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2010年3月18日 (木)

舞台と観客の間に穿たれる「穴」(「イマージュ」46号掲載)

 他の誰かが踊っているのを、ただ見ているだけの、わたくし。すっとそういう態度からはみ出さずに来ている。絵画でも、演劇でも、音楽でも、同じことだ。見ているだけの、わたくしである。

 特にダンスにおいて、そのような態度は、本当のところ成立するのだろうか。見る阿呆が踊る阿呆より「損」であると言われるが、どう損なのか。踊るという身体感覚の昂揚そのものを主題とする行為に臨んで、わが身にはその昂揚を封印して、見る(だけの)ことにおのれを規定するのなら、踊ることがもっている喜びのほんの僅かしか享受しえていないではないか、アホやなぁ、と。

 ダンスを見る者は、踊っているのだ、と言われることもある。見ながらにして、ダンサーと同じように身体の各所がピクピクと動いているというわけだ。見る客体が、踊る主体と同調して、あたかも自身が主体となって踊っているように体験されるとすれば、それはかなりな深度での同調性が成立しているものと思われる。

 そのような事態が出来するためには、踊る者と見る者との間に、どのような状態が共有されていればいいのだろうか。

 梅若玄祥がシテを務める『善知鳥』(うとう。2009年7月20日、大槻能楽堂、大阪)で、玄祥の猟師の目に映った茫漠や、はるか世阿弥が歯噛みした不条理な運命が、ぼくにも見えたように思えた。

 玄祥という存在の何か、何ごとかによってそれが現実化したことは間違いないのだが、ぼくには玄祥の凄まじさを正確に語ることができる語彙がない。ぼくが打たれたものが、能楽のもつものなのか、『善知鳥』のもつものなのか、玄祥のもつものなのかを分節する経験も知識もない。しかしそれらは分節される必要もなく、ただただ圧倒的に聳え立っているものなのだ、と感じていた。聳え立つと書いたが、この時玄祥にぼくが感じたのは、能楽堂の空間をはるかに越えて、無窮のかなたに位置しているような遠さ、小ささだったように思う。その小ささの中に、すべてが見えたように思われた。

 さらには、梅原猛のプレパフォーマンストークに導かれたところが大きかった。梅原猛は、ただ『善知鳥』という傑作を解説しただけではなく、自らの父親の運命の転変と、幼時の孤独、父親が自身に仮託して教えてくれた石原純という傑出した物理学者の人生と短歌、そして世阿弥の人生の悲劇を重ね、それらをすべて『善知鳥』に照らし合わせ、この作品がいかに傑作であるかを、わが身を絞るように語った。それによって、ぼくの身体には大きな穴が開かれ、その穴からぼく自身が、クラインの壺のようにといってもいいが、『善知鳥』の舞台となった立山や陸奥の外が浜に離魂していたようだった。

 「穴」といったが、この言葉と考え方は、梅原賢一郎の『カミの現象学 身体から見た日本文化論』(2003、角川書店)という著書から借りている。「「穴」が自分ではない外部のなにものかがそこから侵入する緊張をはらんだ場である…あるいは、それを通じて外部のなにものかへと自分が放たれていくはりつめた強度をもった場である」という考え方で、それはまた岩田慶治の「われわれのからだに数多くの、無数の穴をあけなくてはいけない。からだが森羅万象に融けこまなくてはいけない」というような文章から触発されているという。

 ぼくは以前から、芸術、特に舞台芸術を享受する態度の問題として、そして同時に批評というものの成立する地平に前提する問題として、誤解を恐れずにいうが、双方向の敬意というものの存在が必要ではないかと思っていた。うまく説明できる自信がないのだが、何も舞台上の出来事、演者を無条件に権威として認め崇敬しようというのではない。芸術の享受関係が成立するためには、平たくいえば、演じる側は見る者を馬鹿にしてはいけないし、見る者は舞台の上を猜疑心で見てはいけないと、その程度の始まりである。

 特に批評という行為あるいは視点は、意識するとしないとに関わらず、どうしても「上から目線」になりがちだ。作品を分析・分節して評価するということは、不可避的に作品の外側に立つことが求められるが、どうしても作品世界を上から睥睨する権威者の立場であることになる。そうではなくて、作品の同行者・同伴者であるという可能性はないものかというのが、ぼくが作品に向かう時の態度に関する課題である。同行者であろうとする以上、そのどこかへ向かおうとする者に対して、最低限の信頼と、尊重する態度がなくては、場と道を同じくすることはできないはずだ。同行者であるということにおいて、つまり作品がどこへ向かおうとしているかを察知し、その歩幅や速度を了解するということにおいては、卓越した想像力を持ちたいと願っている。

