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2015年3月

2015年3月28日 (土)

大阪芸術大学大学院 芸術研究科 舞台領域 第17回修了舞踊公演

2月25日

大阪国際交流センター 大ホール
 
 プログラムの堀内充 准教授の「近年のわが国における舞踊芸術はいまだに右往左往し、その定見のなさ、自信のなさを暴露している」という文章に、まず様々な意味で打たれる。この後堀内は、「舞踊テクノロジーを蓄積させ気概を持って望む本公演の若者たちの姿」としているので、一定のテクノロジー(技術)を身につけて、オリジナルな創作作品に立ち向かうことをよしとしていることが明らかになる。

 この公演では、博士課程後期在学生の習作2点に続いて、前期修了作品1点、後期修了作品2点が披露された。習作についてはワーク・イン・プログレスのようなものなので、特にふれる必要もないかと思うが、高田麻衣「MERMAID」はドラマティックで耽美的で、面白かった。

 前期修了の村瀬亜衣良「楽園」は、子供の世界の排除、いじめ、復讐というようなことを、虚実の時空間を入り組ませて8人のダンサーで複雑に描く意欲作だと思われた。ダンサーの動きは鋭く、時空の混淆をパラレルに、また螺旋的に描くにふさわしい。ただ、その螺旋が収束する一点に向かっているのかどうかが見えにくく、観ていて疲労を覚える。おそらく、それがこの作品の眼目だといっていいのだろう。「藪の中」ではないが、たとえばここで殺された者がいたとしたら、それはいったい誰なのか、ナイフの行き来を追うことに忙しく、いっそナイフを使わないほうが作品の混迷はシンプルに深まったのではないかと思わなくもない。どこかで単純化することを企んでもよかったのではなかったか。

 後期修了の森田玲子「Excessive」(写真。森田のFacebookから)は、ダンサーが客席から出てきて、旅する者/彷徨う者のような宮原由紀夫 、トゥシューズのバレエダンサー(杉浦愛理)を中心に、技術の高いダンサーが緩急のある動きを展開する複雑な作品。一度観ただけでは、その2人や周囲の関係性の成立または途絶している様、その背景が把握しにくく、様々な想像をめぐらせながら観るのだが、動きと展開がめまぐるしく、想像が形となる前にシーンが流れてしまい、己が想像力・理解力の貧しさが残念。あるいは、反-物語的な物語として見れば、断片のきらめきと連続性の困難において、面白みを見出すこともできるだろう。

Excessive

 動きの速度や性質、人間関係の複雑さ、作品の枠組みの強さなどから、もっと濃密な、さらに耽美性や倒錯性を帯びうる作品だと思うが、結果的に宮原を大きくフィーチュアした作品となり、その印象が強くなりすぎたかもしれない。

 設定や展開のめまぐるしく複雑な作品が多かったが、シンプルな中に掘り下げの深さで新しい世界を提示してくれる作品も見たい。

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河原温×ドナルド・ジャッド「温故知新」

2月22日

誉田屋源兵衛(京都・室町四条)

 コレクターである前澤友作が設立した公益財団法人現代芸術振興財団による現代アートの展覧会として、京都の1738年創業の帯製造卸会社の1919年建築の社屋で開催したもの。河原温(写真右段下)は2014年7月に逝去した日本を代表するミニマル・アート、コンセプチュアル・アートの作家、ドナルド・ジャッド(写真上)は、ミニマルな立体造形で知られるアメリカの美術家。

 この展覧会自体は、100年近い歴史のある木造の商家に、ミニマムな表面を持つ現代美術作品を贅沢に配置した、それ自体強くコンセプチュアルなもの。建物の造りにこれらミニマルでコンセプチュアルな現代作品が合っているかどうかということの吟味以前に、ここにそれらが存在していることの物質感に圧倒されるような展示だった。

Kawarajudd


 なお、主催の現代芸術振興財団は、現代芸術の普及・若手芸術家および音楽家の支援を事業目的として2012年から活動、2013年に設立された。20才以上35才以下の若手芸術家・音楽家を対象に、年間200万円を限度額(芸術家・音楽家各100万円、1名あたり10〜30万円以内)とする助成制度を毎年実施している。日本のいわゆるネット・ミリオネアの中では、ほとんど唯一といっていい芸術ファンドで、今後の展開を注目したい。
 1975年生まれの前澤が経営する㈱スタートトゥデイ(ZOZOTOWN)の企業理念は、「世界中をカッコよく、世界中に笑顔を。」というもの。http://zozo.jp/

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ピッコロシアター「マクベス」

2月20日

兵庫県立芸術文化センター 阪急中ホール
翻訳:喜志哲雄
演出:ジェイスン・アーカリ 

Macbeth


 写真からもわかるように、「マクベス」の舞台を現代、といっても20世紀初頭に移した演出で、ワイマール時代の混迷とマクベスを重ね合わせることを意図した演出。演出家のアーカリは、英国生まれで演出家、教育者でもあるという。

 これまで出口典雄のシェイクスピア・シアターや東京グローブ座の招く外国人演出で、現代に時代を移したシェイクスピアをいくつか見てきたが、今回の演出は、少し中途半端だったように思う。おそらくはベルリンのキャバレーを意識したのであろう三人の魔女、バンクォーが殺される街路の造形、パーティーの様子などにその時代性が反映されていたのだと思われるが、ワイマール時代といっても、既に100年近い前の、歴史の彼方のことである。その微妙で困難な時代とマクベスの時代とを照応させるには、観客であるぼくたちの予備知識は乏しく、日本で言えば戦国時代前夜を大正デモクラシーの時代に移して翻案した芝居を、現代性があるといわれてもぴんと来ない、というようなものではないか。

 さらに問題は、その時代性の移動を、役者が身体に練り込むことができていたかどうかということだが、それが最も求められ、最も難しく、またここでは歌もダンスも求められて、しどころがあったのが、魔女の3人だったと思われる。キャバレーの女らしくセクシーな衣裳に身をまとって歌い踊る以上、1920年代ベルリンのデカダンスと、ちょっと優秀なただの軍人が暴君として狂乱していく傾きを体現すべきだった。劇団四季にいた柏谷巴絵(ボーカル&ダンスキャプテンを兼ねる)やピッコロ劇団の実力派をそろえた魔女トリオだが、個々のその場での技術はそれなりに発揮されていたものの、劇の中での魔女の存在について、しっかりと観客に確認できているかとなると、かなり物足りないことだった。

 また、この劇の何をピークにするかというところで、元宝塚歌劇団のトップ娘役で歌唱力に定評のあった大鳥れいをマクベス夫人に起用した以上、マクベス夫人が手を洗う狂乱のシーンが見どころだと期待されたのだが、意外にあっさりと流れてしまったようで残念だった。

 マクベスの橘義も熱演だとは思うが、常にフル回転で緩急や押し引きが見えづらく、何を見てほしいのかわかりにくい。マクベスに妻子を殺されたマクダフの孫高宏が、自らの信条に従ったことで妻子の悲劇を導いてしまったことを悔やむ様、復讐に燃える昂ぶりが激しく、好演。ほんの一瞬の登場の保がその強烈な存在感で目を引いたのが、さすが。尼崎ロマンポルノで活躍していて、今年度からピッコロに入団したという堀江勇気が、意外に苦戦していたのも気になった。小劇場演劇的な演技と、ピッコロ的な演技とでは、かなり懸隔があるのだろうか。

