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2010年5月

2010年5月26日 (水)

存在のフロントを開く(「IMAJU」47号掲載)

 劇団新感線の『蛮幽鬼』(2009年11月、梅田芸術劇場メインホール、大阪)を観て、それはまぁいろいろなポイントに感動も感心もしたのだけれど、うっとりもし背筋がゾクゾクもしたのは、早乙女太一の太刀さばきだった。殺陣に詳しいわけでも、時代劇のファンでもないし、剣道をかじったこともないので、全くの素見ではあるが、ただ鋭いとか速いとかいうだけではなく、太刀先が何だか柔らかく弧を描いているように見えたのは、目の錯覚なのだろうか。もし彼と真剣で立ち会わなければならなくなったとして、数瞬でも生きていることができていたら、その切っ先のふうわりとした柔らかさに見惚れているうちに命を落とすという、幸福な最期を迎えることができるだろう。



 彼にとって太刀先は、扱う道具の尖端ということを超えて、身体の一部分、いや身体の中心が突き出てきた尖端であるのだろう。鷲田清一(哲学)の言葉をもじれば、「感覚の起こる場所が掌から[太刀]の先まで延びたのだ」ということになる(原文は太刀ではなく「杖」。『悲鳴をあげる身体』p42、PHP新書、1998)。いったい身体の尖端とか表面とか、一番外側で他者に迫り向き合う部分というのは、どういうことになっているのだろう?

 考える方法はいろいろある。前号では傍点付の「穴」という言葉を使ったが、今回はその相互性を強調するために「フロント」という言葉を使ってみよう。観られなければ絵画は、舞台芸術は成立しないとよく言われるが、たとえば八木誠一(神学)の「フロント構造」という考え方を当てはめれば、表現者のフロントと享受者のフロントは、両者の一方的ではない授与と同化の関係にあり、二者を隔てる一枚の壁は両者にとって不可欠な構成要素である。しばしば舞台と観客の間には第四の壁と呼ばれるものがあると言われたりもするが、それが見えないが強固な壁として厳然として存在するというのではなく、ここでは両者が出会うフロントとして分有または共有されているという考えだ。



 たとえば、サイトウマコトが7人の若手ダンサーのために振り付けた『七つの墓』(『黄昏れる砂の城』と併演。2009年11月7・8日、アイホール、伊丹)は、一つの動きが波紋のように次々と7人を伝播していくというパターンを軸に展開した、シンプルなコンセプトに基づく作品。冒頭からして、にらめっこのように変な顔をしたり変わったしぐさをしたりするのが、カミ手からシモ手まで、互い違いに向き合って座った七人のダンサーを糸電話のように伝わっていくのが遊戯的で、思わず引き込まれてしまう。また、激しい動きが一呼吸ずつ遅れて繰り返される、いわゆるディレイドユニゾンがこの作品の動きの主要なモチーフであるようだったが、動きの形式が作品のテーマに不可分に直結していたのが、この作品の強さである。

 7人のダンサーがずれ遅れてゆく様は、一つの形が崩れていくのを分解して見ているような感覚、さらに言えば、それに向かって手を伸ばすのだがどうしても届かずつかめない感覚が生起する。サイトウだけでなく誰にも、周囲に突然の死や早すぎる死を迎えた親しい存在がいるだろう。思い出すというのではなく、ふとした弾みのようにその姿や空気が立ちのぼることがある。視覚にだけではない。いるような。その時、もういないはずの存在に向かって、フロントがこれ以上ないぐらいに開いている。それがこちら側にやってくる。

 唐突だが、立川談春独演会(2009年12月9日、シアタードラマシティ、大阪)の後半は「文七元結」(ぶんしちもっとい)だった。すごかった。三遊亭圓楽と同じ今年(2009年)の10月29日に49歳で亡くなった、同門で大阪出身の立川文都に「捧げるわけじゃないけれど」と、照れ隠しに怒ったように言っていたが、長兵衛が身投げしようとする文七を止めようと怒鳴る「死ななきゃいけねぇなんてことがあるかい!」といった直接的な言葉だけではなく、長兵衛の長屋でのてんやわんやや、娘お久が駆け込んだ吉原の大店・佐野槌でのやり取りに、自分から出たとは思えない何ものかがわいてきたりしたのだろう。あぁ文都の街だなと思っただけで、開かれたフロントだったのだろう。なお、前半「棒鱈」の枕は、圓楽の形態模写などをしながら、明るくこざっぱりと圓楽を偲んで見せ、〆は文都を偲んで涙ぐむという、心憎いばかりの、自称「できすぎた芝居」だった。



