「ダンスの時間」レビュー(4) 第2週(3)
「動かない」こと
第1週について書いたときにもふれたが、動く/動かないというのは、表面的な問題のようでいて、実はかなり根の深い、ゆっくりと考えるに値する問題だ。表面的に分類すれば、第2週の他のダンサーの中で、宮北裕美、吉福敦子は動かないほうだとしておいていいだろうか。
今の日本の身体表現で「動かない」ものの筆頭といえば能だろうが(などというのは、表面的で、失敬な話だが)、確かに能に関する本など読んでいると、動かないことについての深い考察が見られる。たとえば観世流シテ方でロンドン大学でPh.Dを取得している梅若猶彦の『能楽への招待』(岩波新書、2003年)では、世阿弥の「動十分心・動七分身」(心を十分に作用させながら身体は七分、つまり三分を惜しんで動かさないほうがよく、そのほうが観客の心を打つのだ)を引き、能と禅の「無」を対照しながら、芸論を展開していく。
内面の充溢を本当に見せるためには、最終的には身体を動かさないほうがよいというのは、逆説的な理屈として比較的納得しやすい。ぼくたちはそういう展開が好きだ。しかしぼくたちのコンテンポラリーダンスは、あるいは現在という時代は、自分自身の心や自我というものが空虚であることをわかった上で、それを埋めるために身体を動かさなきゃいけないと、そんな認識を持たざるをえない状態ではないのか。身を十分に動かせば、ようやく心が一分でも動くのではないかと願うような。「動十分身・動一分心」とでも言ってみようか。自分は充溢した内面を持っていると自認できる者が、そしてそれを表現すれば十分な説得力を持ちうると信じられる者が、どれほどいるのだろうか?
先回りして言えば、宮北も吉福も、その動かなさの源は、そのような心身を対照させる二元論から出たものではなかったと思われる。その空間や時間を作りなすための必然的な要求から、動きの少なさは導き出されたもので、その中で実は最大限に動いていたともいえるのだろう。
宮北裕美の「J.M.リンドバーグ(1993-2063)」は、美術家かなもりゆうこの映像を大きくフィーチュアした「ミクスドメディア・パフォーマンス』(プログラムによる)である。2台のプロジェクタによって映写されるかなもりの映像と、宮北の身体の、どちらに大きな比重がかかっていたか、にわかには結論づけにくい。最初は少女の姿で椅子に腰掛けてゆっくりと、わずかに微笑みのような表情をたたえて腕を動かしていた宮北は、一個のオブジェとしての存在感があり、顔の表情にも今にも泣き出しそうな強い感情が表れているようだった。
宮北が去り、壁の左半分に、白いソファーに座った彼女が映写される。ロクソドンタブラックの奥壁の真ん中に柱型があることを利用して、スクリーンを左右に分けるように2台のプロジェクタを使った。2つの映像空間の間に立体の仕切りを置いたことで、二つの間にある種の段差ができたのが、面白かった。
では、スクリーンである壁に貼り付けられた二次元の存在と、床の上で現実に三次元として存在する身体の間には、どのような懸隔があるのか。現実の身体の宮北が不在の間の(着替えている間の)、映像の宮北が、現実の代替的存在であると考えるのでは、ここに流れる時間の連なりが弛緩したものとなってしまう。印象としては、映像が実体のようであろうとしたのではなく、実際の身体が映像のようであろうとしたようだった。宮北の身体は生々しさを極力排除し、できれば汗もかかず呼吸もしないぐらいの無温さを獲得したかったのだろう。だから、そのような身体が後半にゴロゴロと横転するなどの大きな動きを見せたときに、やや違和感があったのは、当然のことだったともいえるだろう。
後半、宮北は少年の出で立ちで、空間を支配し指図するようなしぐさを見せ、また白い衣裳に映像を写すスクリーンになるような設定を提示した。映像は空や雲となり、椅子の上に立ち上がった宮北は、リンドバーグという名から導かれるように、空を自在に行き来する少年のようだった。しかしそれは二次元の存在であることを志向しているようだった。
