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2008年9月26日 (金)

「ダンスの時間」レビュー(5) 第2週(4)

Summer Festival 2008 第2週(4) 

 9月も半ばを過ぎたころ、神戸の栄町あたりにあるギャラリー開に行ったところ、ご主人から「ダンスの時間」で司会をされてた人ですよね、と声をかけられて驚いたのだが、そういえばアンサンブル・ゾネの岡本早未さんが以前ここで即興ソロを踊っていたのだから、第1週に観に来ていただいていたのだ。次週には岡登志子さんが即興ダンスを披露されるそうで、じゃあ宣伝しときます、と言ったものの、あんまりたくさん来たら入れませんね、と笑うことになった。
 岡さんは、芦屋市立美術博物館でもピアノの高瀬さんと即興をやったし、その前は国際美術館で内橋和久さんと。なんだか軽いフットワークでダンスへの間口を広げようとしているようだ。何かやらなきゃと言いながらぐずぐずしているわが身を顧みると、恥ずかしい。
 その数日前には甲南大学ギャラリーパンセの館勝生展のライブペインティングで田中美和さんや善住芳枝さんに会い、現代美術もダンスもなかなか動きがない状態やし、お互い何かせなあきませんね、などと言っていたし、確かにこのままではジャンルの内側で内輪だけの互覧会で終わってしまうのだ。その意味で、ジャンルを横断する形でのコラボレーションは、平凡な発想かもしれないが重要なことだ。

Ozawa_3  尾沢奈津子は、演劇関係に広い人脈を持っていて、主宰するN-TRANCE Fishの公演にも伊藤えん魔(ファントマ主宰)が協力・出演しているのをはじめ、しばしば2時間を越える長い公演全体に、はっきりしたテーマを設けて、ショー仕立てというよりはやや濃厚な物語性を与えている。演劇と接触するきっかけは、いくつかの劇団でダンスの指導をしたことだったかもしれないが、その要素を自分たちの公演の中に組み込んでいこうとしているのが面白い。もちろん、ラスベガスでも宝塚歌劇でも、ショーにおいては濃淡はさまざまながら、何らかの一貫性を保つために、テーマは設定されている。ただ、それらは歌詞やセリフという言葉によってテーマがいっそう追いやすいものとなるし、コンテンポラリー等のダンスでは、たいていそれに比べればわかりにくいとされている。尾沢は特段の気負いもなく、あっさりとその境界を踏み越えて、ダンスを楽しめればいいじゃないかとしているようだ。そのことで、多くの演劇関係者が、最初は自分たちの舞台への必要からダンスにふれ、中には後にダンスの魅力に開眼した場合もあっただろう。
 そういうふうに、おおぜいの共演者とともに、外に広がりを求める仕事に精力的に立ち向かう尾沢が、ソロを踊ったのが今年1月「ダンスの時間」18の「LEAVE」だった。そして7ヶ月後の今回が「LEAVE, 2」(笑)。
 行進曲のようなアニメソングのような勢いのいい曲が始まって、尾沢が体操か手旗信号のようなカクカクした激しい動きを繰り返す。既に汗だくである。その後、やや動きが小さくなって壁を伝ったりもするが、足の爪先で壁を探ったり、壁に体当たりしたり、床置きのスタンドの照明に突進したりと、動きは激越なものになっていく。
 前回もそうだったが、今回も後で話を聞くと、あまり踊っている最中のことは覚えていないらしい。憑依やトランスというようなものと同質なのかどうかはわからないが、激しく動くから覚えていないのか、覚えていない状態になるから激しく動けるのか。あるいは、激しく動くということと、覚えていない状態であるということに関係があるのか。そうではなくて、覚えていない状態でしかも動かないという状態もあるのではないか。
 尾沢を「ダンスの時間」に誘ったのは、簡単に言えば、カンパニーを背負うような形ではない尾沢の、素のダンスが見たかったからだ。自分の踊りのことだけ考えればいい状態で踊ってほしいと思って、声をかけた。前回はずいぶん緊張していたようにも思えたが、今回の特に夜の公演では、おそらく彼女のダンスの美点~勢いや思い切りのよさ、スピードと言った激しい面だけでなく、心細さや不安や、がんばって孤独な部分も含めたリアルさのすべて~が存分に発揮され、尾沢というダンサーが選ばれて(ぼくにではないですよ、言うまでもなく)舞台の上に立っていることのすさまじさのようなものがにじみ出ていたように思う。
 忘我の境地というとカッコよすぎるかもしれないが、小柄で金髪で案外キャリアは長くて、ものすごくよく動く身体と関節を外すようなユーモアを持っているこのダンサーは、踊っているうちに定められえた軌道から逸脱して、はじけ飛んで、どこかへ行ってしまいそうだった。何かと戦っているような動きが見られたのは前回も同様だが、今回はそれがいっそう内面化されているように思えた。ソロの20分間は、すべてを自分で創らなければいけないわけだが、そのことの大変さと楽しさを味わっているようでもあった。もちろん、冒頭の応援歌のようなもので、一つの世界を始めるきっかけはわりと簡単につかんでいるようだったし、それをラストにも置いたことで作品の両端をきっちり結んだのはよくある手法にも見えた。しかし、それをぶっ潰すような奔放で不定形な中盤であることが、非常にスリリングだったし、涙ぐましいほど必死で足掻いた果てに、また応援歌が流れてきて、疲れ果ててはいるのだけれど、また始めますか…と繰り返していくような流れは、シンプルながら、中盤の逸脱の激しさがなければ説得力を持たない。スケールの大きな作品だったと思う。
 