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桃園会「うちやまつり」「paradise lost, lost」

2月18日
「うちやまつり」 演出:空ノ驛舎
2月19日
「paradise lost, lost」 演出:清水友陽

作:深津篤史
アイホール(伊丹)

 昨年7月31日に46歳で亡くなった劇作家、深津篤史の旧作の連続上演。1997年初演の「うちやまつり」は、岸田國士戯曲賞を受賞した、深津の代表作とされているもので、「paradise lost, lost」は2005年初演で、その6年後の後日譚。

Toenkai


 5年前に肺小細胞がんの告知を受けて以来、活動はますます旺盛で意欲的で挑戦的となり、演出も合わせると20本もの作品を手がけた。尋常ではない。亡くなる1ヶ月前に大阪のウイングフィールドで上演した『覚めてる間は夢を見ない』(桃園会)が、最後の作品になった。車椅子に乗り痩せ細った姿で劇場に顔を見せていた。鬼気迫る姿に気圧されてだったか、目礼だけ交わして、声をかけなかったのが悔やまれるが、余計な体力を使わせずに済んで、よかったかもしれない。

 「うちやまつり」の登場人物は、関西のとあるベッドタウンの団地の空き地のような場所に出入りする団地の住人やその知人。会話の端々から、この団地で連続殺人事件があって、その被疑者だった青年が今もここに住んでいることがわかってくる。この「わかってくる」過程の揺らぎ、その速度の緩やかなほぐされ方が、深津の芝居の醍醐味である。正月休みという空白のような時間の中、何ものという性格を持たない空き地で交わされる人々の会話から、オブラートにくるまれたエゴ、殺人という行為とセックスという行為が重ね合わせて女の子と人妻からそれぞれに語られることの、居心地の悪いエロティシズム。被疑者だった青年に向けられる、遠回しで遠慮がちな、しかし芯の硬い警戒心と疑いの眼ざし。…閉じられた団地という空間でもつれる、一見淡々としながら濃密に絡み合う関係の糸が、サスペンスドラマ風な興奮を、しかし低い温度で紡いでいく会話劇である。

「paradise lost, lost」(下写真は初演)では、その団地は取り壊されており、その跡地を見渡すことができる喫茶店が舞台となっている。連続殺人事件は未解決のままかなり風化し、それを知らない住人も増えている。冒頭、その喫茶店に黄色と黒の大きな的のようなペンキの落書きがされていたことがわかる。

 初演時は8年の間が空いての上演だったから、「うちやまつり」もかなりおぼろげになってしまっていたが、今回は連続上演だから、両者の連続性をきっちりとわかって、それぞれの輪郭があらわに生々しくつかむことができ、非常に面白かった。

 たとえば、黄色と黒の的についても、初演当時はそれを「うちやまつり」で団地の各階に吊り下げられていた、カラス除けの目玉風船を表わしていることなどわかっていなかっただろう。そのようなことをおぼろげにでも思い出すためには、8年という歳月はちょっと長すぎた。

 が、日を置かずに観ることで、6年前の出来事であったはずの記憶が妙に生々しく、鮮やか過ぎることでの戸惑いもありえた。出来事の記憶の鮮やかさが不自然で、おぼろげな記憶の薄皮を何枚も剥いで行くような作業が必要なく、こしらえられた演劇のようでありすぎたのだ。深津作品らしくない(笑)。

 その手の深津らしくなさは、演出においても感じられたように思う。「paradise…」を演出した清水友陽 は、アイホールがセッティングした対談 で「『paradise lost,lost』は、最初に読ませていただいたときは、「ちょっとわかんない」って思いました(笑)。このわからないものをわからないままやってみたら、何か見えてくるかなという気がしたんですけれども、未だにわからないです(苦笑)。」と述べている。「うちやまつり」でも同じだったろうが、ぼくらの愛した深津劇のわからなさについて、それを深津でない者が演出するとなると、何とか説明可能なものにしなければならなかっただろう。おそらくそのために、妙に輪郭のはっきりした、筋道の取った芝居になってしまったような感覚があった。

Paradise


 かといって、空ノ驛舎が少々露悪的に発言していた、「『うちやまつり』をエンターテインメント作品にしたいんです。ドラマチックにつくろうと思っています。…作品が本来持っている、人間の暗部が立ち上がるような劇構造を大事に残しながら、観終わった後、お客様が上質なミステリー小説を読み終えた時のような気持ちになればいいかなと思っております。」という意図にもかかわらず、単純な犯人探しのサスペンスドラマに終わるような単純性には収束しない。「人間の暗部が立ち上がるような劇構造」と呼ばれているものが、やはり相当強固なのだろう。

 これは、深津作品が再演されるに際して、しばらくは問題になるかもしれない。深津自らは自作であるから責任を持って曖昧なわからなさのまま放置していた劇の核のようなものが、今後はそのままにされることがなくなってしまうのではないか。そのことで、今後の深津作品上演が、緩やかに変容して、ある種の明快さの中に解消されていくのだろうという不安と期待。

 役者では、「うちやまつり」で被疑者だった青年「鈴木さんの息子さん」を演じた橋本健司がすばらしかった。曖昧な居心地の悪さ。肝心なことは決して言えないもどかしさ。人生で必ず損な立場に回ってしまう要領の悪さ。そういう、深津作品に必ず必要な理不尽な存在である属性を、十全に持ち合わせていたように思う。

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宝塚歌劇星組新人公演「黒豹の如く」

2月24日

 新人公演とは、入団7年目までの若手だけで、本公演と同じ演目を役を替えて上演する、若手の修練と抜擢の機会のための特別な公演。

 柚希の役を入団6年目の礼真琴(れい・まこと)、夢咲の役を5年目の綺咲愛里(きさき・あいり)が演じたが、両名とも新人公演主演の経験や、バウホールや大劇場でも主要な役を演じたことがあるだけに、安定してレベルの高い新人公演となった。

Reimakoto


 礼の課題は、少年っぽさをどれだけ抜け出せるかということだが、新人公演のたびにぐんぐんと声の太さと共に大人っぽい相貌を身につけている。特に今回は、敬愛する柚希の退団ということもあって、細かな癖のようなしぐさまで柚希のありようを踏襲し、礼を見ていることが、柚希を慕う視線をなぞることであるような、不思議な二重性を帯びた。学ぶことは真似ることだというが、礼は柚希を真似ることで、宝塚のスターとして非常に大きなものを得続けてきたのだろう。まだ新人公演は1年あるが、今後の展開が一層楽しみになってきた。

 綺咲も、見た目が愛らしいものだから、大人っぽい女性をいかに演じるかが課題だったが、台詞回しに落ち着きが出てきて、好演だったといえる。歌にも安定感が出てきたし、近いうちにトップに座る逸材だと思わせた。

 脇役で目を引いたのが、アントニオの叔父バンデラス侯爵(本役:英真なおき)の飛河蘭(ひゅうが・らん)。ベテランが演じる、主役を包み込む懐の深さが求められる重要な難役だが、声の深さ、的確な台詞回し、どっしりした佇まいで、舞台をきっちりと締めた。娘役では、アルヴィラ(本役:妃海風)を演じた真彩希帆(まあや・きほ)が、よかった。昨秋花組から異動し、歌のうまい娘役として知られる、まだ3年目の若手。歌もきっちりと聞かせたが、それ以上に、翳りと揺れのある難しい女を魅力的に演じた。

(写真は「産経WEST」から)