 ただ、どうしても、敬意という言葉を使うと、排除したはずの上下関係が顔を出す。相互の敬意といってみても、そこには率直さがなくなってしまうようで、うまくない。対象に少なくとも丁寧に相対する意識。対象を切り刻むのではなく、その全体性を受け取るという意識。対象を自分の何ごとかの道具に使うのではないということ。そういうことをくるめていいたいのだ。権威としてではなく立ち現れてくれるような、享受関係の両端の者に求められる、それがあれば両者がずっと豊かになるような何ものか。そういうものを求めている。

 神戸のはるか西端にある神戸学院大学には、メモリアルホールという数百人収容の中劇場があり、二十年来「グリーンフェスティバル」と題して音楽や舞台芸術の公開講座を開いている。大阪フィルやピアニストの仲道郁代さんも毎年来演して、充実したプログラムだ。

 昨年に引き続きコーディネート役として「現代ダンスへの誘い」と題して、セレノグラフィカ(隅地茉歩、阿比留修一)「FASNACHT」とアローダンスコミュニケーション(ヤザキタケシ、松本芽紅見)「ONE WAY」を上演してもらったのだが(7月18日)、少なくとも「穴」をあけるということについては、ずいぶんうまくいったのではなかったか。本稿では禁を冒して、ぼく自身が深く関わったこの公演について、観客の皆さんのことをきっかけに、考えを進めていきたい。

 上演した作品はいずれも再演だった。「FASNACHT」は、もともと子どもの鑑賞のために創られた作品で、シンプルなモチーフから、むくむくと増殖し、広がっていく様子がみえやすく、わくわくとする楽しさを共有しやすいものだ。「ONE WAY」は、二人の男女がカミ手からシモ手まで行き着く間に起きる様々な逸脱や逆転を、流麗にコミカルに遊戯的に楽しむ作品で、美しさ、笑い、客席への侵入、スピード…とおよそダンスのあらゆる楽しみを満喫できる。共に作品のクオリティは間違いない。どんな人にも絶対満足してもらえるという確信はあった。

 しかしながら、大学の入場無料の公開講座のプログラムだから、観客の大半は周辺にお住まいの比較的高齢の一般市民。コンテンポラリーダンスなど「何だ、そりゃ?」という方がほとんどだろう。一方で、彼らはグリーンフェスティバルの常連でもあって、クラシック音楽を中心に京劇や劇団・太陽族も含めて、優れたパフォーマンスに頻繁に接しているのだ。しょっちゅう本物のライブにふれていて、目や耳は肥えている。だからこそ確実なパフォーマンスレベルと、説得力のある経歴をもった出演者が必要だったし、複数の出演者、作品の間にゆるやかな共通性があれば、プログラムとしてのコンセプトがわかりやすくなるだろう。しかしそれだけでは、舞台と客席の間に何かが起きないのではないか。つまり、何かが起きれば、このプログラムは大成功するのではないか、と思っていた。いってみれば、敬意を抱いてもらえる準備は整っていたと思うが、そこに「穴」をあけるためには、さらに何かがあるといい。

Selenomini  アウトリーチ活動に積極的に取り組んでいるセレノグラフィカに、作品の前に簡単な動きのワークショップのような導入部分を取り付けてもらうことにした。ぼくのお勉強めいた話は最小限にして、出演者によるアフタートークをつけた。送り手・創り手側の意見だけでは広がりがないといけないので、ダンサーの関典子さんにコメンテーターをお願いした。導入、いい作品、ダンサーの素顔、複数の声…これだけ用意して、満足してもらえなかったらおかしい、というほどの態勢で臨んだ公演だった。この人たちに現代のダンスはもう一つやなぁと思われるようでは、コンテンポラリーダンスは普遍化できないのではないかとさえ思った。

 それでも、こちら側がそんなにも入れ込んでしまったがために、逆に「穴」があかないこともあっただろう。ぼくが今回改めて思い知らされたのは、観客の態度、姿勢、身構えについてだった。

 こんなことを改めて書くと顰蹙を買うかもしれないが、最近(でもないか)ダンス関係の様々な人から、観客を育てる必要性ということを聞く。聞かれようによっては傲慢不遜ないい方だが、それだけコンテンポラリーダンスの受容のされ方について、創り手や送り手が危機感をもっているということなのだ。単に観客の人数を増やさなければいけないというだけではなくて、ただ友人知人の顔を見に来るだけではなく、ダンスの表現の深部まで想像力を働かせて、ダンスを身体芸術として正当に受け取ってくれる観客を増やしたいというような思いがあるといっていいのだろうか。あるいは、昨今の風潮に従って、コミュニティづくりや自己発見、ヒーリング、学校体育、健康づくりなどダンスの持ちうる様々な機能の全体性をすべて視野に入れ、ダンスの社会的意義を正当に理解・評価してほしいという人もいるのかもしれない。

