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2009年1月

2009年1月18日 (日)

TAKE IT EASY!×末満健一「千年女優」

 いなくなるのは、ずるいことだ。誰かがいなくなると、残された者にとって、その姿は凍結されてしまう。もちろん、いなくなった者にしてみれば、突然の中断は悲劇に他ならないが、いなくなられた者にとっても、悲劇の強さは変わらないか、むしろ生き続けなければいけない分、思いが徐々に大きくなってしまうことだってある。

 「千年女優」という言葉を、TAKE IT EASY!の公演があるというので、初めて知った。2002年に公開された今敏のアニメ映画を、末満健一が脚本・演出を担当して舞台化したものだ。美しく洗練されたデザインの三つ折の豪華なチラシと共に、その言葉はちょっとすわりの悪い語感であるのに、妙に印象に残った。たとえば、千年ダンサー、千年画家、千年詩人…だったら、どのようなありようなのだろう?、と。

 主役である藤原千代子は、関東大震災の日に生まれ、劇の始まりである75年後の取材の日にも地震に襲われている。阪神大震災の1月17日を挟んだ公演となったのは偶然かもしれないし、意識されたのかもしれないし、偶然という必然だったのかもしれない。しかしそのこと自体は、少なくとも劇では柔らかな喩として置かれているだけで、地震そのものが大きなテーマではない。しかしぼくたちは、地震によって何ものかがなくなることを知っている。

 この劇の中でなくなった大きなものとは、戦時中の弾圧によって虐殺された(ということは後年わかるのだが)思想犯の青年画家だ。千代子は逃亡中の彼をほんの行きがかりで自宅の土蔵にかくまい、その出会いが決定的なものとなり、数十年彼を追い続ける。千代子が満州に向かったのも、女優になったのも、すべて彼ともう一度会うためだ。

 劇は、戦時中から昭和30年代の映画の黄金期までの現実の時間を回想し、銀幕のスターであった千代子の代表作を振り返って歴史のエピソードを大胆に転々としながら、75歳になった千代子を取材しているドキュメンタリー製作会社の社長と助手を狂言回しに展開する。数十年間の回想と映画作品の時間を織り込むから、時間も空間も自由自在に行き来する。

 面白いのが、それに伴うように、舞台上の女優と役がめまぐるしいばかりに入れ替わることだ。主役の千代子は、主には回想シーンを前渕さなえ、現在を中村真利亜が演じるが、全員が演じる。同様に他の主要な役も入れ替わり演じられ、5人の女優は駕篭かきからドアから、数え切れないほどの役をあてられる。シーンによっては、4人が千代子になっていることもあるし、「それ、誰?」と素に戻って確認するようにして笑いを誘うこともある。

 その役の転換の鮮やかさが、すばらしい。一人の人間にとっての悲しみや喜びが一としてしか表現できないとすれば、ここではそれが5人によって演じられることによって、少なくとも5倍になりえている。千代子を演じる清水かおり、中村真利亜、前渕さなえ、松村里美、山根千佳のそれぞれの中で、千代子の、あるいは他の登場人物の、自分ではどうにもしきれない運命や時の流れに対する思いが、臨界点に達している。その転換を、彼女たちはあくまでクールに鮮やかに瞬間的に、掌か肘の動きかでスパッと切るように遂げている。そこで観る者の思いが残る。

 動きが鋭い速度を持っていたのは、強調しても強調しすぎることがない。その速度に、観客の感情は追いつこうと悪戦苦闘しているが、女優たちの思いはもっとすごい速度で疾走していた。疾走。たしかに、この劇は時間をも空間をも疾走する劇だったのだ。それはもしかしたら、「彼」が既に不在の存在であったからかもしれない。「彼」と千代子の出会いはほんの短い期間に過ぎなかったのに、それは何百万倍もの永劫に近いような時間となって疾走し続けた。それを5人の21世紀の女優たちは、舞台の上で身を翻し、懸命に疾走した。そういうことだ。

 結局この劇が残したのは、人の思いの強さということだと言っていいだろう。脇にずっと現れ続けるあやかしの存在も同様だが、思いの一途さが、千代子にすべてのものをはねのけさせる強さとなる。そのシンボルが「彼」から渡された鍵なのだが、それが実際に何の鍵だったかは、最後まで明かされない。しかし、見終わった観客は、それが確かに彼が言うように最も大切な何かを開けるものであり続けることがわかっている。それさえあれば、大丈夫だ。

