« 講演 『宝塚歌劇を楽しむ』II <タカラヅカに見る世界の歴史> | トップページ | 【予告】マイケル・シューマッハ、MOKKのビデオ上映会 »

2009年7月 1日 (水)

特別講義「身体の意味性をめぐって」

2009.6.16. 神戸大学発達科学部「臨床舞踊論」(関典子先生担当)
特別講義「身体の意味性をめぐって」 上念省三

  本日は、このような機会を与えていただき、本当にありがとうございます。先ほど関先生に何やらそれらしくご紹介いただきましたが、ぼくは長年サラリーマン生活を送りながら演劇やダンス、宝塚歌劇の評論を書いてきました。特に研究者として専門の学問を修めたわけでもありませんので、一貫した方法論や批評体系、あるいはもっと根本的なところで、美学や芸術の歴史について体系的な知識を持っているわけでもありません。卒業後短い間でしたが、編集の仕事をしていたので、編集というシステムを通じて様々な聞きかじりの断片的な知識や情報を、自分なりに「編集」することは、していたのかもしれません。今から思えば、です。ですから、幹をよじ登るのではなく、落ち葉や小枝を拾い集めるような、そういうお話になるであろうことをご了承ください。

001

 まずはちょっと昔話をしながら、ぼくとダンスをはじめとした芸術との関わりをご紹介しましょう。ちょうどぼくが大学を卒業した頃、1980年代の前半ですが、浅田彰さん(1957-)が『構造と力』(1983、勁草書房)、続いて『逃走論-スキゾ・キッズの冒険』(1984、筑摩書房、ちくま文庫所収)で華々しくデビューされましたし、山口昌男(『文化と両義性』1975・岩波書店、『知の遠近法』1977・岩波書店など。1931-)や中村雄二郎(『共通感覚論』1979・岩波書店、『魔女ランダ考-演劇的知とは何か』1983・岩波書店など。1925-)を通じて、記号論や文化人類学がなかなかの勢いで流布されていた頃でした。

 ぼくはその頃、現代詩に没頭していたのですが、言葉というものに対して、作品が意味性や伝達内容、いわば記号内容において成立するのではなく、言葉そのもの、音や響きや形、また意味の認識にまで入り込まない地点でのイメージの連なりによって、作品を成立させることができないかと、当時はけっこう真剣なつもりで考えていました。そんなことを、大学近くのジャズ喫茶のノートに書き連ねて、ちょっとした論争のようなことになったりと、そういうことも覚えています。

 そんな頃に接した舞台で、印象に残っているものを、3つ挙げたいと思います。

 ひとつは、厚木凡人(1936-。栃木県出身。1962イトウミチオ舞踊研究所入所。伊藤道郎、石井みどりに師事。'63年舞台芸術学院卒。'64.2.29第1回「厚木凡人ダンスリサイタル」(都市センターホール)。ジュリアード音楽院を経て'68年BONJINアトリエ主宰。'89~'92スター・ダンサーズ・バレエ団芸術監督。'76文化庁芸術家在外研修員として1年間欧米へ)という、日本におけるポストモダンダンスの第一人者といわれているダンサー。

 それから中嶋夏(クラシックバレエを学んだ後、1958年邦正美モダンダンス研究所、'62年大野一雄舞踊研究所、'69年霧笛舎主宰)という舞踏家の「庭」という公演(1982、新宿モーツァルトサロン)。1992年から「心と身体の学級~Community Dance」といって、知的障害者のダンス教育にかかわっているそうです。ダンスを通じてのびのびと心と身体を開放させようというクラスで、コンタクトや道具を使った遊びを通じて、心と身体を解き放つリラックス体操、遊びに通じるグループワーク、自由な表現活動がプログラムされているそうです。彼女だけではないと思いますが、広義のダンスがセラピー、自分探し、コミュニティ作り、体力づくり、美容、教育、福祉、等々の機能によって、世のため/人のためになることを否定はしませんが、それはダンスが芸術表現であることとは、関係がないことだと思っています。こういう考え方は、あまりに偏狭で浮世離れしている、あるいは重要なことを見落としていると言われるでしょうが。