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宝塚歌劇星組『黒豹の如く』『Dear DIAMOND!!』

2月17日

 作:柴田侑宏、演出・振付:謝珠栄
 作・演出:藤井大介
主演:柚希礼音、夢咲ねね

Poster

 三拍子(歌、ダンス、演技)も四拍子(+ルックス)もそろった華のある存在で、丸6年という、近年では異例の長期にわたってトップコンビを務めた柚希礼音(ゆずき・れおん)、夢咲ねね(ゆめさき・ねね)の退団公演で、連日多数の立ち見が出、異様なまでの熱気に包まれた公演となった。

 第一次大戦後のスペインを舞台に、「黒豹」の綽名を持つ硬派の海軍大佐アントニオ・デ・オダリス伯爵(柚希)とかつての恋人で今は未亡人となっているカテリーナ(夢咲)が再会したことから、ドラマが始まる。

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 この設定だけで、既に激しい恋が燃え上がることがわかる。この二人の間に流れ横たわるもどかしさがたまらない。そういう、言葉に出せないもどかしさを、この二人は適切に演技で表現できるようになったというのが、退団公演に当たっての深い感懐である。柚希の声の深みは、そのまま思いや歳月の深みとなって胸を打つし、夢咲が出す低めの声は、微妙な揺れを伴って隠した感情を想像させる。今は社会的な地位や立場もあり、離れていた歳月もあって、再会してすぐにベタベタちゃらちゃらするような二人ではないが、随所に垣間見える抑え切れなさが、たまらない。このあたりの演出、演技というのは、心憎いばかりである。

 黒豹アントニオに、資産家の伯爵ビクトル・デ・アラルコン(紅ゆずる)が近づき、ヨーロッパで近年進境著しいある勢力(もちろんナチスを想像させる)が海軍大将に招きたいとの申し出があるのだが、と近づいてくる。彼はまた、カテリーナにも横恋慕し、あらゆる手を尽くして彼女を我が物にしようとする。

 二番手格の紅には、また損な役ではあるが、二番手の悪役というのは、おいしい役ともいわれている。主役とは対照的な色を強く出すことができるからだ。このビクトルという伯爵は、爵位を金で買ったとまではいかないかもしれないが、金に飽かせて無理を通すようなやり方で渡ってきた男なのだろう。以前の紅の役で言えば、『オーシャンズ11』 のテリー・ベネディクトに似ている。その時にも課題であったし、今もそうであり続けているように思われるのが、悪役が悪役なりの懐ろの大きさ、人間的魅力を帯びることができるかどうかという点だ。こういう印象はどうしても主観的な好き嫌いに左右されることが大きいので確かにとは言い難いが、たとえば放り上げたハンカチを掴む時に、取りに行くのではなく落ちてくるのを待つようなことを、ぼくたちは大きさだと見ている。そういうことを紅は、まだできない。だから神経質で器の小さなボスであるように見えてしまう。それでは主役に対峙できないし、彼についていっている者たちの了見も疑われてしまう。

 カディスという、スペイン南部、アンダルシア地方西部の大西洋岸にある小さな町では、スペイン最大といわれている仮装カーニバルが開かれ、そこに皆が集まることになる。その雑踏に乗じてビクトルはアントニオを監禁し、カテリーナを拉致しようとしていたのだろう。しかしアントニオの同期で実はビクトルの動きを内偵していたセバスチャン・デ・ディアス(十輝いりす とき・いりす)の働き等によって現場は混乱、最後はアントニオの愛人だった女優のアルヴィラ(妃海 風 ひなみ・ふう)がアントニオを銃で撃ち、一件落着ということになる。

 ここでも十輝の抑えた演技が秀逸だった。また、次期トップ娘役が決定した妃海は、これまでと違って目を細く描いてクールさを強調し、見違えるほどの個性を出した。歌や演技のうまさには定評があっただけに、見た目にこれほどの幅広さが出てきたことは、トップ就任後に様々な役がついた時の変貌ぶりが俄然楽しみというものだ。

 さて、一件落着のはずなのだが、「アントニオとカテリーナはやっと穏やかに暮らせるようになったと思われたが」というような思わせぶりな影アナの後、アントニオはモロッコ戦線に招集され、あわただしく去っていくことになる。退団に合わせた設定である。娘役も退団するのに、男役だけ一人去っていくという設定であるのは、男役至上の宝塚では不思議ではない。ただ、少し気になるのだが、何度もアントニオは「また戻ってくる」と言う。あまり強調されると、かえってほんの少し、ざわつく。

 そういえば、チラシやポスターに「生まれ変わっても、きっと君を見つけ出す」というコピーがあることもあり、アントニオがモロッコで落命するのではないかという不安が拭いきれず、ぞわぞわする。ただ、このコピーについては、よくよく考えれば、冒頭で大航海時代に活躍して「黒豹」と呼ばれていたアントニオの先祖(柚希)が姫(夢咲)を海賊の手から救出するというシーンがあり、その二人が時を経て生まれ変わってめぐり合って、また困難を乗り越えて結ばれる…という含意だと読めなくはない。

 作者の柴田侑宏は、美しい言語感覚をもって緻密な芝居を作る優れた劇作家だが、時々びっくりするような衝撃的なエンディングを用意する。今回も終盤、えっまさか…と不安になりながら見ていたが、特に悲劇は明示されなかった。こういうのを余韻とするのが、柴田の作劇術なのだろうが、退団公演でもあり、もう少しすっきりと終わらせてほしかったように思う。

 ショー「Dear DIAMOND!!」は、柚希をダイヤモンドのような永遠の輝きを持つトップスターとして称える、退団公演のショーらしい構成。オープニング、安寿ミラ 振付の「リベルタンゴ」をベースにしたスパニッシュのシーンがまず圧倒的。装飾のない黒燕尾は男役の正装といわれ、本当に華のあるスターは、このもっともシンプルな衣裳で光り輝くということから、男役スターの憧れといわれてきた。ダンスの実力も華も兼ね備えた柚希にとっては、最も相応しい幕開けだ。

Deard

 その後は、柚希の懐かしい場面をアレンジして再現したり、コミカルな面を出したり、さながらサヨナラショーのよう。特筆すべきは、柚希の2階席への「乱入」。1階の客席降りというのはよくあるのだが、2階席にトップスターが登場するのは、おそらく空前のこと。ファンを大切にした柚希の思いが染み渡る場面だ。柚希が作詞した、宝塚への思いを込めた新曲も披露され、別れを惜しみつつ、最後もまた黒燕尾で納め、彼女の魅力を再確認するボリュームたっぷりのショーだったといえよう。

 夢咲もまた、大人っぽさ、愛らしさ、おかしさなど、様々な顔を見せて、集大成的な公演にできた。彼女は決して何がうまいとか、器用とか、すごく美人というわけではなかったと思うが、トップ就任前に柚希と主演した『ブエノスアイレスの風』以来、柚希に必死にしがみつくような思いで付いてきて、柚希の相手役として唯一で最高の存在になりえたことが、すばらしかった。彼女の魅力を一つに絞れといわれれば、蠱惑的という他はないが、そのことの持つ幅の広さをすべて開示してくれたように思う。

 他の主だった退団者、音花ゆり、鶴美舞夕、海隼人の見せ場も多く、男役の女姿を楽しむこともでき、行き届いたショーだった。(舞台写真はサンケイスポーツのサイトから)

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鳴海じゅん×毬穂えりな 「Early Spring LIVE」