 率直に言って、TAKE IT EASY!という劇団については、いつもどこかしら過不足を感じていて、それが魅力であると思っていた。永遠の未完成、とでも言うような。しかし今回この作品では、演技、配役、ちょっとしたおちゃらけ、すべてにおいて完璧だった。怖いほどだった。元々を遡れば震災の年から一部のメンバーについては見続けてきた長い付き合いだが、こんなにすごくなってしまって、これからどうなるのだろうという思いだ。彼女たちの懸命の85分を見終えて、本当にうれしかった。そしてロビーでプロデューサーの水口美佳が、これがしたかったんです、と呟いたのを聞いて、本当によかったと思った。まだまだ若いカンパニーだが、すばらしいきっかけをつかんだのだと思う。再演があれば、ぜひ観てほしい。
 アニメの原作もぜひ見たい。

 さて、この劇を見ながら、ずっと思っていた。「千年」というと、一人の生涯にとっては永遠に近い歳月である。しかし、芸術にとっては、不可能な歳月ではない。16日に亡くなった画家、館勝生のことを、たびたび思っていた。彼の新作にもうふれることができないということは、本当にどうしたらいいのかわからないぐらい、つらい。しかし、彼の四十数年に描かれた絵画は、存在し続ける。千代子の姿が銀幕に永遠に固定されていて、いつまでも感動することができるように、願わくは千年、館の作品が人々に強いインパクトを与え続けてほしい。そのような環境というか機会というか状況か、そういうものをぼくたちはどのようにして整備というか用意というか創造することができるだろうか。あの甲南大学での個展の初日に、杖をつき、酸素を吸入しながら一枚のドローイングをライブで描いた館の姿を、実際に見た人は数十人に過ぎなかったかもしれないが、その行為があったということが世界に刻む痕跡のようなものは、永遠で無限ではないかと信じている。
 ダンスもそうだと、信じている。

(1月16~18日、HEP HALL、大阪。18日17時の所見)

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【既発表】contact Gonzo「牧歌的崇高論」、館勝生ライブペインティング

(「明倫art」2008年11月掲載)

散乱しているものやことの飛沫

contact Gonzo「牧歌的崇高論、その実践」9月6日、OBP円形ホール(大阪市)
館勝生展 ライブペインティング 9月15日、甲南大学ギャルリー・パンセ(神戸市)

 contact Gonzoに出演依頼をしようと、垣尾優に連絡した時だったか、前の公演から日を置かないと難しいといわれ、驚いたことがある。なぜなら、肋骨や歯が折れたりすることがあるので…と! なるほど、本気なのだ。Youtubeで見て、街頭でいきなり殴り合いを始めるものなど、かなりヤバイなと思ってはいた。パフォーマンスの歴史の中では、住居不法侵入や贋札事件、猥褻物陳列など、さまざまに社会規範に抵触するものがあったが、これは場合によっては傷害罪になるだろうし、会場に救急車が呼ばれたらすごいよな…とか考えてしまう。
 そのセンセーショナルなコンセプトに反して、今回の公演で不思議に思ったのは、その殴り合いが、散在する様々な物や人や出来事の中で、必ずしも主要な役割を与えられていないように思われたことだ。序盤は、ゆるい安楽な時間が流れていた。ミシンとカラフルな端布に囲まれた男、手をつないで楽しげに散歩している女たち、材木を切断して会場の奥から木橋を渡そうとしている男、ライトを調整している女…が風景のように無機的な会場にまばらに置かれている。他の男たちはボールを蹴ったりペットボトルを投げたりしている。そして時々殴り合う。
 もちろん、殴り合いを期待して来たぼくたちは、それで納得する。では、無責任な観客にとって、殴り合いとそれと等価であるように散乱させられた多くの出来事や物事は、どのように関係づけうるものだったか。安楽な雰囲気で始まった空間には、取っ組み合いが始まれば、緊張が走る。ぼくたちは、ゆるい気分の中に緊張が走れば、地と図の関係のように、緊張する部分のほうが主題であると思うが、どうもそうとばかりは位置づけられていない。彼らが評価されてきた殴り合いという行為を強調せずにおくことで、刺激的な情報としての殴り合いを見に来た観客にパンチを放ち、立ち位置を危うくすることになることになる。

