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2009年2月19日 (木)

contact Gonzo「the modern house---或は…」

「the modern house -- 或は灰色の風を無言で歩む幾人か」project MINIMA MORALIA 1/3
2009年2月11~20日 大阪府立現代美術センター

 contact Gonzoのライブの時間の中にいると、それを言葉で語ることがいやになってくるから、この文章の存在自体、矛盾している。ここではそれごと語りながら、contact Gonzoの外周をぐるぐると回るようなことをする。

 殴り合いを方法論として選んだところから、彼らのセンセーションは始まっている。そしてそれは、想像可能な陳腐さをはじめから持っている。だって、殴り合うんでしょ?となれば、そのことで観客の中に起きる情動は、十分想像できる。
 そのことについて、身体性や直接性、暴力の復権、ましてや、近頃の子どもたちは直接的なコミュニケーションを体験しませんから、というような言葉による意味づけは、陳腐で無意味である以上に、矮小化以外には機能しない。
 と思うから、彼らを言葉で語るのは、いやだ。

 彼らが、ライブの回数を重ねて、そのパフォーマンスが熟練、成熟、洗練するということはありうるのだろうか。確かにそれらしいことをポストパフォーマンストークで語ってはいたが、それは具体的、直接的には、殴り殴られることで生じる根拠のない憎悪のような感情のコントロールがうまくなったということであって、パフォーマンスという作品の全体性から見れば、重要ではあるが細部であるだろう。
 殴り合いながら、クールであり続けようという意思が存在していることは、パフォーマンスのさなかに写真を撮ったり、ペットボトルの水を神経質なほどに適切に配置したり、互いのアイコンタクトなどを目にすることによって、想像できる。理由なく殴り合うという冷静さを保持し続けることが、重要なのだろうと想像できる。

 彼らのパフォーマンスについて、最も不思議に思うのは、そのさなかに写真を撮ることだ。そのことの効果は、よくわかる。殴り合いやにらみ合いのさなかに「写真を撮る」という行為を置くことによって、感情的で無計画な暴力の応酬だと思われていた行為が、途端に冷静なものに見える。その舞台の上に冷静な第三者の目があるかのような装置として機能する。効果はわかるが、なぜ撮るのかはわからない。行為の記録を写真として定着し、あとで展示するというインスタレーションを指向しているからか。そうなら、このライブの目的は、ライブそのものと、その記録写真(や映像)の展示とに、重層していることになる。もちろんそれはそれでいい。それにしても、外からの撮影者による記録ではなく、行為している者(パフォーマー)による内部からの記録であることが、その一見の冷静さや客観性を留保する。
 彼らの「記録」ということへのこだわりについては、機関誌「contact Gonzo magazine」(the weather report issue)の発刊にも見て取れる。素朴に受け止めて、その営みを「残したいのか」という問いを置いてみると、ますます事態がよくわからなくなる。ページを開くと、彼らの行為の記録や、海外ツアーでの一こまと思われるようなスナップがダイナミックに並んでいるが、いわゆるキャプションがないので、いつどこで撮られたものかはわからず、記録という価値は、少なくとも外部の者には、低い。
 一般的な意味での記録であれば、外部から、部外者が撮影するものこそ、客観的な記録として重要なものだと思われる。もちろんそこには客観的なデータが添えられる。いや、その前に、行為者自らがカメラを持ったという作品を、あまり知らない。思い出すのは、最近のオリンピックの開会式や閉会式で、選手たちがカメラを持ってはしゃいでいる姿だが、以前はそのような記録のしかたはなかった。
 その写真を見てみると明らかだが、殴られた瞬間や直後のゆがんだ顔が撮られてはいるが、その集積がかれらのパフォーマンスの全体像であるとは言い難い。それらは何を記録し再現するものなのか。

 彼らのパフォーマンスのうち、特に殴り合いに焦点を当てると、それを見ることは、第一義的に身体的に直接性が伝染することだ。よくダンスを観ることは踊ることだというような言われ方をするが、殴り合いを見ることは、その痛みが距離を越えて伝わってくることだ。しかしそれだけなら、ボクシングを見る経験と変わらない。
 また平凡な答えを用意するが、ボクシングは勝つことに様々な意味や価値が待っている。街場の殴り合いには、対立や怨恨や怒りといった、相手を倒すための根拠がある。しかし、彼らの殴り合いには理由がない。理由なく人が人を殴る。だから芸術的行為であるのだと、保証されているわけか。

