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2009年3月28日 (土)

柿喰う客「恋人としては無理」---うーちゃんとくまさんのお芝居談義

柿喰う客「恋人としては無理」(作・演出=中屋敷法仁、3月26日、精華小劇場、大阪)

(4月4日まで全国ツアー中につき、いわゆる「ネタばれ」にご注意ください)

う 去年、インデペンデントシアターのひとり芝居のフェスティバルで玉置玲央さんの舞台を見せてもらって、すごく面白かったじゃない? 猛烈に走ってボロボロになる女子高生の話。

く すごい乱暴な要約。

う 伝わればいいでしょ。その劇団の公演で、フランスのブザンソンで去年3月に初演された作品を全国ツアーしてるの。イエス・キリストをめぐる、使徒たちの話。エルサレム入城前夜から始まって、イエスが磔刑に処せられ、復活して使徒たちの前に現れ、使徒たちの何人かが殉教するということまで、けっこう福音書や使徒行伝に忠実にふれられてます。

く それは…何かひねってるの?

う お芝居の中でイエスは「イエス君」(台本の表記は「いえす君」とか「いえすくん」とかいろいろ)って呼ばれてるの。ちょっと面白いでしょ? どこから説明していいのか迷うけど、まずセリフの出し方、動作がものすごく速い。セリフなんか、ラップみたいだし、動きも意味なく速かったり跳び回ったりしてるの。それから、役が固定してなくて、たとえばマフラーを掛けたらポンティオ・ピラト(ぴらとさま)になるとか、くるくる入れ替わる。人物の設定は、名前は聖書に出てくる使徒で、愛称で呼ばれてたりはするんだけど、その内の何人かは女性ということになってて、イエスをめぐる男女関係の軽い嫉妬とかもあるみたい。

く わかりやすくなかったわけ?

う うーん、セリフは確かに全部聞き取れるわけじゃないけど、繰り返しも多かったし、十分ついて行けたと思う。疾走すべきところは疾走して、立ち止まるところはゆっくりと聞かせる、メリハリはちゃんと利いてたしね。内容的には、聖書の基本的な知識があったほうがよかったかも。ペトロ(ぺとろ)が使徒のまとめ役で、殉教の時に本当に逆さ十字架を望んだとか、知っていたほうがリアルによかっただろうけど、知らなくても「あぁ、そうなんだ」と思えたと思うよ。このお芝居にはいくつもの層があって、最初、ゲスト(この日は坂口修一さん)がツアコンになって、使徒の皆さんをエルサレムに連れて来たところで始まるアドリブ大会や、村上誠基っていう男優さんが突然かます中途半端なネタが流れる、ゆるーい時間もあるんだよね。それから、一番印象に残るのがラップのような独特の調子で猛烈なスピードでセリフが流れている時間。それから、わざわざ分ける必要はないのかもしれないけど、その猛烈なスピードが突然断ち切られて、非常に低温の冷たいトーンで独白のように語られる時間。特にコロさんという女優さんが印象的。この部分は、本当にシリアスな内容でもあるし、当然セリフもストレスなく聞き取れるわけで、空気凍ります。

く それは、大事なセリフだからそういう語り方をする、というふうに、厳密に意識的に分けられてるのかな。それとも、流れやリズムのタイミングで、任意に挟み込まれてるのかな。

う きっと、ものすごく厳密に、使徒がイエスについて行くということについて、重要なキーワード、シーンが選ばれてると思うよ。「私たちは、いえす君についていくだけなんです」というような重要な言葉は、きっちりとそういうふうに語られるわけだからね。

く 何だかちょっとわざとらしくないかな…それをラップみたいに速く、でも繰り返して強調するとか、そういう手はなかったんだろうか。

う うーん、唐突とか不自然という感じはしなかったんだよ。むしろ、話の筋に沿わせて言うと、エルサレムという都市の騒がしさの中で、その猥雑さに巻き込まれながらも、時々静かさを取り戻すというか、本質的には静かな湖面のような心境なんだよ、という使徒の状態を反映してるようで、すごくリアルな感じがしたんだけどな。それともう一つね、もしかしたらネタみたいな感じで、最初に言ったアドリブ大会なんかと同じように考えてるようなふりをしてるのかも知れないけど、これまた突然、玉置さんがTバック一枚で現れて、ぐちゃぐちゃにして連続バック転をするという時間。これをアフタートークで中屋敷さんは、劇の感動的なクライマックスのようなものをカットする装置として説明していたんだけどね。

く 「感動禁止!」みたいな? いいね。

う でもね、すごく説明しにくいんだけど、何だか全く別の種類の感動のようなものが湧き上がっちゃったんだよね。

く なるほど、物語の上でのクライマックスで、それをつぶすという形で出てきたとして、そこで何かインパクトの強いものを見せられたら、逆に前にも言った「強さ」として、感動を生むことになりかねないよね。

