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2015年5月 9日 (土)

フレンテ・ダンス・ジュエルズ#3「ベンセレモス~サイトウマコトの世界」

3月12・13日


構成・振付:サイトウマコト

出演:北原真紀、斉藤綾子、佐々木麻帆、関典子、田近千晶、長尾奈美、中津文花、
   針間恭子、増田律夢、宮崎安奈、吉見英里

フレンテホール(西宮市)

 コンテンポラリーダンスが、なんでもありの多様性とバレエのデコンストラクションという大きな振幅の中で、自らを定位できない昏迷から、なかなか抜け出せないまま、誤解されたコミュニティ・ダンスという名の社会体育活動や中学校の体育教科男女必修化に吸収され、生涯学習と教育現場という有用性に他律的に意味づけられ、健康志向と仲間づくりに埋没する危機にさらされていることは、あまり意識されていないのではないか。

 そんな危機感の中、この公演は、バレエにルーツを置いたダンサーを多用しながら、ダンスの身体が持つ多様な動きの美しさを余すところなく見せ、そこから鋭い緊張感・切迫感を生じさせ、その感覚を前提として強いテーマを設定することができ、それがまた作品の空気にピンと張りを与えるという、理想的なサイクルを描いていたように思われる。身体そのものの魅力、振付の面白み、テーマの深み、照明や音楽の的確さなど、舞台芸術を構成する様々な要素が絡み合って、批判精神に満ちた、明確で密度の高い公演となった。

 様々な意味で深く関わった公演なので、なかなか冷静には語りにくいが、数人によるスピードのあるシェネ(素早く連続で回転しながら、直線や円を描くように移動する動作)、斜めのラインを強調したフォーメーションなどから、特に理由のない痛切さが極まった。

 第一部は小品のメドレー形式で3作、それに「鞄女」がつくという構成、第二部は「Abandoned City~忘れ去られた町」として、世界で廃墟となっていたり大きな事件があったりした町をテーマにしたHauschkaというドイツのミュージシャンのアルバムから構成した小品群に、「In My Room」(2013)、「Venceremos」(1990)の旧作を組み合わせて一つの連作としたもの。

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 第一部は、女性のソロ~群舞、男性ソロ、男女デュエットというシンプルな構成が効いた。斉藤dance工房のベテラン・ダンサーで、ジャズダンスを中心にピラティス・トレーナーとしても活躍している針間恭子は、「Yesterday」(2014)で、柔らかな緊張感を醸し出し、作品冒頭における空間の定位をよく果たした。続く「Eleanor Rigby」(1992)は、顔見世的な位置でもあり、このカンパニーの実力のほどを知らしめる役割をもった作品であった以上に、身寄りのない老女と、誰からも相手にされない神父の悲劇的な物語という主題をほのめかせ、この公演全体のトーンを予見する役割も果たしえた。つまり、ダンサーたちには、ここで既に、表現力以上の、何ごとかの到来を予見させる、時間を先取りするほどの力があったといっていい。

Yamasita06 続く森恵寿の「The Rain」(新作)は、森の存在感、禁欲的に鍛えられた身体に、サイトウ言うところの古風な振付を施すことで、マッチョで外向的な見かけとは裏腹に、内向する強さが感じられた。技や身体のおおらかな披瀝であると見せかけて、そこにやや屈折があるように思われたのは、キャリアに伴う様々な豊かさのせいだろう。


 関典子とサイトウマコトによる「鞄女」は、男が運び込んできた鞄から腕がニョッキリと現れてくるという衝撃の大きさは別として、ストーリー的に多様な解釈ができる面白い作品だ。今回は後半をやや縮めてエンディングがシンプルになった分、提示や解釈の幅が広がっている。今回の再演に当たって、サイトウは自分の運動量を減らしたというようなことを言っていたが、かえって一つひとつの動きが印象的になって効果が高まっている。様々な作品で共演を重ねて、サイトウと関が男女であるより表裏のように不可分の関係を構築しているのが、絶品だ。

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 なお、この作品は、2007年1月の「ダンスの時間」10の中で、椙本雅子(CRUSTACEA)とサイトウによって初演、2011年2月の「ダンスの時間」30で関典子との組合せにより再演された。

 第二部は、群舞とソロやデュエットとのコントラストに翻弄されていると、あっという間に福島の民謡「会津磐梯山」が流れ、「Venceremos」の昂揚になだれ込む、という構成になっている。

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 これは結局どういうことかというと、一つひとつのシーンに比較的には小さいながらもきちんとピークがあって、それが回収されることなく連続される。そのピークによって塞き上げられた思いが、行き場を失って個々の中に堆積している。その一つの切れ目が、「In My Room~FUKUSHIMA」の無音である。何ごとかの後か前であるような無音に、焦れる。カセットテープをサイトウがくわえて立ち、そのテープを北原真紀が引っ張り出すといった簡単な喩が仕込まれ、「会津磐梯山」が流れると、無音とは異なる高い緊張感が走り、突然北原が折れる。そういう動きをし、他のダンサーも同調する。

 この現実的な「折-断」または「折-続」の意味は大きい。ここまで、テーマに沿って、シリアスで前のめりで高度なテクニックや美しさを開示するような動きが展開されてきて、ある均一な空気を作り出してきたところへ、ポンと日本が放り込まれたかと思うと、ピンと張ってきた空気が断ち切られる。そこに観客の思いが吸い込まれ、観客の心が真空状態になる。日本の旋律とリズムに、福島という思いに、どう抗いようもなく引き込まれて艶を増していく身体が、舞台にも客席にもある。その後は、観客はもちろん、ダンサーたちも絶え間なく寄せ来る波に呑み込まれるように、「Venceremos」へと収斂していく。

 この公演で展開されたのは、まずは、ある物語の枠組みを借りることで、抽象操作の自由度が増した身体の輝きそのものである。その上で、音楽に強くインスパイヤされた、動きの艶や肌理、速度や傾きといったダンスする身体の表面そのものであって、その刹那性がダンスを観ることの醍醐味であると、改めて確認することができた。

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 なお、フレンテホールの通常の舞台は奥行きが浅く、ダンスのエリアとしてはやや狭いことから、移動客席を出さずにフロアにリノリウムを敷いてアクティングエリアとし、舞台側に平台を並べる等して客席を組むという、変則的な会場設定とした。音響や照明の大胆な工夫もあって、コンテンポラリーダンスに相応しい空間に仕上がったように思われ、今後の可能性が広がった。

(写真:山下一夫)

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