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2015年5月

2015年5月 9日 (土)

Site Specific Dance Performance #4

3月29日

【ギター演奏】 原大介

【Circuit】 岡元ひかる

【鞄女】 サイトウマコト×関典子

兵庫県立美術館 円形劇場

Ssd4


 普段はコンクリート打ちっぱなしの円形劇場を、向井修二がその「記号アート」で埋めて、インスタレーションとして完成させたのが昨年の11月9日。これ自体がサイト・スペシフィックな3月までの時限作品の最後を飾る形で第一部を開催し、第二部は館内ミュージアムホールで開催された。所用のため第一部しか観れなかったが、まさにサイト・スペシフィックな、面白い公演となった。

 「鞄女」は、半月前にフレンテホールで上演されたのと同じ、やや短いヴァージョン。フレンテホールとは違って、白昼の下のすり鉢状の空間で、その向こう側には運河のような水面が広がっている。その間は通路となっていて、日常が貫入している。

 結果的に、本来この作品が意図していた、街中でひそかに遂行される犯罪状態すれすれの危うい無垢な関係が、まさに白昼の下で展開する、スリリングな作品となった。この作品を「ダンスの時間」で再演した時、サイトウが関を鞄に詰めたまま天王寺の街に出て、写真を撮り、それを上演前に流そうかと企んだことがあった。その時のスリルと少し似ていた。劇場の中で行われる以上は、究極では規制があるとはいえ、ほとんどのことは大丈夫だ。でも、それを街路に持ち出すとなると、事情は変わってくる。さかのぼれば寺山修司が企んだのがそういうことだったろうし、アングラと呼ばれる多くの演劇が試みたのもそれに通じることだったのだろう。

 今回は、一応美術館の中の芸術行為としてしつらえられた時間ではあるが、この場所は美術館の中でも外部でもある二重性を持っている。実際のところ、上演中に通路をお父さんと女の子や自転車の男子中学生数人組みが通りかかり、多くはすぐに通り過ぎるのではなく、しばらく足を止め、目に留め、どう言えばいいのか、見させられていた。

 考えてみれば、この作品には、そのような形で出会いたかった。阿倍野の地図に書かれていないようなややこしい細道を出るとお稲荷さんとラブホテルが並んでいるような街路があって、そこで大きな鞄の中から出ようとしている女性に手を焼いている、高倉健似の中年男性を、通りすがりに目撃したかった。しかもこのリハーサルは、大雨の中行われたらしい。なんという劇性。作品の終わりには、サイトウが関を海に捨てるのではないか、関が身を投げるのではないか、いやサイトウが柵から両手をポケットに突っ込んだまま後ろ向きに転落するのではないか…等々の惨劇が予想された。

 生きている人間を鞄に入れて持ち運ぶことは、犯罪ではないだろう。女性は全裸ではないから公然猥褻にも当たらない。理屈で行けば犯罪ではないだろうに、この強烈な犯罪臭はなんだろう? その犯罪臭が、白日の下で漂うことによって、作品の内部と外部に激しいコントラストが生まれる。

 作品の内部とは、劇場空間という壁に囲まれた内外ではないということが、このことによって明らかになる。思えば、サイトウマコトの作品には、多くの場合強い内部性あるいは内向性を持っているということなのだ。それは外部を排斥するのではなく、外部を内部化する引力を持っているということだ。それが観客を内部化する作品の強度であるわけだ。

 岡元は、強い筋力で身体のありえないようなバランスを保持することができ、それを逆手に取ったオフバランスによるスリルを体現することができる優れたダンサーだ。主題の読み込みも深く、説得力の高いコンセプトを繰り出して、作品も厚みを持つ。この作品については、もう少し引き算的な手法によって、見せないことで想像させる余地があってもよかったように思う。

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iSバレエ「四季」

3月28日

兵庫県立芸術文化センター 阪急中ホール(西宮市)

 西宮市を本拠に長年活動を続けている泉ポール、下森瑞の泉・下森バレエ団による公演。

 第一部はすべてソロ。前半は生徒によるおさらい会の体で、フロリナ王女、スワニルダ、金平糖をそれぞれ何人も踊るのが続き、後半に創作作品をはじめとした指導者格、ゲスト格のダンサーが出てくるというもの。前半では行元陽奈子の金平糖のヴァリエーション、川上明日那のスワニルダのヴァリエーションがチャーミングだった(共に小学生らしい)。

 後半では、小林望のキトリのヴァリエーションが軽やかで目を引き、小林遥(ヨーコ・ダンス・ヴィレッジ)の創作「Circle」がスピードと切れがあり、振りの背景となる思いや筋の立て方がきっちりとして、気持ちのいい作品に仕上がっていた。

 嵯峨根結実(今岡頌子・加藤きよ子ダンススペース)の「恍惚の空」は、河邊こずえの振付。濃厚で深刻な重さを持っており、柔らかく滑らかな動きと、きつい決めのコントラストが鮮やかな、輪郭のはっきりした作品だった。

 バレエミストレスでもある大久保彩香の「Que he o Que Vejo」は、泉ポールの振付で、無音から宗教曲らしいオルガン曲が入る印象的な構成で、大久保の洗練された動きの組合せを堪能することができた。

 第二部は泉、下森の構成・演出・振付による「四季」全曲(作曲:アントニオ・ヴィヴァルディ)で、十数年前の作品の再演だそうだ。

 バレエの発表会でよく見られる、おチビちゃんの愛らしいシーンもたっぷりと用意され、技術と抒情のバランスのよく取れた、見やすく好ましい作品だった。

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「村川拓也×和田ながら×punto」

3月28日

『肩甲骨と鎖骨』
 演出:和田ながら(したため)
 出演:穐月萌、高木貴久恵、田辺泰信

『終わり』
 演出:村川拓也
 出演:倉田翠、松尾恵美

Gallery Punto(京都市南区)

 2011年に国民文化祭のフリンジ企画として開催した「すごいダンスin府庁」が、府庁旧本館正庁の改修等もあって、使用交渉がうまくまとまらず、実行委員長の倉田翠が苦心の末に、会場を変えて実施するに至った公演で、「すごいダンス」と大きく謳ってはいないが、立ち上げのエネルギーが反転の形にせよ続いているのは、最初関わっていた者として、うれしい。

 倉田自身ダンサーとして、「ダンス」という言葉に対して、逆にダンスでなくてもよい、という思いがあるのかもしれない。演劇でもダンスでもいいから好きなことをやってもらおうということで集まった作品が、この二つだったようだ。結果的に京都造形芸術大学卒の若手による作品が並んだが、意図してのことではないという。「ダンスでなくてもよい」と提示することによって、かえって「ダンスではないかもしれないけれども」という微妙なスタンスが出来上がって、流行りの(?)「ダンス的演劇」とか「演劇的ダンス」とかいうのとは一味違う、双方が見せ消しされたように消去強調された、空白的な舞台が出来上がっていたように思う。

 「肩甲骨と鎖骨」は、窓から見える家並みの窓の数を数える作業をモチーフに、その反復を労働と捉える仮説から、「~を覚えています」という記憶という行為に焦点を絞った、詩的な、いわゆるサイト・スペシフィックな演劇作品。といっても、3人の演者が相互にコミュニケーションをとる場面はほとんどなく、朗読のように独白で展開するのが、奇妙な浮遊感を漂わせる。それは孤独というわけではないが、平凡な物言いをすると、都市の中で人々が別々に暮らしていることの詩的な造形として、非常に的確だったと思う。

 会場の大きな窓を効果的に使うことで、独白というものの持つ開放性と、距離と時間による消尽=受け止められないまま流れていく…という性質が浮かび上がって、孤立感が強調されたようだ。

 「終わり」は、元・地点の演出家、映像作家である村川の演出による、2作目となる舞踊作品。蹴る、叩くという暴力という形の負荷を身体に与えることによって、雰囲気、感情、表情を作っていくという、一般的な表現とは逆転したプロセスによって、痛覚をはじめとする直接的な刺激を、同時にダンサーと観客に与えることに成功していたといえるだろう。

 倉田が松尾に何度も蹴られ、自ら頬を何度も何度も平手で打ち続けるのを観ていて、素で心配になるわけだが、そのリアリティを演劇や、振付といった他の手法で代替しようとしたら、どのように可能であるかを考えてみると面白い。というか、かなり絶望的になる。ぼくたちは、そのもの自体以外の方法で、それに辿り着くことはできるのだろうか? 演劇人である村川と、ダンサーである倉田、松尾が出会うことで、演劇でもダンスでも味わったことがないような感覚に襲われたというのが、この作品の意義に他ならない。

 いわゆるダンス的な喜びも用意されているのだが、この期に及んでダンスするということは一体どういうことなのか、を問われるために提示されたとしか思えないような、真空の重さをもって現れる。倉田や松尾のいわゆる「よく踊る身体」が、マグリットさながら、「これはダンスではない」(?)と語るために動員されているようであるのが、痛く快い(痛快な)作品だった。

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野田地図『エッグ』

3月26日

作・演出:野田秀樹
出演:妻夫木聡、深津絵里、仲村トオル、秋山菜津子、大倉孝二、藤井隆、
   野田秀樹、橋爪功 ほか
音楽:椎名林檎

シアターBRAVA!(大阪市中央区)

 東京オリンピックといわれて、「いつの?」と尋ねるとき、解答の可能性が3つある。1940年の幻の東京オリンピック、1964年のそれ、そして初演(2012年9月)時には決まっていなかった(2013年9月に決定)、2020年の。

 この2つあるいは3つの時代の日本あるいは東京について考えてみるだけで十分面白いのだが、そこに満州という外地を置くことによって、時間に続いて空間を複層化させるのが、さすがに鮮やかな手つきだ。エッグという奇妙でほとんどナンセンスなニュースポーツと、戦時下の外地(満州)における軍による人体実験が重ね合わせられ、野田作品らしく複数の(もう一つの)世界が潰れていくという印象の、救いのない作品。

