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2008年9月 1日 (月)

「ダンスの時間」レビュー(2) 第2週(1)

~マチュアな男性ダンサーたち~

 8月15日という平日に公演を持ったのは、あるダンサーからの提案による。12月8日、第2次世界大戦開戦の日生まれの彼は、その日に公演をしたことはあるが、敗戦の日にも踊ってみたい、何か特別の思いが沸き起こるのではないだろうか、というのだ。平日の集客に自信がなく、はじめは聞き流していたのだが、金曜日の夜はまずまずの集客が見込めるという声もあり、夏休みでもあり、どうせお盆の週で多くは見込めないということもあり(笑)、思い切ってこの日に公演を設定してみた。せっかくやるのだったら、ただ偶然集まったただけでも面白くないので、男性ダンサーの日にしてみたのだが、これがとんでもなく見ごたえのある組合せとなった。
 ヤザキタケシ、冬樹、ザビエル守之助、由良部正美、の4人である。皆、新作ではない。ヤザキはスタジオの発表会や神戸学院大学で発表したものの小劇場版、冬樹は2月のアルティブヨウフェスティバルで上演した作品の改訂、ザビエルは前の週にここで発表したもの、由良部もまた再演である。

Fuyuki_1  「ダンスの時間」初出場の冬樹は、アルティでの初演がやや不本意に終わったこともあり、今回の出演を久しぶりに本格的なソロ作品の発表と位置づけたようだった。私信だったか、10年ぶりと聞いていたが、ソロとなると、そういうことか。コメントで紹介した「ディラックの海」がやはり10年前の舞台なのだ。「Rain Dance」と題した作品は、壁を伝うようにシモ手奥へ下がり、奥の壁をゆっくりとカミ手に向かい、カミ手奥からシモ手前へ何かをあたため守っているような前屈みの姿勢で斜めに進んでくる。何度か周回する内に起き上がり、上方に手を伸ばし、やがて中央奥に座り込み、溶暗、という構成としては単純なものだ。そこで踊る存在にとっての問題は、いかにして彼がそこに存在し得、なぜ彼が次の一歩を進めることができるかということだ。
 多くの者はそれを自明としている。ダンサーとして舞台に上がることの自明さ、舞台に上がった以上、歩を進めることの自明さ。それに対して無批判であることは幸福なことだし、改めて問い直す必要もないことなのかもしれない。冬樹ほどのブランクがあったりしなければ、それは当然で自明のことだ。もちろん、人はわざわざブランクを作らなくてもいい。久々に見た冬樹は、以前と同じ背中の丸み、低く屈めた腰、刷くような足捌きで舞台を暗く低く静かなものにした。その暗さや静かさは、何かを抱えたような前屈みの姿勢から放たれる限られた視線によって捉えられた世界の様子であっただろう。
 もちろん冬樹は長いキャリアを持っている。動きそのものは、その間あまり変わっていないのかもしれない。しかし、長い間人前で踊っていなかった時間の蓄積が、身体の重心をいっそう沈潜させ、伸び反る際の力を大きくさせたようだ。生命の力の振幅の大きさがダイレクトに感じられるような作品だった。

 誰かがなぜ「ダンサーである」として舞台の上に立ち、はじめの一歩を動き出すことができるのかということは、外部的な制度に保証されているのでない限りは、とんでもなく特異なことなのだろう。
 「止まったら死ぬ」と冗談交じりに言っていたダンサーがいたが、一度動き始めて、作品の中でいったん止まったら、どのようにしてもう一度動き始めることができるのか。ということは、動いていないように見える身体も、実はその内面において止まっていないということがほとんどなのだろう。それら一連の、スタンバイ状態を含めた時間の連なりの中で、ただ動きの量だけの問題ではなく、生命の振幅が感じられるときに、その作品はスケールが大きいのだということになる。