 パフォーマンスの凄まじさということなら、画家・館勝生のライブペインティングがすごかった。立っていることも難しい闘病中の館がキャンバスと格闘する姿は、絵画が生の痕跡であることを明確に示していた。拳につけた絵具を叩きつける様は、これまた殴り合いのようでもあった。恒星の破裂のような飛沫、マントルが地上に現れたような生々しい絵具の塊について、制作のプロセスがわかったということよりも、全存在が画家である以上、このようにしか在ることができないのだなと、やはり激しく打たれた。

※ 館勝生氏は、2009年1月16日午後2時53分、癌のため永眠されました。享年46歳。謹んでご冥福を祈るのですが、もう彼の新作、新しい世界を見ることができないというのは、あまりにもつらく、残念です。
 館氏のサイト http://www.threeweb.ad.jp/~tachi/TOPPAGE.HTM
 甲南大学でのライブペインティングの詳細 三井知行氏(大阪市立近代美術館建設準備室)のレポート http://www.peeler.jp/review/0811hyogo/index.html 

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【既発表】『カルミナ・ブラーナ』(演出・振付=石井潤)

(「明倫art」2008年12月掲載)

空間に歪みを与える身体の聖性

「2008秋の合同バレエ祭-創作バレエの夕べ」(11月25日、京都会館第2ホール)から
『カルミナ・ブラーナ』(演出・振付=石井潤)

 寺田美砂子(コンテンポラリーでは、みさこ)が身にまとっているものの本質を見きわめようとすることは、ダンスする身体が究極的に獲得することができるかもしれない聖性をさぐることであると同時に、聖性というものの本質を明らかにすることであるのだろう。

 カール・オルフの合唱曲「カルミナ・ブラーナ」において、彼女は主に素肌に紅蓮の炎が巻きついているような衣裳で、その上に様々なコスチュームをまとって、様々なキャラクターを演じる(衣裳デザイン=半田悦子)。

 だが、本当に彼女がまとっているのは、布ではない。コスメティシャンの白衣や修道女の祭服、激しく眼を射る裸のような生々しさを超えて、少なくともこの劇場という物理的に区切られた構築物の内側における空間のすべてが、彼女を中心にねじれ回転し、舞台上の存在はもちろん、客席もその渦に巻き込んでしまうような求心力の中心として存在している。

 ただ耳目を集めるというだけではない。彼女が舞台上に現れるだけで、均質だった空間に歪みが生じるような重みの現れ。例によってアウラとしか呼びようのないものではあるのだが、巧みに踊っている時だけではなく、たとえば第8曲「店の人よ頬紅をください」で、3人のチャーミングな女性たち(川畑真弓、松村弘美、水野永子)にでたらめに頬紅や口紅を塗りたくる奇妙なコスメティシャンという役柄で現れた時でさえ、紅を塗るというその行為が何か決定的な秘儀であり、この吟遊詩人の歌集でしかない単純な物語曲を魔性と愛欲の魔物語りであるかのように変貌させてしまうのだ。

 そのように舞台という零度の空間に、重みによる歪みを生じさせる存在を出現させることが成功したのは、もちろん振付の石井潤が仕組んだ奸計である。彼は周到に計算し尽くして最小限の地雷を置く反体制ゲリラのように、哄笑やエロスの素を随所にちりばめている。調理される寸前の白鳥(張縁睿)、ただの飲んだくれにしか見えない僧院長(香西秀哉)、寺田を自転車で追い回す男(森崎徹)等々の笑の種子をまきちらし、鮮やかな群舞や遅沢佑介のみごとなソロで視線の愉楽を満足させる。

 偏頗な再解釈という名の下に一人よがりな前衛性を強引に押し出すのではなく、万人が納得する中庸な完成度の中で最大限に遊びつくした、贅沢な作品だ。あらゆる機会を利用して、多くの人に観てもらいたい作品。

