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2015年5月 9日 (土)

Ophelia Glass~暗黒ハムレット

3月7日

「Ophelia Glass 暗黒ハムレット」 創生劇場~五感で感じる和の文化事業

演出:山本萌(金沢舞踏館)、脚色:小林昌廣
先斗町歌舞練場(京都市中京区)

 これまで「五感で感じる和の文化事業」は、京都創生座公演、わざゼミ、素謡の会、伝統芸能ことはじめなど、様々な事業を実施してきている。この創生劇場もまた、国立京都伝統芸能文化センター(仮称)の誘致を目指したソフト先行モデル事業で、分野や流派を超えて、若手の伝統芸能家を中心に独創的な舞台芸術を創造していこうという取り組みだということだ。

Ophelia


 京都創生座の公演では、分野や流派を超えた若手を集めるところまでは成功したが、彼らが同じ舞台に立って何か融合的なことを試みようとすると、どうしても観ていて居心地の悪い、要するに合っていない感じがして、意気込みはよいのだろうがなぁ…というような感触が残ったことが多い。

 京都芸術センターで、大鼓を石井流と高安流の二つの流派で聞き比べ、合奏(というのだろうか)するという「月イチ古典芸能シリーズ」を聞いたことがあるが、それは聞いている分には何の違和感もなく、かえってスリリングでエキサイティングだったほどだ。流派は大丈夫でも、分野を超えるのが無理があるのだろうか。

 ハムレットをオフィーリアからの視点で脚色するという作業と全体のコーディネートを小林昌廣(伝統芸能、現代芸術、身体論)、演出を舞踏の山本萌が担当し、日本舞踊の若柳吉蔵(ハムレット)、能楽金剛流の豊嶋晃嗣(クローディアス)、能楽大蔵流狂言方の善竹忠亮(ガートルード)、浪曲の春野恵子、コンテンポラリーダンスのMuDA(蠢くものたち)、金沢舞踏館の松本拓也(蠢くものたち)、山本瑠衣(レアティーズ)、華道の笹岡隆甫(フォーティンブラス)、新内浄瑠璃の新内枝幸太夫(背筋がぞわぞわするような美しさであった)、能楽石井流太鼓方の河村大が出演する、大掛かりな布陣となった。

 まず開演前から続く形で蠢くものたちの奇怪な動き、揺らめく水のような映像(Yuki Hirai)がこの舞台空間の空気と温度を定める。松本は白い衣裳で尺取虫のように舞台を左右にゆっくりと横切り、MuDAは黒い衣裳で激しい動きと激しい昏倒を繰り返す。その両極の間に、これから展開する世界が成立するのだろう。

 パンフレットによると、この冒頭の場面は「水の中」と題された、「水死したオフィーリア、水底からすべてを見ている」という情景だった。死者の眼ざしで地上の人間の営みを見ているのだから、時の流れと繰り返しを象徴するような美しく揺らめく映像、不思議に蠢く人間らしき存在たち、その中で一人真白に光り浮かんでいる存在があるということも、不思議ではない。これから始まる物語は、オフィーリアの目にはこのように見えたと、冒頭にしてすべての提示である。だからこの作品にはオフィーリアは登場しない。観客の一人ひとりがオフィーリアになることを強いられているからだ。

 続く春野の語りは、この日の舞台の中で唯一、観客にとって想像力を必要としない場面。春野の浪曲の巧拙はわからないが、振り返ると唯一平板な場面だったのは、こちら側が受身になってしまっていたからだろう。

 そこから先は、おおむね出演者が個々に場面を任されて、それぞれが渾身の解釈と演技の見せ場が続くことになる。中でも若柳吉蔵は強い気迫を充溢させ、舞台を斜めに走り抜けた感がある。

 そう思ったのも、この公演に先立って、3月1日に京都芸術センターで行われた公開稽古+トーク(写真上)で、若柳は大変苦労した上で、かつて誰もやったことがないことを、山本にさせられていたように見えたからだ。

 まずこの日の参加者で結構長い時間、歩行の練習をする。重心、頭の位置、背の形、足の運び……日本舞踊、能楽、舞踏それぞれの抜きがたい身体、そして若干の試行を見て取れる。続いて山本がホワイトボードに「風神・雷神図」を貼り付けて、こんなふうなシーンは日本舞踊にありますか? と尋ね、若柳は何某という演目にこういう場面があります、とやって見せる。続いて山本が風神雷神図をベーコン風にデフォルメしたものを見せ、こうだとどうなりますか、と振る。若柳は汗をかきながら、何とか先ほどの動きを崩したような動きを見せる。……

 走る振りをする。それはきっちりした型があるらしい。正面を向いて横に片足をピンと投げ出してそれを畳んで三角形を作り、横へ横へと進んでいく、不思議な動き。それをゆっくりやってみたらどうなるか? ……そのような即興的なやり取り(打合せも何もなかったらしい)は、若柳を強く追い込むものだっただろうが、それでも何らかの答えを提示できるのが、さすがに芸というものが骨肉化している蓄積の深さ、抽斗の多さであるなぁと、感服した。

 舞踏はこのように、相手に根付いた動きや無意識の癖のようなものを、言葉や絵画のイメージを提示することで、リセットさせる。先ほど述べた歩行の練習にしても、若柳や善竹忠亮は、自分の身体にある流儀と、山本が指示する型を比べて、相対化しながらその合理性や有意性を認識した上で身体に入れていたように思う。個々の参加者にそれができていたことが、今回の創生劇場がなかなかの成功を収めた所以なのだろう。

 これだけ多くの、流儀の定まった分野の表現者を集め、一つにはその差異を味わい楽しむこともできる公演である一方で、冒頭にも述べたが、彼ら彼女らが同時に舞台の上に立ってしまうと、その差異がモアレのような不愉快な干渉を起こして、どうにも不調和を感じずにはいなかっただろう。しかし今回の舞台では、多くの場面をソロか同系の分野で固めて、ショーケースのように並べて見せたことで、その不調和を回避した。

 もちろん、それを物足りなく思う向きもあったかもしれないが、オフィーリアの視点という定位を行い、「ハムレット」という作品を腑分けし、適切なマッチングを行い、直列化した上で奥行きを持たせて、紛う方なくハムレットの悲惨を再現し、しかも生け花と新内で哀切極まるレクイエムに仕立てた脚色には、舌を巻いた。新内の枝幸太夫には、会場のすべてを連れて行ってしまうような引きがあった。生け花の笹岡には、フォーティンブラスがハムレットの合せ鏡として「ハムレット」を結末から再照射するような存在であるという明確な解釈が提示され、こよなく美しかった。

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