道具の箱馬が青木勉、音響が小早川保隆、というコラボレートワークである。
 まず面白いのが、阿比留が3個の箱馬をマトリョーシカのように1つにする作業。無駄のない鮮やかな手つき、動きで、しかし段取りはことごとくと言っていいほど失敗する。見ていてイライラして、それじゃないだろ次は、と声をかけたくなるほど。しかし、もし箱馬組立作業なしに、動きだけを取り出して観ることができたら、それは非常に鮮やかな振付になっていたことだろう。いかにも無駄のない手際よさそうな動きが、実はものすごく不合理で非実用的でとんちんかんだというのが、言語的にも逆説的で面白かった。
 この場面は、箱馬と同じく、何重もの構造を持っている。舞台の上で作品として踊られているこの動きは、一見箱を片付けるという目的を持った日常的な行為の延長のように見えるが、舞台の上で作品として成立している以上、それは目的的ではない。しかもそれは何度もの間違いを繰り返しては、またはじめからまたは途中からやり直されている。その間違いだらけの日常的な行為を装った動きが、実はダンスとして(もちろん阿比留という優れたダンサーの身体によってだが)洗練された振付となっている。
 作品の冒頭だが、普通はぼくが何がしかのコメントをした後、いったん暗転し、作品の時間が流れ始めるのだが、この作品では暗転なしで3人がそれぞれ箱馬を持って出てきてポーズをとるところから始まった。それは、この作品の初演会場が、暗転できるところではなかったということもあるだろうが、幕間という作品と日常の中間ぐらいにある中途半端な時間帯をそのまま取り入れるということで、作品の時間の作り方として特異なことだったといえるだろう。作品が、いわば作品時間ともいえる枠の中に収められているのではなく、両端が日常時間に溶け出しているような感覚は、面白い。よく、開場するとすぐにダンサーや役者が舞台上に付いている作品があるが、それは、日常時間を切断して観客を無理にでも即時に作品時間に入れてしまおうというようなもので、これとはかなり異なっている。
 ダンスというのは、基本的には何も特別なものを使うわけではなく、観客の身体との延長上にある身体が舞台の上で何事かをするのだから、このような緩やかな作品への入り方というのは、非常に効果的になることが多い。前週のヤザキタケシも、あえて暗転を設けずに舞台スタッフのような雰囲気でサウンドチューブを置き、何食わぬ顔で引っ込み、通りすがりのようにまた出てきてサウンドチューブを「発見」するという細かい演技を見せた。日常と作品の落差を処理するのは、緩やかな傾斜を持たせるか、切断するか、いずれにせよ実は非常にデリケートな作業なのだろう。緩やかさの後に、いつの間にかすっかり作品の時空になっていたと気づかされる時など、その鮮やかさに本当に驚くことになる。
 その後は、タイトルどおり「しりとり」が続き、3人の即興的(?)なダンスとなる。もちろんといっていいのか、動きながらのしりとりではある。「らららひゅーまんすてっぷす」とか「くろさわみか」「かがやくみらい」とか「ついかんばんへるにあ」とか、平凡なしりとりではないが、さほどどうということはない。「箱を片付けている」「しりとりをしている」ということと「踊っている」ということが等価かどうか、ということを考えさせられる。
 つまり、ダンスでありながら、ダンスというものの特権性を問いかけてしまうという冒険が秘められている。隅地は自ら「規格外体型、規格外テクニック」と称しているのだが(あくまで自称ですからね)、彼女自身、ダンスする身体に伴う特権性を否定しているところがあるし、ダンスそのものに対するやや醒めた目を感じさせることがある。いわゆる「踊れる」阿比留の動きと、ちょっと「なんちゃって」な部分のある隅地の動きは、巧拙を(おそらく)超えて、魅力としては等価であるのが、セレノグラフィカの魅力であり、恐ろしいところだ。そこに吉福という、これまた独特な存在感のある、踊れるのに踊って見せない、温度を感じさせない身体が入ったことが、この作品の魅力を増した。