2月15日

ロイヤルホース(大阪・梅田)

 元宝塚歌劇団で、関西出身の同期生の二人によるライブ。二人とも退団後も着実にライブ活動を続けていて、おそらく歌唱力は現役時代より増していると思う。宝塚やミュージカルの名曲、スタンダード、流行の曲をうまくミックスした、バランスのいいライブで、同期生ならではの息の合ったデュエット、楽しいお話。

 二人の歌は本当にすばらしく、ただ何も考えずに聞き惚れていればよかった。ストレスもノイズも居心地の悪さもない。硬軟、剛柔織り交ぜた表現力が幅広く、それがデュエットで増幅されるものだから、声量や声域のレンジの大きさだけではないボリュームが出ていたのだと思う。

Mariho

 中でも感動的だったのが、毬穂 の涙。『エリザベート』の「私だけに」など、歌詞の内容に沿うように、ここぞというところで涙が光って落ちるのが見える。その集中力と表現力、おそらくは演技力に、クラクラするような興奮を感じるコンサートだった。

 演奏はピアノが佐伯準一、ベースが荒玉哲郎というシンプルな編成だが、非常によくこなれた、すばらしいものだった。

 2月13日生まれの鳴海のためにサプライズのバースデイケーキが用意されていたり、曲順をしかもアンコールの曲と間違えて鳴海が言ってしまったりと、いろいろのハプニングも楽しく、ライブならではの楽しさを満喫した。

(写真は、外谷薫さんのFacebookから)

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「POINT of ORIGIN」Dance Scape 2015

2月15日

アトリエ劇研(京都・下鴨東本町)

監修:山中透(音楽)、シンヤB(ドラマトゥルク)、坂本公成(振付)
振付・楽曲・出演: 伊藤綾、大石咲、日置あつし、山岸 明子、渡邉尚

 POINT of ORIGIN、「原産地」というほどの意味だそうだ。国際的に活躍できるダンサーの育成を目的とした「京都の暑い夏/Dance Scape」プロジェクトで、オーディション選考された5名のダンサーが、作曲、振付を行い制作した作品を発表するもの。約8ヶ月間のクリエイションを経てのショーイングということで、比較的若い世代のダンサーがそろった、興味深い公演となった。

 日置あつしの『ゑみいさな』は、近年日置が取り組んでいる日本的あるいは東洋的身体性をどのように内化し、昇華しうるかということの経過報告のような作品であると思われた。衣裳はもちろん、動きにも能楽や日本の民族舞踊から取り入れたのであろう動きが多々取り入れられ、彼の志向するところ、問題意識の所在はよくわかったように思う。その意味で大変シンプルな構成の作品で、その分身体や顔の表情の潔さが目立って、その意味では気持ちのよい作品だったといえる。

 儀式的な所作、衣裳や被り物の着脱、仮面の扱いも重々しく、それぞれに大きな意味が込められていると思え、好ましいのだが、いささか重過ぎるように思えた。

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 バレエやモダンダンスやコンテンポラリーダンスやという流れの中で、日本人であること、日本であることというのは、大体において疎外されてきたといって過言ではない。バレエやモダンへのアンチとして土方巽ら暗黒舞踏はスタートしたわけだし、バレエやモダンの創作作品の中で出て来る日本的なるものは、伝統芸能を模倣したりなぞったりしたもの、過度に情念的だったり英雄的だったりするものが多く、どこか、重い。

 普通に、軽やかな日本というのは、ないものか。そんなことを考えさせられるという意味で、意義深く、凛としたレベルの高い作品だった。

 大石咲『クウキナサギ』もシンプルな作品。月のような灯りの下(『1Q84』の通り、月が2つ出ているという設定なのかもしれない)、顔にパックのような変工を施したダンサーが横たわり、状態を反らせたり両手を上げて指をひらひらさせたり、脚を上げてV字バランスを取ったりする。あまり動かない。

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 4歳からバレエを始め、新体操を経た26歳ということだから、華麗に激しく動くことはできるのだろうが、それは封印していたようだ。8ヶ月のクリエイション期間を経てこのシンプルさということで、皮肉でもなんでもなく、ここまで削ぎ落とされていったプロセスを知りたいと思った。

 山岸明子『なぞる たどる ひらく』は、なかなか不器用そうな身体に見せかけたところが心憎いところで、かなり意識的に動きと力の関係について無骨に追究した作品ではないかと思われた。タイトルが三つの動詞からなっていることからも、それは窺われる。動くことが、力の点や圧の面の変化であることが、身体上にポインターで示されているような明快さでたどられていたのが面白い。動きの根元に、粘りと内側への強さがあることが強調され、スピードやキレはあえて隠されていたようだ。

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 作品としてはやや長さを感じてしまったが、強調したいことをきっちりと見せるために繰り返しや確認を行うことで、意識的に展開された冗長性だったのかもしれない。これもまた、他のものを見せないということで、シンプルに徹底された作品だったと思う。ただ、せっかくなので、前半と後半で違う相を見せるようなことをしてくれてもよかったなというのは、欲張りなのかもしれない。

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 伊藤綾『botanic』は、動きの要素は決して多くはないが、心拍のような強い音、海藻のように揺れ動く上体の表現力の高さ、眼ざしの効果的な使い方など、しみじみとした時間がゆっくり流れる世界を目指していたのだろうと思う。後半ではシンプルな動きを反復することで、何ごとかが堆積し増幅し、沈殿し醗酵するプロセスを獲得しようとしていたようだ。もっと速く多く繰り返されたら、金森穣の「Last Pie」(振付:黒田育世)のような凄まじさにつながっていったのではないかと思う。

 渡邉尚は、元々ジャグラーとして身体表現をスタートした。その後、コンテンポラリーダンスのカンパニーMonochrome Circusのメンバーとなってからは、当然のことながら道具を使わず、身体だけで立ち向かっているわけだが、今回の『逆さの樹』では、いくつものボールを使って、身体能力の高さとコンセプトの持続力を発揮した。

 亀の産卵のように、白いボールを身体の陰から出したり、背中や腹部に乗せたり、ただ見事というだけではなく、アクロバティックな高い技術の披露に、どこかグロテスクさが漂う。足でつかんだボールを額に乗せたりというのは、常人にはできないすごい技だが、こういってよければ、なぜかある種の奇形性とつながっているようにさえ見えてくる。彼の動きには独特な粘性があって、アクロバティックな動きに当然伴うスリルも持ち合わせているようだ。

Watanabe_2

 ただ、どうもそのスリルに揺れがない。スリルはここでは、技の成否で停止してしまうように思う。高度な技の披露ではあって、それはすばらしいのだが、その興味が表面に留まり、ボールに身体が準じてしまう。これはおそらくほとんど、ジャグリングの要素を作品に取り入れたことによる帰結のように思われるが、では、そういう手法をとりながら、表面的でなく、身体が前面に出てくるということは可能なのか、あるいは不要なことなのか。

 アクロバティックで特異な身体であることを、ある種の奇形性やグロテスクさに結びつけて、存在の闇のようなものを見せてくれたら、というのがぼくの渡邉へのないものねだりだ。(写真は主催者のFacebookページから)

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「ダンス甲東園2014 Gava」

2月14日
西宮市立甲東ホール(甲東園)

