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2015年3月28日 (土)

さなぎダンス#6

1月31日・2月1日

メタモルホール(大阪・東淀川)
出演:植木智+下村雅哉(劇団態変)、斉藤綾子、足一

 身体障害者の表現集団である劇団態変の本拠、メタモルホールで、2012年7月からスタートした、上念が企画するダンス公演。近畿大学文芸学部舞台芸術専攻の卒業生によるユニット足一(たすいち)による「緩やかに死んでいく為の方法論」、大阪芸術大学舞踊コース卒業の斉藤綾子による「Alice in Wonderland」、劇団態変のメンバーで脳性まひの植木智と下村雅哉による「闇夜の狩」の三作が並んだ。(順に写真。撮影は上念)

Tasuichi

Ayako


Ueki

 詳細は、同劇団の機関誌「イマージュ」に書いた公演評に譲るが、植木+下村が暴力を、斉藤が閉塞状態からの出発を予感させる姿を、足一が老人の末期的でやや滑稽な拘泥を主題にしていたのが、奇しくも激しい現代性を反映しており、現在を生きる若いダンサーたちの世界を見る眼の確かさを思い、コンテンポラリーダンスと時代との即離を考えることになる。

 コンテンポラリーという言葉については、「現代」「同時代」であるという以上に、temporary(暫定的、臨時の)という負のニュアンスを含んでいて、コンテンポラリーであろうとすることは、その宙ぶらりんな状態をあえて引き受けるのだという覚悟のようなものがあると、たびたび論じてきた。現在の尖端を認めるということは、そういう危うさを必ず含んでいる。
ダンスは(ダンスだけではないが)、言葉で表わせないものを表わそうと、あるいは表わさないでおこうとする。言語が日常的には意味や指示対象を限定する方向性を持っているのに対し、芸術や芸術的言語は、特に同時代において、対象の多義性をそのまま反映しようとして、意味を複雑に多重化し、指示対象を複数化し、対象が意味や形態の流動性を帯びるのに応じて、多様で曖昧であろうとする。それがコンテンポラリーダンスの、そして現代芸術の難解さであって、一見つかみどころのない茫洋とした様であったり、必要以上に複雑化しているように見えたりするわけだが、ぼくたちはいわばそれに耐え続けてきている。
それが、対象となる直接的なテーマを持たない、微温的な現代日本の現代芸術であると思っていたのだが、どうもおそらく現在の状況は、あまり微温的ではない。そんなことを思わされて、3つの作品は全く関係がないにもかかわらず、緩やかな連作のようにも思われたのだった。

 この企画を言い表すために、「障がいを持った身体/持たない身体が、等価にしのぎを削る、稀有な空間として、回を重ねるごとに、大きく変態(メタモルフォーゼ)を遂げるでしょう」という言葉を使っている。第1回目には態変からの参加者がいなかったが、2回目で態変から身体に障害を持った表現者が1組加わり、大雑把にいって、バレエ経験の豊かな1組と、大学等で初めてダンスというものにふれたというような1組の計3組によるショーケース公演になっている。

 この公演を観に来たダンス関係者からよく言われるのだが、「「さなぎダンス」に出るのは、他の公演に出るのとは違う、何かが要りますね」ということはあるだろう。おそらくは覚悟のようなもの。それは障害を持たない身体にとっては、土方巽 が「五体が満足でありながら、しかも、不具者でありたい、いっそのこと俺は不具者に生れついていた方が良かったのだ、という願いを持つようになりますと、ようやく舞踏の第一歩が始まります」という舞踏観、身体観に隣接させられ、投地させられる地点に身を置くということだ。そしてもちろん、そのような身体の状態が、願いでも憧れでもなく淡々と日常的であるのが、態変メンバ
ーである。まず彼らの日常性に対峙するために、健常者的身体は、文字通りもがくことになる。

 ぼくはよく、優れたダンスに対して「のっぴきならない」という言葉を使う。退くも引くも(のく・ひく→のっぴき)できない状況に追いやられ、切羽詰まってどうしてもそうせざるを得ない/そうあらざるを得ない状態。進退窮まった選択肢の最後の一つ。「こうも動ける」「ああも動ける」でなくて、「こうしか動けない」という状態まで絞り込むことで滲み出る鋭さや速度や前のめり感。
 
 態変のメンバーにとって、障害を抱えた身体が「わが身」であるから、土方巽が述懐するような「願い」という外的な状態ではない。その障害の特徴や程度に応じてできることをし、できないことは外部化する。程度の差はあれ、健常者と変わらないとも言える。しかし、身体表現の舞台となればそうとばかりはいかない。そこに障害の身体という日常を越えようとする激越な表われが発する。おそらくそこには、「障害者」としての社会的困難が重ね合わされて、あるいは観る者が重ね合わせて、表現の方向が深く斜めに鋭くなる。

 そのような態変的身体と並列されることで、障害なく動くことがコンプレックスに思われるほど、健常者ダンサーののっぴきならなさは増幅され、それが態変のダンサーに跳ね返り、障害者としてのプライドが負けん気を帯びて激化する。

 そのような激越なサイクルに、出演者の多くが耐え、応えて、従前の自分自身の枠を超え出るような舞台を展開してきたのが、この「さなぎダンス」だったと思う。この並列を続けて数回、化学反応のように出演者の身体が激越化し、透明化する。それが現代日本の微温性を越え、主題がどのようなものであろうが、のっぴきならず世界の本質に切込み続けることになっているのではないかと思う。

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