Yurabe  生命感というのは、ダンスにとって最も親しい感情かもしれない。身体が動くことは生命があることの証であるのだろうし、生命力の横溢とは、豊富な運動量であるようにも思われるだろう。
 リハーサルが終わってしばらくの間、ぼくたち(というのは照明の伏屋さんや音響の西平さん)は、由良部正美さんからいろいろなお話を聞いていた。作品の流れの解説から、ALS-Dの甲本さんの話へと話は尽きず、ぼくたちだけで聞いているのが本当にもったいないと思ったほどだ。一言でいえば、作品のピークはどこかということになる。かすかな光の中で横たわる姿から、徐々に蠢きはじめ、立ち上がり、螺旋を描くように天を仰いで降るものを全身で受けるように舞い踊り、何度か大声で叫び、腹の底からすべてを絞り出すかのように声を上げ、ゆっくりと収束していく。これまた単純な構成の直線的な作品だから、当然のようにピークは、激しく舞い踊り、絞り出すように叫ぶそのあたりにあると思う。
 ところがその時の由良部の話によると、本当のピークはそこから後にあるのだという。存分にすべてを世界から吸収しつくした最も豊かな実りの時期は、実はその後、そのようにして蓄積した実りを四囲に放出するためにある。その放出ということこそが最も大きなピークであると。
 「燃えている手紙のようなからだの願い事」と題されたこの作品について、上記のような生命観が説明なしに観客に直観されるためには、作品の構成にも身体の見せ方にも、さらに何かが必要なのかもしれない。しかし、その話を聞いた先入観で観ていたせいかもしれないが、大声を上げた後の由良部の収束に向かう動きには、虚脱ではなく、衰頽でももちろんなく、何とも言いようのない豊かな広がりがあったように思える。これは生命観、次のステージのことを考えれば死生観ということだ。一般に衰えると言われていることについて、あるいは死に向かうことについて、こういうような捉え方をするなら、いわゆる外見的なピークの迎え方も異なってくるだろう。

 「ダンスの時間」では、何度目かから、作品の合間にぼくがディスクジョッキーのような形でコメントをするというスタイルをとっている。時々ご批判を受ける。作品に先入観を持ちたくないとか、評価を押し付けないでほしいとか、うっとうしいとか。実はこの由良部から聞いた内容を作品の前に話そうかどうか迷って、夕方公演では、「生命観と作品について非常に興味深いお話を伺いました」と示唆するにとどめておいた。これでお客さんは、生命について考えさせてくれるような作品なのだな、と思って観ることができるはずだと思い、それ以上は言い過ぎだと思って、とどめた。ところが終演後、何人もの人から、どんな内容だったのかと聞かれ、少々突っ込みすぎるかなと思いつつも、それに負ける作品ではないしと思い、夜公演ではやや詳しく説明したら、わりと好評だった。もしぼくが一歩踏み込んで説明したことによって、お客さんがこの作品の終盤を瞬きせずいとおしむように観てくれたのだとしたら、きっとそれはよかったのだと思う。
 それにしても、いつもコメントは、このように、ひやひやと手探りしながらなんです。

Yazaki  ヤザキタケシの「クルクルクルクルクルルルル~ン」は、小劇場版ということで、前半にチューブを通りすがりに発見するといったコミカルなシーンや、客いじりの場面を増やしたものの、大筋は変わらない。サウンドチューブをくるくると回して風のような音を出し、後半は自ら風のように、または風を起こして舞い回る.ふっとため息をついて、おしまい。これもまた単純といえば単純な構成の作品だが、その中でヤザキの魅力が存分に発揮されているのがすごい。
 なぜ彼は自分の作品に、しばしばコミカルな要素を取り入れるのか。おそらく彼はそれを動きの鮮やかさだけによってでも回収するすべを持っている。つまり、あえてシリアスだったり悲劇的だったりする場面をしつらえなくても、作品の中で提示した笑いを動きの魅力によってだけでも回収することができる。そのことでできた作品の振幅は、ずいぶん圧倒的なものなのだ。おそらく彼はある時点で、深刻さをこしらえて創る作品というものを放棄することに決めたのだろう。身体の動きや形そのものが持つ魅力だけで、彼はとても雄弁に人間を語ることができる。少しはにかんだような笑いを前面に押し出すことで、わざとらしく賢しららしい「いかにも」な作品というものを回避できているのは、やはりすごい。
 ところで、サウンドチューブだが、由良部さんも冬樹さんも、そしてこの週舞台監督を務めてくれた谷本誠さん(CQ。ちょっとユーモラスでプロフェッショナル、ありがとうございました)も、そして後日聞いたら岩下徹さんも、昔使った、持っている、使っている、何本も持っている、などという話になって、愉快だった。回転の速さによって4種類の倍音が出るようで、後頭部に働きかけてくるような不思議な音色がする。風を表現しながら日本的な「境地」のような世界に入ることがなかったのは、サウンドチューブのを生かしたからと言えるだろう。素敵な再発見だった。