う うん、あるドラマティックな感動がクライマックスに達そうかというところで、パンツ一丁、しかもTバックの男が出てくるんだから、やっぱりドラマティックな緊張は切れるよね。そういう意味では中屋敷さんの言うとおり、断ち切られてます。でもねぇ、玉置さんの身体が、きれい過ぎるからかな、アフタートークでは、「陸上部と水泳部と美術部だったからこんな身体になった」って笑わせてたけど、贅肉のなさ、筋肉の形、軟らかさ、白さ…ギリシャ彫刻みたいに完璧なのね。そのバック転にしても、首の後ろで足の裏を合わせて膝の裏を両手で持つ体勢にしても、言ってみれば、無駄にすごいわけ。その無駄さにね、何だかものすごく感動しちゃったんだと思う。逆方向の強さでも強さには違いないもん。

く 物語の筋の感動とは別の意味で、でも物語の感動が残っているうちに別種の強さに感動しちゃったんだ。それが計画的だったら、こわいね。

う そういうことになるね。もう一つ、致命的なぐらい衝撃的だったのは、コロさんのヨハネ(よはねっち)。

く イエスに最も愛された使徒。一番若いんだよね。ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」でもイエスの隣にいて、一番美しく描かれている。

う ここでも、いえす君と一緒にカラオケボックスに行っちゃった女子ってことになってて、ワケありふうに描かれてるんだけど、それが現れてみると、脳性マヒのようなしゃべり方で演じられるの。兄のヤコブ(やっこさん)は「いえす君が愛した女なんて、うちの妹に決まってるだろ。…俺の妹は、世界で一番美人なんだからな」って言って、その直後に現れるヨハネがそういう姿で、ヤコブに「おーい。ヨダレたれてんぞー。汚ねーなー」なんて言われちゃってるんだけど、ここがね、不意打ちを喰らったようで、何だかイエスの本質のように思えちゃって、ほんとにびっくりして、泣きそうになっちゃった。

く うーん、その感動については、わからないでもないけど、どうなんだろう、そういう、イエスの本質とか、キリスト教の愛の本質について描こうとしたお芝居なのかな。

う わからない。そういう受け止め方をした人は少なかったかもしれないけどね。でも、フランスで初演されたわけだし、中屋敷さんも解説してたけど、マタイ(まーくん)はイエスの弟子になるまでは徴税人だったから鞄を持ってるとか、イスカリオテのユダ(ゆだりん)が初演で黄色いものを身につけていたのは図像学上決められていることだとか、そういうことはきっちり調べて反映してるわけなんだよね。

く いえす君は、最後まで現れないわけだよね。

う これもまた難しくてね、例のツアコンがその分身みたいな感じかなと思うようなところもあるんだけど、舞台上の事実としては、はっきりと違うんだよね。で、まぁ、いえす君は不在だというか、少なくとも観客の前には現れないと言っていいと思う。

く 一番大切な人物が不在だ、中心が空洞だというのは、図式としては珍しくはないかもしれないね。逆に考えると、もしイエスの扱いや解釈に関する部分がいい加減で薄っぺらなものだったら、演劇として、それ以外の部分も含めて成立しないよね。つまり、「柿喰う客」という劇団が、その劇団らしさの一番重要な部分として考えているのが、物語の筋書き以外の、セリフの出し方や動きのユニークさというような表層的なものだとして、そして表層と内実の分離や剥離そのものがテーマの一つだとして、だから内実はいい加減でもかまわないということは、絶対にないよね。逆に、表層であろうと決意した以上、内実は絶対に揺るぎのないものにしないと、表層も含めてすべて受け入れられなくなっちゃう。その点を勘違いしてる作家は多いだろうね。作業としては、ものすごく大変だろうけどね。

う あぁ、そういう分離や逆説があるとして、それがたとえば後半で低温で語られた、「ぼくはついていくよ」という、使徒たちが殉教へと向かう転換とシンクロしてたのかもしれないね。磔刑前後にはイエスを否定したり去って行ったりしていた使徒たちが、イエスの死後、正確には復活後、つまり使徒たちにとってイエスが現世的には不在になった後、ものすごく身近なものになって、使徒たちがイエスを生きようとするわけだよね。ぺとろが自分もいえす君のように自分の十字架を自分で担いで行きたいと思うけど、というセリフもあったけど、使徒たちの心の中で、何か逆転するようなことが起きたんだね。

く ちょっと深読みしすぎかもしれないけど、イエスに関することだから、しょうがないか。使途が男女として設定されたこともあるし、たとえばこれを千石イエスみたいな、イエス的なものとして読むこともできたよね。

う まぁ、できなくはないけど、これだけ使徒のエピソードも含めて具体的に描かれてると、やっぱりイエス・キリストの物語でしょう。素直に受け止めていいんじゃない? その上で、表現の屈折や分裂、剥落みたいなものを楽しもうよ。

く 最後に、タイトルについては?

う いえす君みたいな人、恋人としては無理、って思って、一度は離れて、もう平和に暮らそうと思ってたけど、やっぱり離れられなくて、いえす君と同じ道をたどることになって、ばったばったと殉教しちゃう人たちの物語。ま、どっちにしても、同性でも異性でも、恋人としては無理だよね、ってことかな。せつないね。

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