構成・振付:高野裕子
出演:新井るか、斉藤綾子、鈴木みかこ、高野裕子  井上繭加、加藤梓、川原美夢、久々成秀司、阪口沙輝子、嶋岡菜緒、鈴木亜由子、鈴木響心、
玉邑浩二、近松路子、ドイミナ、HISA、菱川裕子、藤井琴野、湯澤紗生

Gava


 前回のダンス甲東園で小品や中篇作品を発表して好評だった高野裕子が、年齢・性別を問わず出演ダンサーを公募し、19人でワークショップを重ねて実施した公演。当初は9名程度の予定だったそうだが、5歳から55歳までの19名、そのうちダンス経験者は半分ぐらいだろうか、そうなったことで、この日の舞台への方向性、空気はほぼ決まったのではなかったか。高野はそれを「初めましてのその日から、心踊らされることがある。その人たちのことをもっと知りたいと思ううちに、一緒に手をつないで踊り、それがいつしか振り付けになり、文章になり、写真になり、音楽になり、言葉になり、作品になりました」と書いていて、まさにその通りだったろうと思われる、まずは自然な楽しい公演となった。

 コミュニティダンスと呼ばれるものがある。「地方」の公共施設が主にコンテンポラリー系のダンサーを招いて、地域の人々を集めて未経験者対象のワークショップを開催し、最後にショーイングを行なうという一連の事業であるとされることが多い。健康志向と芸術志向を共に満足させるダンスで、初心者向けとなれば、けっこう希望者も多い。しかも既存のテクニックをなぞるのではない自由な発想や動きが歓迎されるコンテンポラリーダンスでは、他者との言語的ではないコミュニケーションの面白さ、自由に即興的に身体を動かすことの喜び、そのことによる自己発見等々、様々な収穫が得られる。公共施設の利用率が上がり、自主事業としての実績ともなり…といいことづくめのことだと思われる。

 そこで本来の「コミュニティ」への問いかけはどこに行ったのか、どこかのコミュニティでやるからコミュニティダンスだなんていうことはないだろうし、集まってきた人が何回かのワークショップで仲良くなったからそれがコミュニティ形成だというのでもないだろう、と思い、コミュニティダンスの行く末について、実は危惧している。
 一方、実際のところは、それでいいのだとも思っている。本来はとか、そもそもという送り手側の意図などそっちのけで、現場ではたいてい感動的なシーンが完結しているし、ダンサーや個々の参加者にはいい経験となっているようだし。
 
 この公演は、ダンス経験者はそれほど多くはないが、高野より年齢も経験もおそらく知識の蓄積も芸術的な素養も豊かだったり対等だったりするメンバーが多かったと言っていいだろう。そのような多様なメンバーで作り上げられた作品は、やはりワークショップ作品らしくゲーム性や遊戯性に満ちており、全体に作り物ではない幸福感に満ちて、それが客席にまで伝播してきたことが、この公演の最大の美点であったように思う。
 今回の公演の実施に当たって、高野が信頼できる同世代の3人のダンサー(新井るか、斉藤綾子、鈴木みかこ)をあらかじめ別格的なメンバーとして決めていたことが、パフォーマンスのレベルを保証した以上に、大きな役割を果たしたと思われた。この4人のコミュニケーションの柔らかな輪が、内向する閉鎖的なものではなく、外に広がり、外を巻き込むものであったこと、他の参加者が内部での交友関係形成の核になることを許容したこと、つまり高野が、中心になるのではなく、ゆるやかな枠組みになることで、このダンサー集団のコミュニティ生成力が非常に大きなものとなった。

 見方を変えれば、ダンスをしよう、あるいは何かをしよう=それがダンス、という人が集まって、集まってみたら個々がとても魅力的で、それぞれが流動的な中心となって緩やかなコミュニティを再形成するコミュニティになりえたことで、本番においても、観客を巻き込んで新たなコミュニティを生成することができたのではなかったか。

 コミュニティダンスのありうべき姿の一つに、コミュニティとまで大げさに言わないまでも、参加者の関係性を生成する能力を高めること、関係性を深める場をつくること、があると思う。その意味で、この公演は成功していたと思うし、主催者が今後の継続を示唆していたのも、うなずける。

 作品として見た時には、ないものねだりではあるだろうが、その関係性を開放的に提示する場面がほとんどで、もう一面他の方向性での場面を見たかった。また、踊れる人が複数いたので、踊りまくるシーンが見たかったような、いやあまりとってつけたようなことはすべきでないからよかったような。多世代を対象としたワークショップを経たショーイングというのは、どうしてもコンセプトが幼児化する傾向になるのかなとも思わされた。

 何気なくニコニコしているうちに終わっているように見えて、フォーメーションはきっちりとしていたし、箱馬や紐といった小道具の使い方も明快だった。音楽や衣裳の使い方、物語的な要素の挿入も的確で、要するにかなり計算された完璧志向の作品だということが、よくわかった。子供も参加していたので、アクシデントの発生を容認しながら、それでも完成形を描けるというのは、たいしたものだ。

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兵庫県立西宮今津高等学校 「1枚の風景画から 高校生 学びの旅」展

14日 
「1枚の風景画から 高校生 学びの旅」展~昭和42年に描かれた『西宮十六景』からはじまる探求の旅・記録集
西宮市民ギャラリー(香枦園)

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 西宮今津高校の「美術鑑賞研究」の受講者4名、美術担当の浅野吉英先生、その他西宮市の関係機関が協力して、50年以上も前に西宮市ゆかりの錚々たる美術家が西宮の風景16ヶ所を各々の技法で個性を発揮して描いた作品を題材に、生徒たちがその描かれた場所や画家について調べた成果発表で、十六景の原画と高校生が調べたパネルを中心に展示した。また、ふだんの授業で取り組んできたこと、その成果も展示され、その授業が創意工夫を凝らし、充実した成果を挙げていることがよくわかった。
 十六景と画家は、以下のとおり。

石橋繁雄「砲台跡」       伊藤慶之助「甲山」
今竹七郎「西宮インターチェンジ」
大石可久也「武田尾温泉」  大田昇「鷲林寺」
亀井貞雄「酒蔵風景」     亀高文子「満池谷睡蓮池」
河野通紀「阪神パーク夜景」 須田剋太「夙川堤」
谷中茂「北山公園」       津高和一「甲子園球場」
土岐国彦「広田神社」     中田耕嗣「山口盆地」
藤井二郎「蓬莱峡」       松井正「ヨット・ハーバー」
渡辺一郎「西宮神社『山門と練塀』」

 昭和42年、1967年というと、昭和も昭和、いざなぎ景気、東京オリンピックを終え、大阪万博を控えたよき時代である。十六景の中にも、自然の風景や伝統的な文化財に混じって、インターチェンジや阪神パークがあらわれている。平成生まれの高校生にとっては、やっと両親が生まれたかどうかというほどの時代だろう。彼らにとっては、阪神大震災すら、生まれる遥か昔の出来事だ。

 調査の深浅にはばらつきもあり、個々の興味の所在が絵画に重点を置くか題材の風景のほうかというのもいろいろあるように見えたが、見ごたえのあるのは、やはりこの「探求」の「旅」を通じて、人と出会い、交わる機会を得た工程だ。たとえば、松井正(1906-1993)「ヨットハーバー」を担当した山口君は、現地に行ってみると阪神大震災によってヨットは新ヨットハーバーに移ってしまい、大きな橋と埋立地しかなかったのでがっかりしてしまう。お店の人も若者ばかりで当時のことは知らなさそうだ。困って、浜で清掃活動をしているおじいちゃんに尋ねてみたら、「ここは、この絵の場所だとわかり、なんと、すぐ近くに当時からある会社があるという」、と文章が跳ねている。西宮アリーナという会社の現役ヨットマンである諏訪社長に話を聞いて、「僕のワクワクは最高潮に達した。あぁ、これが本当の調べて学ぶということなんだなぁ、と身に染みて感じた。たぶん、僕はこの感覚を、一生忘れない」と。