 今回も、できれば複数回上演してほしかった。そのことによって、多くの人が観ることができたということ以上に、すべての踊り手が、いっそう作品への解釈を深め、必要に応じて動きの粘度や透明度を高め、研ぎ澄ますことができたはずだからだ。

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【既発表】不在に向き合う~2008年春・夏の舞台から

(「イマージュ」43号、2008秋収録)

不在に向き合う ~ 二〇〇八年春・夏の舞台から

 新しいお店か何かができたとして、そこがその前に何だったか、思い出せないことがある。今ここに存在していないものと向き合うには、記憶というだけにはとどまらない、執念のようなものがなくては、立ち位置さえ定まらない。記憶と言ってしまうと、脳にだか心にだか、いつの間にか印字された平板なもののように思えるが(つまり、制御不能ということでもあるのだが)、焼き印を捺す、刻み込むといった痛みを伴うような深さなしには、過去に存在した現在の不在と向き合うことができない。

 前号の「ダイスをころがせ!」が、柳井愛一氏の最後の原稿となってしまったと聞く。そこで取り上げられていたdotsが、6月27-28日に京都芸術センターで行なったショーイングは、身体表現であることを自分たちに課そうとしたのか、いつもの貪欲で奔放に分野を横断し越境して表現を押し出していく混沌のような多様性は封じられていたようだったが、あえて棲息圏を狭めることで身体という媒介への集中力は高められていた。裏返せば、身体による表現であることにこだわることで、そこから何ものかが見えてくるのではないかということを予感または希望するような営みであったと言ってもいいだろう。

 主宰の桑折現からは二世代も上の、70年代に十代を過ごした者(というのは、柳井氏もぼくも同じなのだが)から見れば、エネルギーの爆発に擬したロック・オペラのような冒頭の乱舞や、そこで使われていた音楽、対称性を強く意識したフォーメーションは、どこかしら古くさいものに思えたが、かつてそこから何も生まれてこなかったわけでもないだろうし、古くさいことが陳腐さと同義とは限らない。しかし、あえてスタイルとしてそれを選択したのであれば、それを現在に位置づける枠組みと、それを捉え直すための新たな美意識が必要だったように思う。

 身体を自虐的なまでに動かすこと・・それはダンサーが自分の身体を動かすという意味と、振付家(高木貴久恵)ないし演出家がダンサーを動かすという、両方の意味でだが・・によって修行僧が悟りを開くように何かが会得できると期待するのは、自然なことだと思える。しかし、それをダンサー、振付家、演出家が共有するためには、何らかの作業が必要だろう。ダンサーの汗や疲弊や筋肉痛に単純に比例する達成感は、演出家の意図と異なる方向を指していることもある。

 今回は、まず冒頭で踊りまくることから始め、つまり序盤に疲弊を置くことで作品を流れさせ、動から静へ収束しながら内面では充溢していくという構成がユニークだったが、疲弊を充溢に転換させるためには、もう一段作品内部の螺旋の速度を引き上げることが必要だったように思う。

 また、シンポジウム(と言うよりはアフタートーク)で桑折が率直に洩らす「テーマのなさ」については、テーマの不在に向き合うことの方が、控えめに言って表現のクオリティのために、いくらか理に叶っているように思える。谷川俊太郎は連作詩「鳥羽」(1968年)を「何ひとつ書く事はない」と書くことから始めたが、彼はその茫漠に耐えることで、ただの青春のきらめく感性を発現させた詩人で終わることなく、また自分自身の再生産に終わることなく、常に何ものかに徹底的に真摯に向き合うことができたのだ。

 不在に向き合うことなど、どのようにすれば可能なのだろうか。欠陥ロケットの『第6話』は、一見平凡な五人の家族と犬の「お茶の間」を描きながら、一瞬の破裂によって決定的な不在を、理屈や言葉ではなく感じさせる、強烈な作品だった(作・演出=井上エミ。7月28日、-IST零番館。京都公演もあり)。姉妹の他愛ない口げんかが絶えない一家の夕食前のひととき。お父さんを女優(高橋恵美子、ババロワーズ所属)が演じていることだけが少し奇妙ではあるが、それにもやがて慣れてしまう。お父さんが口紅を塗る凍ったような時間があったり、それまでの物語の流れとは全く異なる単語が別人のような語り口で口
端にのぼったりするのが、かすかな伏線として、しかし確かに口の中の砂のように残るものの、時間は淡々と流れていく。ただ、なぜとはわからないが、これは単なる平和で幸福な家庭劇ではないことが明確な予感から徐々に確信に変わり、彼女たちが抱えているものが、何かとても大きな欠損や惨劇による不在であると恐怖に思われた途端、六人が一斉に叫び出す。