 野田作品でもあり、再演でもあり、ぼくなどがコメントする必要もないように思えるので、短く済ませたいが、このエッグというゲームのイケてなさぶりが、この劇の速度を鈍らせ、その鈍さがこの劇の魅力になっているように思える。よくわからないというよりも、このスポーツと人体実験の何事かとのアナロジーという無理筋に、ついていくことさえ疲労してしまったが、これらのひしゃげ方そのものが、野田の現在への表現なのではないかとさえ思う。

 おそらく、ポスト1995(阪神大震災よりも地下鉄サリンにおいて)、そして加速度はポスト2011に絶望的に強まり、2012年の初演より2015年の再演に当たって、時代の歪みと絶望はひどいことになっているのだろう。みごとに劇を調和的に完結させることの無理を、このひしゃげた劇は物語っているのではないだろうか、という感懐。

 深津絵里の歌のすばらしさ、透明感には耳を疑うばかりであった。秋山奈津子のめちゃくちゃな人物造形が、この劇のありようを正確に物語っていて、すばらしい。大倉孝二の沈没感覚が、これまた劇のスムーズな進行を滞らせて、引き込ませた。

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宝塚歌劇団花組「カリスタの海に抱かれて」新人公演

3月31日

主演:水美舞斗、城妃美伶

宝塚大劇場(宝塚市)

 新人公演初主演でシャルルを演じた水美舞斗(みなみ・まいと)は、三拍子揃った研6のホープだが、同期の柚香伶(ゆずか・れい)が圧倒的で耽美的な美貌とダンスの魅力で、早くから注目され既に三番手の位置を確立したのに比べると、少し遅いスタートとなっている。

 娘役主演アリシアの城妃美伶(しろき・みれい)は、星組から異動後すぐだが、星組時代に研3で『ロミオ&ジュリエット』新人公演、続いて研4でバウホール公演『かもめ』の主演の経験がある。光りこぼれるような愛らしさというのではなかったが、歌も演技もうまく、ジュリエットらしい愛らしさは十分持ち合わせていたようだった。

 水美は、冒頭からしばらくは相当緊張していたようで、実力の半分も出せていないように思えたが、ドラマが動くと共に、おそらくは第7場「再会」のロベルトらに捕縛されたあたりから落ち着きを取り戻せたようで、続く「森の中」でアリシアとのやり取りは、しっとりと恋の始まりのうきうきした感じを見せ、明るいスター性を発揮した。

 ロベルト役は研5の優波慧。宝塚音楽学校に首席で入学した逸材ということで重用されてきているが、光り輝くような明るい華がない。準主役の暗い役とはいうものの、華のある役者が暗い役を演じて、暗さの中に強い魅力を発揮させるのが、宝塚の醍醐味だと思うので、残念。技術的な問題ではないので、何をどうしたらよいのかわからないが、ここはすっぱりと路線を変えたほうがよいのではないか。

 宝塚きっての歌姫である美穂圭子(専科)の役を務めたのが同じく研5の乙羽映見。味のある歌声がよく響き、また隻眼の暗い情念を持つ大人の女性をしっかりと演じた。

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「TEN」 10人のダンサー&いずみ太鼓皷聖泉

3月20日

演出・構成・振付:原田みのる

和泉シティプラザ(和泉市)

 ぼくはあまり和太鼓というものの響きが好きではないようだという好悪は別にして、もっとシンプルにひねりなく、いずみ太鼓皷聖泉とTENダンサーの二部構成にして、そのブリッジとして両者のコラボレーション作品をはさむ、という程度にしておいたほうが、よほど見やすい公演になったと思う。

 もちろん、様々な条件、要望、制約、しがらみがあったことは予想できるし、演出・構成を担当する以上、何か野心的になるということもわかるのだが、ある時点でそれは諦めたほうがよかったのではないかと思ってしまう。そういう「惜しい」公演だった。ただし、ぼくは昼に行われた公開リハーサルを観ただけなので、夜の本番のクオリティはわからない。そこはご容赦いただきたい。

 ダンスの部分については、主要なダンサーが10人集まったということと「天」をかけて、「TEN」というタイトルになったようだが、バレエ、モダン、ヒップホップと様々なジャンルのオールスタイルのメンバーで、様々なダンスをミックスしたダンス・ショーとなった。一貫した流れを持った公演というよりは、プログラムにもあったが「我らの声を『天』に届ける」という方向性をそろえようとしたものだったようで、その点においてはすべての演目、出演者が方向性を一にしていたといえなくはない。だから個別のシーンごとに個々のダンサーなりの魅力を味わっていればよかったのだろうが、構成の手が入っているものだから流れやストーリー性を汲み取ろうとしてしまい、やや苛立ちを覚えることになる。

 そういう思いを抱えながら、原田と本間紗世のデュエット「報われぬ恋」が始まってしまうと、これはやはり魂が吸い取られてしまうような魅力を感じて、たまらない気持ちになる。その懸隔は、何なのだろう? 本間がキレと同時に柔らかさをそなえ、佇まいで語れる存在感を帯びていたのがいい。つまりこういうダンスの魅力は、ダンサーの存在が時間つまり物語を持つことができるということで、その抒情は、踊れば踊るほど増し、どんどん透明化していく。そういう透明化する時間を、ヒップホップは持つことができるのだろうか。

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劇団態変「試験管」

3月19日

構成・振付:金滿里
出演:金滿里 小泉ゆうすけ 上月陽平 下村雅哉、向井望 国頭弘司

ウイングフィールド(大阪市中央区)

 「イマージュ」で公演評を書く予定なので、ここではあまり中身にはふれないが、このチラシ(デザイン:東學)を見た時に、いつもと違って劇団態変のメンバーの身体の写真が使われていないことに、衝撃を受けた。態変メンバーの、いわゆる障害を持った身体は、劇団態変固有の「ウリ」であり、チラシであってもその視覚的な衝撃が表に出されないということで、どういう変化があったのかが気になった。

 公演タイトル「試験管」から、出生前診断のことなど、様々な「障碍」に対する科学的といわれるアプローチの功罪が思い浮かび、試験に晒されるのが劇団態変の側の身体であるのかと思われたのだが、やはりそんな受身であることは、なかったわけだ。

 この現在の世界に対して、態変の身体の側から科学を科学的に検証することを宣言する。つまり、障碍を持った身体は常に受身であることを強いられてきたが、そうではないということを闡明する。またしても、ぼく自身の固定観念を揺るがせてくれるコンセプトだ。

 だから、ラストの客席乱入に鮮やかに見られたように、攻撃性があらわになる作品だった。この攻撃性、激しさは、貴重だ。

 だから、チラシにも、態変の身体が見られる側として写されるのではなく、態変的存在の側から、態変的存在が行う作業のさまが抽象的に描かれたのだろう。

 言葉を使わない態変の身体表現が、ひところの物語的展開を離れ、大きなテーマに基づきつつ説明的・マイム的ではない抽象的な身体表現となっている、その大きな段を昇り、新たな局面を開く公演だったように思う。

 今の現実に向き合うことの困難さとは、具体性を帯びた喩や物語の表われではなく、数式や構造式の向こう側に身を潜めている、とんでもない直接的な力の存在を直視することに他ならない。それは具体的-抽象的という対ではなく、直接的という大きな暴力性との対となって聳え立つ、新しい抽象なのではないか。

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宝塚歌劇団花組「カリスタの海に抱かれて」「宝塚ファンタジア」

3月26日

「カリスタの海に抱かれて」 作:大石静、演出:石田昌也
「宝塚ファンタジア」 作・演出:稲葉太地
 主演:明日海りお、花乃まりあ

宝塚大劇場(宝塚市)

Calista


 娘役トップスターで研5(入団5年目)の花乃まりあ(かの・まりあ)が、宙組から組替えして大劇場主演お披露目ということで、様々に注目される公演であった。宝塚ファンは、往々にして娘役には冷淡なものだが、花乃が宙組時代には『the WILD Meets the WILD』(2013年7-8月)をはじめ、男勝りの勝気な役の印象が強く、トップ娘役らしい上品さ、優雅さが表わせるのか、また宝塚きっての美貌の男役トップスター・明日海りお(あすみ・りお)に並ぶに相応しいかどうかという率直な疑問の声もあり、もしかしたら他の娘役に対してよりも、冷淡さの度合いがきつかったかもしれない。

 それでも、この公演でのアリシアという役は、野性味のあふれるタイプだったので、従来の路線のままで無理なくこなせたようだった。ただ、ショーも含めた印象だが、フワーッとした浮遊感、上昇感、無重量化感に乏しい。演技や歌のうまい娘役など、いくらでもいるが、そういう天上感がない場合に、どのような色を打ち出すのか、工夫が必要だ。立ち姿での重心の置き方、顔の位置でかなり印象が変わって来るものと思うが、今後明日海が演技や存在感の幅をどんどん広げてくると思うので、相当な努力が必要になるだろう。

 明日海が演じた主役のシャルルは、屈折した少年~青年時代を経て、フランス革命の混乱に乗じて故郷のカリスタ島を独立させるべく、故郷に赴任を志願した司令官。二番手の芹香斗亜(せりか・とあ。写真)演じるロベルトは、フランス軍に父親を殺害された、島の青年のリーダー。アリシアは幼い頃からロベルトの許婚だが、返事を延ばし延ばしにしているうちに、やってきたシャルルに心奪われてしまう。シャルルも事情を知らずアリシアに恋心をいだくが、ロベルトのアリシアへの思いを聞いて、ロベルトを裏切ることはできないと、恋心を断ってしまう。

 その後の展開は、特にロベルトに飛躍があって付いていきにくいが、シャルルとアリシアは結ばれてアメリカかどこか新天地へ向かうらしい。一方のロベルトは、独立は成ったものの、長年愛し続けてきたアリシアに去られた傷心を抱え、カリスタのために命を賭ける、もう友も愛も信じない、と悲壮な決意をする。このラストのロベルトについては、希望に満ちた決意を抱いたふうな、前向きの姿に描けなかったものかとは思う。

 ロベルトの芹香はまだ研8ながら、ここのところ急速に男らしさが増し、演技にも太さや深みが出てきた。この時期にこの役に当たったのは相応しく、本人の成長のためにもよかったと言えるだろう。やや弱かった歌にも長足の進歩が見られ、研12のトップ明日海とフレッシュでバランスのいいコンビとして安定してきた。