Rei  山田レイもまた、2回目の出場。前回の昨年のSummer Festivalでは「芭蕉精」という謡曲に材を採って変化(へんげ)する、トランス系の作品だったが、今回は「ありのままで~我が青春の1ペイジ」と、私語り的なタイトル。冒頭、中途半端な感じの照明の中、山田が現れない状態で、どうして要領が悪いのかとか、やることやってから遊べとか、叱責の言葉が流れる。かなり神経を逆撫でされる始まりだ。
 現れた山田は、ぼろをまとっているのか、蓑虫のようにいろいろなものを身にひっつけてしまっているのか、そういう衣裳で、打ちひしがれたような風体である。『ノバ・ボサ・ノバ』の乞食のような衣裳。今回山田は、少なくとも中盤までは伸びやかで美しい動きを封印し、蓑のように余計なものを身にまといすぎて身動き取れなくなった者のように窮屈だった。それが、彼女が青春と指すものが、どのような状態や時期のことをいうのかは知らないが、それについてのセルフイメージであったわけだろう。この作品の少なくとも物語的な意味での眼目は、その蓑のような衣裳を脱ぎ去って、目にも鮮やかな深紅のドレスに生まれ変わったことではなく、生まれ変わって舞台奥へ歩み去るのをいったん止めて、脱ぎ捨てた衣裳をいとおしむように抱きしめて去るというところである。
 山田は、作品について観客に説明することにおいては非常に熱心で丁寧なダンサーだから、今回も冒頭の言葉の使い方、衣裳の扱いに当たっては、おそらくほとんどの観客がその意味や意図を十分に理解できただろう。特に説明的な動きをとるまでもなく、抑圧された青春の自我が解放され、しかし古い自我をも包み込むように成長し、次の一歩を踏み出していくという作品の趣旨は明白だった。作品を創る上で、このような単純化と明確化は、必要であり重要なことだと思う。何よりも、それによって迷うことなくはっきりと身体が見えてくる。この作品でも、大柄で伸びやかな身体を持った山田が、四肢を縮めて窮屈そうにゴロゴロしているのは、大きなインパクトがあったし、重いぼろを脱ぎ捨てた後の姿は凛々しく、生きることへの迷いを振り捨てたような潔さが見られた。
 このようなことは、単純なことではあるわけだが、単純にするためにそのことに向き合う作業は、少なからず苦痛を伴うものだったに違いない。それによって、多くの人の共感を得やすいテーマを、ダイレクトに提示できたことの意味は大きいと言えるだろう。
 山田自身はこの作品について、急ごしらえの簡単な作品で、次はもっとちゃんとした作品をと言っていたが、あるいは急ごしらえのよさがシンプルさとしてあらわれたのかもしれない。ただ、冒頭に言葉で語られた内容の抑圧的な事柄は、本当に言葉で語られる必要があったのかどうか。ぼろのようにごちゃごちゃした衣裳を脱ぎ捨てるというだけで、同質のことは伝わったと思っていいだろうし、うまくいけばもっと広がりを帯びて普遍化できるだろう。