Hanasamasuda_3  クレジットとしては隅地単独の振付・構成・演出による「FASNACHT(ファスナハト)」(復活祭という意味らしい)は、花沙と升田学(元・維新派)によって踊られた。そもそもは5年前にびわ湖ホールのダンスピクニックでセレノグラフィカの2人によって初演され、今春ダンスボックスの子どものためのプログラム(チルドレン・ダンス・ミュージアムプロジェクト「夢見るダンス」)に当たって花沙と升田によって再演されたそうだから、子どもにも楽しめるコンテンポラリー・ダンスであることを想定されているといっていい。
 (しかし、子どもには楽しめず、大人には楽しめるダンスというのも、奇妙なものだ。むしろ、社会的評価とかキャリアとか何も斟酌せずに楽しむことができるのが子どもの享受であるなら、それこそが本来あるべき楽しみ方だから、子どもに通用しないダンスなどというものがあるのならは、考え直したほうがいい、ということになる。)
 衣裳がとてもカラフルで愛らしかったこと、花沙と升田の表情が何ともかわいらしかったこと、そして何よりも、作品の中心となる動きのよって来たるところが明確で、作品の成り立ちがわかりやすいことが、20分の作品を高い求心力でコンパクトにまとめられた成功の原因だろう。
 最も目についたこの作品のモチーフは、親指と人差し指で作った輪っかである。一人が作った指の輪にもう一人が人差し指で、または同じく輪によって絡むことで、予想外に面白い動きの組合せが生まれる。相手の身体の、しかも身体の軸から離れることのできる一部分に絡むということで、前後左右上下にと、思いの他の動きが生まれる。しかも、それは喩として人と人とのつながりや結びつきを強く感じさせるから、動きに生まれる無理や不自然さや近づきが、そのままダイレクトに二人の関係の緊張や緊密性に見えてくる。その結果、見る者の中で、物語を簡単に作ることができた。
 升田が比較的無表情で、花沙がそれにまとわりつく小動物のような愛らしさを全開にしていたのは、役割分担としては的確だったといえるだろう。決してコミカルな動きでもないし、そういう振付でもないのだが、なぜか観ていて笑みがこぼれてしまうようだったのは、二人の動きがどこかしら訥々としたような空気を醸し出していたからに違いない。それは隅地の持ち味を2人がうまく汲み取っていたからでもあるし、そのような動きが実は非常に魅力的であることを感じ取っていたからこそのことだろう。
 誤解を恐れずに言えば、スピーディでスムーズでダイナミックで…といった、極度に洗練されたばかりのダンスは、ややもすると受け取る側にとって引っ掛かりがなく、ざらつきのようなものが感じられずに、退屈というのではないが、飽きてしまうことがある。それを回避した上で、踊っていることが人間同士の関係の波の表徴であるというダイナミズムを共有できるこの作品は、観る者が実は経験していないことも含めてある種の懐かしさをもって共感することができるものになっていたと言えるだろう。
 そしてこの作品は、子どもを含めて誰もがすぐに真似をすることができそうな親近感を持っている。ワークショップ向きでありながら作品としての完成度も高い。このような作品を通じて、ダンスの魅力が広がっていくといいのだが。

 サイトウマコトは、東福寺弘奈に新作を振り付け、佐藤玲緒奈(スロヴァキア国立バレエ団)の再演を出し、生田朗子(元リリパット・アーミー、現在フリー)、佐藤と「RESONATE」を再演した。生田さんはフリーになって初めての舞台であるという。光栄だ。東福寺も佐藤も、優れたバレエダンサーである。先ほどの話の流れで言えば、スピーディでスムーズでダイナミックな、洗練された動きで踊ることのできるレベルの高いダンサーだ。そしてしばしば軽視されるが、実は優れたバレエダンサーは物語の読み込みが深く、それを身体の高いレベルで表現できる才能と訓練ができている。そのようなダンサーと共にサイトウが創る世界は、しばしばダンサーに大きな負荷をかけるような仕掛けや物語や枠組みを設ける。

Hirona3  最もわかりやすい表われが、東福寺弘奈の「コンセント」だと言えよう。これは、東福寺がスイス留学中に踊ったヨハン・ヘックマン振付作品の一部分に当たる東福寺のソロパートを、解体・再構築したものだというが、何よりもその髪の毛を高くきつく束ねて天井からゴムとチューブで接続した時点で、完全にサイトウの作品になっていたと言っていいだろう。