 劇全体を思い返すと、特にロベルトの今後を思って暗い気分になるのだが、舞台を見終わった時点では、実にさわやかなハッピーエンドであった幸福感に満ちていたのが、面白い。それは主には明日海のもつ天性の華やかな爽やかさによるものだろう。

 シャルルの陽に対する陰の役割を、ロベルトと共に分け持ったのが、アリシアの兄のセルジオで、研11の瀬戸かずやが演じた。端正で品のある容姿に恵まれる一方で、時に暗い情熱を秘めた屈折を表わす演技力があり、舞台に重みを加える存在になってきている。

 ナポレオンを演じた柚香は、大胆にコミカルなタッチを加え、意外な側面を見せた。シャルルの副官、研9の鳳月杏(ほうづき・あん)がシャープでクールな容姿と抑え気味の演技の中に光るセンスの良さ、立ち姿の美しさで、目を引いた。

 ショーの『宝塚幻想曲』については、三味線や和太鼓を使った和洋折衷に違和感があり、入り込みにくかったが、おそらくこれは個人的な好悪。このショーは台湾公演に持っていくということだが、海外公演で初めて日本物のショーがないので、洋物でありながら和のテイストを加えるということで、こういう編成になったのだろう。

 和太鼓の厚いビートに乗ったスピーディで激しいダンス、バスケットボールの若々しいシーン、明日海の花魁姿からの超早替りなど見どころが多い。総踊りに近い群舞が「花は咲く」をバックにしていたのは、東日本大震災時の台湾の人々の熱い支援への感謝の念を表わすという意味もあるようで、テンポの速いショーのなかにしっくりと違和感なく溶け込んでいた。研14で退団する華耀きらり(かよう・きらり)の場面も行き届いていて、容姿にも才能にも恵まれながら、要所でケガに泣いた魅力的な娘役のラストステージを飾った。

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川瀬亜衣「際の踊り」

3月23日

出演:藤原美加、川瀬亜衣

ArtTheater dB神戸(神戸市長田区) 

 dBの国内ダンス留学の2期生で、ダンサー奨励賞を受けた川瀬の初振付作品。川瀬は学生時代は美術に携わっていたらしい。千日前青空ダンス倶楽部や黒沢美香らによる「ジャズズ・ダンス」に出演していた。

 形と動詞がはっきりと打ち出された、川瀬ならこういう立ち方をするだろうなと思われた作品だったように思う。それは想定内でつまらなかったという意味では全くない。装飾や震えを帯びない、きっぱりとした形の連続で、清潔感のあふれる公演だった。

 開演前から、曖昧に左に傾いで立っている姿があった。妙な印象に聞こえるだろうが、それは踊ろうとしている身体ではなく、存在している身体であるようだった。

 動きが速度を伴うにつれ、動きが何かのようになっていくように思え、何かになって喩となるのかどうするのかと思っていたら、すっと止まって背中を見せる。そういう時間の流し方、止め方をする。動きは意味ではなく、意味の連なりにはならない動きが重ねられることで、時間が積み重ならず、束ねられないことが、潔さとなって結晶する。

 不思議なことだが、妙なところに目が留まる。たとえば、川瀬の耳の線の動きが美しいなと思った。耳の線ってどこだろう、それは動くのか? 後で無理に意味づけをするように聞こえるかもしれないが、上体が揺れた時に、それを顔とか頭とか認識するより先に、耳が動いたその残像が目に残り、動きが線となって、美しいと思った、そういうことだったのだろう。そういう動きがあった。

 藤原を加えて2人が舞台に上がることで、遠近ができたのがよかった。遠いということが、距離だけではなく、速度や濃度でありうることも知れる。そこで奥行きないしはコントラストが生まれ、観ている自分自身を含めた3点が置かれると、空間が定まる。

 根源的ということを思ったのだが、それは身体が踊る=ダンスする以前の、身体であるという状態あるいは生きているという様子そのものが発する、生命が生きて存在していること自体が放つ光のような空間を指すと思っている。こういうと何だか死後の世界に見るお花畑のように思われてしまいそうだが、そうなると、生命以前/以後ということになって、あながち逸れるわけではない。

 何かがそうであること以前の状態であることを眼前に示されたようで、これはダンスですか身体ですか動きですか…などと問われたら、いえ、これは過程そのものです、と答えたらいいのではないかと思っている。

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山田うん Co.「七つの大罪」「春の祭典」

22日

「七つの大罪」
音楽:芳垣安洋、クルト・ワイル
原詩:ベルトルト・ブレヒト
出演:[ダンス]山田うん、川合ロン
    [音楽]芳垣安洋、高良久美子、太田惠資、助川太郎

「春の祭典」
構成・振付・出演:山田うん
音楽:イゴール・ストラヴィンスキー
出演:荒悠平、飯森沙百合、伊藤知奈美、木原浩太、小山まさし、酒井直之、城俊彦、
西山友貴、長谷川暢、広末知沙、三田瑶子、山下彩子

アイホール(伊丹市)

 「七つの大罪」は、作曲家クルト・ヴァイルと劇作家ベルトルト・ブレヒトによる1933年の「歌付きバレエ」作品で、アメリカの若い女性アナが、家を建てるためにアメリカの大都市を旅し、金持ちの男と付き合ったり水商売をしたり(それを七つの大罪とみなして、避けようとする)して、目的を達するという、アイロニカルなサクセスストーリーだといわれている。感情に流されるアナII(ダンサー)を理性的なアナI(歌手)が仕切る形で物語が設定されているそうだ。

 ここでは、身体は山田うんと川合ロンの男女デュエットで立ち上げ、音楽はマリンバを含めた打楽器/作編曲の芳垣安洋が、ピアノの高良美子、バイオリンの太田惠資、ギター助川太郎のアンサンブルでワールドミュージック的で即興性あふれる演奏で展開。音楽の振幅が大きく、非常によかった。

 シンプルな物語性を持っているわりには、山田と川合の二面性あるいは二重性が複雑で、どちらが理性的か感情的かというのも明確ではなく、一筋縄ではいかなくなっていたのが、よかったのだろう。川合は長髪でひげを伸ばしており、男性としての出で立ちなのだが、女性的な話し方をしたり、スカートをはいたりした。男女2人が演じ分けることでの二者の距離を自在に変化させていたのだろう。服を脱がしあったり、手をつないで仲良くしているかと思うと、いきなりいじめ始めたり、複数の方向で断片化されているようで、面白い。

 川合の身体は初めて観たが、倒れたり崩れたりするときの受けが柔らかく、時間の流れを変えるような魅力を持っている。歌も聞かせた。山田とのデュエットで、個々の動きも、2人の組み合わせも、バリエーションが非常に豊かで、次々に繰り出される動きの語彙の豊かさが、おそらくは大罪の7種類における2人の関係性の変化を巧みに描き分けられていたのだと思う。一つのゴールに向かって進みながら、激しい起伏や寄り道があり、しかも2人のダンサーを使うことで内面に葛藤や過剰な増長があることを予想させるのは、ある意味ではアナに対するやさしい眼ざしだと見てもよいだろう。

 「春の祭典」は、イゴール・ストラヴィンスキーによる作曲100年に当たる2013年2月に発表された作品。「生命力溢れる迫力の群舞」で話題になったという。

 たしかに、民族性や祭祀性というより、獣性を突きつけられるような野性性、エッジの鋭さよりも鉈(なた)のような鈍い圧を感じさせる重量感があり、しかも舞台と客席が近いものだから、ずしんずしんと実際以上に重低音の響きに襲われているような錯覚に陥った。動きの鮮やかさ、運動量の大きさ、重心の低さなど、膨大なエネルギーの消費に襲われてしまう。

 音楽との関係では、音楽が開いた穴から仄見える新しい世界を、身体が埋めていくようなところもあり、ストラヴィンスキーが予感する20世紀の悲しみと、及ぶべくもない人間の対応を思わせた。

 ただ、終盤で二度ほどの段階を経て弛んだように思われ、それが予定された収束でったのかもしれないが、残念。またはそれは表現としての疲労であったかもしれないが、そうであったなら、全力の疲労であるべきだった。

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ダンス留学3期生成果上演

3月14日

上野愛実『under』
  出演:新家綾、貫渡千尋、定行夏海、成田果央、藤原美加
長屋耕太『余白に満ちたかはたれとき』
  出演:岩間華奈子、武内浩一、中間アヤカ、長屋耕太

ArtTheater dB神戸(神戸市長田区)

 1月10日のショーイング公演で、4作品の中から選ばれた2作品を、1時間の「フル・レングス」に拡張して上演するもの。「国内ダンス留学」の恒例となっている。

 あまり創作経験のない若手に1時間の作品を創れというのは、冒険であり、いささか酷なことだ。しかも、最初20分創ったものを延ばすというのは、一般的な作品の創り方から言っても、あまり望ましくないように思える。もちろん主催者はそんなことは百も承知の上で、あえて「留学生」たちに「とりあえず何がなんでも1時間」という負荷を与えているのだから、負荷をどのように担ったかを見るのがこの公演の見どころで、残酷なものだ。

 結果としては、予想通りともいえるのだが、1月に完成度の高かった長屋のほうが苦労したように見えた。繰り返しになることは省略するが、上野はシンプルでミニマムな要素に拘泥する思いを、強さとして積層できたように思う。つまり、1月の段階を中間地点として、その延長上に今回にいたる作業を行うことができたのではないか。

 それに対して、長屋は前回で既にかなり高いレベルまで達していた完成度や読み込みの深度を、2ヶ月でさらに深めるか、またはいったん白紙に戻すか別のテーマを立てるかして再構築するかということがテーマになったように思われる。そうしなければ、前回よりもボリュームのある作品に仕立て直すことはできなかったはずだ。

 その作業を行うには、2ヶ月という期間は短すぎたのだろう。前回と同じ地点で立ち止まったり、その場でぐるぐると回っているような印象がある。言葉は悪いが、その停滞を逆手にとって、開き直ればまた別の位相が開けてきたように思う。とても大きな思考と作業の量が必要になる作品過程だったと思われるので、できれば再度時間をかけてチャレンジしてもらいたい。