 さて、最後に寺山修司の天井桟敷の、すべてです。多くを語る必要はないと思いますが、様々な意味で衝撃的で、就職後もいろいろとかかわらせていただきました。

0012

 ぼくがこれらのものに接することができたのは、大学時代の先生たちの誘導があったればこそです。特に、ジョセフ・ラヴ(1929-1992)という英文学科の教授で芸術家のアメリカ人司祭には、美術、音楽、文学を中心に、様々な世界へと導いてもらいました。導き手、水先案内人として位置づけるのはもったいないような存在ですが、少なくともぼくにとって、20歳前後で、しかもつかみどころのない東京の街で、そういう存在に恵まれたというのは、とてもありがたいことでした。

 さて、厚木凡人の「裂記号」というシリーズ、手許に残っているチケットはその7回目、1980年9月ですが、何度か見ているので、どの公演のことだったか前後混乱しているかもしれません。種子島由紀子や厚木凡人ら数人のダンサーが、小さな空間の壁際を、尺取虫のように延々と這いずり回るという、ほとんどそんなようなことしか覚えていないのですが、すさまじいばかりの衝撃を受けたものです。そこには身体そのものは重く大きく存在しているのだが、意味はまったく感じたり受け取ることはできない。ただ「ある」ということが眩しいばかりに押し出されている。しかもそれは、後から思えばですが、身体の生々しさとか、グロテスクな強調もないのです。カラフルなレオタードに包まれて、ちょとファニーな感じさえするいでたちで、淡々と、もちろん汗びっしょりだったと記憶していますが、無表情に前進する。一切のメッセージも、常識的な意味では美しささえも存在させない、ここには何ものもないという表明だけが感じられる、そんなありようでした。

002

 ぼくのダンス体験の原点は、この厚木凡人にあります。ただ身体がそこにあるということに、どこまで正面切って立ち向かうことができるか、そこから今日は、身体が存在するということについての考えを中心におきながら、器官なき身体とか、舞踏の身体論、いわゆる身体障害者の身体表現である劇団態変、を中心に、考えていきたいと思います。

 まず、ごろりとただそこに身体が転がっているという風景について、こんな描写があります。

 舞台の上に、裸の男がごろりとひっくり返って、背中をまるめ、手脚をちぢめている。それは生の方向と死の方向とを同時に暗示した、未生の胎児の眠るすがたのようでもあり、またカフカの短編のなかの甲虫のようでもある。やがて裸の男はむくむくと起きあがり、一本一本数えられそうな肋骨を浮き出させて、からだを屈伸させはじめる。ふいごのように胸と腹が大きくはずむ。そうかと思うと、小児麻痺のように痙攣的な、衝動的な手脚の不均整な動きを示しつつぎくしゃくした足どりで舞台の上を歩き出したり、脚を棒のようにして急に立ちどまったり、意味のない短い叫び声をあげたりする。

003de

 これは、1960年夏に、評論家の澁澤龍彦が、日比谷の第一生命ホールの舞台で初めて土方巽を見たときの描写です(『病める舞姫』、1983・白水社、白水Uブックス所収。解説)。約50年前、年譜によれば7月に開催した初のリサイタル「土方巽DANCE EXPERIENCEの会」のことです。この頃土方は、評論家の瀧口修造や作家の三島由紀夫との交流も始まり、日本の前衛芸術の奔流の中に華々しく登場したといってよいでしょう。

 ご紹介する映像は、その登場から10年以上たった1972年10月、東京のアートシアター新宿文化という映画館で行なわれた『疱瘡譚』という公演からのダイジェストです。(『土方巽の舞踏~肉体のシュルレアリスム 身体のオントロジー』、2004、慶應義塾大学出版会 付録CD-ROM)

 どてらを着込んだ土方が、風の音やカラスの声と共に登場し、瞽女唄(ごぜうた)にのせて緩やかな動きが続く。歌川国芳が描く勇婦をもとにして、芦川羊子や小林嵯峨らが義太夫に合わせ、がに股のかがみこんだ姿勢で、高下駄を踏み鳴らして舞台上を駆け回る。軽快なワルツにのって芦川羊子と和栗由紀夫がユーモラスなデュエット。そして土方の癩者の踊り。立とうとしても立てず、くずれるままに、床に横になり這いつくばり、四肢を痙攣させる。「バイレロ」の透明な響きで、絶妙の身振りが続く。(同書p140から)

 「バイレロ」とは、カントループの「オーベルニュの歌」から「羊飼いの歌」。非常に美しい、流れるような旋律です。既に初期の?聖の祭儀といった過激な行為性ではなく、高度に作品化された舞台ではありますが、1970年に新たに提出された「燔犠大踏鑑」(はんぎだいとうかん)という舞踏理念を旗印に、「東北歌舞伎」と公言し、「無知と悲惨」を作風とし、日本的身体を母体とするとしています(同書p140)。 