 ぼくは正直に言うと、圧倒的な深度と強度をもった作品であれば、どんな観客に対しても一定以上の訴求力をもつと思っている。しかし、見る者は、すごいと思わされただけでは不安なこともある。何がすごかったんだろう?と。だから、見る者の中からあふれそうになっている何ものかに、ちょっとしたヒントや導水の方向性を示すことで、それが形となる手助けとなるのであれば、アフタートークやコメントによる言葉の手助けは有効だと思っている。

 よい観客とは何か。観客を育てるなどという言葉を出してしまったがために、愚問を承知で問い返すのだが、神戸学院大学での経験をふまえると、作品を積極的に享受しようとする人たちだといっていいのではないかと思う。そもそも享受という語の英訳は、enjoyであるという。作品に接して喜ぼう、楽しもうという態度は、作品の中に積極的に入り込み、作品を共に創るという姿勢となる。ほとんどがコンテンポラリーダンスに初めてふれたというその観客は、短いワークショップを大いに楽しんでいた。軽いストレッチの後、指で輪っかのような形を作って目に当て、覗き込み、さらに隣りの人が作った輪っかを追い回すといった軽いコンタクトまで、嬉々として一緒になって楽しんでいた。さらに隅地が「この輪っかが、これから作品の中で出てきますから、もし一緒に覗き込んでもらえたらうれしいです」と言っていたところ、はたして多くの人が一緒になって同じように輪っかを作って目許に当て、舞台上の二人を覗き込んでいた。

Arrowmini  そしてその同じ指の形が、「ONE WAY」にも出てきたのには、驚いた。アフタートークで聞いたところによると、その光景を舞台袖で見ていたヤザキが、急いで松本と楽屋に戻って、数分間で準備したシーンだったそうだ。それに、またまた観客は大喜びした。そういうこともあってか、この作品では笑いと拍手が絶えず、たいそうな盛り上がりを見せた。

 いくつもの「穴」が開いたのだと思う。そのためには、観客の見る力が必要だったし、その力を十分に引き出すダンスの力が必要だった。この観客は、舞台で繰り広げられることを楽しむ術に長けていた。「さあ、ご一緒に」と言われれば、とりあえず何か一緒にやってみるし、面白ければ笑い、すごいと思えば拍手した。舞台は、創り手と観客が一緒になって創り上げるものだった。当たり前のことだ。しかし、それが特殊で稀なことに思われたのは、なぜだろう? 

 コンテンポラリーダンスには、あるいはいわゆる現代芸術には、そこに批評性が内在する以上、見る者すべてをしかめっ面をした悪い意味での批評家にさせる陥穽があるのかもしれない。批評性を前提としつつも、楽しい体験であるという可能性は、ないものだろうか。享受がenjoyであるという意味において、本当のところ享受者がどれだけ存在し、享受してもらおうという創り手・送り手がどれほどいたのだろうか。ダンスを見るということが、美学者の新田博衛がたびたび強調していたような、「踊りは――ぜひ付け加えておかなければならないが――見て楽しいものなのである」(「舞踊の復権」。「理想」1979年553号所収)ということを原点として、批評性を保持しながらも楽しむことのできる体験であることは、困難なのだろうか。

 批評的であるという態度がが単にあら探しや裁断的なものにとどまるのであれば、楽しむということは難しいだろう。さらに、ただ楽しめればいいのかと、語弊が生じるかもしれない。しかし、本当の意味で楽しむということ、それを美的体験といってもいいのだが、批評的態度につながる知的体験と、感覚的体験が幸福に共存する理想の場として、ダンスというものがあるのではないかと思うのだ。

 学生のレポートで知ったのだが、帰りのバスの中で、二人のご婦人が指で例の輪っかを作って、じゃれ合うように笑っていたそうだ。この日多くの手によって何度も反復された輪っかを起点として、批評ということを考えていかなくてはならない。

(写真は筆者)

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コメント

おおー!!
ステキな試みだったのですね。

コンテンポラリーダンス、というものの鑑賞の仕方がわからない私としては、ぜひそういう上演に出会いたいと思うところです。

私がずっとやってきている芝居、というものは、
物語があり
感情、心の動きがある。

でも、それを表現せず、違うものを目指している舞台がある。そして私は、まだその鑑賞も表現も、作法がわからずに戸惑っているのです。ここ数年来。

ということで、
ピアノを弾いたり
歌を歌ったり
オイリュトミーをしたり
語りをしたり
試行錯誤しておりますが、
まだまだ「感情」で表現してしまう現在です。
すこーしずつ、ドアの隙間から向こう側を覗くように、何かが見え始めてはいるのですがね。

投稿: きよみつ | 2010年3月18日 (木) 06時07分

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