 開場前から既に東福寺は天井から繋がれた状態で舞台中央に黒布で覆われている。暗転の間に舞台監督が黒布を取り去って照明が入り、作品の時間が始まるというわけだ。この作品の、というかこの仕掛けの解釈は難しい。逆にその多義性こそがコンセントということの本質であるといったほうがいいだろう。冒頭から囚われの王女のような虐げられた悲しさを見せ、後半では何ものかと繋がってあることの喜びをも見せた東福寺の表現力には、唖然とさせられるばかりだ。ただ顔の表情のことを言っているのではない。身体の表面にそのような表情をもたせうることを教えられたような気がしている。繋がれた/繋がった状態であることの感情を、状況は同じでありながらがらりと変えて見せられたその契機は何だったか? もちろん舞台の上でのきっかけは、音楽が変わったということだったかも知れないが、繋がれてあることの不自由さが、繋がっていることの幸福感へ転化する時の、東福寺の全身の輝きといったら、すさまじいものだった。その転化は、解釈のしようによっては、異常性につながるものであるかもしれない。束縛や支配という面から見るか、コミュニケーションや交流という面から見るかによって、プラスとマイナスが逆転する。
 中央を空けて舞台に敷かれていたのは、スカートだったそうだが、それはまるで蓮の池のように見えた。そこを舞い踊る東福寺は白鳥のようにも見え、一つの意味づけの変換によって世界ががらりと変わるというドラマを生きた。動きの美しさやシャープさについては何の文句のつけようもなくただただ見とれるばかりだったが、特にゆっくりと屈み込み、また起きる時の曲線の角度のゆるやかな変化が、とても美しかった。それ自体がハイスピードで見せられるバネのしなりのようで、チューブで吊るされるにはまことにふさわしい身体だったのかもしれない。その曲線の変化によって表わされる、何かを拾い集めるようなしぐさは、これからの歳月にとって大切な何かを、落としたものを拾うのか、新しく拾うのかはさておき、再び自分のものにしようとする「回復」の作業のようで、心にしみた。
 この作品の時間は終わり方も難しくて、というのは何とかして吊っているゴムから彼女を解放しなければいけないからだ。最初は振付のサイトウ自身が脚立を運びこんではさみでゴムを切り、ぼくが「振付のサイトウマコトです」と紹介したのだが、どうも居心地が悪いというので、夜は舞台監督がゴムを切った。こういう細かい段取りの変更も、けっこう楽しい。
 
Saitoh  ブルトンの「ナジャ」をテキストに使った「RESONATE」は、2003年に「ダンスの時間」で初演、翌冬京都のアルティブヨウフェスティバルで再演された作品。特に原作の世界を知らなくても、生田朗子が抜粋し発するテキストの断片から、ナジャという女の横顔を窺い知ることができるし、ブルトンの美意識を中心とした世界観を」覗き込むことはできる。この作品にはいくつかの生命線があるが、その一つは、生田の抜粋したテキストが断片でありながら蝟集しようとするその中間性にある。
 初演時に比べて、何だか生田の声がずいぶん低くなったような気がして尋ねてみたら、初演時に比べてナジャの発言よりブルトンの地の文を多く選び採ったということだった。だから、ブルトンの声というわけではないだろうが、平叙の言葉が増え、おのずと高まりは抑えられたわけだ。そのことが、作品全体のトーンを大きく変えた。以前はナジャという女の一人称の物語であったのが、今回はナジャが生きる世界を語る何者か(とりあえず性別未詳)の語りとなった。初演では、佐藤やサイトウが声を出して笑ったりしていたのが、今回は一切封じられたのも、以前は複数のナジャの物語であるようにも思えたのが、より整理され尖鋭化したと言えるし、サイトウという男の存在がよりクールに際立つことになった。
 サイトウの舞台での姿については、単に表情がないというのではない。表情を消すことで、その内面を窺い知ることができなくなり、不気味に思えてしまう、という種類の無表情をつくる。もちろんそれによって観る者の意識が身体や作品の構造に集中できるということもあるのだが、その一人の踊り手が、舞台の中で不可触な闇として存在することになる。しばしばそれは物語の本質的な基点となる。それでいて動きは大きく速くダイナミックだから、残酷な破壊者のようにも見え、冷酷な影の支配者のようでもある。一方、佐藤もまた仮面のような無表情で踊ることが多いが、それは(ジェンダー的なステレオタイプに陥っているかもしれないが)、表情を奪われた悲劇を体現しているように見える。そういうキャラクターの構図が、作品の太くしっかりした構造線となり、細部は理解できなくても、作品の構図は把握できるという、不思議な享受体験を生むことになるだろう。