 口々に、絶叫のような言葉だから、よく聞き取れない。断片的に聞き捨てならない単語が耳にはいるのだが、それよりも、全員のこの世の終わりを迎えたような悲嘆と悔恨のどん底にあるような表情が目に焼きついて、残る。

 言葉は断片としてしか伝達されなかったが、彼女たちが何らかの惨劇を引き起こしたことについては、理解することができた。また、その個別の加害の結果として、詳細不明な不在がそこにあり、それを覆うようにそれぞれがその不在の者を演じているらしいことも観客に刻印された。惨劇がどのようなものであったかは、ほとんどわからないが、悔恨の強さはほとんど同質・同量のものとして提示された。わからないことでの焦燥は残されたまま、また劇は元のような一家団欒を装っている。そして、ノックの音がして、それぞれが期待の表情で訪問者を迎えようというところで終わる。

 登場人物たちは、煉獄のような中間的な世界の中で、自分がその存在を奪ってしまった者を演じることで、その不在を背負い、向き合おうとしている。それは父であり、わが子であり、ペットの犬であったりする。不在の者そのものになることによって、不在を自らに刻み込み、悔恨と懺悔を深め、最後にはやや唐突だが、救済が予感されている。

 この劇が特殊なのは、物語が連続的な線として構造されているのではなく、ほとんど時間が流れていない日常的停滞の中に、突然大きな強度をもった点が現われ、そこにすべてが収斂されていくことだ。物語というものは、一般的に線形に連続しているものだが、この劇で語られているように見えるものは、時間を流れてはいない。それは、彼女たちが存在ではなく、不在を生きているからなのだろう。

 不在となるのは他者ばかりだから、いつも「私」はそれを迎え見送るばかりだ。そのことによって、自分自身の存在が見えなくなってしまうこともあれば、他の他者の存在が不安定になってしまうこともあるだろう。『第6話』は、他者の存在を消滅させた結果として自己の存在が不安定になってしまったわけだ。

 これらとは全く別に、自分自身の混乱が他者の存在を不安定にさせたのが、桃園会の『お顔』だ。桃園会には珍しく、佃典彦(劇団B級遊撃隊)の作品を、深津篤史が演出(8月1~4日、ウイングフィールド)。

 結婚十年にしてようやくかわいい女の子を授かった妻(はたもとようこ)が、突然飼っていた亀の顔が突然変わったと言う。次には、まだ乳児の子どもの顔が変わって見える。そして夫、弟…と、彼女をめぐる人々が、次々に顔を変えていく。顔が変わって見えるようになってしまったことで、特に子どもとの関係をはじめとして、彼女の日常の世界と人間関係があっけなく崩壊する。他者が別物に見えるようになってしまって、世界が、自我が崩壊する。

 一般的にいえば、育児ノイローゼや勤務先の愚かな後輩、弟との秘められた過去などの様々なストレスから精神状態に異常を来したという(だけの?)ことだが、それを舞台上で二人の役者に一つの役を演じさせることによって、観客にも彼女の混乱を共有させたのがうまい。特に娘の「ミサキ」を武田暁(魚灯所属)、橋本健司の男女に演じ分けさせたのが大胆。妻の目には、ある時突然かわいい女の子であった娘が、けだもののように見えるようになったということを直接的に見せ、そのために逆に他の登場人物たちが橋本演じるむくつけき娘に、武田の時と同様に接していることの方が異様に見えて来るという効果をもたらした。

 ここでの不在は、妻にとっての日常的な人間関係が、現実の家族や友人の誰それの存在の変容、喪失という結果になって表れた。顔が突然変わってしまっただけで、その者に対する親近感や愛情のすべてが剥落し、憎悪し排除しようとまでしてしまう。またそうしてもたらされた異常性によって、それまで日常の名において隠蔽されていた弟との近親相姦や、友人への不信が明らかになってしまうのも、恐ろしい。