 今度はゆっくりと、無茶な答えを用意する。2月15日(日)、大阪府立現代美術センターは休館日だから、山へ行く、というイベントに参加した。contact Gonzoの出発点、ルーツであるともされている「ゴンゾ岩」(と彼らが勝手に命名した)を見に行く、というのが一応の目的であったはずだが、別にそのことが強調されたわけでもなく、ゴンゾ岩に着いたからといって何かが説明されたわけではなかった。ちょっとしたハイキングだよと聞かされて気楽に参加したぼくたちは、峻厳な岩山をよじ登り、高座から荒地山のしょぼい山頂にたどり着き、厳しい下りに道を失いそうになりながら砂防ダムを越え、2頭のイノシシ(写真)に遭遇し、ほうほうのていで出発地の阪急芦屋川にたどり着いた。
Image048  このイベントにどのような意味があったのか、わからない。その「ゴンゾ岩」なる平らな岩で、かつてどのようなことが行われ、それが現在の彼らにどのように接続しているのかといった言葉での説明は全くなく、岩にたどり着いたぼくたちは、ただ昼食を広げ、塚原はカセットコンロでお湯を沸かしてインスタントコーヒーを入れてラーメンを作り、三ヶ尻は、さて、何を食べていたのだったか。
 面白いことに、普段登山や運動もしていないぼくたちは、その後何日か、激しい筋肉痛に苦しめられることになるわけだ。その痛みの中にあって、ぼくは今考えている。痛みの哲学、である(笑)。なぜこのような痛みに遭ってまで、あのようなことをしたのか、よくわからない。もちろん、山登り自体は天候にも恵まれ、結果的には大変気持ちよく、ある種の達成感に似たものも獲得したような気はするが、正直なところ、だまされたような気もしているのだ。
Image043  まるで彼らのパフォーマンスのようだ。10時集合、15時半解散という、イベントとしてはなかなかの長丁場だったのも、それのようだ。
 山登りの間、塚原も三ヶ尻も、写真などの記録をとっていなかったのも、今にして思えば面白い。うがった見方をすれば、この山登りのイベントの主体は、彼ら以外の参加者すなわちぼくたちであって、ぼくたちの脚の痛みが世界とのローファイなスパークであり、ぼくたちが携帯電話やカメラで撮っていた記録が、可能態としてはインスタレーションになりうるのかもしれない。

 ぼくが彼らを定義することはないだろう。何かではなく他の何かでもないのか、何かあであり他の何かでもあるのか、あるいはそれらの複合体であるのかもしれないが、その出発点であると自ら宣言する「殴り合い」をしなかった時、彼らが「contact Gonzo」であるのかどうか、それすら外部が定義することではない。以前、「ダンスの時間」に垣尾が出演した時、三ヶ尻、加藤、塚原、そして白藤によるそのステージは、 contact Gonzoのステージから殴り合いを引いただけのようなものだったが、垣尾はそれは contact Gonzoではないとしていた。当然のことだが、彼らが何者であるかは、彼らが決める。ある完結したものとして始点と終点が用意されているのではなく、不完全さや通過すべきポイントとしてたまたま終端が用意されている。上位の概念であるとか、意味とか効果とか、何かに回収されることのない、そのもの、であることを保持するためには、意味づけの誘惑に堪えて、何ものでもない状態で居続けなくてはならないのだろう。

 思い返せば、ぼくがダンスを見始めたのは、何ものにも回収されない、なまの身体、存在、動きであること以外の何ものでもない動き、がほしかったからだった。遡れば、ぼくが現代詩に魅かれたのも、意味に奉仕しない言葉というものが存在しうる可能性を探りたかったからだ。
 そのようなことは、可能なのだろうか?

http://www.youtube.com/watch?v=PyszOAzaVIQ

(2月11日opening performance, post performance talk、15日「contact Gonzoは山へ行く」に参加)
 

フルコンタクトスプーン&スプーンレスト

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