 ダンサーでは、貫渡千尋が1月とは見違えるような粘りや深みを見せ、よかった。留学生メンバーではないが、定行夏海の内的速度、存在感がすばらしかった。岩間華奈子には、内部に何らかの壊れを抱えることができるダンサーになってほしい。

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フレンテ・ダンス・ジュエルズ#3「ベンセレモス~サイトウマコトの世界」

3月12・13日


構成・振付:サイトウマコト

出演:北原真紀、斉藤綾子、佐々木麻帆、関典子、田近千晶、長尾奈美、中津文花、
   針間恭子、増田律夢、宮崎安奈、吉見英里

フレンテホール(西宮市)

 コンテンポラリーダンスが、なんでもありの多様性とバレエのデコンストラクションという大きな振幅の中で、自らを定位できない昏迷から、なかなか抜け出せないまま、誤解されたコミュニティ・ダンスという名の社会体育活動や中学校の体育教科男女必修化に吸収され、生涯学習と教育現場という有用性に他律的に意味づけられ、健康志向と仲間づくりに埋没する危機にさらされていることは、あまり意識されていないのではないか。

 そんな危機感の中、この公演は、バレエにルーツを置いたダンサーを多用しながら、ダンスの身体が持つ多様な動きの美しさを余すところなく見せ、そこから鋭い緊張感・切迫感を生じさせ、その感覚を前提として強いテーマを設定することができ、それがまた作品の空気にピンと張りを与えるという、理想的なサイクルを描いていたように思われる。身体そのものの魅力、振付の面白み、テーマの深み、照明や音楽の的確さなど、舞台芸術を構成する様々な要素が絡み合って、批判精神に満ちた、明確で密度の高い公演となった。

 様々な意味で深く関わった公演なので、なかなか冷静には語りにくいが、数人によるスピードのあるシェネ(素早く連続で回転しながら、直線や円を描くように移動する動作)、斜めのラインを強調したフォーメーションなどから、特に理由のない痛切さが極まった。

 第一部は小品のメドレー形式で3作、それに「鞄女」がつくという構成、第二部は「Abandoned City~忘れ去られた町」として、世界で廃墟となっていたり大きな事件があったりした町をテーマにしたHauschkaというドイツのミュージシャンのアルバムから構成した小品群に、「In My Room」(2013)、「Venceremos」(1990)の旧作を組み合わせて一つの連作としたもの。

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 第一部は、女性のソロ~群舞、男性ソロ、男女デュエットというシンプルな構成が効いた。斉藤dance工房のベテラン・ダンサーで、ジャズダンスを中心にピラティス・トレーナーとしても活躍している針間恭子は、「Yesterday」(2014)で、柔らかな緊張感を醸し出し、作品冒頭における空間の定位をよく果たした。続く「Eleanor Rigby」(1992)は、顔見世的な位置でもあり、このカンパニーの実力のほどを知らしめる役割をもった作品であった以上に、身寄りのない老女と、誰からも相手にされない神父の悲劇的な物語という主題をほのめかせ、この公演全体のトーンを予見する役割も果たしえた。つまり、ダンサーたちには、ここで既に、表現力以上の、何ごとかの到来を予見させる、時間を先取りするほどの力があったといっていい。

Yamasita06 続く森恵寿の「The Rain」(新作)は、森の存在感、禁欲的に鍛えられた身体に、サイトウ言うところの古風な振付を施すことで、マッチョで外向的な見かけとは裏腹に、内向する強さが感じられた。技や身体のおおらかな披瀝であると見せかけて、そこにやや屈折があるように思われたのは、キャリアに伴う様々な豊かさのせいだろう。


 関典子とサイトウマコトによる「鞄女」は、男が運び込んできた鞄から腕がニョッキリと現れてくるという衝撃の大きさは別として、ストーリー的に多様な解釈ができる面白い作品だ。今回は後半をやや縮めてエンディングがシンプルになった分、提示や解釈の幅が広がっている。今回の再演に当たって、サイトウは自分の運動量を減らしたというようなことを言っていたが、かえって一つひとつの動きが印象的になって効果が高まっている。様々な作品で共演を重ねて、サイトウと関が男女であるより表裏のように不可分の関係を構築しているのが、絶品だ。

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 なお、この作品は、2007年1月の「ダンスの時間」10の中で、椙本雅子(CRUSTACEA)とサイトウによって初演、2011年2月の「ダンスの時間」30で関典子との組合せにより再演された。

 第二部は、群舞とソロやデュエットとのコントラストに翻弄されていると、あっという間に福島の民謡「会津磐梯山」が流れ、「Venceremos」の昂揚になだれ込む、という構成になっている。

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 これは結局どういうことかというと、一つひとつのシーンに比較的には小さいながらもきちんとピークがあって、それが回収されることなく連続される。そのピークによって塞き上げられた思いが、行き場を失って個々の中に堆積している。その一つの切れ目が、「In My Room~FUKUSHIMA」の無音である。何ごとかの後か前であるような無音に、焦れる。カセットテープをサイトウがくわえて立ち、そのテープを北原真紀が引っ張り出すといった簡単な喩が仕込まれ、「会津磐梯山」が流れると、無音とは異なる高い緊張感が走り、突然北原が折れる。そういう動きをし、他のダンサーも同調する。

 この現実的な「折-断」または「折-続」の意味は大きい。ここまで、テーマに沿って、シリアスで前のめりで高度なテクニックや美しさを開示するような動きが展開されてきて、ある均一な空気を作り出してきたところへ、ポンと日本が放り込まれたかと思うと、ピンと張ってきた空気が断ち切られる。そこに観客の思いが吸い込まれ、観客の心が真空状態になる。日本の旋律とリズムに、福島という思いに、どう抗いようもなく引き込まれて艶を増していく身体が、舞台にも客席にもある。その後は、観客はもちろん、ダンサーたちも絶え間なく寄せ来る波に呑み込まれるように、「Venceremos」へと収斂していく。

 この公演で展開されたのは、まずは、ある物語の枠組みを借りることで、抽象操作の自由度が増した身体の輝きそのものである。その上で、音楽に強くインスパイヤされた、動きの艶や肌理、速度や傾きといったダンスする身体の表面そのものであって、その刹那性がダンスを観ることの醍醐味であると、改めて確認することができた。

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 なお、フレンテホールの通常の舞台は奥行きが浅く、ダンスのエリアとしてはやや狭いことから、移動客席を出さずにフロアにリノリウムを敷いてアクティングエリアとし、舞台側に平台を並べる等して客席を組むという、変則的な会場設定とした。音響や照明の大胆な工夫もあって、コンテンポラリーダンスに相応しい空間に仕上がったように思われ、今後の可能性が広がった。

(写真:山下一夫)

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WI’RE 「XVI 塔」

3月8日

構成・演出:サカイヒロト
音楽:石上和也、出演:黒子沙菜恵、ののあざみ

CLUB Q2(神戸市中央区・ポートターミナル)

 サカイヒロト主宰WI’REの連続プロジェクト公演。過去の「迷図」「ヒトガタ」をいくつか見ていて、ナラティブだったり、パフォーマティブだったり、しかし深刻なストーリーを踏まえた濃密な世界像を構築する力に惹かれている。

 会場は神戸新港第四突堤の上屋Q2号と呼ばれる施設。今回は「CLUB Q2全体を不安定な建造物としての【塔】のインスタレーションとして設計し、出演者と観客が自由に鑑賞・干渉できるようにします。繰り返される【塔】の破壊と再構成の記録の中から、架空の記憶が蜃気楼のようにたちあがるのではないか…そんな風に考えています」としており、またタロット・カードの「塔」をモチーフにしていたとのこと。ちなみに、タロットカードの「塔」は、「正位置・逆位置のいずれにおいてもネガティブな意味合いを持つ唯一のカードである」そうだ(Wikipedia)。もちろん「バベルの塔」、教会の尖塔から「神の家」の意味もあるといわれている。「XVI」=16は、タロットのカード番号。

 フェリー乗り場の待合室だったのだろうか、天井の低い広い会場に、木で細い橋が渡されており、スピーカーが20台以上設置された、アクースマティックな空間になっている。目隠しをしたののあざみが木橋の上を探り足で歩み、不安定さが空間を包む。黒子で印象的だったのは、床にブロックレンガのようなものが積まれているのを伝って歩いていく危うさで、ののも黒子も、歩むことに危うさが強制されているようだ。仕掛け自体はごく単純といってもよいが、その結果としての緊迫感が作品全体を凝集して、求心力を増している。特に黒子の動きは、オフバランスの見本のような鮮やかな重心の展開が見事で、サカイの世界を言語的にでなく表出するのに、非常に相応しい身体であると思った。

 塔というものから導かれるイメージの中で、崩壊、倒壊に向かうという負のイメージが強調されていることによって、この公演の空気が支配されている。

 また、断片的な表われを持ちながら、容易に結びつけることができるように語られる子供の頃の事件、トランシーバーを使ったディスコミュニケーションなど、多くの事象がある種の崩壊感覚、崩壊後の世界の感触に直結しているようで、やりきれない思いに囚われる。

 音楽、美術の尖鋭性もあいまって、演劇ともまた異なり、抽象度が高く、物語自体は曖昧な部分を残しながらも、豊かなイメージ醸成によって観る者の想像力を激しくかき立てることで、WI’REならではの世界を作り上げることができていたように思う。

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「踊りに行くぜ!!」Ⅱ vol.5

3月8日

「踊りに行くぜ!!」Ⅱ vol.5

秋津さやか「Blind piece」 
出演:西岡樹里、山本和馬、中間アヤカ

目黑大路「ナレノハテ」
出演:中西レモン、佐々木治己、目黒大路、大倉礼子(衣裳)

桑折現「To day」
出演:今村達紀、松尾恵美、山崎阿弥(声)、中川裕貴(チェロ、音楽)

ArtTheater dB神戸(神戸市長田区) 

