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2015年3月28日 (土)

桃園会「うちやまつり」「paradise lost, lost」

2月18日
「うちやまつり」 演出:空ノ驛舎
2月19日
「paradise lost, lost」 演出:清水友陽

作:深津篤史
アイホール(伊丹)

 昨年7月31日に46歳で亡くなった劇作家、深津篤史の旧作の連続上演。1997年初演の「うちやまつり」は、岸田國士戯曲賞を受賞した、深津の代表作とされているもので、「paradise lost, lost」は2005年初演で、その6年後の後日譚。

Toenkai


 5年前に肺小細胞がんの告知を受けて以来、活動はますます旺盛で意欲的で挑戦的となり、演出も合わせると20本もの作品を手がけた。尋常ではない。亡くなる1ヶ月前に大阪のウイングフィールドで上演した『覚めてる間は夢を見ない』(桃園会)が、最後の作品になった。車椅子に乗り痩せ細った姿で劇場に顔を見せていた。鬼気迫る姿に気圧されてだったか、目礼だけ交わして、声をかけなかったのが悔やまれるが、余計な体力を使わせずに済んで、よかったかもしれない。

 「うちやまつり」の登場人物は、関西のとあるベッドタウンの団地の空き地のような場所に出入りする団地の住人やその知人。会話の端々から、この団地で連続殺人事件があって、その被疑者だった青年が今もここに住んでいることがわかってくる。この「わかってくる」過程の揺らぎ、その速度の緩やかなほぐされ方が、深津の芝居の醍醐味である。正月休みという空白のような時間の中、何ものという性格を持たない空き地で交わされる人々の会話から、オブラートにくるまれたエゴ、殺人という行為とセックスという行為が重ね合わせて女の子と人妻からそれぞれに語られることの、居心地の悪いエロティシズム。被疑者だった青年に向けられる、遠回しで遠慮がちな、しかし芯の硬い警戒心と疑いの眼ざし。…閉じられた団地という空間でもつれる、一見淡々としながら濃密に絡み合う関係の糸が、サスペンスドラマ風な興奮を、しかし低い温度で紡いでいく会話劇である。

「paradise lost, lost」(下写真は初演)では、その団地は取り壊されており、その跡地を見渡すことができる喫茶店が舞台となっている。連続殺人事件は未解決のままかなり風化し、それを知らない住人も増えている。冒頭、その喫茶店に黄色と黒の大きな的のようなペンキの落書きがされていたことがわかる。

 初演時は8年の間が空いての上演だったから、「うちやまつり」もかなりおぼろげになってしまっていたが、今回は連続上演だから、両者の連続性をきっちりとわかって、それぞれの輪郭があらわに生々しくつかむことができ、非常に面白かった。

 たとえば、黄色と黒の的についても、初演当時はそれを「うちやまつり」で団地の各階に吊り下げられていた、カラス除けの目玉風船を表わしていることなどわかっていなかっただろう。そのようなことをおぼろげにでも思い出すためには、8年という歳月はちょっと長すぎた。

 が、日を置かずに観ることで、6年前の出来事であったはずの記憶が妙に生々しく、鮮やか過ぎることでの戸惑いもありえた。出来事の記憶の鮮やかさが不自然で、おぼろげな記憶の薄皮を何枚も剥いで行くような作業が必要なく、こしらえられた演劇のようでありすぎたのだ。深津作品らしくない(笑)。

 その手の深津らしくなさは、演出においても感じられたように思う。「paradise…」を演出した清水友陽 は、アイホールがセッティングした対談 で「『paradise lost,lost』は、最初に読ませていただいたときは、「ちょっとわかんない」って思いました(笑)。このわからないものをわからないままやってみたら、何か見えてくるかなという気がしたんですけれども、未だにわからないです(苦笑)。」と述べている。「うちやまつり」でも同じだったろうが、ぼくらの愛した深津劇のわからなさについて、それを深津でない者が演出するとなると、何とか説明可能なものにしなければならなかっただろう。おそらくそのために、妙に輪郭のはっきりした、筋道の取った芝居になってしまったような感覚があった。

Paradise


 かといって、空ノ驛舎が少々露悪的に発言していた、「『うちやまつり』をエンターテインメント作品にしたいんです。ドラマチックにつくろうと思っています。…作品が本来持っている、人間の暗部が立ち上がるような劇構造を大事に残しながら、観終わった後、お客様が上質なミステリー小説を読み終えた時のような気持ちになればいいかなと思っております。」という意図にもかかわらず、単純な犯人探しのサスペンスドラマに終わるような単純性には収束しない。「人間の暗部が立ち上がるような劇構造」と呼ばれているものが、やはり相当強固なのだろう。

 これは、深津作品が再演されるに際して、しばらくは問題になるかもしれない。深津自らは自作であるから責任を持って曖昧なわからなさのまま放置していた劇の核のようなものが、今後はそのままにされることがなくなってしまうのではないか。そのことで、今後の深津作品上演が、緩やかに変容して、ある種の明快さの中に解消されていくのだろうという不安と期待。

 役者では、「うちやまつり」で被疑者だった青年「鈴木さんの息子さん」を演じた橋本健司がすばらしかった。曖昧な居心地の悪さ。肝心なことは決して言えないもどかしさ。人生で必ず損な立場に回ってしまう要領の悪さ。そういう、深津作品に必ず必要な理不尽な存在である属性を、十全に持ち合わせていたように思う。

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