 振付の大部分は、佐藤とサイトウの関係の非日常性や異常性、破綻と表面上の修復、といったことをめぐって展開するように見えた。佐藤とサイトウのもつれるようなデュオ、無表情なサイトウ、思い詰めたように鋭く一点に集中する佐藤。そこで生田が、単なる語り手ではなく、解説者でもなく、言葉によって関係に切り入る存在であることが、生田という声と身体の持ち主を起用して成功している所以である。声の存在としてはナジャであり作者でもある生田は、その両義性において他の者の不定形で未生の関係の中に、時には横切り、時にはユニゾンで踊りさえして一体化し、自在に貫入することができる。美について定義しようとするテキストを舞台の上で語ることは、あるいは自家撞着的な言説となるのかもしれないが、それが作品の枠組に対するメタな言及とはならず、作品の中での語り手(とは誰だ?)の願いや祈りのようだったことが、この作品を洗練されたものとした。重複するかもしれないが、ブルトンのテキストを逐語的に踊っているのではないかと期待してそれを追いかけることに意味はなく、逆にテキストの断片が生む空気(アトモスフィア)とテキストの精神(スピリット)を、この作品のう構成や動きから掴み取れればいい。
 テキストに影響されて、動きは、そして舞台全体の空気はどうしてもシリアスでドラマティックなものだが、それに関係性のある種の頽廃的な異常性を加えれば、サイトウが描き出す世界のほとんどの要素を拾うことになる。サイトウの作品の多くは、そういう濃密さをReona_2 もっているが、佐藤玲緒奈の短いソロ作品「FLOWER」は、いささか様相を異にする。この作品は、約8年前に佐藤のバルナ国際バレエコンクール出品用に振り付けられたもので、謡曲「弱法師」をバックに一気に踊りきる。少なくとも前提としては物語も仕掛けも人物設定もなく、衣裳もグレーを基調としたプリーツのシンプルなもので、ただ謡曲の拍や調子を汲み取って踊るというだけの作品だ。
 ここでも佐藤は、ほとんど無表情のままだ。それは能面のようだが、「弱法師」で使われる能面は特殊なもので、極端に伏し目がちに彫られている。もちろん俊徳丸は盲目という設定だから、目を見開くということはありえない。サイトウは謡曲の詞章は作品の内容に関係はないというが、視線や表情は大きなポイントになるだろうし、初演時には「草子洗小町」であったのが、いっそう悲惨な物語の曲に変わったというのも、踊りに全く影響を与えないわけではないだろう。もしかしたら言霊とでも呼ぶべきものが介在しているのかもしれない。
 結果的に佐藤は、動きとは無縁に始まり流れ終わる謡曲から、力ずくでテンポやリズムを搾り出し、その後は逆にそれに絡め取られ踊らされる、操り人形のような劇をあらわすことができていた。バレエダンサーがすり足のような足の運びをすると、立った身体の軸が重力が失われたような異界感を生み出すものだと驚いたし、最後に毅然とした表情で直角に曲げたひじから上下に手を振り動かす様は、それらのドラマすべてを振り切ってしまうような力を持っていた。
 サイトウの濃密な世界観のためには、バレエダンサーの身体が必要なのかもしれない。その動きの速度、身体の角度、正確でありながら情緒を的確に表現する身体があってこそ実現する、デカダンというものがあるのだろう。では、他の振付家にとって、そのような身体は必要ではないのだろうか、他のダンサーにとって、バレエダンサーのような身体は必要ではないのか、ということにもなる。バレエを離れた身体が、得たものと失ったものを、厳密に考えてみなければならない。失ったものがあるとすれば、それを、またはそれに代わる何かを、どのように獲得すればいいのかを、考えたいのだ。貪欲でありたい。

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