Gen  17日(日)の作品だが、福岡から初参加の中島GEN元治「Shoes」も、同様に男性のソロ作品。余計なことかもしれないが、中島もまた20年以上踊り続けている40代の「ベテラン」である。LOCK JAZZをオリジナルとするということだが、回転などの早い動きを急に止め(Lockする)、その落差と止めのポーズのかっこよさを身上とするJazzダンスのスタイルだそうだ。ジャニーズ系のアイドルのコンサートやミュージカルの振付もしているから、そういうかっこよさを思い出せば、おおよそのイメージはわく。
 まず、そういうジャンルの男性ダンサーが、踊り続けていて15分近い中編作品を発表するというのがすごい。体力面でもそうだし、このような小さな会場で何のごまかしようもなく身体をさらそうとする精神にも敬服する。昨秋、サイトウマコトが福岡で「それからのアリス」を再演したときに群舞作品を上演し、アリスの中でもネズミを踊ったのが、そもそもの接点であった。華やかな世界も経験してきた人なのに、ダンスに対してあくまでひたむきな姿勢に魅かれ、出演を快諾してもらった。
 前日に中島のリハーサルを観て、失礼ながらやや硬さを感じたぼくは、どこか一ヶ所、やわらかくリリースを重視するポイントを作ってみたらどうですか、というようなことを提案した。赤いテープ、赤い布、椅子、靴という小道具を使ったこの作品は、物語的に解説すれば、束縛と抗い、居場所を探し、しかし安住することを拒んで、靴を履いて歩き出そうとする、男の半生の物語だといっていいだろう。その過程のどこかで、喜びに満ちた幸福感が出てくればいいと思った。それがLockするという彼のダンススタイルとどうなのかとも迷ったが、両者を対比的に観ることができたら、作品の幅が広がるのではないかと。
 結果的には、そんなぼくの意見とは無縁に、中島は舞台の上でLockし、解放し、幸福感に満ちた。特に夜公演では、踊りながら笑っていた。「中島さん、笑ってたね」と声をかけると、踊っていて楽しくてしょうがなくて、このまま終わらなければいいなと思っていた、と言っていた。
 前にひたむきさと言ったが、それに少年のようなという形容をつけたくなる。それはそのまま15日に出演した4人の男性ダンサーにも共通して見ることのできる魅力である。演劇では、自分が楽しいのではなく、仲間が楽しいのでもなく、観客が楽しいのでなければいけないと聞いたことがあるし、ダンスでもある意味ではそうだろうが、別の意味では、自分が楽しくないのに観客を楽しませることなどできるわけがない。もちろん、楽しいだけがダンスではないが、物語という外在的な流れを生きる演劇と、自己の身体を媒介とするダンスとの一つの違いだと言えるかもしれない。中島がこんな小さな劇場で観客を間近にして十数分のソロを踊るのは、ほとんど初めてのことだったと思う。失礼ながら、10年前の中島なら、もっとスピーディにシャープに動けたかもしれない。しかし、踊っていて、そのことの喜びをこんなにストレートに出すことができたのは、今の中島だからだ。

 40代から50代に入った彼らのダンスに接して、まずは「今の彼」のダンスを観ることができたことの喜びに満たされることができた。そして彼らのダンスをいつまでも観ていたいとも。「ダンスの時間」を始めた一つの目的に、マチュアな(円熟した)ダンサーに発表の場を提供したい、ということがあった。ある年代から「先生」になってしまうと、自分できっちりと作品を踊ることがなくなりがちになるのではないか。後進の育成も大切だが、自分が最前線で踊っていて、乗り越えられるべき存在として立ちはだかってれなければ、後進だってついてこないはずだし。もちろん放っておいても彼らは踊り続けるだろうが、そういうマチュアなダンスを提供する場が持てたことは、本当にうれしい。

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