 「燔犠大踏鑑」という言葉は、詩人の高橋睦郎が考えたもので(「アスベスト館通信」第5巻、p11。1987、書肆山田)、高橋は次のように解説しています。

 ひとりの人物が舞台という祭壇に上って板で表徴される大地を踏む。その行為は天に向かって炎を挙げる燔祭であり、犠牲式である。その宇宙大の舞踏は舞踏を志す者のみならず、自分に率直に生きるという困難な道を選ぶ者すべてにとっての鑑である。

003hangi

 高橋睦郎さん個人を揶揄するつもりは毛頭ないのですが、このような土方の存在の普遍化や一般化、あるいは神格化は、これが土方没後の文章だからなのか、1970年当事に既になされていたのか、あるいは、土方自身の変化なのかは、土方や暗黒舞踏の受容史から、興味深いテーマになると思います。

 しかし、ただ「ごろりとひっくり返っ」ていた胎児のような存在であったところから、ある種の普遍的な生き方の提示と解されるような地点へというのは、かなり遠大な道のりではあります。

 本当はもっと、土方自身の発言や、何よりも舞台作品のフィルム等を仔細に見て、詳細な跡づけをして議論を進めていきたいところですが、時間と能力の関係で、少し端折ってしまいます。澁澤の前出の文章に、土方の特徴の変遷が整理されています。

・初期 三島由紀夫の影響下 パフォーマンス的に祭儀的な犠牲のエロティシズムを、フォルムを重視しつつ純粋造形的に志向
・中期 '63年「あんま」~。ハプニングの影響からか、形而上学的で純粋造形的な志向に風穴が開き、やや開放的になる
・後期 '70年以後。日本回帰と芦川羊子等女性の登用。神経を張り詰めた、恐しく緩慢な動き、能の所作のように。「舞踏とは命がけで立っている死体」というテーゼを体現

 もちろんここには、時代の変化も大きいのです。大まかにいってしまうと、安保闘争の'60年、全共闘の'70年、そして高橋さんが文章を書いた、何もなくなった'80年代ということを考えていくと、政治の季節から個人の時代へと、徹底的にターンしています。また、日本社会自体が、戦後から高度経済成長、そしてバブル前夜までという、すさまじい変転を示しています。芸術表現と社会情勢をことさらに照らし合わせる必要はありませんが、時代の雰囲気というものはあります。芸術家、表現者としても、破壊的なダダイスト的存在であることは、最初のインパクトとして難しいことではありませんが、前衛的で過激な構築者であることは、ほぼ矛盾存在であるといってよいぐらい、簡単なことではないようです。

 そして土方は、舞踏家としての長い沈黙の後、再び自ら活動を始めようとした時には既に肝臓を病み、舞台に上がることなく亡くなってしまいます。

 後期には、「衰弱体」とか、「命がけで立っている死体」というような言葉を残しましたが、まさに衰弱し、死体となって、ごろんと横たわる物質のようになったわけですが、ここで身体そのものがごろりと目の前に転がっているだけであるという、土方の初期のありようについての澁澤の言葉を思い出して、そしてぼくが初めて触れた厚木凡人のただ這っているだけの身体も重ねあわせ、そういう身体のあり方を、「器官なき身体」corps sans organesという概念に照らして、ちょっと寄り道してみましょう。

 器官なき身体とは、フランスの詩人、演劇人だったアントナン・アルトーAntonin Artaud(1896-1948)が「神の裁きと訣別するため」という詩の「結論」に書き付けた言葉、

--その身体構造を作り直すため、これを最期にもう一度、人間を解剖台にのせるとき。
私は強調する、その身体構造を作り直すため、と。
人間は病んでいる、人間は誤って作られているからだ。
決心して、彼を裸にし、彼を死ぬほどかゆがらせるあの極微動物を掻きむしってやらねばならぬ。
    神、
    そして神と共に
    その器官ども。
私を監禁したいならするがいい。
しかし器官ほどに無用なものはないのだ。

人間に器官なき身体を作ってやるなら、
人間をそのあらゆる自動性から解放して真の自由にもどしてやることになるだろう。

そのとき人間は再び裏返しになって踊ることを覚えるだろう。
まるで舞踏会の熱狂のようなもので、
この裏とは人間の真の表となるだろう。

         (宇野邦一・鈴木創士訳『神の裁きと訣別するため』2006、河出文庫、p44)   