 『七つの墓』の仕掛けもある意味では巧妙だった。三倉加奈樋口未芳子による中盤のたっぷりとしたソロパート、鏡面に映った自分自身を相手にしているようなコレスポンダンス、そしてエンディングのものすごくゆっくりとした溶暗に追い立てられ、溶けていくような長く激しい動きの反復など、一個の存在の多層性がとても丁寧に提示され、それが観ている者にも沁み出してくる。それを踏まえてのずれや遅れや反復があるから、観る者は一つの瞬間を、まるで思い出してでもいるかのように、数度味わうことができた。そのように現実があったら、そのように今はもういない人のことを思うことができたら…タイトルから引き出される感情以上に、生と死というものの連続性、具体的に言うと、死んでしまった身近な誰かについて、その存在が消滅してゼロになっているのではなくて、生命の状態のグラデーションのように連続した地点にお互いが立っているような、安らかな気持ちを感じることができたように思う。同じようにダンサーと観客は、舞台と客席という形であちら側とこちら側に位置しているが、それはいつでも転換可能であり、それは生者と死者の関係でもあるように思える。するといつしか、舞台の向こう側のどこかから「次の8人目は、あなただよ」と呼びかけられているようである。

 そのようなグラデーションのようにこちら側に広がり届いてくるものごとのありようを、中村獅雄というキリスト教思想家が「ネビュラ構造」(ネビュラは星雲)と呼んでいることを、八木の『ほんとうの生き方を求めて』(講談社現代新書、1985)で知った。フロント構造という考え方と照らし合わせると、ぼくたちの存在の様態は、個人として完結し、閉じているようでありながらも、他者との関係性によって開かれている。隣り合う者との壁面を共有する、つまり単独に所有しないことで、初めて関係性というものが成立する。その関係性が四囲にめぐらされているわけだから、ぼくたちの存在としての外壁は、一つとして単独に所有されているものではない。そしてそれは直線や限られた平面のようにどこかに終端があるのではなく、円環さらには球体をなしていないと完全な相互性を実現しない。つまり舞台から観客に投げられたストロークは、観客から再び舞台に投げられるというサイクルを実現しないと、不完全なままとどまってしまうことになる。

 『七つの墓』にあらわれた、隣り合う者の動きをまねるということが、いったいどのようなことかということを、竹内敏晴(演劇)は「身になる」という言葉で考えていく(『癒える力』、晶文社、1999)。一般に模倣、まねるという行為は、「相手の人が何を目的として動作しているかを知った上で、その動きを「身につけて」ゆく」わけだが、「まるごとその人の「身になって」しまう」ことで、その人の「意図や目的や感情まで発見する、というか実感してしまう」という、そういうまね方こそが「もともとは人間にとって根源的な行為なのではあるまいか」と。ここでは「身につける」ことと「身になる」ことが慎重に弁別されている。芸術としての身体は。ダンスという技術を身につけることによってではなくて、どのような「身になる」時、根源的な行為となるのだろうか。

 今回、あえて普段以上に様々な人の言葉を引きつつ何ごとかを語ろうとしているのは、一つには、何だかいわゆるコンテンポラリーダンスには、ぼくたちが生きていて直面する喪失や悔しさや怒りや戸惑いを(別に喜びや快さでもいいのだが)恭しさをもって引き受ける場所がないような気がするからだ。現実に依拠する度合いが非常に低い、つまり現実を抽象する度合いが、コンテンポラリーと呼ばれるダンスは非常に高く、現実的な事象に直接触れることが難しいようだ。

 たとえば、阪神・淡路大震災を題材にした演劇、ダンスにどのようなものがあったかと考える時、演劇にはいくつか秀作と呼べるようなものがあった。2010年1月に上演される劇団・太陽族の『往くも還るも』も素晴らしい作品になるだろう。しかしダンスでは、少数のバレエやモダンダンスのカンパニーの公演に題材としたものはあったが、悲劇を表わす書法に題材をあてはめたという域を出なかったように記憶している。

 コンテンポラリーダンスが、ぼくたちの実感を伴う生の何ごとか根源的なところにかかわりを持ち、その何かしらを掬い取ることを、控えめに言ってあまり得意としないのは、なぜだろう。いや、この設問自体が間違っているのかもしれないし、もしかしたら日本だけとか、ぼくが見聞きする範囲に限られた特殊なことなのかもしれないし。DANCE BOXなどでアジアのコンテンポラリーダンサーの作品を見て、世界や現実の背負い方のまっすぐさに、感動したことがあった。本当に、どうなのだろう?