 このような機会を得て、人と交わることの喜びを知った生徒は幸せだなと思うと同時に、若い生徒が一枚一枚扉を開いて次のステージに上がっていくのを目の当たりにできることの喜びも感じられた。このように、教育の現場を開くことで、思いのほか様々なものや人や情報が集まってくるのではないか。

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「プルートゥ」

2月11日
森ノ宮ピロティホール(大阪・森之宮)

 浦沢直樹 が手塚治虫の「鉄腕アトム」をリメイクした漫画「PLUTO」 初の舞台化、演出は世界的なコンテンポラリーダンスの振付家シディ・ラルビ・シェルカウイ、主演のアトムは森山未來という話題作。煎じ詰めれば愛は人を、世界を救うかというテーマだろうと思うのだが、そこに至るまでにあまりにも多くの悲劇が展開する。 

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 アトムの妹ウランに永作博美、アトムと同じ高性能ロボットの刑事ゲジヒトに寺脇康文、ほか重厚な配役。シェルカウイは、日本人だけのカンパニーと仕事をするのは初めてだったそうで、Bunkamuraの助言もあってのことだろうが、なかなか渋い配役だったのではないだろうか。特にロボット工学の権威でアトムの生みの親・天馬博士とロボット史上初めて人間を殺したロボット「ブラウ1589」の二役を演じた柄本明の深い存在感がすばらしかった。
 
 もちろん原作があり参照情報がたくさんある作品なので、内容について言及することがこの作品への批評になるわけではないが、この時代にイスラム教徒のモロッコ系ベルギー人が「PLUTO」を原作として舞台作品を創るということの問題性の大きさは、強調してもしすぎることはないだろう。

 松重豊演じるペルシア共和国科学省長官・科学者のアブラーは、トラキア合衆国(もちろんアメリカ合衆国を想定)との第39次中央アジア紛争(設定はイラク戦争)で子供を殺された。その恨みと復讐への情熱の大きさは、すさまじいものだ。それが時空の歪みとなってこの劇を成立させているような激しい力を、松重は持っている。こういう強い印象は、松重を初めて舞台で観た「トランス」 以来、変わらない魅力だ。彼の存在を通して、イスラム圏の人々の悲しみと憎しみを間近に熱く感じることができようというものだ。

 最も印象的なキーパーソンであるタイトルロールが、実はメインキャストではないのも面白い。プログラムでは「花畑の男」としか表記されていないダンサーの池島優が演じたプルートゥ。ほとんど話さず、元はサハドという温厚な青年で、花を愛し故郷を愛する心を持ちながら、アブラーによって残忍性をインプットされて、過剰なほどの凶暴性を持ってしまった彼を演じさせるには、俳優の身体ではなく、ダンサーの身体が必要だったのだろう。一つには動きの速度のことで、速さは鋭さとなって、当人の意志の強さや粗暴さを表わしたり、他者を追い詰めたりする圧倒的な力となる。それが最短距離をとれば直線的な攻撃性であり、迂回して最も遠い距離をとれば、ダイナミックでカオティックな乱舞、乱闘の様相を呈する。

 池島はストリートダンスからダンスのキャリアを始め、様々なジャンルのダンスを習得し、シルク・ド・ソレイユ登録ダンサー、コンテンポラリーダンサーとして活躍している。他のダンサーも経歴は様々だが、概ねコンテンポラリーの領域で活躍しているようだ。ここでコンテンポラリーダンスが必要だったのは、未だ名づけられていない不分明な状況そのもの(を表現するというのではなく)であらねばならなかったからだろう。再現的、描写的、比喩的なのではなく、その状態や存在であろうとする時には、身体そのものが自立的な力を持っている必要があり、そういうダンサーが集まっていたということだ。

 もちろん、森山未來が俳優としての演技力と、幼少から始めたダンスによって、その中心でありつつ架橋となる。アトムの悲しみ、感情の揺らぎを表現するには、演技だけでもダンスだけでも不十分なのかもしれない。というのも、アトムはロボットであり、生身の人間としての身体は持っていない存在を演じるということで、身体を相対化・外部化する必要があるだろう。そのための、身体の外側の目を、森山は持っているということではなかったか。

 そして、シェルカウイが様々な世界中の伝統的な身体に興味を持って自分の作品に取り込んでいくのも、常に外部でいながら没頭するというアンビヴァレント(相反した態度や価値観が同時に存在する)なスタンスを保持したいからではなかったかと思う。

 その意味で、ここでは機械的身体と生身の人間身体が並存するという異文化状況(文化と言い切るにはかなりの抵抗があるが)とその包容という構図が存在し、その微妙な差別的関係が深く底に流れている。それは、平田オリザがロボットを演者として起用した『ロボット演劇版 銀河鉄道の夜』 と同根の物語となったといってもよい。

 逆にここではロボットらしいロボット(ロボットであることが注目されてしまうような存在)が現れなかったことで、近未来のロボットと人間のほとんど区別のない親和性と、それゆえの一層の問題の根深さが浮き彫りにされた。

 シェルカウイは、首藤康之と共に『アポクリフ』 という作品の中でも木製の人形を文楽人形のように用いて、哀切きわまる情感を醸し出していた。人形というものが持つ哀感を活かしつつ、人間の悲しみを人形に仮託して押し出すのがうまい。

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黒沢美香&神戸ダンサーズ 「jazzzzzzzzzzzz-dance」

9日
Art Theater dB神戸(神戸・新長田)

構成・演出・振付:黒沢美香
出演=東沙綾、文、伊藤愛、内田結花、川瀬亜衣、
きたまり、北村成美、下村唯、田中幸恵、寺田みさこ、
中間アヤカ、福岡まな実、藤原美加

 黒沢美香は、幼時からモダンダンスを両親に習い、1980年代に渡米、ポスト・モダンダンスの動向を追って、帰国後日本のコンテンポラリーダンスの草分け、中心的存在として活動している大きな存在である。

 モダンダンスは舞踊によって何かを表現するもの(特に感情・心的表現)で、その感情の高まりをもたらすために物語や政治・社会問題を取り上げることも多い。コンテンポ
ラリーダンスはそのような意味性とかテーマ性よりも、身体や動きの価値や魅力を自由かつ多様なコンセプトを駆使して表現しようとするものだといえる。

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 その意味で、この作品は徹底的にコンテンポラリーダンスだったといえる。つまり、徹底的に無意味であると感じられ、観客は身体そのものから発する強い迫力のよう
なものに完璧に打ちのめされたということ。

 それ以上は既に何も語る必要はないのだが、ひたすら尻を振る、奇形を模したかのような奇妙な衣裳(衣裳:山本容子、渡守希)、奇妙な化粧は、ダンサー及び身体の美しさやかっこよさがあるとして、それを押し出し強調するのとは真逆の、かといって醜く見せるというのとも違って、違和感を持たせて、ダンサーの存在そしてダンサーを見る観客の意識を強調し、浮き立たせることに渾身であると思われた。ただ尻を振るだけのことが繰り返されると、観る者もだんだん透明になってきて、尻振りを見ることに長けてくる。やがて、誰某の振り方は左のほうに偏り気味とか、切れがあるとか、背筋の固定が足りないとか、違いがわかってきてしまったりする。これまた意味がない。
 
