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2009年1月18日 (日)

【既発表】不在に向き合う~2008年春・夏の舞台から

(「イマージュ」43号、2008秋収録)

不在に向き合う ~ 二〇〇八年春・夏の舞台から

 新しいお店か何かができたとして、そこがその前に何だったか、思い出せないことがある。今ここに存在していないものと向き合うには、記憶というだけにはとどまらない、執念のようなものがなくては、立ち位置さえ定まらない。記憶と言ってしまうと、脳にだか心にだか、いつの間にか印字された平板なもののように思えるが(つまり、制御不能ということでもあるのだが)、焼き印を捺す、刻み込むといった痛みを伴うような深さなしには、過去に存在した現在の不在と向き合うことができない。

 前号の「ダイスをころがせ!」が、柳井愛一氏の最後の原稿となってしまったと聞く。そこで取り上げられていたdotsが、6月27-28日に京都芸術センターで行なったショーイングは、身体表現であることを自分たちに課そうとしたのか、いつもの貪欲で奔放に分野を横断し越境して表現を押し出していく混沌のような多様性は封じられていたようだったが、あえて棲息圏を狭めることで身体という媒介への集中力は高められていた。裏返せば、身体による表現であることにこだわることで、そこから何ものかが見えてくるのではないかということを予感または希望するような営みであったと言ってもいいだろう。

 主宰の桑折現からは二世代も上の、70年代に十代を過ごした者(というのは、柳井氏もぼくも同じなのだが)から見れば、エネルギーの爆発に擬したロック・オペラのような冒頭の乱舞や、そこで使われていた音楽、対称性を強く意識したフォーメーションは、どこかしら古くさいものに思えたが、かつてそこから何も生まれてこなかったわけでもないだろうし、古くさいことが陳腐さと同義とは限らない。しかし、あえてスタイルとしてそれを選択したのであれば、それを現在に位置づける枠組みと、それを捉え直すための新たな美意識が必要だったように思う。

 身体を自虐的なまでに動かすこと・・それはダンサーが自分の身体を動かすという意味と、振付家(高木貴久恵)ないし演出家がダンサーを動かすという、両方の意味でだが・・によって修行僧が悟りを開くように何かが会得できると期待するのは、自然なことだと思える。しかし、それをダンサー、振付家、演出家が共有するためには、何らかの作業が必要だろう。ダンサーの汗や疲弊や筋肉痛に単純に比例する達成感は、演出家の意図と異なる方向を指していることもある。

 今回は、まず冒頭で踊りまくることから始め、つまり序盤に疲弊を置くことで作品を流れさせ、動から静へ収束しながら内面では充溢していくという構成がユニークだったが、疲弊を充溢に転換させるためには、もう一段作品内部の螺旋の速度を引き上げることが必要だったように思う。

 また、シンポジウム(と言うよりはアフタートーク)で桑折が率直に洩らす「テーマのなさ」については、テーマの不在に向き合うことの方が、控えめに言って表現のクオリティのために、いくらか理に叶っているように思える。谷川俊太郎は連作詩「鳥羽」(1968年)を「何ひとつ書く事はない」と書くことから始めたが、彼はその茫漠に耐えることで、ただの青春のきらめく感性を発現させた詩人で終わることなく、また自分自身の再生産に終わることなく、常に何ものかに徹底的に真摯に向き合うことができたのだ。

 不在に向き合うことなど、どのようにすれば可能なのだろうか。欠陥ロケットの『第6話』は、一見平凡な五人の家族と犬の「お茶の間」を描きながら、一瞬の破裂によって決定的な不在を、理屈や言葉ではなく感じさせる、強烈な作品だった(作・演出=井上エミ。7月28日、-IST零番館。京都公演もあり)。姉妹の他愛ない口げんかが絶えない一家の夕食前のひととき。お父さんを女優(高橋恵美子、ババロワーズ所属)が演じていることだけが少し奇妙ではあるが、それにもやがて慣れてしまう。お父さんが口紅を塗る凍ったような時間があったり、それまでの物語の流れとは全く異なる単語が別人のような語り口で口
端にのぼったりするのが、かすかな伏線として、しかし確かに口の中の砂のように残るものの、時間は淡々と流れていく。ただ、なぜとはわからないが、これは単なる平和で幸福な家庭劇ではないことが明確な予感から徐々に確信に変わり、彼女たちが抱えているものが、何かとても大きな欠損や惨劇による不在であると恐怖に思われた途端、六人が一斉に叫び出す。

 口々に、絶叫のような言葉だから、よく聞き取れない。断片的に聞き捨てならない単語が耳にはいるのだが、それよりも、全員のこの世の終わりを迎えたような悲嘆と悔恨のどん底にあるような表情が目に焼きついて、残る。