 NPO法人JCDN(ジャパン・コンテンポラリー・ダンス・ネットワーク)は、既に上演されたコンテンポラリーダンスの作品を、全国で巡回上演できるようにと、「踊りに行くぜ!!」を、2000年から2009年まで実施してきた。コンテンポラリーダンスが全国各地に広がり、大都市圏以外の人たちの目にふれ、ワークショップ等を通じて体験の機会ができたことで、コンテンポラリーダンスの広がりに大きな役割を果たしてきたといえよう。さらに2010年からは、「踊りに行くぜ!!Ⅱ」として、以下のようなクリエイション+巡回プログラムに発展させている。

 「踊りに行くぜ!!」Ⅱは、“ダンス作品”の新作づくりに取り組むプロジェクトです。(中略)そのために、それぞれの作家がオリジナルな手法を見出し、作品制作に専念できる<ダンス・イン・レジデンス>を取り入れた2つのプログラムを用意し、全国公募より新作のアイデアを募りました。「A/ダンスプロダクション」 「B/リージョナルダンス」 ここからつくりだされる8作品は、全国6ヶ所<札幌・松山・仙台・福岡・神戸・東京>にて上演します。Aプログラムの作品は、巡回公演で再演を重ねブラッシュアップしていきます。

 この神戸公演では、比較的には振付家もダンサーも若手の秋津作品がB、目黒、桑折作品がAであった。

 秋津作品は、音の合図に従って、観客に眼を閉じたり開いたりするようにという指示から始まった。もちろん指示を無視することも可能だが、あえて指示に素直に従うことにした。暗転ではなく眼を閉じさせるというところに、舞台の段取りではないポイントがあるのだろうと思えた。
 言葉が使われるのだが、「こっちにおいでー」「こっちだよ」「早く行かないと最後になっちゃうよー」といった具合で、どのような場面かわからないが、一方的な善意を背景に、理由なく焦りを強いられているようで、非常にいらつく。強制的に(でもないのだが)眼を閉じさせられていることのフラストレーションのせいかもしれない。眼を閉じること、それに神経を払うことで、時間が分断され、作品が断片化されたように思えたのも、意図したところではあるだろうが、集中力を削ぐ結果になったように思う。
 眼を閉じたり開いたりすること、そして言葉、それが生起する感情(もちろん断片的ではあれ一つの物語も生成されている)が、この作品の全体像をどのように構成するかに着目したのだが、その不可欠性、必然性を感じるには至らなかったようで、残念だ。

 目黒作品は、まずそのコンセプトの徹底的な突飛さで目を引き、観客の度肝を抜いたといっていいだろう。3人の出演者が、もがいている。よく見ると、模造紙をつなげたような大きな一枚の革布にいくつかの切れ目が入っていて、その切れ目に手足や首を突っ込んで、拘束具のようになっている。何を目的としているのかは不明だが、3人ともどうかしよう、どこにか進もうとして、もがいている。首を突っ込み目もふさがっているものだから、舞台から落ちそうになっている者もいる。
 冒頭からいきなり、非常にインパクトの強い、シンプルでわかりやすく、身体的に共感しやすいコンセプトであり、それによって大の男たちがおそらく無意味なことに必死になっているという奇妙な世界に引き込むことに成功した。この拘束を社会的な現代の閉塞状況と重ね合わせることももちろん可能だが、ぼくの印象としては、そんな喩が吹っ飛ぶほどの必死の馬鹿馬鹿しさだった。ただここに、ダンス的身体である必要があるのか、そうであることの優位性が何かしら存在するのか、という疑問が残ったことすら、面白い。この3人のこのもがく姿を見ている限りは、ダンサーである目黒が何か鮮やかに水際立っているということなど、あるのだろうか?と。
 おそらくこの作品の肝は、この強烈なコンセプトで3人のそして観客の身体を等価に置き、その上で身体の切迫性を最大限に発揮させたことにある。さらに肝心なことに、革布から解放された後、といっても誰に強制され拘束されていたわけではなく遊戯性も持たなかったのだが、個々がその特徴を激烈に主張したことにある。
 佐々木はその極端な饒舌さにおいて、世界を徹底的に二重化する手つきの鮮やかさを見せ、言語の無化・透明化と現在の相対化に成功。笑いのうちに観客に明確な思想をすり込んだ。
 中西は極端に内向的な情緒障碍の子供を思わせるような、危うく自由な身ぶりと、巧みで不気味なテクストリーディング(シェイクスピア『テンペスト』中のゴンザーロの独白を説経節にして歌ったとのこと)によって、異才/奇才ぶりを余すことなく見せ付けた。かなり即興的な部分もあったと思うが、いちいち完璧な表情、タイミング、ポジショニング、声、節回しで、こいつは一体何者だったのか…と思わせた。つかみどころのない存在だ。
 目黒は、とにかく奇妙に、不自由に踊る。黒いスーツを着たところに、革布が落ちてくる。倒れる。ズボンの裾が変になっていたり、尻のポケットのあたりに異物が入っていて尻尾のようになっていたりして、身体のバランスが崩れている。その崩れたバランスのまま動くから、歪む。
 誰一人としてまともな者がいないが、非常に高度な「芸」を見た満足感でいっぱいだ。コンセプトの鋭さが作品総体の力強さになっている、稀有な作品だったと思う。

 桑折作品は、照明の美しさや、舞台上の木枠の変化による幾何学的な構成のせいもあってか、万華鏡のように様々な世界の断片が次々に照射されるような時間だったという印象が残っている。
 明確で強くアピールして来るものがあるわけではないし、物語の抒情を噛み締めるような感懐というのでもないが、暗さを味方につける桑折の世界の作り方を味わうことは、独特の自我剥落感にとらわれる出来事だ。
 今回は特に、音楽と身体と舞台美術や照明との関係の微妙さによって、その感覚が強まったように思う。チェロとヴォイスパフォーマンスとダンスが三つ巴に流していく時間が不自然に低回することで、シーンの既視感が激しく、また音のクレシェンドやアッチェレランドとダンスの激化が一致しないことで、焦燥や取り残され感が激しく、断片がその時間や空間の中に留まらず、余韻を残して続いているような感覚が残され、結果的にその重層性が予想外に激しい疲労を誘なう作品になったと言えるだろう。
 激しく動いている場面も多くあったのに、動きの少ない作品だったように思えるのは、額縁のような木枠が意識されたからというだけではなく、聴覚と視覚そのほかの感覚が、互いに押さえつけあうような関係にある作品だったからではないか。
 今村が、そこにいるのにいないような不在感、浮遊感を出していた。木枠の中の不在の存在のような「なさ」が滲み出ていた。逆にヴォイスとチェロの存在感はとても大きく、空間を支配する時間のようだった。松尾は激しくふてぶてしいのに、彼女もまた、そのタバコの煙のほうが存在感が強かったといっていいかもしれない。桑折の感覚が切実に共有されているようで、見ごたえがあった。

 余談だが、山本、西岡、中西、今村、松尾と、半数以上のダンサー、そして桑折が「ダンスの時間」経験者だったことが、少しうれしい。

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Ophelia Glass~暗黒ハムレット

3月7日

「Ophelia Glass 暗黒ハムレット」 創生劇場~五感で感じる和の文化事業

演出:山本萌(金沢舞踏館)、脚色:小林昌廣
先斗町歌舞練場(京都市中京区)

 これまで「五感で感じる和の文化事業」は、京都創生座公演、わざゼミ、素謡の会、伝統芸能ことはじめなど、様々な事業を実施してきている。この創生劇場もまた、国立京都伝統芸能文化センター(仮称)の誘致を目指したソフト先行モデル事業で、分野や流派を超えて、若手の伝統芸能家を中心に独創的な舞台芸術を創造していこうという取り組みだということだ。

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 京都創生座の公演では、分野や流派を超えた若手を集めるところまでは成功したが、彼らが同じ舞台に立って何か融合的なことを試みようとすると、どうしても観ていて居心地の悪い、要するに合っていない感じがして、意気込みはよいのだろうがなぁ…というような感触が残ったことが多い。

 京都芸術センターで、大鼓を石井流と高安流の二つの流派で聞き比べ、合奏(というのだろうか)するという「月イチ古典芸能シリーズ」を聞いたことがあるが、それは聞いている分には何の違和感もなく、かえってスリリングでエキサイティングだったほどだ。流派は大丈夫でも、分野を超えるのが無理があるのだろうか。

 ハムレットをオフィーリアからの視点で脚色するという作業と全体のコーディネートを小林昌廣(伝統芸能、現代芸術、身体論)、演出を舞踏の山本萌が担当し、日本舞踊の若柳吉蔵(ハムレット)、能楽金剛流の豊嶋晃嗣(クローディアス)、能楽大蔵流狂言方の善竹忠亮(ガートルード)、浪曲の春野恵子、コンテンポラリーダンスのMuDA(蠢くものたち)、金沢舞踏館の松本拓也(蠢くものたち)、山本瑠衣(レアティーズ)、華道の笹岡隆甫(フォーティンブラス)、新内浄瑠璃の新内枝幸太夫(背筋がぞわぞわするような美しさであった)、能楽石井流太鼓方の河村大が出演する、大掛かりな布陣となった。

 まず開演前から続く形で蠢くものたちの奇怪な動き、揺らめく水のような映像(Yuki Hirai)がこの舞台空間の空気と温度を定める。松本は白い衣裳で尺取虫のように舞台を左右にゆっくりと横切り、MuDAは黒い衣裳で激しい動きと激しい昏倒を繰り返す。その両極の間に、これから展開する世界が成立するのだろう。

 パンフレットによると、この冒頭の場面は「水の中」と題された、「水死したオフィーリア、水底からすべてを見ている」という情景だった。死者の眼ざしで地上の人間の営みを見ているのだから、時の流れと繰り返しを象徴するような美しく揺らめく映像、不思議に蠢く人間らしき存在たち、その中で一人真白に光り浮かんでいる存在があるということも、不思議ではない。これから始まる物語は、オフィーリアの目にはこのように見えたと、冒頭にしてすべての提示である。だからこの作品にはオフィーリアは登場しない。観客の一人ひとりがオフィーリアになることを強いられているからだ。