 という詩行に由来しています。これらの言葉には、不思議な暗合があります。「彼を死ぬほどかゆがらせるあの極微動物を掻きむしってやらねば」というのは、土方の動きの作り方の一つ「虫の歩行」と酷似しています。これは、手の甲に一匹の虫を想像し、知覚することから始006まり、「かゆい、かゆい」と首が逃げ、内腿から上がってくる虫によって足が浮き、その場にいられず押し出される、というような創作法です(三上賀代『器としての身体』1993、ANZ堂、p127)。

 さらに、人間が裏返しになるというイメージは、浅田彰『構造と力』の表紙に描かれているクラインの壺、境界も表裏の区別も持たない曲面の存在へとつながります。

 また、「器官なき身体」という概念は、ジル・ドゥルーズGilles Deleuze(1925-1995)とフェリックス・ガタリPierre-Felix Guattari(1930-1992)の共著『アンチ・オイディプス-資本主義と分裂症』(L'Anti-Oedipe, capitalisme et schizophrenie,1972)のキータームとも言われている重要な概念の一つです。

 『アンチ・オイディプス』には、次のような言葉があります。

(身体が有機体の形態に有機化されることに苦痛を感じ)進行の只中に第三の時点として「不可解な、金縛りにあったような全く端的な運行の停止」が到来することになるのである。そこには、「口もない、舌もない、歯もない、喉もない、食道もない、胃もない、腹もない、肛門もないのだ」…それは非有機体的な塊を出現させることになる。…この器官なき充実身体は、非生産的なるもの、不毛なるもの、発生してきたものではなくて始めからあったもの、消費しえないものなのである。
 死の本能、これがこの身体の名前である。
                           (1986、河出書房新社、市倉宏祐訳、p20)

 ここではドゥルーズらが展開した壮大なシステム論にまでは言及することを避け、身体論の範囲内で語り進めて行きたいと思いますが、「器官」とは、呼吸とか循環とか消化とか生殖とか、目的、機能を持って、それにしたがって一つのまとまりとして軍隊のように機能することを前提とした個別性を持っているものです。しかしアルトーによっては、そうではなくて、言葉の表面的な意味においてかもしれませんが、分裂症のように、常に生成し移動し、固定的ではなく、まさに存在そのものであるような状態が求められているようです。

 また、『アンチ・オイディプス』の別の場所では、欲望についても言及があります。そこで言われるのも、特定の対象を持った欲望、食欲とか性欲とか金銭欲ではなく、わけのわからない欲望、いわば既に存在していながら存在することを熱烈に欲望しているというような、自家中毒的に欲望する存在というようなものを提示しています。

 このような、対象を持たない存在、そういうものこそ、ぼくが厚木凡人や現代詩にふれた時からずっと、追い求めていたものではなかったか。今から振り返るとそのような思いがあります。

 そして、そのような存在であることを運命づけられ、決定的に異形であり特殊であることを強いられた身体として、劇団態変の人たちの身体を思い描くことができます。
 実は土方巽の発言に、このようなものがあります。

 五体が満足でありながら、しかも、不具者でありたい、いっそのこと俺は不具者に生れついていた方が良かったのだ、という願いを持つようになりますと、ようやく舞踏の第一歩が始まります。(三上、p124)

 これについて三上はさらに、

 これは土方が、暗黒舞踏の出発にあたって、バレエの美の方法に対置するものとして、「跳ばない跳ぶ、廻れない廻る」方法を模索し始めた理由でもあった。そして、ここで彼がしようとしたことは、不具や醜を表現することではなく、不具や醜を用いて、彼の美を表現することである。(三上、p125)

 と解説しています。

 また、土方から舞踏を学んだ麿赤児(写真は、1985年11月「五輪書」、ヘルムート・シュタインハイザー撮影)は、このように述べています。1996年に大阪公演を控えて、私がインタビューをさせていただいたときの発言です。

