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2009年2月14日 (土)

楽しさはどこへ行くのか--BISCO、今貂子と倚羅座

 たまたま同じ2月7日に、女性ばかりの全く対照的な作品を観たものだから、つい比較して語ってみたくなる。一つはBISCO「読17~ザ・ビスコテン(完全版)」(アイホール、伊丹)で、一つは今貂子と倚羅座「鯉つかみ」(五條楽園歌舞練場、京都)だから、比較も何も無謀というものだが。
 BISCOの「ザ・ビスコテン」はもちろん「ザ・ベストテン」をもじった大変楽しい舞台で、街で見かける女性のファッションをいくつかに分類し、そのランキングを言葉(ナレーション)と動き、表情、音楽(主にJ-POP)でつづっていくもの。以前KAVCで部分上演されたものの、「完全版」である。
 たしかNo.1は「ピンクな女」だったように思うが、ヤンキー系とかロリータ系とかキャリア系とか、いろいろ楽しませてくれた。一番ウケていたのは、チェッカーズの「ギザギザハートの子守唄」に乗せて展開するヤンキー系で、戎敦子諏訪百合子がパンツ姿のヤンキー、松本芽紅見がフラッパーガールのような役どころでヤンキー用語の解説が混じったり、ガンを飛ばしたりと、にぎやかなことであった。
 構成・演出の小夜里は、あえて世間のステレオタイプに委ねるように即して、軽く笑い飛ばせるようなランキングに仕立てている。そのステレオタイプと耳慣れた(またはどこかで聞いたことのあるような)曲、よくできたお話のナレーションを背景に、動きはその範囲の中で、歌詞や言葉をなぞってマイムに近いような流れで進行する。そこには逸脱や転倒はなく、子どもから大人まで楽しめるようにできている。中には、松本や延田愛子が非常に優雅に美しく踊るピースもあって、その部分はいかにもダンスの作品らしくしつらえられている。
 彼女たちはある感情や感覚、雰囲気や世界というようなものの伝達ということに、どの程度の信を置いているのだろうか。世界が享受者の中で完全に再現されることを願って、これでもかというぐらいにたくさんの道具立てを使っているのだとして、それは伝達への絶望から発していることなのだろうか。それとも、究極的には世界は享受者の中で再現可能であると思っているのだろうか。
 あるいは、世界とここで呼んでいるようなものについて、それには一般的に雑誌やテレビで語られているようなステレオタイプを超えた何ものかがあるという仮定はもっていなくて、ステレオタイプや表面性に身をゆだねることに意味を見出しているのだろうか。
 それこそ、こちら側がある種のステレオタイプに陥っていることを自覚せざるを得ないのだが、彼女たちがステレオタイプをなぞればなぞるほど、その姿勢の直線性に対して懐疑的になってしまう。いったい彼女たちはどの程度本気でステレオタイプに身を沿わせているのか。あるいは、どの程度本気でステレオタイプを鼻で笑っているのか。
 どうしても、それは小馬鹿にしているか皮肉でやっているに違いないと思ってしまうこと自体、ぼくの態度に問題があるとも思う。しかし、一貫して歌謡曲や物語に身体の動きを沿わせる作品を創り続けている彼女たちの本当の狙いはどこにあるのか、と訝るように思ってしまう。単純に考えるなら、耳に甘い曲や言葉を流し込むことで、目に身体の動きを鮮やかに送り出すことを目的に、戦略的な方法論であるに違いないのだが、残念なことに、動きにそれほどのきらめきが見られない。
 記憶をたどれば、以前はもっと爆発的な何ものかがあったように思う。運動の速度や量の問題というより、おそらく今回の枠組み……ファッションショーのようにまずはキャットウォークをモデルのように歩いて見せ、それを言葉で解説し、笑いを取り、それに合った曲で踊る……が、メドレーのように身体の動きの興奮が連続して螺旋状に増幅することを妨げ、切れぎれなシーン限りの興奮にとどめてしまったのではないだろうか。
 また、ファッションショー形式であったために、着替えの必要からだろうが、メンバー全員が一同にそろうピースがほとんどなかったのも残念だった。

 今貂子と倚羅座は、前回に引き続いて五條楽園歌舞練場で、会場の特性と魅力を最大限に活用した、祝祭絵巻を展開した。
 その会場や会場を取り巻く場所のもつ魔力(? お茶屋街と思っていたが、某大学教授は界隈で客引きに遭ったらしい)のシンボルとして、場の持つ力については、前回の公演について「dance+」上で少しふれたので、あまり繰り返す必要はないが、舞踏のもつ様々な要素の一つである前時代的な祝祭性について、これほど的確にその再生を促す空間は、ちょっと見当たらない。今回はしかも囃方を加えて、舞うのは女性だけとしたために、いっそう華やぎが増したといえるだろう。
 しかし、増したのは華やぎだけではない。鯉をつかむというタイトルからも想像がつくように、舞い手がパクパクと口をあけて鯉の滝登りのように上昇していこうとする様は異形を通り越してコミカルでさえあった。その他にも、南弓子が三輪車に乗って疾走したり、今が紅白歌合戦の小林幸子の衣裳かと思わせるような姿で現れ、その裾から舞い手がぞろぞろと這い出したりと、観る者の口が鯉のようにポカーンと開いてしまうようなシーンが次々と現れる。鳴海姫子のお姫様のような舞い踊りはまことに愛らしかったし、外国人たちの腰高な動きは、失礼ながらユーモラスでさえあった。鯉というモチーフが次々と展開し、縁起のよい楽しさの中に、笑いが起きる。
 ふと、舞踏ってこんなに楽しいものなんだったか、と思ってしまう。おどろおどろしい、情念、存在の根源、本来的自我への掘削、異形のもの、といった舞踏のもつ暗い側面が削ぎ落とされ、芸能性、祝祭性のみが残っているように思えてしまう。
 つまるところ、舞踏とは何か、ということを、このカンパニーに限って考えてみようとすると、下世話な発想かもしれないが、ふんどし姿になって尻の肉を見せ、乳房を露わにするのは今貂子ひとりであることは、関係ないことだろうか。脱ぐ脱がないということばかりにこだわるつもりはないが、ある部分では象徴的なこととして、脱ぐのは今ひとり、という事態が起きているように思われる。
 もちろん、舞踏の祝祭性、娯楽性を否定するものではないが、祝祭と背中合わせの供犠、それが抱えもつ聖性、聖性と裏腹の暗黒、がきっちりと見えてこないと、祝祭が上滑りなものとなり、本来の聖なるものが弱体化してしまうのではないか。
 実際のところ、本当に楽しく、満足感にあふれた舞台だったのだ。ぼくはただのないものねだりをしているのかもしれないが、この鯉づくしの見立ての面白さや形態模写のような楽しさは、確かに舞踏のある部分からスタートしていて、何らかの形では本質的、根源的なものをあらわす方法の一つであることには違いないだろうが、なぜ人が鯉になる必要があるのかというところで、今貂子の身体から毒々しさのようなものが立ち昇る場面以外では、何かがスルーされているような気がしてしまう。
 この日の公演に限っては、これら二つのカンパニーには、外側からしつらえられた枠組みがきっちりしていることはよくわかったが、その枠組みに対して、身体そのものがあふれ出ようとして、内側からガンガンと音を立てて崩してしまおうとするような暴発力は抑制されているように見えた。

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