 続く春野の語りは、この日の舞台の中で唯一、観客にとって想像力を必要としない場面。春野の浪曲の巧拙はわからないが、振り返ると唯一平板な場面だったのは、こちら側が受身になってしまっていたからだろう。

 そこから先は、おおむね出演者が個々に場面を任されて、それぞれが渾身の解釈と演技の見せ場が続くことになる。中でも若柳吉蔵は強い気迫を充溢させ、舞台を斜めに走り抜けた感がある。

 そう思ったのも、この公演に先立って、3月1日に京都芸術センターで行われた公開稽古+トーク(写真上)で、若柳は大変苦労した上で、かつて誰もやったことがないことを、山本にさせられていたように見えたからだ。

 まずこの日の参加者で結構長い時間、歩行の練習をする。重心、頭の位置、背の形、足の運び……日本舞踊、能楽、舞踏それぞれの抜きがたい身体、そして若干の試行を見て取れる。続いて山本がホワイトボードに「風神・雷神図」を貼り付けて、こんなふうなシーンは日本舞踊にありますか? と尋ね、若柳は何某という演目にこういう場面があります、とやって見せる。続いて山本が風神雷神図をベーコン風にデフォルメしたものを見せ、こうだとどうなりますか、と振る。若柳は汗をかきながら、何とか先ほどの動きを崩したような動きを見せる。……

 走る振りをする。それはきっちりした型があるらしい。正面を向いて横に片足をピンと投げ出してそれを畳んで三角形を作り、横へ横へと進んでいく、不思議な動き。それをゆっくりやってみたらどうなるか? ……そのような即興的なやり取り(打合せも何もなかったらしい)は、若柳を強く追い込むものだっただろうが、それでも何らかの答えを提示できるのが、さすがに芸というものが骨肉化している蓄積の深さ、抽斗の多さであるなぁと、感服した。

 舞踏はこのように、相手に根付いた動きや無意識の癖のようなものを、言葉や絵画のイメージを提示することで、リセットさせる。先ほど述べた歩行の練習にしても、若柳や善竹忠亮は、自分の身体にある流儀と、山本が指示する型を比べて、相対化しながらその合理性や有意性を認識した上で身体に入れていたように思う。個々の参加者にそれができていたことが、今回の創生劇場がなかなかの成功を収めた所以なのだろう。

 これだけ多くの、流儀の定まった分野の表現者を集め、一つにはその差異を味わい楽しむこともできる公演である一方で、冒頭にも述べたが、彼ら彼女らが同時に舞台の上に立ってしまうと、その差異がモアレのような不愉快な干渉を起こして、どうにも不調和を感じずにはいなかっただろう。しかし今回の舞台では、多くの場面をソロか同系の分野で固めて、ショーケースのように並べて見せたことで、その不調和を回避した。

 もちろん、それを物足りなく思う向きもあったかもしれないが、オフィーリアの視点という定位を行い、「ハムレット」という作品を腑分けし、適切なマッチングを行い、直列化した上で奥行きを持たせて、紛う方なくハムレットの悲惨を再現し、しかも生け花と新内で哀切極まるレクイエムに仕立てた脚色には、舌を巻いた。新内の枝幸太夫には、会場のすべてを連れて行ってしまうような引きがあった。生け花の笹岡には、フォーティンブラスがハムレットの合せ鏡として「ハムレット」を結末から再照射するような存在であるという明確な解釈が提示され、こよなく美しかった。

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南船北馬「わがまま」

3月7日

南船北馬「わがまま」

作・演出:棚瀬美幸
ドーンセンター・パフォーマンススペース(大阪市中央区)

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 0歳から中学3年生までの子供を持つ女性を出演者として公募し、昨秋から週1回「子連れワークショップ」を開催、託児付の稽古を経て本番を迎えたという公演。上演に際しても、「小学生未満のお子様とご一緒に観劇いただけます」「託児サービスがご利用いただけます」という回を設定した。作者の棚瀬自身、1年半ほど前に出産し、ママとして、劇作家として、女優として、女性として、妻として、その他…暮らしている。

 せっかくだから、「小学生未満のお子様とご一緒に観劇」できる回に行った。ベビーカーが3,4台、幼稚園ぐらいのしっかりした子もいた。お父さんが抱っこしてる家族も複数あったし、普段の劇場とはちょっと違った空気が流れていた。

 「わがまま」というタイトルについては、パンフレットに「小さな劇団の『わがまま』にお付き合いくださり、本当にありがとうございます」という一文があって、やや自虐的とも開き直りとも見えるセルフィッシュという意味と、「我がママ」my motherという意味が掛けられているのだろう。

 マンションの自治会の集会室リニューアルプロジェクト(今ぼくが勝手に名づけた)の会議。皆女性。あまり利用率が高くない集会室を、子供のための施設にしようという結構な提案に基づいて、具体的にどういうプランにしましょうか、ということで役員から指名された母親である女性が7人集まった。専業主婦、育休中、子供の年齢(乳児から中学生)、想像される経済状態など属性はいろいろだし、どうもマンション自体にも棟によって賃貸と分譲があったりして、微妙な空気が流れる。仕切り屋さんがいたり、評論家風な人がいたりというのも、お決まりだ。専業主婦といろいろな議論が交わされる。劇団・太陽族「執行の七人」(2014年6月、シアトリカル應典院)もこんな感じだったなと思い出すが、あれほどの「きつさ」がないのは、WSから生まれてきたからかもしれない。一口に子供のための施設といっても、対象年齢をどうするか、ベビーシッターや保育士や管理人などを置けるのか等々、それぞれが直面している困難に根ざして議論はなかなか進まない。決定権のある組織でもないようだし、予算も明確でなく、何だかわが国の多くの会議の縮図のようだ。

 特に演劇的で、他とは別の時間が流れたと思われたのは、その議論のインターミッションのような形で挿入される、ミュージカル風なシーン。ママたちが会議机の周りを踊りながら、子供のエピソードを歌い上げる。おそらく出演者の実話を基にしたものだろう。棚瀬は以前、高齢者のワークショップを基にした「ワタシのジダイ~昭和生まれ編~」(2013年2月、ウィングフィールド)でも、劇の時間と、出演者が素に戻って独白する時間を作ってコントラストをつけたが、今回もそれに似た手法だったと思う。それをミュージカル風にしたことで、華やかさとテンポが生まれて、最初は多少の唐突感が否めなかったが、エピソードの面白さと意外な(失礼!)うまさで、見せた。これは、ママたちの多重性を華やかな形で見せる、印象深い演出だったと思う。公募ではあるが、演劇経験者や現役の役者、最近まで劇団に所属していた人が多く、初心者はほとんどいなかったのではないか。

 悪い人はいないし、みんな一所懸命すぎるぐらい一所懸命だ。一人が離婚することになり、実家の北海道だったかに戻ることになる。その引越しと、集会室の模様替えが重なるその日がラストシーンになる。大団円には、出演者の子供たちが登場して、出演者も観客も、別の顔になる。終演後のお見送りも子供付。観客も様々なことを思い、思い出し、考え込みながら見終わったことだろうが、子供の笑顔や泣き顔の力は、何にも負けないな。

 なお、チラシの画像(宣伝美術:モリサト)は、写真だと思っていたが、点描のように細密な絵。小鍋でお粥が煮立っている。離乳食だろう。写真のように見えて、ものすごい時間と労力が使われているんだなぁというあたり、なんだか象徴的で、改めて「ひれ伏す」(パンフレットの棚瀬の言葉から)。

http://www.ogef.jp/event/index.php?mode=show&seq=395&recent=1

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神戸女学院大学音楽学部舞踊専攻第9回定期公演

3月6日

神戸女学院大学音楽学部舞踊専攻第9回定期公演

兵庫県立芸術文化センター 阪急中ホール(西宮市)

 今回は島崎徹教授の作品が4点、客員教授のオーウェン・モンタギュー氏の作品が1点。

 最初の「Here we are!」は、第1回からずっと上演され、この専攻の定番となっている作品。若干の改変はあるようだが、すべての出身者がこの作品を踊れる、というスウィートホーム的な作品になっているのがすばらしい。少女らしい愛らしさと共に、その限度というものを知らない苛烈さが見てとれる、多面的な作品だ。1回生と2回生が踊ったが2回生の一部に明らかに着実に柔らかさや表情の落ち着きが出てきた学生がいるように見え、頼もしい。
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 ただ、特にコミカルな部分について、ちょっとやり過ぎていないかどうか、勢いよく跳ね飛ばしはしても放り投げてしまうのはどうか、と思われた部分がなくはない。

 4回生による1作目「Zero Body」は、昨年の「なにわ芸術祭「全日本洋舞協会合同公演」」(ダンサーは公募)で初演された島崎作品。12月のこの卒業公演でも上演され、今回は彼女たちにとって再演となる。

 これは全員が出ずっぱりで、人数の組み合わせによるフォーメーションがめまぐるしく変化し、足の裏を張り付け、下半身を落とした粘りのある動きが波のように響きのように延々と続くという、運動量も緊張の持続もすさまじいばかりの作品だ。服部千尋のエッジが鮮やかに立ったシャープな動きに目が留まったかと思えば、三崎彩の身体を開くときにぎりぎりまで溜めてパッと開くその時に花が開くような音がしそうだと、あるいはユニゾンの気のそろい方、次々と繰り出されるソロのキックの鋭さや身体を沈めた時の大地を掘るような深さがいちいち感動的だ。上げた腕を誰かが下ろすという行為が、とても象徴的に思えるが、それがより大きな物語の中でどのような出来事の象徴であるかがはっきりとわかるわけではない。しかしそれが何か決定的なことであることはわかる。冒頭でも舟を漕ぐような動きが提示されて、それでいきなり大きな波に巻き込まれるような感動に襲われたのだが、それがなぜか、何によるのかは、わからない。