 愛すべき対象の喪失とは、愛する私の消滅でもある。しかもここでは、対象はただ単に消滅しただけではなく、代替物として何だか見なれない醜悪な者が置かれている。不在に向き合うことの困難さとは、空白に向き合うということそのものが矛盾であるからだ。そこには茫漠しか広がっていないが、『お顔』では眼前に立ちはだかるように醜悪な(というが、客観的には普通の外貌をしていただろうが)見なれぬ者を置くことで、グロテスクさが増し、違和から生まれた恐怖が具体的な形を取ることができた。

 実は美術の世界からも、不在を可視化するような作業を行っているアーティストを見つけることができる。簡単な紹介にとどめるが、風景を描いた油彩の中から、あるもの一部分を白抜きの形で消滅させてしまう居城純子(ギャラリーほそかわから出展)や、スナップ写真から人物を切り抜いて直角にポップアップさせる池田朗子(The Third Gallaery Aya出展)。共にアート大阪2008(堂島ホテル、7月25~27日)で見たものだが、前者では白抜きされたものが逆に存在感を際だたせるのが面白い。後者では、作品を真上から見下ろす形で展示されていたこともあって、切り抜いて立てることが存在を強調し、遠近感を混乱させるという通常されている見方の他に、それを真上から見れば、人物が切り抜かれて消失した景色に見えるという両義性が、実に簡単な仕掛けから浮き出てきたことが驚きだった。

 ある価値が両義化することは、実はその本質を失ってしまうことにもなる。私が二人存在しているという状態は、分裂として病理の範疇であるとされる。

 ある日部屋に戻ってみたら、見知らぬ男がいて、質すとどうも「私」らしい。そのように東京デスロックの『3人いる』(5月24・25日、神戸アートビレッジセンター「第4回スプリンクルシアター」参加作品)は始まった。「私」の二重化という状況は最後まで変わらない。私の一人称認識は排他的同一律を保持しており、私にとって私は唯一の存在であるのだが、そういう同じ私が、全く異なる相貌をもって、二人いる。友人から見える私は、あるときは小男だったり、別の時には髪が薄かったり、同一性は全く保たれていないようだが、友人は混乱しているわけではない。分裂した自己が外化されて単独の生命をもっているのだから、お互いが私は私だと思っている限り、他人には問題はないのかも知れない。しかし両者が同じ時間と場所にいる以上、「あぁ、あなたも私なのね」と微笑んで握手をするわけにはいかない。

 それを作・演出の多田淳之介は、ある意味では奇を衒わず、見かけの一人に一人ずつの役者を充てて演じさせたわけだが、性別も混在していくし、さらに二重化している人物が二人いて、都合四人存在するはずの状態になっているのに、舞台上では三人の役者がくるくると入れ替わりながら四人を演じ分けるというアクロバティックな手法で表現した。そのために観客は目くるめく混乱に巻き込まれていく。徐々に論理学の演習問題を与えられているようになり、私が二人になっていて、その内の一人が出ていったときに、一人が残るとしたら、どちらの私が本物の私だろうとか、一人が出ていったら二人が消えてしまうとしたら、それを舞台上ではどう処理するのだろうとか、役者が二人消えてしまったら、三人の役者が二人の二重化した登場人物を重複しながら演じているのに、あとの一人の二重性はどうなるのだろうかとか…要するに、舞台上の混乱に観客の混乱が同調して、不思議なことにどんどん笑いが増幅していったのだ。

 なぜだろうか? 私という存在が唯一無二でなければいけないというのは。そういうシリアスな問題を真正面から取り上げながら、観客を笑いの渦に巻き込むというのは、非常に高度なセンスとインテリジェンスが横溢していたということだ。劇のラストは、皆が出ていって声だけが残るという、いかにも「シュール」なものだったが、何か他のもっと鮮やかな終わり方もあったように思う。実際、販売されていた台本では、別の終わり方だった。たとえば会話の声も突然無音になるとかだったら、一人がキョロキョロしながら出てくるとかだったら、どうだろうと、様々な可能性を観客に考えさせる力があったわけだし、決定的な正解がないということでもあるわけだ。それが現実というものなのだろう。