 言葉は断片としてしか伝達されなかったが、彼女たちが何らかの惨劇を引き起こしたことについては、理解することができた。また、その個別の加害の結果として、詳細不明な不在がそこにあり、それを覆うようにそれぞれがその不在の者を演じているらしいことも観客に刻印された。惨劇がどのようなものであったかは、ほとんどわからないが、悔恨の強さはほとんど同質・同量のものとして提示された。わからないことでの焦燥は残されたまま、また劇は元のような一家団欒を装っている。そして、ノックの音がして、それぞれが期待の表情で訪問者を迎えようというところで終わる。

 登場人物たちは、煉獄のような中間的な世界の中で、自分がその存在を奪ってしまった者を演じることで、その不在を背負い、向き合おうとしている。それは父であり、わが子であり、ペットの犬であったりする。不在の者そのものになることによって、不在を自らに刻み込み、悔恨と懺悔を深め、最後にはやや唐突だが、救済が予感されている。

 この劇が特殊なのは、物語が連続的な線として構造されているのではなく、ほとんど時間が流れていない日常的停滞の中に、突然大きな強度をもった点が現われ、そこにすべてが収斂されていくことだ。物語というものは、一般的に線形に連続しているものだが、この劇で語られているように見えるものは、時間を流れてはいない。それは、彼女たちが存在ではなく、不在を生きているからなのだろう。

 不在となるのは他者ばかりだから、いつも「私」はそれを迎え見送るばかりだ。そのことによって、自分自身の存在が見えなくなってしまうこともあれば、他の他者の存在が不安定になってしまうこともあるだろう。『第6話』は、他者の存在を消滅させた結果として自己の存在が不安定になってしまったわけだ。

 これらとは全く別に、自分自身の混乱が他者の存在を不安定にさせたのが、桃園会の『お顔』だ。桃園会には珍しく、佃典彦(劇団B級遊撃隊)の作品を、深津篤史が演出(8月1~4日、ウイングフィールド)。

 結婚十年にしてようやくかわいい女の子を授かった妻(はたもとようこ)が、突然飼っていた亀の顔が突然変わったと言う。次には、まだ乳児の子どもの顔が変わって見える。そして夫、弟…と、彼女をめぐる人々が、次々に顔を変えていく。顔が変わって見えるようになってしまったことで、特に子どもとの関係をはじめとして、彼女の日常の世界と人間関係があっけなく崩壊する。他者が別物に見えるようになってしまって、世界が、自我が崩壊する。

 一般的にいえば、育児ノイローゼや勤務先の愚かな後輩、弟との秘められた過去などの様々なストレスから精神状態に異常を来したという(だけの?)ことだが、それを舞台上で二人の役者に一つの役を演じさせることによって、観客にも彼女の混乱を共有させたのがうまい。特に娘の「ミサキ」を武田暁(魚灯所属)、橋本健司の男女に演じ分けさせたのが大胆。妻の目には、ある時突然かわいい女の子であった娘が、けだもののように見えるようになったということを直接的に見せ、そのために逆に他の登場人物たちが橋本演じるむくつけき娘に、武田の時と同様に接していることの方が異様に見えて来るという効果をもたらした。

 ここでの不在は、妻にとっての日常的な人間関係が、現実の家族や友人の誰それの存在の変容、喪失という結果になって表れた。顔が突然変わってしまっただけで、その者に対する親近感や愛情のすべてが剥落し、憎悪し排除しようとまでしてしまう。またそうしてもたらされた異常性によって、それまで日常の名において隠蔽されていた弟との近親相姦や、友人への不信が明らかになってしまうのも、恐ろしい。

 愛すべき対象の喪失とは、愛する私の消滅でもある。しかもここでは、対象はただ単に消滅しただけではなく、代替物として何だか見なれない醜悪な者が置かれている。不在に向き合うことの困難さとは、空白に向き合うということそのものが矛盾であるからだ。そこには茫漠しか広がっていないが、『お顔』では眼前に立ちはだかるように醜悪な(というが、客観的には普通の外貌をしていただろうが)見なれぬ者を置くことで、グロテスクさが増し、違和から生まれた恐怖が具体的な形を取ることができた。

 実は美術の世界からも、不在を可視化するような作業を行っているアーティストを見つけることができる。簡単な紹介にとどめるが、風景を描いた油彩の中から、あるもの一部分を白抜きの形で消滅させてしまう居城純子(ギャラリーほそかわから出展)や、スナップ写真から人物を切り抜いて直角にポップアップさせる池田朗子(The Third Gallaery Aya出展)。共にアート大阪2008(堂島ホテル、7月25~27日)で見たものだが、前者では白抜きされたものが逆に存在感を際だたせるのが面白い。後者では、作品を真上から見下ろす形で展示されていたこともあって、切り抜いて立てることが存在を強調し、遠近感を混乱させるという通常されている見方の他に、それを真上から見れば、人物が切り抜かれて消失した景色に見えるという両義性が、実に簡単な仕掛けから浮き出てきたことが驚きだった。