 たとえば、3人いるところへ3人が走りこんできて、2人×3組になったことで、ペアというものができ、そこへ歩いて入ってきた3人を含めて2人×3組+1,1,1となったかと思うと、一列になって5人と4人に分かれる…そんなフォーメーションの流れるような変化が、人の出会いと別れや生と死、生成と消滅のように思え、また個々のダンサーの中でもリリースやコントラクションが絶え間なく繰り返されて生成と消滅が反復される。そんな事どもが堆積されて、閾値を越えたときに、大きく感情が動く。そういう鑑賞体験だ。

 休憩を挟んで、2回生によるモンタギュー氏の作品「Librarsi」。タイトルはイタリア語で、均衡を保つ、宙ぶらりんになる、という意味。かなり不安定でカウントしにくいアシンメトリーな動きが多用されているが、皆うまく捉えているのは、練習量の賜物だろう。先にも述べたが、1回生の時に比べて、動きに格段に柔らかさが出て、個性的な表現ができるようになって来たダンサーが増えた。それによってか、全体としての流体性が生まれてきたように思えるのが、面白い。個性的になることと、全体としての調和が生まれてくることが矛盾しないのは、非常に興味深いことだが、自明のことかもしれない。

 それでもやはり、特別出演の卒業生・水野多麻紀の動きは格段に滑らかで、空間の中のほんのわずかな裂け目に吸い込まれるように移動しているように見える。水野の身体を見ていて初めて気づくのだが、身体がその核となる点に向かってどれだけ求心していられるかが、人間を重力の自然な方向性から解放する唯一の方法なのではないかと思った。そう思って再び2回生の身体に目を戻すと、さらなる求心性を獲得すること、あとは体力をつけることが必要なように思われた。

 今回3回生唯一の出演作品は、島崎作品の「Blue Snow」。9人全体が一つの軟かい生命体のように動く。この学年は一人ひとりの個性が強く粒立っていて、そのことによる色彩の混淆が楽しい。たとえば音のポイントの捉え方一つとっても、少しずつ違っているように見えるのだが、その微妙なずれが連打の激しさとなって迫るという強さを生み出せている。終盤になって、非常にメロディアスに、大間を取って歌い甲斐のあるところで、わずかながら身体を押し出す力にばらつきが見えるのが惜しかった。

 それは、一言でいえば体力ということなのだろうが、体力が残っていなくても、胸骨をもう数mm前に出したり捻ったりするようなことが、できるかできないか、できるとすれば何の力かと探してみた時に残っている力のようなものだ。その果てに、魅惑的なブルーのホリゾンライトでこの作品が幕を閉じたような、明るさのない光のようなものが見えてくると思う。腕が一番遠いところを通って戻って来るかとか、動きにどれだけブレーキを利かせられるかとかは、そういう数mmにかかっているのではないか。

 最後も島崎作品で「For James」。おそらく島崎の「Feather」などを踊り、トロント・ダンス・シアターのステージ・ディレクターだったJames Robertsonのことだと思われるが、詳細はつかんでいない。古川愛実、服部千尋、小林望、久住早希、三崎彩、宮本萌、中村つく偲、渡邉はるか、宿里美咲の9人の4回生の学生最後の舞台となった。相川友貴、仙名立宗、柴一平、鈴木明倫、矢木一帆の5人の男性ダンサーをゲストに迎え、ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ第9番通称クロイツェルを使った作品。余談だがこの曲がトルストイに同名の小説を書かせ、その小説がヤナーチェクに弦楽四重奏曲を書かせたというから、すさまじい触発力、喚起力を持っている作品なのだろう。

 島崎の作品は、音楽との幸福な同調が気持ちよく、多くの場合作品の主題や展開を忘れて、刹那的に音と動きのうねりに身をゆだねて酩酊してしまう。彼が多用するアルヴォ・ペルトや中東の音楽の持っている、螺旋が外向と内向を反復するような快感が、身体に直接的にねじ込まれて、ダンサーの動きとなってスパークする。だからダンサーには、まず音楽を身体に入れることが求められ、その上で、音楽に乗ったり反撥したり多彩に反応することが求められるのではないか。

Kc2


 やはりすさまじかったのは、ベートーヴェンの中に島崎がスパイラルを見出し、それが若いダンサーたちにねじ込まれ、ぼくたちも「運動体となったベートーヴェン」を見出せたということだ。

 たとえば袖から2人のダンサーがすごいスピードとすごいブレーキで飛び込んでくる時、第一義的には身体の移動の可能性と限界を見せることなのだが、ヴァイオリンの擦弦という行為そのものでもあり、ヴァイオリンというものが、摩擦によって音を出すものでありながら、流麗にメロディを奏でるという矛盾態であることに気づかされるようなメタな様態でもある。ヴァイオリン、そしてダンスの魅力とはそういうものだ、と確認させてくれる。
クロイツェルソナタの原題は「ほとんど協奏曲のように、相競って演奏されるヴァイオリン助奏つきのピアノ・ソナタ」だそうだが、この後の手に汗握るような動きの展開は、ヴァイオリンとピアノの絡み合いというだけでなく、男と女、動きと静止、上昇と下降など、二者が対等に協奏することが現前したようで、息つく間もなくスリリングだった。

 この学年は、目立って鮮やかなダンサーがいると思っていたのだが、学年を重ねるにつれてその差が縮まってきたように思う。それは目立つ者が怠惰であったのではなく、その存在に引っ張られて他の者がすさまじく伸びたからだ。この最終公演の2作品の充実ぶりは、9人それぞれ粒が揃いながら個性と表情を余すことなく見せ、しかも彼女たち一流の上品さがあって、圧巻だった。

 その結果、個々の身体が同時に二重性を抱えることができている。曲のテンポが緩やかであるが動きが速い、あるいはその逆の場合に、身体の中に鋭さと鈍さ、穏やかさと激しさが同居しているので、個々のダンサーの中で力強い回転的な運動が生まれている。それは一つには、島崎作品の特徴である音楽との緊密な関係によるのだが、そこには音楽と動きの単線的な対応だけでなく、遅れと焦燥、先取りと苛立ちといったような、はか(捗)が合わないことによる様々な感情が生じているように思う。それが、島崎作品特有の、身体が感情を強く喚起する力になっているのではないか。終盤、一人ずつの乱舞からユニゾンになる。短調でも笑顔だった。強く生きて、踊り続けていってほしいと思わせる、しなやかなダンスだった。 
(参考:「K.C.Press」http://www.unn-news.com/kcpress/2015/03/24/1114/#more)

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チューリヒ美術館展~印象派からシュルレアリスムまで

3月4日

チューリヒ美術館展~印象派からシュルレアリスムまで
神戸市立博物館(神戸市中央区)

 19世紀後半から20世紀初頭までと、時代を短く区切って、チラシのコピー「圧巻 すべてが代表作!!」を裏切らない名品揃いの74点の展示となった。近隣の飲食店とのタイアップ、県立美術館「ホドラー展」とのスタンプラリー、多彩なオリジナルグッズ、記念撮影できるパネルの設置など、周辺企画もバラエティに富んでいて、神戸市街の展覧会らしい華やかさを帯びているのも楽しい。

Turich


 先にホドラー展を見ていたので、ここで改めてホドラーを見ることで、印象派や表現主義とホドラーの時代的・美術史的位置について考えることができ、ホドラー展の観覧体験が広がり、深まったことが新鮮だった。また、エコールとしては、ゴーギャン以下、セリュジュ、ボナール、ヴァロットンといったナビ派がクローズアップされていたようだったのが新鮮。ナビ派が追究した秩序性が、ホドラーのパラレリズムにも影響したのだろうか、などと想像をめぐらすのも楽しい。

 一館のコレクション展でありながら、個々の作家の作品が数点ずつ取り上げられ、優れたキュレーションによって、ある時代に対して強い問題意識を持って見ることができたのが、意義深かったと思う。特にポスト印象派以後、フランスとドイツの二つの文化圏で勃興した様々なエコール、イズムをパラレルに概観することができたのは、スリリングだった。

 セガンティーニ(1858-1899イタリアの画家、アルプスを描いた作品で知られている)、ホドラー(1853-1918)をはじめとするスイスの作家、特にフェリックス・ヴァロットン(1865-1925)がよかった。版画家として名を成した作家のようだが、風景画はホドラーとはまた異なって、平面性の中に深い精神性を感じることができる静謐な空間だ。「日没・ヴィレルヴィル」(1917)の水平線の直線と海岸の曲線のコントラストと調和は、非常に美しく絶妙。

 一方で、「訪問」(1899)など、演劇のシーンを思わせるような人物像も、背景のドラマとその場面の前後を想像させる物語的な構成が秀逸で、目を引いた。
 
 またアルベルト・ジャコメッティ(1901-1966)の精選された作品については、その「細さ」を四囲から眺めることで堪能でき、奥の深い面白みを発見させてくれる、工夫を凝らしたインスタレーションだったと思う。     

 その他シャガールの大作が数点、ゴッホ「サント=マリーの白い小屋」(1888)の明るさ、セザンヌ「サント=ヴィクトワール山」(1902/06)の明晰、ココシュカの陰惨さ、など、印象に残る作品が多かった。
(作品の画像は、http://zurich2014-15.jp/artworks/)

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フラメンコ・ライヴ

3月3日

フラメンコ・ライヴ
神戸文化ホールロビーコンサート
神戸文化ホール大ホールロビー(神戸市中央区)

 これまた文化庁芸術祭の関係でいくつかのフラメンコの公演を観たことがあるが、やはり専門家ではないなりに楽しめるところ、首をかしげることもある。それらの公演で聴いた団体に比べても、このユニットは、非常にレベルが高く、熱を感じられるいい公演だった。昼公演にはパーカッションが加わっていたそうだが、ぼくの観た夜公演はそれが抜けて、バイレ(踊り手)が時折カホンを叩いていた。また、ギターとカンテ(歌)を上林が兼ねていたのも珍しかったが、そのことによる遜色は見られず、大したものだ。フルートが加わったフラメンコというのは初めてだったが、新鮮で、意外と言うのもはばかられるほどしっくりと、たっぷりとした叙情を加えていた。

 教室を開いている出演者が多く、その生徒が多数来場していた様子で、案の定、アンコールでは「踊れる人は一緒に踊ってね、あなたも踊れるでしょ!」といった呼びかけで、生徒さんと思しき女性がたくさん舞台に上がって、和やかで華やかなエンディングとなった。