0041maro

--少し戻りますが、その目的のない「身ぶり」というものを生み出すに当たっては、プロセスとして、一つの動きから目的を削ぎ落とすのですか、それともそもそも意味のない動きをするんでしょうか。
麿 われわれが今まで目的としていたことが、正しいかどうかという疑問がありますよね。A地点からB地点に歩くという、それが実際正しかったのか。本当はZ地点に行くのに、B地点に立ち寄ってるだけだとか。どっちかっていうと回り道が好きっていうか、ぐるぐるぐるぐるして、その間に道草の楽しさを知ってしまう、そういうこともあるんじゃないかな。何だか向こうからも道草をしてる奴が来る。そこで出会って、何かができてくるんじゃないかとかね。
--みんなが真っすぐ同じ方向に歩いてたら、誰とも出会いませんね。
麿 よく例に出すんですけど、からだの不自由な人が動いている、何をしようとしているのかわからない、だけどしばらくたってやっとコップを持った。それを見て、あぁ、コップが持ちたかったのか、とわかるわけです。そこまで10秒やそこらかかりますよ。われわれはフッと持って、それが当たり前だけど、彼にとっては何をしたいかさえ他人にはわからない。意地悪か無神経なのがいてそのコップを持って行っちゃったりすると、そりゃもう大変なことになっちゃう。
--普通はそういうのは病いとか麻痺とか障害とか異常とか言われるわけですが。
麿 それを、それをも表出だと。
--豊かな。
麿 そう。そのこと自体、むしろ方法論と言うかな、その方法論自体が目的化してしまったような瞬間をパックする。どこかに行って決まってしまったら、もう「ああそうか」というようなことで、あまり豊かじゃないなぁという感じかな。
--1のものが1にしかならない感じですね。
麿 そうなんですよ。だから、迂回して、迂回して、その迂回すること自体が、もう既にドラマだと。

 このような、いわゆる障害のある身体についての舞踏家たちの向き合い方というのは、非常に真摯な、切迫したものがあると思います。自身の身体が真実であるために、どのような向き合い方であるべきかというときに、逃れようのない運命的な身体であるということ、非合理的な身体であること、そして神から徴しづけをされたような身体であることが、いかに重要視され、憧憬されたかということではないかと思います。

 劇団態変というのは、次のような集団です。

 主宰・金満里の「身体障害者の障害じたいを表現力に転じ、未踏の美を創り出すことができる」という着想に基づき、身障者自身が演出し、演じる劇団として1983年より大阪を拠点に活動を続けている。
 近年欧州では、障害者の身体が、身体表現の本質を掘り下げるものとして注目され始めているが、類似のものとしては劇団態変は世界で最初に活動を開始した劇団であり、その最前衛に位置する作品を発信し続けている。
 現在13人の障害者が主体となって活動している。うち9人が車イスの生活で、脳性マヒ・ポリオなどの障害のため、常に身辺介護を必要とする。
 身体障害者がその姿態と障害の動きとをありのままに晒して、障害それじたいを表現力に転化して人の心を撃つ舞台表現を創り出す、それが劇団態変である。
 身体は一つの小宇宙であり、不安定にも見える役者の動きには、個々の役者の身体の必然からくる絶妙のバランスがあり、その舞台を通して観客もまた自分自身と宇宙を感じていく。
 創立時よりの習わしで「劇団」と名乗ってはいるが、もともとストーリー性のある表現は指向しておらず89年以来台詞の使用も止め、象徴的な身体表現として作品を作ってきた。敢えて言えば physical theatre に該当するスタイルであろうか。これまで20余年かけて表現として見つめてきた動きは『ダンス』でもなく、『舞踏』でもない、どこにもなかった身体表現である。(ウェブサイトより)

007

 『写真集 態変』(1993、東方出版)の帯にも、「指一本動けば、自らと宇宙を表現できる」とありますが、身体による目に見える動きを極限まで切り詰めるということについて、彼らには余儀なく選択なくそのようにせざるを得なかったというのっぴきならなさがあります。土方が憧れた身体のありようとは、こういうのっぴきならないところでの、機能や組織化を剥ぎ取られた、しかし生への欲求、エネルギーはあふれ出そうであるという地点ではなかったかと思われます。ぼくも30年ほど前から、そういう身体への憧れを持っていたのではないかと、改めて思います。

 今日は態変の方が秋の公演に向けて、ボランティア募集活動に見えていますので、あとは、譲ります。貴重な映像もご覧いただけるようです。ご清聴ありがとうございました。

|

« 講演 『宝塚歌劇を楽しむ』II <タカラヅカに見る世界の歴史> | トップページ | 【予告】マイケル・シューマッハ、MOKKのビデオ上映会 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 特別講義「身体の意味性をめぐって」:

« 講演 『宝塚歌劇を楽しむ』II <タカラヅカに見る世界の歴史> | トップページ | 【予告】マイケル・シューマッハ、MOKKのビデオ上映会 »