 ある価値が両義化することは、実はその本質を失ってしまうことにもなる。私が二人存在しているという状態は、分裂として病理の範疇であるとされる。

 ある日部屋に戻ってみたら、見知らぬ男がいて、質すとどうも「私」らしい。そのように東京デスロックの『3人いる』(5月24・25日、神戸アートビレッジセンター「第4回スプリンクルシアター」参加作品)は始まった。「私」の二重化という状況は最後まで変わらない。私の一人称認識は排他的同一律を保持しており、私にとって私は唯一の存在であるのだが、そういう同じ私が、全く異なる相貌をもって、二人いる。友人から見える私は、あるときは小男だったり、別の時には髪が薄かったり、同一性は全く保たれていないようだが、友人は混乱しているわけではない。分裂した自己が外化されて単独の生命をもっているのだから、お互いが私は私だと思っている限り、他人には問題はないのかも知れない。しかし両者が同じ時間と場所にいる以上、「あぁ、あなたも私なのね」と微笑んで握手をするわけにはいかない。

 それを作・演出の多田淳之介は、ある意味では奇を衒わず、見かけの一人に一人ずつの役者を充てて演じさせたわけだが、性別も混在していくし、さらに二重化している人物が二人いて、都合四人存在するはずの状態になっているのに、舞台上では三人の役者がくるくると入れ替わりながら四人を演じ分けるというアクロバティックな手法で表現した。そのために観客は目くるめく混乱に巻き込まれていく。徐々に論理学の演習問題を与えられているようになり、私が二人になっていて、その内の一人が出ていったときに、一人が残るとしたら、どちらの私が本物の私だろうとか、一人が出ていったら二人が消えてしまうとしたら、それを舞台上ではどう処理するのだろうとか、役者が二人消えてしまったら、三人の役者が二人の二重化した登場人物を重複しながら演じているのに、あとの一人の二重性はどうなるのだろうかとか…要するに、舞台上の混乱に観客の混乱が同調して、不思議なことにどんどん笑いが増幅していったのだ。

 なぜだろうか? 私という存在が唯一無二でなければいけないというのは。そういうシリアスな問題を真正面から取り上げながら、観客を笑いの渦に巻き込むというのは、非常に高度なセンスとインテリジェンスが横溢していたということだ。劇のラストは、皆が出ていって声だけが残るという、いかにも「シュール」なものだったが、何か他のもっと鮮やかな終わり方もあったように思う。実際、販売されていた台本では、別の終わり方だった。たとえば会話の声も突然無音になるとかだったら、一人がキョロキョロしながら出てくるとかだったら、どうだろうと、様々な可能性を観客に考えさせる力があったわけだし、決定的な正解がないということでもあるわけだ。それが現実というものなのだろう。

 私がいなくなるとは、どういうことか。もちろん死ぬのはいつも他人ばかりだから、私がいない状態の世界を私は認識できないはずだが、他人の誰かの不在について、所詮人間はすぐに忘れてしまうものだなどとうそぶいていると、突然無防備なときに不在が突きつけられる。ある日、精華小劇場の薄闇に足を踏み入れると、突然、ここで柳井さんと交わした二言三言が思い出され、芝居どころではない気分になった。そういうことがあると、それからどの劇場へ行くにも、身構えてしまう。そこにいてほしい。

 本番当日朝に突然ダンサーの一人が急病で倒れ、4人の作品が3人になってしまったことがある(〇九。4月27日、ロクソドンタブラック「ダンスの時間」)。このアクシデンタル・アブセンスは、偶数の対称的な構図を傾け、どうしても埋めきれずに空いてしまった空間を生じさせた。しかし不思議なことに、その偏頗が、作品に絶妙の緊張感をもたらした。もちろん、一人欠けたことによる危機感が、一人ひとりのダンサーに与えた不安定さが、昂揚を生んだのかもしれない。しかしそれはあえて言えば、一人の不在を意識することでもたらされたものだ。もしかしたら作品世界が成立しなくなるかもしれないほどの危機的な不在に直面し、辛うじて皆で崩壊を押しとどめるような力。このようなことが恒常的に実現されることは難しいかもしれないが、突然舞台に立てなかった者の無念とともに、このことを身体に刻み込んでおくことができればと、作品の中に不在を抱え込むことの可能性が見えたように思われた。

MARGARETMUIR ドットホワイト・クッションカバー ¥1785

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