 多くのダンスと同じく、観客≒踊り手であることの柔らかな楽しさが醸し出されたが、安価な(500円)ロビーコンサートというスタイルでの公演だけに、フラメンコにふれたことがない人に拡げていける可能性があり、その方向での告知に一層力を入れ、できるだけ長く続けてほしい。

 公共ホールではロビーコンサートも含めて、どうしてもクラシックを取り上げるが多く、そのことが一般的な市民の嗜好から乖離する一つの理由になっているかもしれない。人選、経費等様々な課題はあるだろうが、市民が様々なジャンルに広く興味を持つことを手助けし、ホールに足を運ぶ機会を増やしていく必要があるだろう。

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兵庫県洋舞家協会「洋舞スプリングコンサート~コンテンポラリーとの出逢い」

3月1日

兵庫県洋舞家協会
洋舞スプリングコンサート~コンテンポラリーとの出逢い

Youbu2015



新神戸オリエンタル劇場(神戸市中央区)

 何度かこの洋舞スプリングコンサートを観て、また昨年の「なにわ藝術祭 全日本洋舞協会合同公演 オールコンテンポラリープログラム」(2014年6月、サンケイホールブリーゼ)でもそうだったが、「コンテンポラリー」の幅、その縁のなさに頭を抱えることになる。まずは「創作作品であること」ぐらいを大枠として、多様性を目の当たりにする、といったところなのだ。時代性を意識しない単なる新作、テクニックの開陳に留まるようでは、古典に現代性を付与した方がはるかにすばらしいと思う。

 洋舞家協会は、基本的にバレエとモダンダンスのカンパニーから成っているので、それをベースにどのような現代性を獲得することが可能かを、模索し続けていることになる。

今回は第2部からしか観れなかったが、まずはダンサーの技術レベルの高い作品が並び、県のバレエ、モダンダンスの充実ぶりをきっちりと見せる結果となった。

 河合美智子モダンダンススタジオ「涙する十字架」(振付:河合美智子)は、バレエやモダンの優れたダンサー6人(河合、宮澤由紀子、牛田真紀、井上朝美、松原博司、稲毛大輔)による作品で、コントラクションの強さなどに見られる運動量の大きさ、作品の世界観を共有した上での感情表現の豊かさが印象的だった。タイトルの十字架が終盤まで出てこず、どのように処理するのかと思っていたら、銃声と共に光が真紅に変わり、全員が倒れて舞台奥に十字架が映される。モダンダンスらしい直接性なのだが、あえて提示せずに想像させるだけでも十分だったのではないかとも思った。表現というのは難しい。

 れい美花Dance Studio「THE LIVING TREE」(振付:麻咲梨乃)は、非常に運動量の大きい、ジャズダンスの小品。タイトルは、普通には「立ち木」「立っている木」というほどの意味だが、いろいろな出来事や言葉を思い出すことができる。音楽の焦燥感のある鋭さ、動きの前のめり感に反して、ダンサー(本間紗世、藤本瑞紀、天井芹菜、れい)が終始笑顔で悲壮感がなかったのが、非常に面白かった。希望の見える、後味のいい作品。れい、麻咲は宝塚歌劇団のOG。見せ方、楽しませ方をよくわかっている上で、それだけに留まらない深みを感じられたのがよかった。

 BMBバレエ団/馬場美智子アカデミ・ド・バレエ「Jenga」(振付:長谷川まいこ、坂田守)は、矢羽田早苗、藤永純によるデュエット作品。Jengaはスワヒリ語で「組み立てる」という意味。黒い禁欲的な衣裳の2人が左右に大きな振幅をとる印象的な動きで組み合い、離れ、また組み合うという繰り返しを重ねる。ダンサーの動きにもう少しブレーキがあれば、もっと深い味わいが出たように思う。

 今岡頌子・加藤きよ子ダンススペース「連禱『鉄をのろえ』」(振付:加藤きよ子)は、難しい作品だった。ある事実が祈りを必要としたり、ある感情を生成したりするとして、その非言語(身体言語ということも含めて)の上澄みだけを掬い取って構成しているような、捉えにくい、しかし純粋さというものに直面できる作品。プログラムには「戦禍に散った人たち」に捧げる祈りであると書かれているが、中央で5人のダンサー(河邉こずえ、嵯峨根結実、長尾奈美、三好美希子、山本留璃子)が小山になり、ばらしという繰り返しの不毛さが印象に残っている。タイトルは、使用楽曲であるヴェリヨ・トルミスの合唱曲「雷鳴への連祷」(1974)収録曲の名。エストニアのこの作曲家が戦争の邪悪さについての寓意をまとめ上げたもので、ソ連政府によって上演禁止とされていたそうだ。

 貞松・浜田バレエ団「TWO」(振付:中村恩恵)は、同バレエ団の「創作リサイタル26」(2014年9月)で初演されたもの(写真は初演時)。ベートーヴェンのピアノ曲「月光ソナタ」(第14番嬰ハ短調)に乗せた静かな作品。花を探して野辺を彷徨っていた老婆が、横たわる青年を見つけた…というベケットの詩「ある夜」をモチーフにしたもの。
 初演時から、まずその静謐さが印象に残っているが、改めて観ると、その詩の言葉をなぞることなく、寥々たる寂寞感とかすかに灯される希望または愛を的確に現出させる振付の力、2人(堤悠輔、小田綾香。初演時も)のダンサーがキャラクターを変容させながら次々と新しい世界を見せ、ついにはほのかな温かみを感じさせてくれる展開力、静謐と闇の中に時折浮かび上がる光や色彩のきらめきなど、ダンサー、振付家の力の深さにしみじみと感じ入ることになった。
 振付の中村は、世界のコンテンポラリーダンスを牽引するイリ・キリアンが芸術監督を務めていたネザーランドダンスシアターに1990年代に所属し、2007年から日本に活動の拠点を移している、優れたダンサー、振付家。
 ダンサーの堤はオランダのバレエ学校に留学後、オランダのカンパニーでキリアン作品などを踊り、一時期Noism01にも所属。今は貞松・浜田バレエ団で団員の指導、運営の補佐役を務めながら、キリアン作品などコンテンポラリー・レパートリーを取り上げる際の中心的な存在となっているようだ。このバレエ団は毎年開催する「創作リサイタル」で団員の創作作品、内外のコンテンポラリー作品を過激なまでに積極的に取り上げ、日本のバレエ界の現在性を確保する貴重な存在となっている。

 最後の江川バレエスクール「Memoria」(振付:湯川麻美子)は、シルエットからの始まりが美しく、11人という大勢の群舞にはカーニバルを思わせる楽しさがあり、軽快なエンディングとなった。

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コンドルズ兵庫スペシャル公演「グランドスラム」

3月1日
コンドルズ兵庫スペシャル公演「グランドスラム」

構成・映像・振付:近藤良平
振付補佐:藤田善宏、鎌倉道彦、山本光二郎
兵庫県立芸術文化センター阪急中ホール(西宮市)

Condors


 「奇跡のベスト盤」と銘打つだけのことはあって、コンドルズのコンドルズらしいパートがぎっしり詰まった、初見の人にもコアなファンにも楽しめるバランスのいい公演だったといえるだろう。

 かねがね、コンドルズの魅力は、近藤良平や藤田善宏、FA(!)で参加している平原慎太郎らのシャープな身体と、オクダサトシを筆頭とする「よく動くデブ」の身体のコントラスト、またカッコいいダンスシーンと勝山康晴や橋爪利博らのコミカルなコントとの「落差」だと思っていたが、もしかしたらそれぞれ前者の割合が小さくなってきて、脱力するコミカルなパートが魅力の中心になっているのかもしれない。

 というのも、客席を見ていて、前者のパートのほうが「お休みタイム」で、後者になると前のめりになっている人が多いように思われたからだ。後者のほうは新しいアイデアをどんどん展開して、新鮮味を出すことができるだろうが、前者で新しさを出すことは容易ではない。年齢とともに衰える部分もある。近藤たちのダンスは、相変わらずキレキレに見えるが、40代半ばの身体ではある。

 基本的には近藤の振付は、モダンダンスのテクニックをベースとして、エッジのはっきりしたカッコいいダンスであることは、変わっていない。それを十数人の学ランの男子がユニゾンで踊ったり、シンプルなフォーメーションで個々の魅力を発揮したりするのだから、まずもって見やすく、見ていて気持ちのいいダンスである。メンバーは皆、ルックスも「芸風」も非常に個性的で、観客が引っかけられるポイントを探し出すのは簡単なことだ。

 1996年から本格的な活動を開始したというから、約20年のキャリアがあり、その間ほぼ一貫して同じようなステージ構成を維持しながら、高い人気を集めている。少しずつ新人を入れているが、客席も20年来のファンが多い。もちろん、若い人たちも多い。コミックグループのように、笑いに来ているお客さんがいても不思議ではないし、その人たちにとって合間に挟まれるダンスも見やすく、「悪くない」ものではあるのだろう。

 コンドルズにとって、この落差を抱え続けることは、非常に重要なことなのだろう。ダンスだけでは幅広い動員を保てないし、コミカルな部分だけでは、おそらく持たない。ダンスカンパニーとしての身体の成熟と、コンセプトユニットとしての破天荒さという一貫性(いい意味でのマンネリズム)が、公演によって相補的なバランスを少しずつ変えながら展開してくるのが、安心できる芸能的な面白さとなって高い人気を保ち続けている所以なのだろう。

 ところで、彼らが繰り出してくる新鮮味には、コンセプチュアルなどと呼ばれるような硬さがなく、あくまでエンタテインメントの枠の中で、思いつきの軽さや楽しさを失わない。それでいて、身体のスリルを垣間見せるあたりが絶妙だ。頭のいい男子校の放課後の悪ふざけが、無茶をしてもどこかで愛らしさを失わず破綻しないのとよく似ていて、微笑ましい。多くの女性ファンにとっては、そのあたりがツボなのだろう。しかし、破綻した姿も見たい。

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