Kitamari_2  きたまりの「娘道成寺」は、アトリエ劇研で木ノ下歌舞伎の一プログラムだった初演を観て、力強さに感心した作品。天井から紅白の太い縄を吊るし、暗転の間によじ登ったきたを舞台監督がブランコを押すように揺らして、始まる。大きく揺れるきたは、時に壁に激突したりしながら(というのはアクシデントだろうが)、地上と空の間からスタートする。
 安珍・清姫の伝説や、歌舞伎舞踊の「京鹿子娘道成寺」を知らなければわからない作品ではないし、知っていてさかしらに原本との違いを言い立てるよりは、知らないほうがいいぐらいだろう。もし全く知らなければ、天から降臨した女が地上での暮らしでつらい目にあったりしながらも懸命に生きて、最後はまた天上に戻る、という物語にも読み取れる。ぼくはそれでも悪くないと思う。
 そんな解釈では物足りないと思う人は、清姫に見られたような狂気や変妖をこの作品の中に見ようとするだろう。確かに、先ほど「つらい目」と書いたように、サックス奏者(亀田真司)に踏みつけにされていったん引っ込んだ彼女が衣裳を替えて出てくるのは、単なるお色直しではなく、変化(へんげ)であると考えなければいけないところ。しかし、衣裳以外の変化を見て取ることは、率直に言って難しい。もちろん、全体を通じての衝迫力には鋭くすさまじいものはあるし、縄の扱い、限られた小さなスペースでの人形のような動き、サックス奏者による折檻のような場面、など見どころはたくさんあって、それぞれ作品の時間の流れや構成からいって大きな転換であるから、めまぐるしく飽きることなく見続けることができるのだが、動きの質や触感には、目立った転換は見られなかったように思える。
 もちろん、一人のダンサーが短い時間を踊るのだから、物語を帯びて美麗な姫が醜悪な夜叉に変わるといった役柄や外面の変化でもない限り、そうやすやすと根本的な変化など起きないかも知れないが、忘我や憑依やトランスということもそうなのだろう、時々目の前のものが他の何ものかになってしまうようなことが起きるのだ、舞台では。もちろん、毎回起きるわけではないかもしれないが、いつかそのようなことが起きた時には、冒頭の縄に揺れている女と、ラストで縄をよじ登る女は、全く別の相貌となり、この作品が本当に娘道成寺のような、伝説と呼ばれるような恐ろしい名作になるのではないか。幸い、きたはこの作品を何度も再演するようだから、できればその瞬間をこの目で見たいと、しみじみと思った。
 つまりは、それだけの入れ物を作り上げてしまったということだ。古典の力をそれだけ引き寄せたということでもあるのだが、それはその中で存分に奔放に遊び回ってもびくともしない構成を獲得しているということだ。

Murakami  村上和司は今回はRED MANではなく、白いシャツに黒いズボンと、高校生のような出で立ちのソロ。「じんあい(仮)」というタイトルは、さまざまな漢字を当てられ、さまざまな意味を持ちうるものとして。塵埃、仁愛…というわけか。
 多くのダンサーが壁を強く意識するのは、なぜなのだろう。劇場の舞台という空間の中で、何かにぶつかるとすれば、壁であるからか。自己確認という意味からも、居場所の拡張という意味からも、壁にぶつかったり、壁を這ったりすることが大きな意味を持つのだとしたら、舞台という空間の中に在るということは、茫漠とした架空の果てしない空間の中にポツンと置かれているような寄る辺なさそのものであるということなのだろうか。もちろん、壁を支持体として使いながら立つことで、身体の平面性を強調することができる。また、奥の壁であれば、客席から最も遠い地点に立つことができる。
 村上は、壁をかきむしるような動きを執拗に見せ、壁と関わる動きを強調した後、床を転がって、つまりは90度倒した動きを見せるような形で、作品を空間的に構成したと解していいだろう。もちろん動き自体は鋭くスピーディで華やかだから、さまざまな多義性があるように見えるが、作り自体は、平面への格闘2種だったといえる。
 あまり言葉で解釈しすぎるのはどうかとも思うが、それが床に積もった塵埃またはそれへの関わりのようであると言われればそのように思えるし、舞台上には見えない誰かへの働きかけであれば、人への愛だということにもなる。
 村上の作品には、観客への強いアプローチや、水や衣裳を使って「わやくちゃ」にしてしまうような強烈な笑いの要素、そして男前な美しい動き、と多くの見どころがあるが、今回の作品は比較的けれん味の少ないおとなしい作品だったといえるだろう。それだけに、ストレートに見えてきたものがある。
 昼公演と夜公演で、ずいぶん印象が変わって見えたことからも、即興性の高い作品だったことは想像できる。そんな中で、動きが速いためにあまり意識したことはなかったが、村上の立ち姿が、ずいぶん味のあるものであることに驚かされた。動きの潔さについては、以前から気づいてはいた。それにも増して、よく「たたずまい」という言い方をするが、そのような味わい。それはどうしても動的な状態で感じ取れるものではない。にもかかわらず、それを感じたということは、速度の中に静止を、または型を宿した状態であるのではないかということになる。それは最近になって獲得されたものなのか、現れるようになったものなのか、あるいはコミカルな意匠のない作品だったから見えやすかったということなのか、いずれにせよ、鬼に金棒と言っては変だが、発想の「わやくちゃ」ぶりと、端正な身体を併せ持った、ちょっとすごいダンサーになりつつあるようだ。

■南沙織 シンシア・メモリーズ ¥15,750

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