 強い意志として感じられたのは、動きや動きの流れに意味を持たせないことへの徹底的な固執であり、そのために少なくとも作品の前半は、かなりバラバラで退屈であり、苛立つもののように思えた。しかし、この退屈さ抜きでは、徹底的な無意味さというものは招来されなかった。どこかで一瞬でも意味や脈絡がもたらされたら、無意味さが崩壊してしまう、そういう徹底性だ。完璧な無意味さを作り上げるために一寸の揺るぎも許さない。すさまじいまでの徒労であるともいえる。つまり繰り返しになるが、ぼくたちがここで投げつけられたものは、意味や美しさや物語を抜きにした、単なる徹底的な(純粋な)強さやエネルギーや迫力といったものだ。これによって観客が味わったものを仮に感動と名づけておくことにして、この感動が心地よいものである必要はなかった。

 ダンサーはこの作品をつくる過程で、ある空虚になることを求められ、そこに黒沢のコンセプトや言葉や思いが注ぎ込まれて充溢しただろう。個々のダンサーが一旦空虚になり、再び充溢した身体を舞台に上げる時に、ぼくが見えるのはそれでも空虚だ。

 事実以外の物語や、発揮されるイマジネーションや、観客自らのイリュージョンではなく、ただ目に見えるだけのことでこれだけの迫力を受けるということは、あまり例がない。押し寄せてくる空虚。大量の空虚に攻め寄せられて、それが充溢のように錯覚する数瞬があるが、その後の疲弊は大きい。ただその疲弊は、残らない。すごかったという思いだけが残っている。

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「はじめての日本舞踊」

7日 
兵庫県立芸術文化センター 阪急中ホール

出演:五耀會(西川箕乃助、花柳寿楽、花柳基、藤間蘭黄、山村友五郎)

 日本舞踊界の脂の乗った中堅どころが流派を超えて結成した五耀會が、昨年の第1回公演に続き、初心者を対象として開催した第2回公演。今回は山村若が友五郎を襲名したこともあり、友五郎以外の4人で義太夫「寿式三番叟」、友五郎の地歌 「神楽初」、後半は「セビリャの理髪師」 の筋書きをもとに蘭黄が作った創作長唄 「徒用心」という、サービス満点の公演。

 ここ数年、文化庁芸術祭の仕事を拝命しているので、門外漢だと言い訳をしながらも毎秋数本の日本舞踊の公演を見せてもらう。それの役に立つかと思って、NHKの「にっぽんの芸能」なども見て、日本舞踊の現在のレベルを一応把握しておこうと努めてはいる。華やかかどうかということは感じ取れるし、巧拙も玄人の見方はわからないとはいえ、ピンとしてるとか、滑らかだとかいうようなことぐらいはわかるように思っている。率直に言うと、同じ演目をやっても、歌舞伎役者と日本舞踊のお師匠さんでは向きが違っているように思う。日本舞踊においては、まず流派の流儀義、型の伝承ということが主眼となるようで、歌舞伎役者においては、自分の持ち味によって観客に見せることが眼目となるだろう。ざっくばらんに言えば、お客さんに向かって開いているか、そうでないかということ。

 その意味で、「鑑賞対象としての「日本舞踊」」を強調する五耀會は、日本舞踊を初心者、一般の人が鑑賞することを前提とした公演を行なっている数少ない舞踊家たちの集まりだ。

 桂吉坊をナビゲーターに置いたり、山村友五郎が「神楽初」の前に幕前で作品について語ったりしたのはその試みの表れだし、何より「徒用心」という作品が、面白くてわかりやすく、一般の人にも理解しやすく楽しめることを目指して創られたものと言えるだろう。

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 「徒用心」は、若い二人の恋路を邪魔する男の策略を軽い機転でかわすコミカルな部分で笑いを誘うのはもちろんだが、場面のメインの出演者以外の舞踊家が、背景や大道具の役割で枝になったり鳥になったりするのがユニークで面白く、またその所作のいちいちの美しさに改めて目を瞠った。原作の設定の置き換え、詞章の滑らかさ、キャラクター設定の巧みさなど、蘭黄自身がパンフレットに「洗練された馬鹿馬鹿しさ」と書いているように、コミカルで他愛もない筋書きを、日本舞踊の洗練された美しさで演じ踊り通すことの真剣な姿が、なおのこと美しく感じられた。特にトリックスター的な理髪師フィガロを髪結彦郎として演じた、花柳基の軽みのある達者な居ずまいがすばらしいと思えた。

 一般の人に広く親しんでもらおうとする時に、どうしても喜劇性を強調し、そのおかしさが舞台の上でのノリもあって増幅され、上品さから逸脱するかのぎりぎりで留まる呼吸がきわどくスリリングだ。このおかしさから、前半の三番叟や地歌をきっちりと楽しめるようになる通路を拓くことが、観客に求められているのだろうと思う。それができないことには、日本舞踊は内向きで完結する同好の士の集まりを出ず、衰退の一途を早めるばかりということになってしまう。コンテンポラリーダンスにとっても他人事ではないが。

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フェルディナント・ホドラー展

2月6日
兵庫県立美術館 

 実は、40年前に京都市美術館で開催された回顧展を観ている。向かいの京都国立近代美術館ではポール・デルヴォー 展が開かれていたという記憶がある。中学生だったぼくには、当然裸体の女性が林立しているデルヴォーのほうが刺激が大きく、印象にも強く残っているはずなのだが、デルヴォーの印象が起伏のないのっぺりとした平面のようで、すべての作品が同じトーンであるのに対して、ホドラー に対しては、その凹凸やドラマの激しい人生、特に彼の身の回りに絶えることがなかった死の影に強く引かれたことも、確かだ。20歳年下の妻(結婚はしていなかった模様)ヴァランティーヌが病み衰えていく様を克明に描き、40歳の死の床まで描き続けた眼ざし、初期の作品に窺われる生命の不在感など、深い泉の魔物に引き込まれるように魅せられていた。40年たって感受性がずいぶん鈍ったであろうこと、ダンスというものに関わるようになったことで、今回ホドラーとダンスの関係について、非常に興味深く観ることができたのが、大きな収穫だった。

 時代を通観すると、ファッション界においては、1906年にポール・ポワレ がハイ・ウェストのドレス「ローラ・モンテス」を発表、ウェストをきつく締めつけてきたコルセットから女性を解放した。相前後して、イサドラ・ダンカン らによるモダンダンスが始まっていた。バレエとは異なる自由な表現としての身体運動、女性による自立的な身体表現が注目され始めた時期。この頃、ホドラーの描く女性も柔らかな大らかさを獲得する。

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 本展のサブタイトルが “Towards Rhythmic Images” (律動的なイメージのほうへ)となっており、ダンサー、人が踊っている様子を描いた作品が多く、リトミックの提唱者だったダルクローズ との交遊が強調されるなど、ホドラー像を死や夜のイメージから引き剥がし、リズム、躍動、ダンスの視点から捉え直そうというコンセプトが明快だったように思う。兵庫展のチラシ「恍惚とした女」(1911)はダンサーが踊りながら恍惚の境地に入る表情を描こうとしたものだったし、東京展のチラシは「ミューレンから見たユンクフラウ」(下、1911)で、峻厳な山容をリズミカルに描いたと評価されている名作である。