身体はほとんどの場合、上位の次元を志向する。身体は三次元に規定されていながら、できれば空間や時間を超えた何ものか手に触れえぬ次元…四次元であろうとするもののようだ。しかしこの宮北のように、三次元性を離れ、オブジェであろう、風景であろう、二次元であろうとするような身体は、おそらくは稀有であり、極端に言えば冒?的でさえある。では、最終的に映像のみの作品に収斂していくのかといえば、おそらくそうではあるまい。その間に横たわる揺れやノイズのようなものをこそ、彼女とその協働者たちは大切にしているのだろうと思う。それがダンスであるかどうかということは、ダンスイコール身体を動かすという観点からはあまり興味がなく、その空間なり時間なりを、一つの中心に身体を置いて形成することに懸命だったといってよいだろう。
吉福敦子は、「クロノス/メビウス」というタイトルからも想像できるように、時間をテーマとした作品だ。舞台中央に12枚の小さな鏡を円形に並べ、カミ手の天井から水を入れた傘袋を吊るし、針で穴を開け、金属のボウルで水滴を受ける。吉福は鏡の円の中心に立ち、そこから一歩も外に出ない。そういう意味で動かない。
序盤は上体もあまり動かない。腕や指で形を作ったりはするが、身体の軸は動かない。水滴がボウルに規則正しく当たる音が時を刻んでいるようで、円状の鏡は日時計のようなものなのか、するとその中心にある身体は、時の柱として存在するのか、というようなことが想像されてくる。
何かの契機があったのだろうか、膝が動き、一歩が出、腕が放たれ、腰が曲げられる。動きの増幅には各段階でそれぞれの契機があって、そのたびに自由度が増したり、動かねばならない制約が増したりするのかもしれないが、それを知ることはできない。しかしその動きは、腕を伸ばすことに限らず、空間を斜めにスライスして顕微鏡の標本のように切片を作ってしまうような鋭角な切れ味を持っている。潔い身体。
実は、この作品のタイトルを「クロノス/タナトス」だとずっと思い込んでしまっていた。タナトスとは、エロスに対極する、死への欲求、方向性を指すが、ぼくの中で並列されてしまったのは、時が経つことが死に向かうことに他ならないという感覚があったことと、いかにも死に向かっている存在として、限られた舞台の空間と時間を直線的に構成した作品だったように思い込んでしまったからだろう。日時計と水時計を模した装置を配した舞台の中で、さらに限られた空間の中で、緊張した緩やかさからスタートし。徐々に身体の軸が揺れ、鞭のようにしなってゆく上体。見た目に派手な動きではないが、空間が限定されているので動きの変化が非常にわかりやすい。他には何もない世界で、ただ一つ動いている生物。他に動いているものといえば、水滴と、定かには見えないが太陽の位置だけだ。
後半、マーチのような音楽が小さな音で流れ始めた。時間の経過が徐々に世界を変質・変容させて、メビウスによって表わされるねじれとなって形をとる。そういえば、上体から腰の動きも、ねじれるような激しいものになっていく。
作品づくりのプロセスには、足し算と引き算があるとよく言われるが、この作品などは両方をうまく組み合わせて、しかもミニマルな構造になったといっていいだろう。ミニマルというと、ただそぎ落とす方向での作業と思われがちだが、それだけでは痩せていく一方だ。時間とねじれという哲学的でもあり空間的でもあるテーマを設定しながら、動きを極端に限定し、それらを一本の線の上により合わせた、ストレートな作品だったといえるだろう。
ところで、この15~17日は舞台監督が谷本誠さん(CQ)、16・17日は照明が牟田耕一郎さんと、普段と違った裏方陣でお送りした。小屋付のいつもと違うスタッフはまた新鮮で、本当にお世話になった。ある種のリップサービスかもしれないが、口々に、ダンスのしかも複数のアーティストによる公演は実に大変だったと言っておられて、ずいぶん疲れさせてしまったようだ。特に谷本さんには、急な依頼でリハーサルに立ち会っていただくこともできなかったのは、仕事の流れの上で申し訳なかった。お二人とも、実にいいチームワークを作ってくださる方で、初めて仕事をするというささくれを感じなかったのは、ありがたかった。諸々、ぼくもいい勉強をさせていただいた。
また、出演者やその仲間が、ボランティアスタッフとして舞台まわりや撮影を手伝ってくださったのは、申し訳なさも含め、本当に助かった。今回はなかなか一般のボランティアを集めることができなかったが、スタッフの問題は次回以降も課題として残るだろう。
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