 私がいなくなるとは、どういうことか。もちろん死ぬのはいつも他人ばかりだから、私がいない状態の世界を私は認識できないはずだが、他人の誰かの不在について、所詮人間はすぐに忘れてしまうものだなどとうそぶいていると、突然無防備なときに不在が突きつけられる。ある日、精華小劇場の薄闇に足を踏み入れると、突然、ここで柳井さんと交わした二言三言が思い出され、芝居どころではない気分になった。そういうことがあると、それからどの劇場へ行くにも、身構えてしまう。そこにいてほしい。

 本番当日朝に突然ダンサーの一人が急病で倒れ、4人の作品が3人になってしまったことがある(〇九。4月27日、ロクソドンタブラック「ダンスの時間」)。このアクシデンタル・アブセンスは、偶数の対称的な構図を傾け、どうしても埋めきれずに空いてしまった空間を生じさせた。しかし不思議なことに、その偏頗が、作品に絶妙の緊張感をもたらした。もちろん、一人欠けたことによる危機感が、一人ひとりのダンサーに与えた不安定さが、昂揚を生んだのかもしれない。しかしそれはあえて言えば、一人の不在を意識することでもたらされたものだ。もしかしたら作品世界が成立しなくなるかもしれないほどの危機的な不在に直面し、辛うじて皆で崩壊を押しとどめるような力。このようなことが恒常的に実現されることは難しいかもしれないが、突然舞台に立てなかった者の無念とともに、このことを身体に刻み込んでおくことができればと、作品の中に不在を抱え込むことの可能性が見えたように思われた。

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【既発表】白井剛「ノクタルーカと灯虫の冒険」

(京都新聞2008年7月22日掲載。タイトルは編集部による)

【映画との対照、手際鮮やか】

 ユニークな企画で多くのファンに愛されている老舗映画館・京都みなみ会館が、七月五・六日、コンテンポラリーダンスの白井剛のパフォーマンスの場となった。

 一昨年のトヨタコレオグラフィーアワードの受賞者である白井は、ダンスそのものよりも、自作の映像などの様々な切り口によって映画館で踊ることの意味を考え、全体としての物語や価値を分析し提示することに重点を置いたようだった。

 公演を映画の予告編から始めることで、映画のようにダンス公演を行うのだということを、明確にした。予告編が終わると、白井の映像が始まった。最近ギターを買ったことが身辺雑記のように語られ、昆虫図鑑からオオヤママユのような蛾が映し出された。それらがどう結びつくのかなどと思っていると、ギターのフレットを押さえる指をクローズアップして反転し、並べると、ロールシャッハテストの画像のように、つまりは蝶か蛾のように妖しくうごめくものとなったのだ。

 予告編の途中から白井は、通路を踊るように進んだり、スクリーン手前の狭い壇上でキャンドルに火をつけたりと、地味な動きを見せていた。映写機からの光だけなので、身体が輝くわけではない。しかも通路での動きは、非常に見えにくい。暗さの中でがさごそとうごめく身体は、映画館に侵入した一個の生き物、むしろ邪魔者のようでさえあった。タイトルの「ノクタルーカ」は夜光虫、「灯虫」は「ひむし」と読み、灯りに群がり身を焦がす虫のこと。まさに銀幕に吸い寄せられた一匹の虫に、自らを擬したわけだ。

 場内が明るくなって、カーテンコールや拍手もなく、映画のように公演が終わった。終わってみれば、映画上映のようなダンスの公演というよりは、映画館という機能を取材し、映画というスタイルを周到に分析して、ダンスと重ね合わせる試みのようだった。ここに身体の強い表現を求めた観客は肩透かしを食らっただろうが、たとえば一秒間に12コマという映画の明滅と、白井のコマ送りのような人形振りの動きとの対照など、解釈・分析の手際は鮮やかなものだったといえよう。

 しかしやはり、ダンスは、身体は、知的な操作によって理解されてしまうものであってほしくはなく、これらの作業によってさえも滓か澱のように残ってしまうものを、灯虫ではないが、身を焦がすほどの強さを見たかった。

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