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 そういうことになると今度は、リズムを描くとはどういうことか、ダンスを描くということはどういうことか、ということを考えさせられる。「恍惚とした女」は明らかにダンスの1シーンを切り取った写真的なフォルムで、ある動きの過程であることを感じさせるが、「オイリュトミー」や「昼」連作(「昼Ⅲ」)は、ポーズを描いてはいるが、そこにリズムがあるといえるのだろうか。静止した平面である絵画に、リズムは可能なのだろうか。 

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 ホドラーにおいて運動は、パラレリズム(平行主義)と名づけた反復が醸し出すリズム、象徴主義からの延長上であると思われる背景の植物の浮き上がるような不思議なフォルムによって、表現されているようだ。また、改めて「昼Ⅲ」を見ると、静止したポーズであると見るよりは、特に左の女性についてだが、日本風に言えば正座から横座りへの動きの流れの一瞬と捉えることも可能で、そう見ることによって「恍惚とした女」と同じく、ここに描かれていない、直前または直後の形が見えてくる。「恍惚とした女」と対になる「悦ばしき女」(1910頃)は後ろ姿を描いたものだが、ヴァランティーヌをモデルに、太ももから背中の線が非常にしっかりとしており、生命感にあふれていて、直前の動きのスピードがはっきりとわかるように思う。 

 ステレオタイプな締め方になるが、死の影に満ちた暗鬱な思考を外化し表現するための通路となったのが象徴主義的技法であり、その暗鬱をフォルムによって支えたのがパラレリズムという「型」の発見と獲得であり、ダンスという身体の躍動であったと思えば、絵画表現に連なる一連の芸術行為がこの人の生を支えたことは間違いないだろう。それにしても、やはり晩年になって人生の帳尻を合わせられるように、愛する女性が死んでゆく。それを描く。起伏の大きな、激しい人生だったことに嘆息しつつ
曲線と柔らかい色彩に再び魅せられる。

図版参照:http://www.fashion-press.net/news/10851

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さなぎダンス#6

1月31日・2月1日

メタモルホール(大阪・東淀川)
出演:植木智+下村雅哉(劇団態変)、斉藤綾子、足一

 身体障害者の表現集団である劇団態変の本拠、メタモルホールで、2012年7月からスタートした、上念が企画するダンス公演。近畿大学文芸学部舞台芸術専攻の卒業生によるユニット足一(たすいち)による「緩やかに死んでいく為の方法論」、大阪芸術大学舞踊コース卒業の斉藤綾子による「Alice in Wonderland」、劇団態変のメンバーで脳性まひの植木智と下村雅哉による「闇夜の狩」の三作が並んだ。(順に写真。撮影は上念)

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 詳細は、同劇団の機関誌「イマージュ」に書いた公演評に譲るが、植木+下村が暴力を、斉藤が閉塞状態からの出発を予感させる姿を、足一が老人の末期的でやや滑稽な拘泥を主題にしていたのが、奇しくも激しい現代性を反映しており、現在を生きる若いダンサーたちの世界を見る眼の確かさを思い、コンテンポラリーダンスと時代との即離を考えることになる。

 コンテンポラリーという言葉については、「現代」「同時代」であるという以上に、temporary(暫定的、臨時の)という負のニュアンスを含んでいて、コンテンポラリーであろうとすることは、その宙ぶらりんな状態をあえて引き受けるのだという覚悟のようなものがあると、たびたび論じてきた。現在の尖端を認めるということは、そういう危うさを必ず含んでいる。
ダンスは(ダンスだけではないが)、言葉で表わせないものを表わそうと、あるいは表わさないでおこうとする。言語が日常的には意味や指示対象を限定する方向性を持っているのに対し、芸術や芸術的言語は、特に同時代において、対象の多義性をそのまま反映しようとして、意味を複雑に多重化し、指示対象を複数化し、対象が意味や形態の流動性を帯びるのに応じて、多様で曖昧であろうとする。それがコンテンポラリーダンスの、そして現代芸術の難解さであって、一見つかみどころのない茫洋とした様であったり、必要以上に複雑化しているように見えたりするわけだが、ぼくたちはいわばそれに耐え続けてきている。
それが、対象となる直接的なテーマを持たない、微温的な現代日本の現代芸術であると思っていたのだが、どうもおそらく現在の状況は、あまり微温的ではない。そんなことを思わされて、3つの作品は全く関係がないにもかかわらず、緩やかな連作のようにも思われたのだった。

 この企画を言い表すために、「障がいを持った身体/持たない身体が、等価にしのぎを削る、稀有な空間として、回を重ねるごとに、大きく変態(メタモルフォーゼ)を遂げるでしょう」という言葉を使っている。第1回目には態変からの参加者がいなかったが、2回目で態変から身体に障害を持った表現者が1組加わり、大雑把にいって、バレエ経験の豊かな1組と、大学等で初めてダンスというものにふれたというような1組の計3組によるショーケース公演になっている。

 この公演を観に来たダンス関係者からよく言われるのだが、「「さなぎダンス」に出るのは、他の公演に出るのとは違う、何かが要りますね」ということはあるだろう。おそらくは覚悟のようなもの。それは障害を持たない身体にとっては、土方巽 が「五体が満足でありながら、しかも、不具者でありたい、いっそのこと俺は不具者に生れついていた方が良かったのだ、という願いを持つようになりますと、ようやく舞踏の第一歩が始まります」という舞踏観、身体観に隣接させられ、投地させられる地点に身を置くということだ。そしてもちろん、そのような身体の状態が、願いでも憧れでもなく淡々と日常的であるのが、態変メンバ
ーである。まず彼らの日常性に対峙するために、健常者的身体は、文字通りもがくことになる。

 ぼくはよく、優れたダンスに対して「のっぴきならない」という言葉を使う。退くも引くも(のく・ひく→のっぴき)できない状況に追いやられ、切羽詰まってどうしてもそうせざるを得ない/そうあらざるを得ない状態。進退窮まった選択肢の最後の一つ。「こうも動ける」「ああも動ける」でなくて、「こうしか動けない」という状態まで絞り込むことで滲み出る鋭さや速度や前のめり感。
 
 態変のメンバーにとって、障害を抱えた身体が「わが身」であるから、土方巽が述懐するような「願い」という外的な状態ではない。その障害の特徴や程度に応じてできることをし、できないことは外部化する。程度の差はあれ、健常者と変わらないとも言える。しかし、身体表現の舞台となればそうとばかりはいかない。そこに障害の身体という日常を越えようとする激越な表われが発する。おそらくそこには、「障害者」としての社会的困難が重ね合わされて、あるいは観る者が重ね合わせて、表現の方向が深く斜めに鋭くなる。

 そのような態変的身体と並列されることで、障害なく動くことがコンプレックスに思われるほど、健常者ダンサーののっぴきならなさは増幅され、それが態変のダンサーに跳ね返り、障害者としてのプライドが負けん気を帯びて激化する。

 そのような激越なサイクルに、出演者の多くが耐え、応えて、従前の自分自身の枠を超え出るような舞台を展開してきたのが、この「さなぎダンス」だったと思う。この並列を続けて数回、化学反応のように出演者の身体が激越化し、透明化する。それが現代日本の微温性を越え、主題がどのようなものであろうが、のっぴきならず世界の本質に切込み続けることになっているのではないかと思う。

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