 たとえば、ピナ・バウシュがあれだけの、いさかか強引なまでの訴求力と普遍性をもちえたのは、現実、というよりは世界との回路の開き方に、誰もが納得できるような特殊性があったからではなかったか。

 ぼくたちはおそらく、普遍性を求めたのでは、強くて深い訴求力を持つことはできないだろう。では、どのように個別性や特殊性を持つことができ、それを追求することができ、るのだろうか。

 布谷佐和子を中心とする「しずかなこえプロジェクト」が、ゆるやかな連作としてロクソドンタブラック(大阪)、旧大塔村大塔小中学校体育館(奈良)、旧グッゲンハイム邸(神戸)に続いて、灘泉木造酒蔵(2009年10月3日、神戸・石屋川)で上演した『LOVE Practice』は、木造の古い酒蔵の2階という会場も、作品の途中で観客を移動させて2部屋に分かれた広い会場を使い切るという趣向も、大変面白いものだった。まずそのことによって、観る者のフロントへ働きかけることができる。それ以上に強く印象に残っているのは、後半で現われた、抱擁の強さであった。男女のダンサーの疾走や抱擁は、それだけでドラマティックであるが、作品前半からの根太をきしませる『春の祭典』のような大勢の跳躍や、四股を踏みながら前進するような迫力ある動きから、ドラマへの昂揚は用意されていたといえるだろう。

 つまり、ある動きや情景がドラマティックであるためには、当然のことだが、そうなるための周到な準備が必要だ。しずかなこえプロジェクトは、年初からの三回の公演を通じて、何ごとかをゆっくりと蓄積してきていたのだ。激しく美しく動く身体によるからこそ、到達する情感というものがある。激しさのさなかでの抱擁による停止は、意外なほど深い強さとなって、人間の営みというものの真実にまっすぐ測鉛を垂らしていくようだった。

 話は少々ずれるように思われるだろうが、高校や大学での「創作ダンス」というものは、ある種独特な世界を作り上げてきているようなのだ。ぼくは門外漢のようなものなので、めったなことは言わないほうがいいのだろうが、モダンダンスが得意とする強い表現性を活かしたメッセージ性の強いものを中心に、毎年神戸で行われる全日本高校・大学ダンスフェスティバルを一つの頂点として、数多くの作品が送り出されてきたようだ。

 近年やや新しい傾向も見えているようではあるが(テレビで見た昨年度(2009年度)大学部門グランプリの岡山大学『井の蛙』は、コンセプチュアルな中にユーモアと生き生きした表情が非常に面白かった)、ややもすると、そのメッセージ性の強さ、動きに付された意味によって身体が自由度を失ってしまっているようなこともあるように思われる。それは多くの場合、そのメッセージが、与えられたものとまでは言わないまでも、存在の芯から内発的に出てきた意味内容ではないからではなかったか。

 そんな中で、『bone×bone×bone×bone』というタイトルを持った作品の、何だかいろいろなものを振り落としてきたような軽々とした動きが目立ったのが、大阪体育大学創作ダンス部第34回単独公演だった(2009年10月10日、貝塚市コスモスシアター中ホール)。他の作品ももちろん「力作」ぞろいだったのだが、この作品はタイトルどおり、4人のダンサー(すべて1回生)が背骨のように連動して動くことを中心的なコンセプトとした面白い構成。しかしこの作品にでも、「破壊、再生、破壊、再生…挫折、進歩。力の限り強くなる」などと、それらしく前向きで教育的(?)なコメントを付けないと収まらないのが、このフィールドらしいのだ。ま、この作品については、こういうコメントをどこかに置き忘れているような軽々とした雰囲気に好感を持ったのだが。

 このような作品への言葉は、本来作品のフロントを共有するためのきっかけとなるべきなのだろうが、どうもある種のステレオタイプや既定の路線に作品をくらましてしまうばかりか、ダンサーの身体そのものをその中に封じ込めてしまうようで、残念に思えてしまう。

 これから年度末にかけて、いくつかの大学でダンスを学んだ学生たちの卒業公演が開かれるので、次回にはそれらをまとめてレビューできるのではないかと思う。 

 またしても話をスライドさせるが、ダンスが体育なのか芸術なのかという問題は、少なくともこの国の教育現場では、ある時点での綱引きで決着がついたのだろうが、現状では体育の一単元であるわけで、それが3年後から中学校で男女共に1、2年生全員必修となるという「事件」が控えている。

 改めて指導要領を見てみると、ダンスに与えられた目標の一つは、必修の1・2学年では「よさを認め合おうとすること」、選択の3学年では「互いの違いやよさを認め合おうとすること」である。これはなかなかよくできた目標だといえないだろうか。誰かがフロントを閉じたり、こじ開けたりもせず(もしかしたら、あえて閉じるという時間も必要なのかもしれないが)、そして開いてみてあらわれる小宇宙のような他者をきっちりと受け止めることができるようになるといい。ダンスをすることによって、中学生たちがお互いのよさを認め合ったり、互いの違いを尊重したりすることができるというのは、なかなかいい世の中だ。リズムに乗ってビデオか何かの模範演技どおりに全員に同じ動きをさせ、その差異の少なさによって採点するようなことにはなってほしくない。そのために、コンテンポラリーダンスを含めた、現在の世界中のダンスの経験が最大限に生かされるよう、切望するばかりだ。

(「IMAJU」(イマージュ)vol.47所収、2010年3月発行)

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